※徒花ライドウENDを読了している事をお奨め致します。
紅葉に鹿《前》
きーぃ きちきちきち
甲高い野鳥の声音に、少しつばを掴み上げる。
微かな秋風に揺れる枝先、ぽてりと羽を休めるは百舌鳥。
『おい、急に止まるな』
「厭に甲高く鳴くものだから…すまぬ」
業斗に尾で踝をぴしゃりと叩かれ、歩みを再開した。
確かに往路の中央、邪魔であった。
『百舌鳥の高鳴きか…冬支度を考えなくてはな』
「あの独特の鳴き方、期間が限定されているのか?」
『百舌鳥の高鳴き七十五日と知らんのかお前は。奴等があの鳴き方を始めてから七十五日後には、霜が降りる』
「では、紅葉が拝めるのもそれまで、か」
『ふん、紅葉など其処らに有るだろう。銀楼閣の近所の奥方が、箒でせっせと両脇に掃っている』
違うのだ業斗よ。我はもっと、腕を空に拡げた紅い樹が見たいのだ。
金糸雀色した銀杏。深緋の楓。踏まれ塵散りに、地と同化する落ち葉の涅色…
帝都の路からも、確かに確認は出来る。だが、少し違う。
『どうした、不満が有るのか雷堂』
「…何故」
『眼が遠くを見ていた。考え事なら褥で済ませろ、どうせ眠れぬのだろう?全く、赤子でもあるまい…』
溜息の黒猫は、丁度眼の前に舞い降りてきた紅葉をひと睨みする。
瞬間、音も無くそれがはらりと真っ二つに割れた。
刃で断つのとも違う、濡れた半紙をゆったりと引き裂くかの様な最期だった。
『は、秋は老廃物が多くて敵わん』
「美しいではないか…その様な物云いは」
『美しきは、生きている間だけだろうて』
割れた紅を後ろ足で蹴り、息巻く業斗。
我を振り返り、吐き捨てる様に鳴く。
『俺は、秋は好かん』
無意識に、両の拳が力を籠める。
前に向き直り、とてりとてりと歩み出す黒猫の影を、数拍置いてから追う。
まるで、己の名を挙げられ、好かぬと拒絶された様で。
きーぃ きちきちきち
不安を駆り立てる鳴き声が、妙に鼓膜に貼り付いて落ちない。
「はぁ、そりゃあ業斗様も苛々される訳ですよ!」
ヤタガラスの本殿は、相変わらず豪奢なままである。
三本松の残骸は、もはや物を申す事は無くなったが、真の意味で御神木となった。
元より、傀儡じみていたのだ…そう以前と大差も無い。
「何故あれしきで立腹するのだ、我はただ…」
外套を預かる従者が、我の言葉を待つ。
甲斐甲斐しく世話してくれるのは良いが、肯定してくれる存在では無い事、よく知っている。
「…ただ、廃墟を確認に参った、それだけぞ」
「しかし雷堂様、あれ程過去を棄てろと、業斗様は口を酸っぱくして云われていたでは無いですか。やはり気分は宜しい筈無いでしょうに」
「云わせて貰う。あのような思念の残留する場は、悪魔が溜まり易い」
「して、居たのですか?其処に悪魔は…」
「…居らなんだ」
「さいですか!それは良かった」
我の手荷物を持つ黒い装束、その笑顔の理由はそれとなく解る。
我が今後、あの廃墟に行く必要性が失せた事に、安堵して笑っているのだ。
「雷堂様、もっと大きな仕事をされませ。その様な雑務…見回りは我等にお任せを」
「何を云うか、帝都の常を知る事が葛葉の務めであろう」
「強大な悪魔が闊歩せし時こそ、貴方様の仲魔や太刀が冴え渡る時なのです」
「我は……」
突き飛ばさない様に気を付け、その荷を奪い返す。
困り眉に一瞬心が痛んだが…此処で言葉を聴き続ける事こそ、真の苦痛と己に云い聞かせる。
「少し、休ませて貰う」
「湯浴みは」
「溺れてしまう、先に床に就かせてくれ」
踵を返して、自室へと足を速める。もしかすると、背後で嗤っているやもしれぬ。
我が不眠を患っている事を知る者は、少なく無い。
(秋は嫌いとな)
廊下はキンと冷えていた、渡し廊下の曲線が足裏に痛い。
遠景を臨む其処で、立ち止まってみた。
連なる山々は、燃える様な彩。手前の庭に揺れる枝々は、厳かに戦いで焔の様で。
「……だというに、如何して寒い」
ぽつりと零れ落ちた言の葉。それが空気を波立たせて、何となく震えが背を奔る。
誰も拾って、落ち葉の山にくべてもくれぬ。
(ならばいっそ、雪に早く埋もれてくれ給え)
