致死量
冬場の冷たい水道水は、肌を切り裂く様な痛みをもたらす。
その筈なのに、今は気にならない。
もっと酷い何かが、奥底から込み上げる。
「は~っ…は~っ……」
震える指先を、蛇口の捻りにしがみ付かせて
俯かせた視線の先には、排水溝。
出る筈の無い吐瀉物を脳内に連想して、更に吐き気をもよおす。
眉を寄せて、奥歯を噛み締めた。
(人を喰った)
いくら、異形と化していたとはいえ。
(俺は、人間を胎に入れたんだ…)
この手にかける事すら厭んでいたのに。
…俺の何が、そうさせた?
「大丈夫?」
その声に、排水溝から視線を移した。
洗面所の入り口、扉を開けた鳴海が立っている。
「雷堂に付き添ってもらえば?」
コートを着込んだままで、帽子に薄っすらと積もる雪。
帰還して間もないのだろう。
「大丈夫、です…雷堂さんの手を煩わせたく無いんで…」
唇を濡れた手の甲で拭って、傍に掛けてある巾にその甲を押し付ける。
「まだ横になっている筈ですから」
「へえ、君はそんな格好でピンピンしてるのに?」
そんな格好、と云われて、改めて自身を顧みる。
着物の裾は黒く乾いていて、振るった際に脇の縫い合わせが裂けていた。
藍色というよりは、黒鳶色になっている。
「あ…!すいません、これ雷堂さんが用意してくれた着物で」
「うん」
「弁償します、い、今は持ち合わせが無いんですが…」
洗っても無駄と思われるので、既に平謝りの姿勢。
そもそも、この返り血だ…綺麗になったところで、気味悪いと思う。
「イイよ、そんな事気にしなくて」
はは、と笑って、中に入って来た鳴海。
俺の着物の袖を、赤くかじかむ指でくい、とさらう。
「藍色なんて、ちょっと地味だろう」
「そうですか?」
「若いんだから、藍色って落ち着き過ぎかなぁ」
云いながら、変わらぬ微笑の鳴海。
それに何処か薄ら寒さを感じて、俺は眼を合わせずに相槌をする。
「しかしね、雷堂も人修羅君くらい強かったら良いのになぁ」
「…」
「他人は喰わせて、自分の身内は喰わせれないなんてさ、弱い奴だよね」
その発言に、ハッとして鳴海を振り返る。
彼は既に背を向け、廊下に出ようとしていた。
「待って…」
廊下は土足なのに、俺は裸足のまま飛び出た。
冷たい床が、表皮から肉を冷やしていく。
「待って下さい」
俺の声に、鳴海は首だけで振り向いた。
口は穏やかにたわんでいて、敵意なんざ無い。
「何故、貴方がそれを知っているんですか…?」
「一応俺もヤタガラスの手足だからねぇ」
「なら、雷堂さんの仕事…解っていますよね」
俺の声は、少し責める色を見え隠れさせている。
「そうだねぇ、不可抗力って事が多いね」
そのまま歩みを止めず、鳴海は階段を上がっていく。
行かせるのも納得がいかず、俺は裾を掴んで追従する。
「だったら、身内が対象になった時に戸惑うのは、仕方無いと思いますけど」
屋上の扉が開く気配。鳴海が逆光にシルエットを浮かばせる。
とはいえ外も暗黒なので、馴染んでいる輪郭線が目に付く。
「あの、鳴海さん…聞いてますか?」
「聞こえているよ?」
屋上の端、凭れるには少し危ない低めの柵。
鳴海は其処へと向かって、のんびりと靴で雪を踏み鳴らす。
見上げた向こう側…
一瞬、煙草を燻らせるデビルサマナーが俺を向いて哂う…
そんな幻を視た気がする。
「…君」
「ぁ」
