太陽と月に背いて-明星-


相も変わらず、回廊で修行をする…
その実直な姿は、昔から変わらなかった。


“いたいっ”
お前が悪い、隙だらけだ。
“そんなぁっ…酷いよ猫さん…”
泣くな!!木偶の坊め…それに俺は猫さんでは無い!業斗だ!
“うっ…ううっ…小父さん…帰りたいよ…”
そんな情けない姿で帰れば、お前は棄てられるだろうな。
“えっ…”
二度も棄てられるのは本意ではなかろう、分かったらさっさと強く成れ。

強く成れ、強く在れ…
そう口煩く云ってきたが、あの泣き虫は確かに成長した。
人を斬った夜には、酷く項垂れた、俺に文句まで洩らした。
だが、いつの間にやら泣くことは無くなっていた。

“こうか、業斗”
そうだ、なかなか筋が良い…
“貴方が褒めるなど、珍しい事もあるものだな”
毎度云われる様に成れ、不得手が在ってはならぬ。
“業斗の教え方は、上手だ…”

“我はそれに助けられている、昔から”
継がせるのだから、面倒を看るのは当然だ。
“我が迷わぬよう導いてくれ、業斗よ…”

迷うことは、赦されぬ。
ヤタガラスの敵を討て。
敗北は赦されぬ。
逃げる事は赦されぬ。
他と交じる事も、遊び歩く事も無く。
烏の巣で、いよいよ十八の齢まで育った。
その纏う服は、学生の物だが
弓月の君という名目のみ…
事実、雷堂は殆ど通ってはおらぬ。
行ったところで、待つのは監視の眼だ。
それなら責務をひとつでも多くこなそうと、奴は筆で無く太刀を握った。
こいつは…間違い無く、雷堂としてやっていける。
俺の後を継ぐ、初めての生き残りかもしれない。
具わる霊力も、申し分無い。
昔はよろけていた太刀も、今では手脚の如く振るう。
心も、酷く真っ直ぐだった。

明は…真に十四代目と成る
そう、思っていた。



「業斗様、その器の調子は問題無いですか?」
『ふん、猫の器等にするからだろう、己等が』
「まあまあ、そう怒らず…」
我々の管理をする烏の一員が、道中声をかけてきた。
欄干を渡る俺は、それこそ猫そのものだったのか
妙な笑顔が癪に障る。
「あの、若は…」
『ああ、あやつなら回廊でまたやっているぞ』
「えっ、この時間にですか?と云うよりそもそも御身体に障るのでは…」
障ったのはお前の緩みきった顔だ、と撥ね付けてやりたかったが
俺とて云いたい事は同じだった。
『云っても聞かんぞ、あれでかなり頑固だからな』
「よ、良いのですか業斗様…また倒れられるのでは?」
『なら、お前等とお上で一丸となって止めてくれ』
そう云えば、困った顔をする白装束。
医療に携わるその色が、お前の仕事を示しているのだ。
倒れたらお前等が何とかしろよ…
そう思いつつけしかけてやった。
「ま、まあしかし最近の若は異様に…動いておりませんかね?」
『依頼なら、以前の倍はこなしているが?』
「それで合間に修行ですか?いつ寝ているのです!?」
『さあな』
しんと冷える空気が、頭上の月を鮮明に映す。
この宵に…アレは修行に明け暮れている。
『これで大事な時に影響が出たなら、少しは聞く耳も持つだろうて』
「はあ…ですが業斗様…は、御存知でしょうか?」
『何だ』
「それが、あの眼、なのですが…」
その眼という単語に、俺は思わず尾を逆立てた。
一瞬怯んだ白装束が、少し間を置いてから続けた。
「あの眼を眼帯で覆ってから…妙に霊力が高まっている様子なのですよ」
『…ほお』
「身体がすっかり鈍っているのかと思いきや、まさかその逆だとは…」
…あの眼が、入ってから、か。
それはもう明らかだった。
『…ちっ』
欄干から地に飛び降りる俺を、白装束が小さく叫んで見下ろしてきた。
この畜生の身体なら、この位の高低差は問題では無い。
アカラナ回廊へと、月夜の散歩に出歩いた。



不安定な回廊、悪魔を掻い潜り俺は眼を皿の様にする。
最近、場所を点々とするのだ、あやつは。
理由なら在る。
『ちっ…滑りよる』
この丸っこい、肉球に赤い朱肉が付く。
血糊の朱肉が。
その決して気分の良いとは云えぬ感触を脚裏に、奥へと歩む。
ごろごろと、死屍累々と…残骸を通過する。
そう、理由なら…