高い位置に在る自室は、陽に当てられていた割に凍れる様な空気をしていた。
大太刀の鞘袋をするすると脱がせば、その先っぽにひとひら、赤い手が縋っている。
その紅葉を摘まんで、茎を指先で擦り転がしてみる。
くるくると扇の様に、鞴で煽ぐが如く焔が踊った。
(温まらない)
温度を持たぬ焔を、虚しく卓上に放った。
ふと、脳裏に過るのは、あの紅蓮の焔だ。
しかし、思い出しては更に虚しい、と己を律して首を振る。
今日の獲物を断ち斬った得物を携え、その手入れをせんと長椅子に腰掛けた。
樫の木のそれに体重を預け、無心でひたすら脂を拭う。
輝きを取り戻す刀身に、我の眼が映り込む。
だが、その片眼の色は、金に光る事は無い。
「………寒い」
肩に外套を羽織り直す、それでも震えが止まらない。
これから冬を迎えて、果たして生き残れるのか不安になる。
あの廃墟を見てから、心の中に北風が舞い込んだ心地だった。
小父様の亡き後、小母様が倒れたそうな。
演者も縁者も消えた能樂堂は、がらんどうとしていて。
苦しい思い出しか残さぬ帝都には居辛いか、小母様の姿も消えていた。
弟子達で公演出来る訳も無く、無人となり久しい様子だった。
それを現場で初めて見知った我を、呪いもしたかったが…何処か滑稽にも感じた。
悪魔を使役する、このおどろおどろしい道とて、耐えてこられたのはあの人達のお陰で。
会えずとも、帝都を守護する事があの人達の無事に繋がっていると心に云い聞かせ。
それだというに……いつの間にやら荒廃していた事にも気付けずに。
(なんと愚かだろうか、何の為にデビルサマナーに成ったのだ)
寝返りを打つ。此の褥は、板張りの舞台の様な小気味良い音は鳴らぬ。
湯浴みした身体は少しでも弛緩してくれるかと思い、いそいそと浴んできたが…やはり睡魔は訪れる気配も無い。
ドルミナーを使える仲魔は居たろうか…
ふっとドミニオンが浮かんだが、そういえばもう居ない。
天上界にて一刀両断した記憶が甦り、天使の匂いが昏い寝室に漂った錯覚。
管から、天使は全て捨て置いたでは無いか…あれからというもの。
(我の居場所は、何処ぞ)
何の為に戦っているのか、目的は既に霧の中だった。
無人の能樂堂を、無意識に思い出す。
出来の良い紅葉の造り物が、舞台の上でただただ色艶やかだった。
『寝たのか、お前』
「…いや、睡魔を呼ぼうと読書に興じたが、いつの間にか明けていた」
『動けるのか?使い物にならん葛葉は要らんぞ』
「この応酬を幾度したと思っているのだ業斗よ、不眠はMAGにて補える」
焚き染める香、肉体の力点に貼る札、一匙の銘酒…
長年かけて異形と成ったか、我が身体はその程度で気力を取り戻せる様に造られてしまった。
業斗の尾が、寒さとは無関係にピンと真っ直ぐ立てられている。
一度崩れたので、あれから黒き猫の肉衣を改めたのだが、以前のものより尾が短いと憤怒していた。
『ふ…疲れが足りんのだろう、そんなお前に朗報だ、雷堂』
階段を下りながらに黒猫が唱える、本日の責務。
朝一番に伝えてくるという事は、何かしら異変が舞い込んだのだろう。
『紅葉狩りに行きたいと云っていただろう…良かったな、見れるぞ』
「…何が故に」
『名も無き神社のすぐ近く、お前が遠巻きに眺めている山域だ。見慣れぬ輩が闊歩していると情報が入った』
「悪魔の生態系に、人がおいそれと介入すべきか?」
『たわけ、人間に害が及んでいるから此処まで情報が入ったのだろうが』
云われてみれば、それもそうだ。悪魔同士のいざこざに口を出す様な機関では無かった。
渡しの廊下を抜け、昨日よりも切り込むような肌寒さを感じる。
黒装束が朝餉の有用を訊いてきたが、それよりも襟巻を用意して欲しいと依頼した。
「して業斗。見慣れぬ輩と云うには、単体では無いという事か」
『そうだ、人間を化かす鬼と報告が挙がっている』
「鬼……化かすとは、どういう」
『紅葉狩りの美女を装うのだと。ハッ、風雅なつもりか』
草木染めの襟巻を差し出され、それをぼんやり思考しつつ受け取る。
装束の袖が恭しく首回りに回ったが、己で巻けると眼で制した。