「人修羅君、君こそしっかり聞こえている?」
鳴海に逆に問い詰められ、俺はその幻を脳内から消し去る。
彼の傍につかつかと歩み寄る。鳴海の靴跡に並ぶ、俺の裸足の跡。
「なんで…雷堂さんに、冷たいんですか」
隣に俺は居座り、柵に腕を乗せた。
袖が湿っていく、乾いていたそれが溶け出して、鉄錆びの薫りが広がる。
「俺が雷堂に冷たい?」
「…厳しいと思います」
業斗とは違う意味で。もっと…こう…
「う~ん…じゃあちょっと質問したいんだけどさ」
帽子をくい、と被り直す鳴海は、落ち着いた大人の笑顔だ。
「君は、俺の身内だったら喰ってくれたの?」
心臓が跳ね上がる。
「ね?贔屓だい、贔屓~」
あはは、と声に出して、鳴海は俺に向き直った。
俺が、本来人殺めすら避けるのに…あんな行動に出たのは…
当然、理由が有ったからだ。
「俺は…っ」
肉を食い千切る食感が甦る。
もうケンタッキーとか食べれないと思う。
そんな低俗な感想が浮かぶ程、俺は逃避したかった。
「俺は、雷堂さんが…見ていて…辛くて」
柵に積もる雪が、ざり、と地に落ちていく。
俺の震えが、雪を押し出して、突き落とした。
「餓鬼になんか喰わせたくないと、あいつは泣いた訳?」
「だ…って、大事な人なら、嫌…でしょう」
「だから君は、喰らってあげたの?」
「…」
「自分に自信があったのかな?」
その言葉に、頬が熱くなった。
穏やかに述べるその向こう側で、嗤われている気がしたからだ。
「餓鬼よか…マシかと、思った、だけです」
鳴海を見てはいけない、睨みつけてしまいそうだ。
「へぇ、成程ね~…」
あっさりとした返事。
「本当、人修羅君って聞いていた通り…あいつに似ているね~」
その台詞と同時に、俺は視界が流れた。
「!?」
視界に映るのは、柵に凭れて微笑む鳴海。
振り上げられたそのコートの袖が翻っていた。
反射的に俺の項に熱が奔り、風を切って舞い降りるその虚空で、空気を蹴る。
暗闇に俺の光が反射して、雪の白が一瞬輝いた。
とさり、と裸足の土踏まずまで、冷たい雪を踏みしめた。
「っは…っ…はぁ…っ…」
油断していた。
銀楼閣の高さが無ければ、悪魔に戻る前に地に激突していたかもしれない。
ようやく頭は理解した。
(突き落とされた…!?)
雪の街路に蹲る俺に向かって、屋上の鳴海が微笑んで云った。
「ああ、でもあいつとは違って、しっかり着地した!」
まるで子供みたくはしゃいで、俺に説明してくる。
「雷堂はね、そのままバーン!って叩き付けられたんだよねぇ」
きっと屋上から叫んでいる訳じゃ無い。俺の今の聴力は、悪魔でそれなりだから。
そんな今の状態を…恨む…
「特殊な訓練を受けてる割には、駄目なんだなぁ、って、笑えちゃって」
鮮明に聞こえる、あの人の上司の声。
「耳からも出血してたから、結構身体は痛んだんじゃないかな?骨もヒビだらけで」
見上げれば、柵に肘をついて微笑んでいた。
「でね、それで帝都守護が務まるの?って下に呼びかけたら、あいつ何て云ったと思う?」
脳裏に…鳴海を無表情に、壊れた人形みたく見上げる雷堂の姿が浮かぶ。
「“すいません”だとさ!」
あはは、と、ころころ笑う鳴海。
俺は、蹲ったまま、動けない。
(どうして…)
どうして、笑っているんだ?
どうして、雷堂の、己を捨てた生き方を…誰も…
誰も、慰めない?