「…ああ、業斗か…」

理由なら、在る。

「ようやく、身体も疲労を感じてきた…少し休憩しようか」

大太刀をぶん、と振るう。
先端に喰いこんでいた何かが、その反動で切っ先から飛んだ。
ぐじゃりと、遠くの階段に落ち潰れた後、暗い闇へと落ちていった。
脚元が、悪魔の残骸で埋まっている奴は、脚をぐい、と蹴り上げた。
まるで泥濘から脚を抜くかの様な動作。
それ位、自然にやってのける。
殺しきったら、次の狩場へと…場を点々とするからだ。

「…どうした、業斗…」

振り返った奴の眼帯の下に…胎動を感じる。
『…自覚が無いのか、お前は』
そう問えば、やはりいつも通りの憮然とした表情。
少し小首を傾げる動作は、昔から癖が抜けない。
幼いから止めろ、威厳が消える、と叱咤してきたと云うに…
「自覚…何の話だ」
『その右眼が疼くのだろう、分からぬとは云わさん』
「ああ…彼が?」
『…彼だと』
「此処に在る、修羅が疼くかと聞いているのだろう?」
右眼の眼帯に指を添え、平然と言い放つ雷堂。
『無益な殺生をするなとは云わん、しかし残虐さは不必要だろう』
「残虐?」
『相手が戦意喪失すれば逃がしていたお前が…狩りに率先して巡るのは異様だ』
「異様?」
『鸚鵡返しするな!そろそろ依頼も有るだろう、早く引き上げろ…』
駄目だ、捻子が外れている。
おかしい、雷堂は。
「我の何が正常で、何が異常なのだろうか」
そう呟きながら、足早に回廊を戻り始める。
その歩んだ跡が、赤く印される。
靴底が赤く染めながら道を作っていく。
『おかしいわ、背後を見てみろ』
俺がそう声掛ければ、帽子のつばを指先で掴み背後を見やる雷堂。
少し眼を凝らして、口を開く。
「紅葉の様だ」
『…』
もう、秋は終わったのだぞ。
お前が見ているのは、紅葉な筈無いだろうが。




本殿に着くなり、黒装束達が道を開ける。
帝都を守護するデビルサマナーの帰還を、その布の下から確認する。
だが皆、一様にして視線の流れる先は脚。
コツコツと鳴らして歩んだ跡の赤い証明。
『おい、せめて頬の血くらい拭ってから入れ』
「付着していたか?」
『皆の衆が怯える』
俺が云えば、ぐい、と手の甲でそれを拭う。
『それと、すぐに湯浴みしろ』
「湯浴み?すぐ依頼が有るだろう?」
『その姿で依頼主と対面するのか?』
その、赤黒く湿った着衣と、睫にこびりついた赤い雨粒。
依頼主が、こやつを悪魔と思うのではなかろうか。
「確かに、相手に失礼だな…」
浴場に歩みを変え、雷堂はその脱衣室の従者に背の大太刀を渡す。
続けて外套を剥がす従者の、その時の顔ときたら…
腕の先の外套が余程血を吸っていたのか、鉛でも乗せられているかの様な
そんな顔で外套を腕に納めていた。
続けて学帽に手を掛けた従者に、雷堂は手で制する。
「ですが十四代目、濡れております」
何で濡れている、とまではわざわざ明言しなかったが
従者のその言葉に雷堂は普段通りの態度で返す。
「人目の在る所で取りたくない」
それは、額から走る傷痕を隠したいが為にか。
つばの影に、存在感を少しでも消したいからか…
浴衣を羽織り、浴室へと入っていく雷堂を温い靄が包んでいく。
その背を見て、俺はぼんやりと考えに耽っていた。

(どこから誤った)
アカラナで人修羅と逢ってしまった事からか?
幽世の如く閉鎖した空間で育てたからか?
いや、それより以前に…芝居小屋から奪った所からか?
(いいや、其れは関係無い…あの家で、奴は雷堂では無かったのだから)
溯っても、溯っても、何が決定的な失敗なのか分からなかった。
人修羅の、サマナーを惹き付ける魔的な何かが起因しているのか…
だが、雷堂は「悪魔でも人間でも良い」とぬかす。
そこまでして人恋しかったのか?あやつは…

『…』
しかし、少々遅い。
行水にしろとは云わないが、のんびり湯船で寝る程の猶予は与えていない。
いや、まさか今更睡魔に襲われているのでは無いだろうな?
「業斗様」
『少し入る、開けい』
命令し、浴室の戸を開けさせる。
俺の位置に靄が無いのが助かる。
(さて、何処だあやつは…)
独りではあまりに広い浴室。
大衆浴場よりも上質の、檜張り。
地味で上品な調度品、質の良い環境で過保護に包んできたのが誤りか?
確かに、真っ直ぐに、強く育ちはしたが…
包みすぎて、もう我々からも内部が確認出来ぬのではないか?