「既に調査は出したのか」
『負傷して二名帰還した、まだ混乱していて詳細は聴けぬ。どうやら警戒して臨もうが、面妖な術を喰らう様だな』
「術…」
『その場の空気に流されるそうだぞ?紅葉の赤に中てられ、何時の間にやら自身が燃えている事にも気付けぬ程に』
語る黒猫が平然としているので、我の夢想は儚く散った。焔を使う悪魔なぞ、山と居る。
それに、“彼”は悪魔の集団を率いる事は無い…あれ程に悪魔を毛嫌いしていたのだから。
「悪魔とて、紅葉狩りを愉しむは自由だろう」
『人間狩りにも興じるが秋の季語か、雷堂』
「いいや、それは春夏秋冬いつの時代とて赦されはせぬ。調伏の必要が有るな」
外套の襟上から、更にぐるりと巻く襟巻。隙間風を遮断して、少し薫る草木に心が屹立す。
太刀を鞘袋ごと背負えば、我が外套の袂を従者が屈み手で払う。
「御武運を」
両側からの声に一礼し、表に出る。門までの路は、赤き落ち葉がすっかり清掃されている。
(葛葉の代わりなど、探せば幾らでも居るだろうに…我が駄目になろうが、そう痛手でもあるまい)
我は未だ《葛葉雷堂》という傀儡であったが、最早それで良かった。
銀楼閣も空、能樂堂も空……
我の心を知る要素は、一歩一歩、確実に減少していた。
きーぃ きちきちきち
また、百舌鳥が鳴いている。
無言の道中でも構わなかったが、会話する相手が最近は業斗しか居らぬ。
「百舌鳥の高鳴きは、威嚇だったのだな」
『何だ、藪から棒に』
「昨晩は野鳥の図鑑を読んでいた」
『餓鬼か』
失笑する業斗だが、それは我が強請って取り寄せて貰った物だった。
まだヤタガラスに連れて来られ、日の浅い頃だったか…
寂しい日々に、少しでも潤いが、季節感が欲しかったのだ。
散歩の道すがら、小母様の綺麗な指先が指し示す四季折々を、薄い頁に確認して涙した記憶が甦る。
「百舌鳥の項をしっかり読み解いた…百舌鳥は、独りで冬を過ごすのだな」
秋から冬、独りの為に縄張りへの侵入者を威嚇する。
あの高き鳴き声は、威嚇の叫びだったという事だ。
『誇り高いと云いたいのか?寂しい奴と云いたいのか?』
「……いや……言葉も通じぬ、真意は分からぬ」
『そうだ、悪魔の方がまだ読める。真意も何も、畜生はただ本能に従っているだけかもしれんぞ』
畜生の肉体で畜生をせせら嗤う業斗は、ある意味誇り高いと云える。
高鳴きの枝を探すと、獲物を咥えた百舌鳥が丁度見えた。
縄張りに誰も寄せ付けず、ただ春を待つ。一撃で仕留める嘴、鋭い感覚の鳥。
実は幾多の鳥の鳴き真似をも得意とする、変化の得意な存在。
己の獲物を、枝や棘に刺し「早贄」とする理由は、実のところ解明されていないそうだが。
…何かが脳裏を過ったのだ。
縄張りに、己の獲物を磔にする。まるで、誇示するかの如く。
他の存在の侵入を許さず、己が所有物であれば懐への侵入を許すのか。
「…百舌鳥の様な男だった」
ぽつりと零せば、黒猫が一瞬尾を引き攣らせた。
既に肉衣は新調した筈なのに、古傷まで移植したのだろうか。
あの男の、太刀も鉛弾も。言葉でさえも鋭くあった事を、恐らく共に思い出していた。
『しかし雷堂、お前は背に得物を携えて「紅葉狩りに来た」と云い張るのか?』
「厭に警戒している相手なれば、却って怪しいだろう」
『ハッ、随分と無骨だな』
「この太刀には相応しい言葉だ」
『俺はお前に云っている』
その言葉通り…何にも引っ掛からずに、すんなりと全て両断してしまえたなら楽なのだ。
一瞬手が怯んだとしても、重い太刀が後押ししてくれる。
この身の不確実を、得物と仲魔が確実なものにしてくれるのだ…
(我は、やはり狡い)
美しい茜色の絨毯を、鬼の肉片で汚して去るは宜しくないと思い、餓鬼の管もしっかりとこの胸に。
嫌だと喚きながらも、結局はそうする他無いのだ。それ以外にやり方を知らぬ。
『……くそ、滑るな』
ざり、と黒猫の脚が宙に踊るを見、我は屈んで抱き上げた。
襟巻の端が、腕の中の業斗を擽り、蠢かせる。
『邪魔だ、手袋といい襟巻といい…お前はもう少し軽装を心掛けろ』
「しかし寒いのだ」
『紅蓮の属に発火でもさせろ』
