紅葉に鹿《中》



煌びやかな色彩の札を指に挟み、つまらなそうに鳴海所長が欠伸する。
つらつらと並ぶ図柄は、舞台衣装の様に鮮明な朱色が目立つ。
「ホント、弱いねえお前…」
「…すまぬ、本分では無い故」
「何でもかんでも強くないと不味いんじゃないの?葛葉雷堂はさぁ」
本当は、依頼も責務も無い此の日に学校へ行こうと思っていた。
それなので、わざわざヤタガラスの本殿へ帰らず、銀楼閣に身を置いたのだ。
依頼に追われる期間は、置かざるを得ないのだが…登校するには最適な立地である。
久々の暇に心を浮かれさせ、前夜は眼が冴えて普段以上に眠れなかった。
(授業は何処まで進んでいるだろうか、修学した箇所であれば良いが)
我は早朝より事務所の掃除を済ませ、学生鞄に参考書を詰める。
階段を下りるその途中で…鳴海所長に引き止められ、花合わせをするに到ったのだ。
「真面目にやってんの?」
「無論…!手を抜くは相手に失礼と承知している」
「花合わせやるぞつったら、神経衰弱始めたの誰だっけな?」
ああ、貝合わせと勘違いした事をまた掘り返された。しかしそれを咎める程、この人と分かち合えていない我。
神経衰弱なら、この自身が既に陥っている。所長の傍に居ると、いつも緊張に奥歯を食い縛り…次第に眩暈がする。
元来人見知りの気は合ったが、此処まで酷く発露するのは所長にだけだ。
「…今は、別物と心得ている。鳴海所長の御教示のお陰で」
「あっちの“貝合わせ”も知らんのだろうなーお前」
「所長が望むなら、知ろう。是非教えてくれ」
「あはは、いいよいいよ、俺等じゃ無理だしさ」
所長から無知を嘲弄されるは、既に慣れていた。
学校への行く手を遮られ、こうして花札遊びをさせられるのも幾度目か。
「はい俺の勝ち」
鳴海所長が、並ぶ役札の感触を確かめるかの如く滑る。
イカサマは恐らく無い。指先の怪しい動きは無かった。有るとすれば、精神操作か…
言葉巧みに誘導し、不慣れな我を更に追い込んでいるのかも知れぬ。
悶々と考え込んでいれば、札を撫ぞる鳴海所長の指がするんと宙に舞う。
そのまま我の視線の先に差し出されると、掌の形になってひらひら扇がれた。
「ほら、早く呉れって」
「待ってくれ…今、点数計算を…」
請求の合図だ。そう、此れは賭け花札なので、我は毎回巻き上げられる。
「もう一回やろうぜ?ん?」
「その、所長…金が入用なら、ヤタガラスに我から頼み申しておこう。だから…」
学校に行かせて欲しいです、と。
そのたった一言が云えずに、延々と花札の花鳥風月に視界が覆われる。
平面的な景色に、薫りや風は無い。
「お前が勝つまでやるぞ、そういう授業だからさ、コレ」
軽く云い放ち、テーブルの札を掻き集める鳴海所長。
我の勝利が稀な事を、知った上での決め事だろう。
「授業料だよ、はは」
我の懐の財布が薄ら寒くなろうが、どうでも良かった。
我に暇は無いが故、使う所なぞ高が知れている。機関が必要以上に渡してくるのを、時折邪魔とさえ思う。
役に立ったといえば、胸元を悪魔の刃が突いてきた瞬間、札束の厚みで食い留めた瞬間だけだ。
「鳴海所長、もう日が暮れる…」
もしかすれば、鳴海所長にとっても金なぞは、どうだって良いのかもしれない。
我の金が、まるで木の葉の札の様に容易く扱われる。
ひらひらと所長の懐に舞い込んで、それは向かいに燻る煙となって消える。
ヤタガラスの金……我の給金…
(汚い金が混じっているから、その紫煙も汚いのだろうか)
滑る花札、滑るお札、滑る指、流れる図柄に眼が滑る。
「鳴海所長…っ」
窓の外が明るく感じる程、暗い室内。
硝子越しの街灯が辛うじてテーブルの上を浮かび上がらせている。
呑まず食わず、ひたすら追いつめられる時間に、もう限界を感じていた。
「もう、今日は花札は――」
「お前さあ」
割り込まれ、我の手札の上からひとひら、ぱしりと被せる様に置かれた。