「ぁ…」

微かに、人の声がする。
俺は気配を殺してその方へと脚運びした。
白い靄の向こうに、薄っすらと見える人影。
学帽が、見える。
(雷堂)
それはそうだ、あやつしか入って居ないのだから。
だが…その様子は、単独に見えぬ。

「あ、ぁ…あつい…アツい……眼が、酷く」

何に、誰に向かって話しているのだ?

「知っている…この様な、我では許容出来ぬと…」

靄が緩やかに飛散していく…

「君の一部を奪った、罰だろう?そうなのだろう?く、ふ…ふふふ」

光る、金。
ただし…人修羅のでは無い。
鏡に額を擦りつけ、眼帯を外した雷堂の右眼が…
呼応するかの様に仄暗く輝いていた。
まるで鏡の中の金眼を愛撫するかの如く
狂おしげに鏡にしな垂れる雷堂に戦慄した。

「血を浴びようが、鬼の様に身体を酷使しようが…眼からくる君の気配が…我が気を漫ろにさせる…そのまま、侵蝕して喰ろうてしまえば良いのに…」

駄目だ。
雷堂は既に喰われている。
人の身には、重すぎたのだ、あの魔力は…!

「なあ矢代君、何故呼びかけに応えて呉れぬのだ?感じているのだろう?共鳴出来ておらぬのか?それなら式でも飛ばそうか?なんなら左眼も差し出そうか?」

ギッ、ギッ、と圧に鏡が軋む音が響く。
物欲しげな、寂しげな、憎らしげでもあるかの様な視線が鏡に映る。

「何故!君が半魔で…我がサマナーで…君が男で…我も男なのだ…」

嗚咽にも似た声が、浴室の水音に雑ざる。

「悪魔なれば…共に居れず、人なれば…逢う事も無く……嗚呼、何故…向こうと違うのだ…っ…君よ、応えて、後生だ、応えて呉れたまへ」

結露に濡れる鏡面を指で拭う。
そこに流れる露は、拭われ落ちたものか涙か。
俺は、その倒錯した空気に思わず息を呑んだ。
その瞬間、雷堂の指が鏡面から離れる。

「誰だ!!」

学帽裏に忍ばせた小苦無が、俺目掛けて飛ぶ。
この器の甲斐在ってか、寸前で其れを避ける事に成功した。
檜の木目を穿つ小苦無は小気味良い音を立て、それが残響する。
「ご、業斗…」
『…標的に当てねば、意味が無いぞ…まあ、投げ迄の動きは中々速く成ったが…』
「いつから?」
『お前が鏡の中の眼に語りかけるのは見ていた』
云えば、意外な事に慌てぬ雷堂。
血濡れた学帽を片手に、滴る髪を耳に撫で付ける。
「眼では無い、人修羅だ」
『馬鹿か、ただの眼だろうが』
「いいや…彼が在るのだ、此処に…」
俺の傍を通過して、何事も無かったかの様に扉を開ける音がする。
浴室に冷たい空気が流れ込んだ。

「十四代目、依頼主が来ておりました」
従者が大判の拭い巾を持って、雷堂に寄越す。
「まだ時刻は来ていない筈だが…」
拭かれる前に、と奪い取る様にそれを手にし、身体を拭う雷堂。
「ええ、それが…言伝を残して、先に現場へ向かっているとの事で」
「何と?」
替えの肌着を纏い、袖を通す学生服は綺麗な百入茶色。
学帽も、替えを手に取り紐で幅調整をする雷堂。
先刻の小苦無を、また忍ばすのだろう。
おずおずと、従者が横からそんな雷堂に向かって口を開く。

「そ、それが…人修羅は、連れずとも良い、と」

ぴたり、と雷堂が動きを止める。
「…この依頼、鳴海所長を通したのか?」
いぶかしむ視線を、従者に送る。
前髪から、一滴落ちる薬湯の薫り。
その視線に竦んで、従者が慌てて述べる。
「も、申し訳ありません!」
「通さず、か」
「希少な悪魔の情報と、素体を寄越してきたので…我々で勝手に受けた次第です」
溜息混じりに雷堂が髪を拭う。
「…良い、君等ではなく、お上の判断だろう…それならそうするまでだ」
退魔の呪いを塗りこめた符布。
内にそれを張った外套を翻し、口元を高襟で覆う。
「行くぞ、業斗」
綺麗な綿糸の眼帯を、金の眼に装着する雷堂。
その、優しい指つきは何を考えてのものなのか…
俺には理解出来ぬ。
したくも無い。


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