「山火事になってしまう」
『眼に煩い赤も、鬼も始末出来て良いわ。お前の好きな芋もよく焼けよう』
「業斗」
以前から意地悪な面は有ったが、最近は著しい。
我が、一度天に上ってからだ…そのような気がする。
「あまり、虐めてくれるな」
『お前も、いちいち真面目に問答するな。交渉ならまだまともに出来る癖に…全く、他ではからっきしだな。お前は幾つだ?』
「……今年で、二十二…恐らく」
『そういえば、拾われ子だったな。定かな齢は分からぬか』
山深くなってきたのか、舞い散る紅葉の影が多い。
楓の葉を掌に見立てて、五つの齢を迎えた御祝いをした憶えがあった。
拾われてから五年という、節目だった。
“綺麗でしょう、秋が好きよ”
字面も考えず、幼心に小母様の言葉がただ嬉しかった。
だから、我も秋が好きだった。本物の秋も、舞われる秋も。
演目の《紅葉狩》も、とてもとても、好きだった。
「そこの書生さん、貴方も紅葉狩りですの?」
立ち止まり、その声の主を眺める。
腕の中の業斗が、髭をわあっと張りつめさせた。
師が威嚇を始めぬ内にと思い、咄嗟に声を掛ける。
「貴殿等は、紅葉狩りか?」
「そんな固くならないで下さいなぁ」
黄金色の打掛を纏った女性が笑う。
すぐ傍に控えていた浅黄色の打掛が揺れ、同じく微笑む。
「この辺りは良き風が吹いているでしょう、ほらほら、赤い雨がはらはらりと」
天に袖を翳す女性は、紅葉のひとひらを指先に捕える。
(全員で四人…)
他に気配の無い事を確認しつつ、少し歩み寄った。
「確かに、せせらぐ音がする。滝が近いのだろうか」
「よくお判りで!足元に気を付けて下さいまし、水面に紅葉がこぞって犇めくものですから、人は地面と勘違いするのです」
注意喚起する女性は、流水柄の打掛をゆったりと降ろして下方を指し示す。
云われるがまま一瞬視線を落とせば、実際ゆらゆらと静かに踊る紅葉が連なっていた。
簡素な橋も小川も、赤い葉に埋め尽くされて陸地との切れ目が判り難い。
「御教示感謝仕る、陸地で溺れるところであった」
「だからぁ、固くなられんと、ふふ」
黄金色の袖の女性が、背後でまた笑う。
我の背の鞘袋が丸見えな筈だが、其処に畏怖も驚愕もせずにくすくすと。
「しかし、婦女子が丸腰でこの様な場所に居るのは…些か危険と思うが。獣の領域に等しい深さだろうて」
「そういう書生さんは、その背の物騒な得物。何ですの、鹿狩りなら梓弓でしょうに…熊でも獲るんですかいなぁ」
「鹿狩りでは非ず、紅葉狩りに来た」
「その黒猫さんと?ふふっ、可愛いおす」
此の背に有るは眼ではなく太刀だが…しかし、気配で大凡の位置は掴める。
この間合いなら、腕を伸ばして我の得物を奪う事は叶わぬ。
「最近、この辺りに獣とは違った危険があると聞き、武装して参った」
腕の中から、業斗が毛を逆立て促す。早く問い質せと、暗に云っている。
「はぁ、獣以外…ですかぁ。野党の類は見ないですけんど」
「私達、この山に住んでいるのですわ。近況は理解しておりましてよ」
「書生さんも、何かおっかない顔してはりますけど…ねぇ?実はやんちゃなんですの?お顔の引っ掻き傷!可愛いわぁ」
女性の形をしていようが、任務ならば他愛無いと思っていた。
が、どうにも集団だと勝手が違う。三人集えば姦しいとは、真なのだろう。
「お前達、もう少し静かに愉しめ無いのか」
離れた所からの声に、他の女性がくすくすと笑うだけになる。
せせらぎを小さく跨いで、墨色の打掛を影の様に引き摺る女性。
我を見据える、その眼は確かに美しく妖艶ではあった。
「書生さん、此処等には鹿垣も虎挟みも御座いません。実に静か…この時期ならば紅葉の舞い散る音さえ拾えるのですよ」
「然様か、では我の知人が見たのは幻覚という事か」
「何を御覧になったのです」
「紅葉に遊ぶ鬼を見たそうだ」
「まぁ…怖い」
「見ただけでは無い、打ち合った。肌は灼け、手足は装束と共に引き裂かれたそうだ」
「そんなお話は無しにして…此処で紅葉に見惚れたら、きっとそれが白昼夢だったと解って下さいます」
黒い小袖を口元に寄せ、よよ、としなを作る女性。