「この札の意味、知らないの?」
「え……此れ、か?」
改めて、よく見る。《紅葉に鹿》の札だった。
「シカトしてるんだよ」
真正面から、否定を浴びせられる。
「お前の事、さっきからシカトしてるんだよ、雷堂」
あははと笑い、札をぐしゃぐしゃに手で混ぜた鳴海所長。
「でも、俺が我慢出来ずに反応しちゃったから、今のは俺の負けね」
先刻渡したばかりの紙幣が、スーツの内ポケットで皺を作って帰って来た。
崩落した山札の上に、はらりと落とされて、まるでただの落葉だ。
「それ、片しとけよ」
「………了解した」
「学校は今日、近隣の丘に野外活動だったそうだぜ?」
「そうか」
「紅葉の綺麗な季節だからなあ」
硬質で、ヤニ灼けした花札の落葉拾い。…それをする我を、嗤う所長。
灰皿で揉み消した葉巻の方が、幾分か瑞々しそうで。
「ま、散々見れたろ?紅葉」
花札の神無月が、所長と共に嗤っている。
嗤う癖に相手にもしてくれぬこの現実、踏まれ続ける落葉の様に。
それなら、早く火にくべて燃して欲しかった。
何にも歓ばれぬこの身を、早く如何にかしたく、深呼吸する……
そう、これは夢…虚像…
これは…




「はぁ……はぁ」
誰かが苦しげな声で呻いている、と思ったが。それは己だったらしい。
しっかと見開くと、視界は一面木造の天井。立派な梁が真横に一刀両断している。
此処は、ヤタガラス本殿…我に与えられた部屋。
(夢だった)
が、夢に非ず。あれは過去という現なのだ。
今更、何故あの様な夢を見てしまうのか。
鳴海所長に関して、良い記憶はあまりにも少ない。
だが、思い出す程に、憎しみよりも悔恨の方が強く締め付けてくる。
既に養父母も居ない此の帝都を護る理由は、其処に有るのかもしれない。
ひたすら、贖罪をしているのだ。これまでと、これから殺していく命に。
云い訳の為に葛葉を続けていると知れば、どれだけ業斗は怒るであろうか。
「……矢代君」
隣の布団に呼び掛けたが、返事は無い。
その横顔は擬態のままで、悪魔の片鱗はまるで無い。
それは乃ち警戒状態であって、手を出せば反撃を喰らう可能性を秘めている。
(いいや、ただの意地だろうか?)
出逢った頃からそうだったな、と思い、思わずくすりと笑ってしまった。
警戒心がさせているのでは無く、人修羅本人の意地がさせているのだ。
その力も、姿勢も、自身の為のものと知る。
(それが眩しい)
焼かれる覚悟で、その白い額を撫でてみた。
黒髪をそうっと払って、横顔を眺める。特別長くは無いが、綺麗に整ったその睫毛に視線を下ろす。
死んでいたら、如何しよう。と一瞬思ったが、すぐに思い直す。
(…何をすれば、死ぬのだろうか)
人修羅の致命傷なぞ、知り得ない。
葛葉ライドウなら、知っていたのかもしれないが…勿論、彼から聴いたことは無い。
悪魔というものは、身体が分断された程度では死なぬ者が多い。
核となる物が、人間と同じ様に胸元に有るとは限らぬ。
そもそも、体外に構えている存在だって居る。魔力に蠢く使役者か、肉人形か…
「君は…」
額から、頬に。頬から、首筋に。
ゆっくり掌を這わせて、その胸の上を薄い布団越しに確かめる。
「人間の時と、核は同じなのか?」
小さく囁いてみたが、広い室内に響きもせずに消えた。
ふと見上げれば、窓に掛けた簾の隙間からぼんやりと光が滲んでいる。
随分と早朝だが、時間は有効活用すべきであろう。
本当は、このまま隣の布団に潜り込みたかったが、紅葉狩りをフイにされては我の涙が涸れるというもの。
妙な残り香を付けて帰してしまっては、葛葉ライドウにまた躾されてしまうだろう。
我慢するまま、布団を抜け出し身支度を整える。
まだ薄暗いこの間に、負傷した者達の所へ訪問してしまおう。
床に臥せる者を起こす事になってしまうが、隣の人修羅を起こして不機嫌にさせてしまうくらいなら…
機関の者に侮蔑された方が、はるかにましだった。