誰も、味方が居ない、この世界には。
彼の、本当の味方は誰も居ない。
指先の雪を、ぎゅうっと搾る。
水になったそれが、俺の斑紋を濡らして乱反射させた。
「なあ、世の中…不公平だと思うだろう?人修羅君も」
屋上から下りて来たのか、銀楼閣の角からコート姿の鳴海が見えた。
「十四代目葛葉雷堂は、日々、無意識に悪魔を駆って、命を潰してきた」
「…」
「あいつが何も知らずに始末してきた人間は数知れず」
「それはっ、ヤタガラスが!!」
初めてしっかとその眼を見、叫んだ。
鳴海は、俺の金眼にも怯まない。
事務所でだらだらと微笑む、あの顔のまま。
「知って殺生するのと、知らずに殺生するの、どっちがイケナイと思う?」
鳴海の急な謎々に、俺は怒りすら通過して戸惑う。
「…んな…知って、殺す奴の方が、性質悪いに決まってます」
それは倫理を崩す事。
モラルに反する。
「ん~…そう…それは、ちょっと違うと思うんだよね~俺は」
「殺人鬼より、不可抗力で殺める人が悪いって云うんですか、貴方は…」
「ちょっと極端だよそりゃあ」
あはは、と、俺の傍に影を落とす。
俺の光る斑紋で、薄っすらと雪に鳴海の長身が伸びた。
「じゃあさ、人修羅…例えば、君の大事な人が…」
「…」
「何も考えず、云われるがままの傀儡に殺されるのと」
「…」
「罪の意識が在り、そして仕方無く、知っている上で…動く奴に殺されるのと」
「…ぁ」
「どっちが君は救われる?」
舞い降りてくる、その選択肢。
…気付いてしまった自身から、眼を背けたい。
「解ってくれた?ね?」
しゃがみこんで、俺に視線を合わせてくる。人の良い笑顔で。
「前者の傀儡に殺されたら、堪らないよね?だって、世の為とはいえ、その瞬間に潰えた命は、殺した奴にとって事象の一部でしか無いんだから」
「…雷堂さんはっ…今…苦しんで、ます」
「昔は、ただただ烏の云うままに動く殺生鬼だったよ?」
「今はっ!立ち位置に苦悩しています!!」
「…今は…でしょ?」
その、鳴海の声音が一瞬上擦った。
それに俺はビクリと、制止する。
「じゃあさ、大した罪の意識も無しに殺されちゃった俺の大事な人は、寂しいね」
微笑んだままの、鳴海の視線が俺の着物に落ちてくる。
「藍色が一番似合ってたって、素直に云ってあげたら良かったのかなぁ…」
俺の肩に指を滑らせて、布地を摘まんだ。
「なあ…無知は罪なんだよ?」
息苦しさに、俺は白い息を、長い間隔で吐く。
その鳴海の言葉が、俺の息さえ凍らせそうで。
「だから、統制された、無知の存在しない世の中が良いよね?」
俺に首を傾げて、そう云い微笑んだ鳴海。
そのコートの隙間から見えた何かが、俺の薄い光を反射して煌いた。
「だからさ、雷堂と一緒に“上”においでよ、人修羅君」
彼の胸で揺れるロザリオ。
「~ッ!」
その聖なる煌きに、俺は畏怖して鳴海を突き飛ばしていた。
背後すら確認せずに、暗い街路を無心で駆ける。
行き先すら想定しないで、何も決めないで、ただ鳴海から離れたかった。
(“上”側の人間…!!)
動悸が激しい、焦って雪で滑り、幾度か転げそうになる。
「はぁっ…」
裸足の足先が、キン、と冷えてきた。
頭が回らない。
(そういえば、何も云わずに離れたのだから、雷堂さん…心配するだろうな)
云う暇も無い、説明すら出来ない、そんな事もこの時は脳内から消え去っていた。
暗い街を、独りで彷徨う。
誰も居ないと感じて…視線を泳がすのみで、放心していた。
(雷堂さんを取り巻くのも、天使ばかりだ…)
雷堂は気付いていないと思われるが、上の勢力が強い世界な気がする。
危険だ。
堕天使側の俺が、こうして独りで居ると…
どうしても、手を汚す羽目になりそうで、それが嫌だ。
片眼も完全に治った訳じゃない、窮地に立たされたら、終わるかもしれないのだ。
(雷堂さん…貴方はこの先どうするんだ?)
ずっと烏の傀儡として、苦悩の日々を送るのか?
俺という、傷の舐め合いが出来る悪魔を傍に置いて…
その眼に焼かれて余生を全うするのか?
(馬鹿な、俺の眼の所為で?俺への歪んだ情愛の所為で?)
なら離れるか?
この世界に、雷堂をたった独り残して?
この…彼を包むものが何も無い世界に?
(馬鹿な…馬鹿…だ…貴方も、俺も…)
業斗の声が反芻される。
俺が消えれば、雷堂は崩れるのだろう、と…囁く脅迫。
ルシファーはどうする?彼の元に戻らなければ、俺は消されるぞ?
なら雷堂はどうする?蝕まれる彼を捨て置けば、きっと崩壊するぞ?
(雷堂さん…ッ)
違う、違うんだ、そもそも何故、俺がこんな事に遭わなければ…
いや…?おかしい、だろ。
俺の魂の奥から、突き動かそうとするものは、じゃあ何なんだ?
雷堂への情か?
ルシファーへの畏怖か?
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