他の三人に目配せすると、懐から扇を取り出し紅い天に翳した。
『雷堂、まじまじと見てやるな、舞は鬼道の所作かもしれん』
小さく腕の中から、我を戒める業斗。そういえばこの方は、縁起担ぎの舞ですら直視せぬ。
しかし、人だろうが鬼だろうが、優雅に舞うそれを見過ごすのは、惜しい。
四色の打掛が、紅の葉を扇で受け流す。黒髪が袖上をたなびいて落ちる。
演目の《紅葉狩》を、眼の前の光景に重ねた…
平維茂が、美女に化けた鬼を退治する話だ。
幽玄な舞に心を奪われ一時危うくなる様が、ありありと浮かぶ。
その、鬼の舞こそを、艶やかに美しく舞台で表現する事こそ…大事なのだと教わった。
『…おい、雷堂』
「理解している業斗、按ずるな…あの、黄金色の打掛の女性が下手糞だ、動きが硬い」
『そんな事は訊いておらん。俺を降ろせ、さっさと噛み付いてくれるわ』
「まだ鬼と決まった訳では無い、性急では無いだろうか」
『四者ともMAGが異質だ、そして先刻の話をはぐらかした、明らかだろうが。万が一が有ったとて「飼い猫が噛み付いた」と粗相で済ませろ』
胸元の黒猫とぼそぼそ応酬する我に、女性の眼が舐めつけてくる様に此方を捉える。
気持ちは解らんでも無い。演舞を無視される事が、一番屈辱なのだ。
身を捩って、腕から飛び出しそうな業斗に慌てて制止をかける。
「待て、業斗…分かった、もう問い詰めよう」
『フン、俺が一石投じねば動かぬその癖、何とかしたらどうだ』
「すまぬ…少し、興味があったのだ」
しかし、本物の鬼とて、技量に差が有るのだと判明した。
扇がれる扇、手足の運び…確かに、幻惑に誘う術の型を踏襲している。
が、意識すれば逃れられる程度の完成度。あれでは我を誘う事は、不可能。
ゆっくりと屈んで、業斗を紅葉の絨毯に降ろした。少し滑りつつ着地した業斗は、尻尾で均衡を取る。
「任せてくれ、一言で乱してくれよう」
四人、そして感じる気からして…四つの属…
此処は戸隠山でも伊賀上野でも無いが、しかし鬼というからには神出鬼没。
躍り出た我に、踊りへと誘う女人衆が笑った。それに笑い返す事もせず、台詞の様にはっきり唱えた。
「“草も木も我が大王の国なれば いづくか鬼の棲なるべき”」
途端、扇を取り落す女性、握り潰す女性…四者四様ではあるが、調和を乱した。
「き、貴様………」
「その言葉、舐め腐ってやがるぜ!」
「んだようぜー、折角トールん野郎みてーのも居ないと思ったらよー」
打掛の色がそのまま肌に同化する。
女性の細腕とは思えぬ程、隆起する肉瘤。浮き出た血管の脈動に、怒りを感じる。
しかし、それを目の当りにしようが動じぬ黒猫。ミャアと鳴き、首を捻りて我に訊ねる。
『今の言葉は…紀朝雄だったか』
「ああ、場所は違えど、思い当たる鬼は“四鬼”しか居なかった。属も四つに分かれている」
四鬼とは、風鬼・水鬼・火鬼・陰形鬼の事なり。
藤原千方が使役する暴れん坊の四鬼は、紀朝雄の歌によって居場所を無くす。
“草も木も我が大王の国なれば いづくか鬼の棲なるべき”とは、全てが皇の物だという意である。
この世の何処にも、鬼が住む場所は無いという呪いの言葉だ。
『キンキ、スイキ、フウキ!静かにしろ………ようやく骨太な烏がお目見えしたという事だ』
一番気位の高そうであった墨色打掛の女性が、女性にしては低い声で呻る。
遠くに控えているその姿は、ヤタガラスの装束にも近い昏色。
(奥のはオンギョウキ…だろうか、鬼に戻る気は無いのか)
いっそ、鬼に戻ってくれた方が助かる。真の姿に近い程、気配が読み易い。
他の三体の鬼は、でかい図体の気配どころか、打掛が下方にずり落ちて野袴の様になっていた。
『手前はアレだろ?葛葉っつうデビルサマナーだろ?』
「然様、人間に手出しをする輩が居ると聞き、遣わされた」
『紅葉狩りたぁ嘘八百並べやがって!オレ様はキンキ、そっちのジメジメしたのがスイキで、ドタマに穴開いてんのがフウキだ』
「嘘では無い、《紅葉狩》に等しい流れで、我も驚いている」
『?……よく分かんねぇが、最初に手ェ出してきたのはどっちだって話だよ、エ?』