(葛葉失格だな…やはり)
部屋の前に、見張りのドゥンを召喚して階段を下りて行く。
焔の虎は、飾り屏風の傍に寝そべり、火花混じりの欠伸をして我を見送っていた。
外套の襟に顎を埋める。それでも隙間から抜ける吐息が、白い。
一気に冷え込んできたから、この数日で山も燃える様に赤くなったのだろう。
定位置に配備される黒装束に会釈しつつ、医務室に向かった。
そう広くない部屋の中、並ぶ布団。まだ身体を痛めている機関の二名。
我の気配に眼を開いた方が、横目に此方を見た。その布団の真横に正座すれば、慌てて起き上がろうとしている。
それを手で制し、静かに問い掛ける。
「早朝よりすまぬ、加減は如何か」
「わざわざ、申し訳も……」
「鬼だが、三体は滅した」
「三体…」
「一体逃してしまったのだ、憶えは有るか?」
「そうです、四体居った様な…そんな気が致します」
着物の上から袢纏を着込み、それでも微かに震えている。
もっと暖房を強めては如何なのだ、とストーブを振り返れば、案の定消えている。
「雷堂様、良いのですそのままで。治療師にも依頼して、其れは消して頂いております」
「何故だ?」
「いや、この手ですが…紅蓮属っぽい鬼に焼かれまして」
す、と木綿の着物袖から突き出た腕は、包帯が幾重にも巻かれていた。
悪魔の火だろう、回復の術でも治りが遅いのだ。
「火を感じると、灯火でさえも怖くって…情けのう御座います」
「構わぬ、其方で寝る相方も何処か焼かれたのか?」
「いえ、彼は振る舞われる酒と舞に…その、即効倒れてしまったもので」
言葉にし辛いのが、その眼の彷徨いで判る。
布団を握り締める包帯の手に、軽く触れて語りかける。
「何も按ずる事は無し、二人共無事で何よりだ」
許された事を改めて言葉で受け止め、この者の眼が安堵に細まる。
他人の不安を感じ取る事は、容易い。その様な感情は、人一倍鼻が利くのだ。
…それならば、未だ臭うのは…何だ?己が心の内か?
「紅蓮の属と申したな」
「はい…打掛姿の女性達は擬態を解いて皆、鬼に成りましたが…黒い影になっているその紅蓮属だけは霞がかってて…」
「奴等はな、四鬼である筈なのだ」
「では、黒き影はオンギョウキ…という事でしょうか?」
沈黙の中、窓の硝子が風に少し軋みを上げる。
合点がいかぬ、しかしこの者が嘘を云って如何する?
「オンギョウキが焔を操るとは、伝え聞いた内容と相違が有るな」
「……そ、そうです雷堂様、重要な事を伝え忘れて御座いました」
悩み始める我を歓ばせたいのか、少し笑顔になる烏の一羽。
「気の動転した我等を山麓で助けて下さったのが、あの人修羅の少年なのです」
「やし……人修羅が?」
「はい、黒き影に追われていたのですが…いつの間にやら、我等の前に人修羅が」
「そして、彼がしんがりを買って出たのか?」
「その通りに御座います、最初は我々も驚愕してしまったのですが…」
それも仕方の無い話だ、この機関の者にとっては、得体の知れぬ半人半魔。
十四代目の連れ込んだ、畏怖すべき客人であったのだろう。
「でも、私の焼かれた腕に布を巻いてくれたのです」
「手拭いか何かか?」
「いえ、その際羽織られていた黒い着物を…お裂きになって」
黒い着物?人修羅が?
「私の着ていた袖は、既に焦げて襤褸切れだったので其処を千切られ…焼けた腕に自らの着物を」
「何処に有る」
「えっ…」
「巻いて貰った布は何処に」
「お、恐らく軒先で。ガーゼや寝間着と共に干されているかと」
「…早朝より、すまなんだ。問いはこれにて終わりとする。後はゆるりと寝られよ」
「はっ…」
窓硝子の向こう。真紅な山を背景に、風に揺られる乾ききった白き包帯達。
その一番隅、まるで烏が如く黒い布切れが、物干し竿に留められ揺れていた。


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