「我等ヤタガラスは、そこまで不躾に悪魔狩りを行う事は無い。勘違いは無いのか」
『カン違いたぁ笑わせてくれるぜ!なぁフウキ…って、聞いてたか?筒抜けかもしんねぇなあその頭じゃ!』
ゲラゲラと笑いながら、黄金色の鬼が指を指す。その先で腕組みしたフウキが、憤慨して篭手を鳴らす。
『はぁ?聞いても理解できねー石ころみたいな脳のオマエと一緒にするなや』
『んだと!風穴増やしたろか手前ェ!』
『脳筋キ、うぜーうぜー』
放っておいても取っ組み合いになりそうなので、此方は太刀の柄を握る程度にして、暫く様子を見る。
『まぁまぁまぁ…此処は水に流して……』
キンキとフウキの間に、流水柄の野袴が割って入る。打掛の隙間から見えた優雅さは無く、逞しいおみ足。
『手前ェはいっつもソレじゃねえかよ!退きやがれ!』
『“水に流す”て、自分とかけてるつもりかよ、殊更うぜー』
しかし二体に弾き飛ばされて、憐れなスイキは我の前に躍り出る形となった。
『おおおっわぁ』
二歩三歩、とよろめきながらも、船の櫂が如し武器にて自重を操るスイキ。
その両端が空を切ると、周囲の舞い散る紅葉が容易く分断される。
『抜け!雷堂!』
業斗の声よりも速く、鞘から大太刀を解放した我。
『おっとっとお、おっとおっと』
スイキはおどけた声を出しながらも、攻撃はまるで水の流れの様な軌跡を残す。
読めぬ訳では無いが、我の太刀と打ち合った瞬間に刃先へと流れようとする動きが厄介だった。
このまま続けては、刃毀れしてしまう。残りの鬼と戦う余力を、この太刀に残しておきたい。
打ち合い、鍔迫り合い、じりじりと後ずさる我。
(近い…)
せせらぐ音を、金属音の隙間に一瞬感じ取る。片脚を大きく、地を跨ぐ様に後退させた。
『おわあっ』
途端、眼の前の鬼の影が低く蹲る。
「地上にて溺れさせるは、貴殿の十八番では無かったか」
紅葉で隠れた小川に、見事足を獲られたスイキ。打ち合いに集中して、此処に川が有ると自ら述べた事も忘れたか。
遠くから、他の鬼の笑い声がこだまする。その音にやられてか、一層舞い散る紅葉達。
『ちっ…くしょー……でも、水なら平気だし――』
「そうか、では火炎は如何か」
『周り真っ赤だし、もう間に合ってますぅ』
へらりとおどけるスイキに、微笑み返す事も無く管を抜く。
紅葉を鼻息で吹き飛ばし、荒く唸る猛虎がMAGと共に現れる。
『ひっ』
「そうだ、火だ、貴殿には覿面であろう」
軽く指を曲げ、親指と人差し指の境目を唇に銜える。
ひとつ吹けば、思った以上に甲高く鳴り響き、まるで百舌鳥の威嚇の様になった。
『ひ〜んっ』
『グルルル…ガウッガウッ』
我が指笛にて嗾けたドゥン。それに追われるスイキは、濡れた裾に紅葉を貼り付けたまま野を駆ける。
流水柄に濡れ紅葉となった野袴は、背後からのファイアブレスでじりじりと焦げだしていた。
『ぎゃっははは!スイキん奴ケツのトコ丸見えじゃねえか!』
『あは、おもすれーの』
キンキが両手をバンバンと打ち鳴らし、フウキがヒュウヒュウと風穴を収縮させて笑う。
その二体の鬼に対し、間合いを測りつつ足を運ぶ。
振りかぶった瞬間に切っ先が薙ぐよう、得物が獲物を舐める範囲を見定める。
「何故わざわざ人に化け、騙し討ちするのだ」
『ナゼってそりゃお前……面白いからよ』
「その割には舞が未熟だな?特に黄金色の打掛が…」
『オ、オレ様がヘタクソって云いてえのかよ!仕方ねえだろが!興味もクソも無えダンスしろって云われりゃあ――』
キンキの口に、咄嗟に武器の柄を咥えさせたフウキ。
戦闘機のプロペラの様な形をしたソレは、スイキの櫂より良い音で空を切る。
口を封鎖されたキンキに代わり、フウキがうぞうぞと穴を蠢かして笑う。
『今聴いた言葉はナシにしろや、な?サマナーのボウズ』
「人を化かすは、誰の名案だ?我の機関の者も同様の手口に遭った。これは偶然では無い、毎回この形を取って襲っているのであろう?」
『ほーら、水に流してやっから』
「先刻スイキとやらに発した言動と矛盾しておるぞ、風上にも置けぬ鬼め」
『風通し良いっしょー?しっかしアレよ、化けたおれぁイイオンナっぷりだったろ?あーあれか、童貞のボウズにゃちと早過ぎて解からんかったかー』
柄を深く握りこむ、手袋が衣擦れの音を肩口に啼かせた。
一歩で駆け迫る我に、キンキの口から外した武器を差し向けるフウキ。
それを紙一重で躱し、同じく切っ先を突き出す我。
『へっ、あたんねーよ』
首を捻るフウキ、面の中央を態と貫かせたのだ。
肉を抉る事も無く貫通した我の刃先を、向かい側でキンキが白刃取りする。
その固定に、ビクとも動かない大太刀。鬼の方が図体が大きいので、自然と肩が上がる姿勢になる。
『胴体がら空きすよー?』
先刻まで我の腰が有った場所を、勢い良くフウキの武器が薙いでいった。
固定されている大太刀の柄にぶら下がり、我は片腕で懸垂の様に避ける。
『おーおー!ちょこまかと!』
風切り音に終わった攻撃を、舌打ちして今度は拳に替えるフウキ。
しかし、我は黙って攻撃を受ける砂袋では無い。
「先刻、トールと口走ったな」
胸の管を空いた片手に掬い取り、MAGを念じて流し込む。
「逢わせてしんぜよう」
『はぁ?んだと!?』
柄を握る我が手に、更に二回りは大きな手が重ねられる。
召喚されたトールが、我の身体を支える様にして共に太刀柄を握りしめていた。
『おいぃフウキ!こいつはトールじゃねえのか!?』
『慌てんじゃねーよ!オレ等の知ってるアイツとは別だろーが!』
体格差だけでは無い…明らかな動揺。この鬼達が、かつて畏怖した相手なのだろうか。
何でもありの悪魔の世界だが、違和感を感じる。
「知り合いか?」
『いいや、露程にも存じません』
「では情けは無用か」
我とトールの会話に反応し、フウキが武器を振り上げた。
しかし、この至近距離。我の大太刀と同様、制限された動きが徒となる。
トールが片手でフウキの打撃を制しつつ、我を抱えてMAGを震わせる。
感電しているかの如し感覚に、この身が一瞬怯えるが…トールは我の仲魔、按ずる事は無い。
『あでででじびれるううう』
『あががっ、うぜーっ!』
バチバチと大太刀を通じて電撃を喰らうフウキとキンキ。
特にフウキは弱点らしく、武器を取り落す程の痺れに悶絶している。
「雷電真剣にて、両断す!」
『お任せあれ!』
号令の後、ぐ、っと互いに力を籠めて柄を握り込む。
トールの膝頭を蹴って、上空に軍旗を振るうかの如く大太刀を振りかぶる。
ぶじゅりとフウキの頭を割いて更に斬り上げれば、頭上にキンキの影が放物線を描き舞った。
紫電を散らしつつ、紅葉の絨毯に切っ先ごと振り下ろし、打ち付ける。
『うぐぇっ』
岩の様なその体躯に大きく亀裂が奔ると、キンキは呻くのを止めた。
我は少し乱れた呼吸と帽子を直し、背後を一瞥する。
脳天を割かれたフウキの身体に掴みかかり、大放電でとどめをさしているトールのマントが翻っていた。
『雷堂、一体逃しているぞ』
倒れたキンキの上にととっ、と飛び乗る業斗。瞬間、キンキの肉体が崩壊を始める。
「はぁ……はぁ……っ……オンギョウキ、か…」
『その特長からして、まだ潜んでおるかもしれん。警戒を怠るなよ』
「…承知、している」
焦げた襤褸雑巾の様なモノを咥えたドゥンが、紅葉を踏みしめてざりざりと近寄ってきた。
外套に頭を擦り付けてくるので、ひとまずスイキの残骸を放る様に命じた。
「うむ…良く仕留めた」
手袋を外し、その喉を撫でてやる。ごろごろと、まるで猫の様に眼を細めた。
『イイコ?』
「ああ、好い子だ」
此の猛虎が燃え盛るは上部のみなので、喉を撫でるのが我にとっても好都合なのだ。
素手で触れ、褒美と云っては烏滸がましいが、MAGを流してやる…
『主様!わたくしめも任務完了です!』
一方、大声で勝鬨の声を上げ、我に接近するトール。
フウキの身体を肩に担いだまま、どかりどかりと地を踏み鳴らす。
その度に、静電気で紅葉がトールのマントにぶわぶわと貼り付いて舞う。
「い、いや、貴殿は此方まで来ずとも構わん」
『そんな主様、わたくしにもその虎にする様に温情を注いで下さい!』
「暫く落ち着いてから頼む」
『やはりこの恰好ですか!?ほぼ半裸が好い子とは云い難いと!?このレスリング・パンツが!?』
「落ち着いてくれトール、我は仲魔に贔屓はせぬ。それに手足の肌を出しているだけで、咎めたりはしない」
宥めつつも、念じて遠回しにMAGを流し込む我は卑怯だ。
静電気の厄介さに気付く素振りも無いトール。一度伝えたのだが、次の召喚時には忘却されていた。
合体技の直後にハイタッチとやらを毎度求められるが、それを拒絶するのもそろそろ辛い。
術後の接触は、此の外套でさえも扇で煽ぐかの様に踊ってしまい、手に負えなくなる。
『どちらかを仕舞え、消耗に繋がる。お前はまだ二体同時召喚に慣れておらぬだろう』
業斗の声に肯き、トールの管を手に取る。
すると、仮面の隙間からだらだらと滴が溢れ出した。
『っ、やはりわたくしは嫌われている!むさ苦しい!連れて歩きたくない仲魔ナンバーワンと!?』
「そこまで云っておらぬ!トール、もう少し自信を持て。誰も貴殿を嫌ってなぞおらぬ…猛々しい姿に、激励される気分ぞ」
『ほ、本当ですか!?カンゲキです!もっと際どいの穿いてもOKですな!』
「もう好きにしてくれ、戦闘中はみ出なければ構わん」
あまりの漢泣きに心が痛んで、つい仮面を撫でた。
瞬間、乾いた金属の表面と我の指の間を、バチリと火花が散った。
手袋を嵌め直してから撫でれば良かった…と後悔しつつ、泣き止んだトールを管に戻した。
『全く、主人に似ると少しは理解したか。お前がしゃんとしないからだぞ』
業斗が隣の虎より激しく吠える。我は先刻から、心が竦み震えていた。
あんな励ましは、気休めにしかならぬ事を熟知している。
落ち込む者を引き摺り上げられるのは、言葉だけでは足りないという事を。
いつだって、心配性は不安が酸素なのだ。
「…すまぬ」
『して、オンギョウキの気は感じるか?俺は…感じない』
「ああ、我もだ」
そう、実は不安が大きい。
オンギョウキも余さず仕留めるつもりで、視界の端に常に捉えていたというのに。
知覚の度、その姿が幾つにもぶれて視えたのだ。
(惑わす術か?次にまみえた際、それが破れねば我が不利だ)
業斗にばれぬ様に、反対を向いて小さく溜息を吐いた。ドゥンが首を傾げて我を見上げている。
仲魔に不安を見せてはならぬというのに、どうもこいつは獣の姿をしているので、油断して甘えてしまう。
『見ろ、鬼等の肉を』
業斗の尾がくいっ、と真下に振れた。下敷きにされたキンキの肉体が、さらさらと消失を始めている。
他の鬼の身体も同様、消え始めた。地や大気に還る類では無い。
『ハハッ…“いづくか鬼の棲なるべき”というのは遠く無かったようだな』
「どういう事だ」
『この世にて流転するなら、あっという間に消えん。こいつ等、分霊も分霊…完全に余所の世界の鬼だったという事だろう』
「では、この鬼達を使役する何者かも、他の世界からの介入者…という事か?」
『其処までは分からん。オンギョウキとその頭を捜すにせよ、一旦帰還するが利口と思うがな』
「…そうだな。山麓から一般の者が入れぬ様、完全封鎖する手引きをせねば」
歩き始めると同時に、業斗が嗤った。
『良かったな、餓鬼の管を使う羽目にならんで』
決して労りの言葉では無い、我もそこまで愚かでは無い…
これを嫌味と認識する理由は、己の不足をありありと思い起こせるからだ。
昔から冷徹に動けぬ、葛葉として割り切れぬ我の性が、罪なのだと。
餓鬼に喰わせてきた…後始末しきれぬ、我の悔恨の残骸を。
「……燃えてしまうな、貴殿にも管へ戻って貰おう」
ドゥンの背に、はらはら舞い降りる紅葉が焼かれてしまう。
芳ばしい薫りの後、ふわっと風に炭の匂い。硯に摩り付ける墨の様に、たてがみに熔けゆく。
我は軽く屈み、燃える猫背を外套で覆い隠しつつ暗闇に管を探す。
瞳孔の伸縮する眼が、我を振り返って見上げてくる。
『?…デハ、周リノ樹ハ、燃エテイルノト違ウノカ?』
「…ああ、そうだ。焔の色だが、燃えてはおらぬ」
幼い頃の我と同じその問いに、微笑んだ傍から泣きそうになった。
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