※徒花ライドウENDを読了している事をお奨め致します。
SS「啼き始め」も、読んでおくと懐かしくなれます。
常夜の社
額を汗が伝う。
でも、追い抜かれる訳にはいきません。
「凪君、だから先刻云ったろう?」
ざくざく、と地に落ちた枝や葉を踏み締める音。
軽快なそれは、いとも容易く私の傍まで近付いて…
「風の道は逃げぬ、暗い葉陰も場所を変えぬ」
発された湿って凛とした声音に、ややムッとして振り返ります。
「此処は私のテリトリーです、好きにさせて下さい!」
「へぇ、毎度こんなになるまで急ぎ足なのかい?」
その、闇の色に見つめられ、まるで呪縛に罹ったかの様に動けず。
傍らのハイピクシーがきゃあきゃあと吠えるのも、視界の端にちらつく程度。
私の、額の汗を、その綺麗な指ですう…と拭うこの方。
「今はゲイリン殿に甘えておけば良い…急いては事をし損じる」
上からの威圧、でも、その哂いに隙は無く。
「ヤタガラスの為でなく、師の為でなく、自分の為に憚り給えよ?ククッ」
天斗樹林のさざめきを、颯爽と抜ける黒い外套。
つい先刻まで、私が前を歩いていたのに…
既に、十四代目の方が此処を理解したというのでしょうか。
迷いなき足取り、青々とした葉を、ヒールが踏み抜く後姿は酷く華麗で。
「ま、待って下さい!十四代目ライドウ!」
はっ、として駆け出せば、ブーツの爪先を木の根に引かれました。
あ、と迫る青色の絨毯。ああ、きっと顔面からいきますね。
しかし、それは訪れませんでした。
「大丈夫かい?十八代目ゲイリン?」
肩を支えられ、視界には艶やかな黒。
その助け舟が、あの頃の私には癪で、悔しくて。
「まだ襲名してないです!意地の悪いヘルプですねっ」
「元気だね、君は」
「さ、さては私を緩ませるセオリーですね!?」
いけません!気を引き締めなくては!
と、その腕を押し返し…向こうへと躍り出ます。
背後から…かけられた声。
「生き急ぐでないよ?焦れば彷徨う、もがけば視えぬ」
哂い声、ヤタガラスの、何かを知っている四天王の一人。
「世は樹海と同じなのだから、凪君」
蘇る記憶が。
『凪!』
「え…」
『どーしたよ急に…何、今更ココで迷っちゃったりとか?』
ハイピクシーの鈴の声に、脳内が目覚めました。
薄く雪化粧した樹林の背景が、彼女の姿を鮮明に浮かせます。
「御免なさい、少し思い出してぼうっとしてました」
『大丈夫ぅ?疲れ溜まってんじゃないの?年末くらいゆっくりすれば?』
「いいえ、私が引き受けたのですから」
『んもー…違うでしょ!?』
ニンマリとえくぼを作ったハイピクシーが、私の肩にとまります。
紅茶染めのケープマントが、その軽い圧で揺れました。
『年越しはぁ〜…愛しのあの御方と』
「な、何」
『きっしし、帝都の応援入ると喜んで喰い付くクセに』
「ちょっとハイピクシー!違います!勘違いのセオリーです!」
ざくざく、と白い絨毯を踏むのは、草履ではなく…やはりブーツです。
折角の着物ですが、あまりに動けないのも問題ですから。
からからと笑い転げて宙に遊ぶハイピクシーも、普段よりめかし込んだ振袖です。
私だけでは申し訳ありません、共に出るなら、共に飾りたいのです。
『オベロン様の出してきた着物?アレほんと無いよねー!』
「寒そうでしたね」
『超絶ミニっての?あの助平ぇ』
「ふふっ、ちょっと…失礼ですよハイピクシー」
『ティターニア様の張ぁりぃ手でっ赤い華咲ぁいた〜♪』
いつもと同じこの樹林、私の護る悪魔達、槻賀多村の皆さん…
折角なのだから拝借しなせえ、と、屋敷の方に着せて頂いた茜さんの振袖。
帝都のモガに負けぬようにね、と、ティターニアに施して頂いたお化粧。
素敵な護るべきものたちに囲まれて、送り出されるのです。
「では、行って参りますね」
電車の中から、鬱蒼と茂る里を見下ろして挨拶をしました。
「こんな暮れに着飾って、お嬢さんこの後初詣かい?」
白い街路、アンティークショップのショウウインドウを眺め見ていれば、どちら様でしょうか。
「ええ、この後向かう所があるセオリーです」
「ひとりなら一緒しないかいな」
まさかの軟派でしょうか。
『げげえ、年末になって躍起になってんのコイツ、彼女居ない歴更新したくないんだわきっと』
私の肩から、声をかけてきた男性にきいきいと喚くハイピクシー。
乗り出したその身、着物が少し崩れてしまってます。
「こら、そんな暴れると着崩れしますよ」
私の突然の台詞に、ぎょっとした男性。
ヘンプ地のミドル丈コートに…厚地のニッカーボッカーズが粋ですが、やや粗雑な印象です。
「おおいお嬢さん、大丈夫かい?何か良くないモンでも視えてんのか?」
『きいいいこの男!アタシが良くないモンだってーの!?』
「ちょっと、ハイピクシー!」
いよいよその袖を振り乱し、飛び掛らんとした肩の妖精。
小さく叫んだ私の、彼女を抑えようとした手袋の指が…
すい、と横から取られます。
「行きましょう」
透き通った、でも主張しない声音。
しっかり顔を確認しない内に、私はその主に攫われて往きます。
「ちぇ、しっかりお相手いんじゃねえかいな」
ポケットに手を突っ込んで文句を垂れた男性は、アンティークショップの前から離れました。
視界から遠くなるその店の扉に少し当たったのか、微かにベルの音。
リリン、と響いたその音は、誰かの来訪を思わせて。
「…出てくる訳無いでしょう、凪さん」
私の心を探ったかのようなタイミング。
軽く握られた手の先から、やんわりと離れていった綺麗な手。
今は斑紋も通っていない、擬態の手。
「あいつ、死んだじゃないですか」
久々に会って、交わした挨拶の寂しさに、心が凍ります。
「お…お久しぶりです、功刀さん」
「晴海、ぶらつかない方が良いですよ、暗くなると少し物騒だから」
傍でニヤニヤしているハイピクシーが、耳をくすぐりました。
『邪魔者はお暇しまぁっす』
勝手に管へと帰った彼女に、小さく叱咤しました。
が、すぐに功刀さんへと視線を戻します。
「あの、何故此処を通ったのでしょうか」
「凪さんが来るって事で、食材の買出しに…」
「ああ…!この辺に製菓材料の豊富なショップがそういえば!」
「それに、正月って事で来客用に色々作っておかないと」
「ふふっ、功刀さん、すっかり鳴海探偵社の一員ですね!」
「…なりゆきです」
小さくため息して、買い物籠を持ち直す功刀さん。
ふと、私の姿をその眼に映したのか…薄く微笑みました。
「似合ってます」
ああ、ハイピクシーが居なくて、少し助かりました。
彼女と同じく、私にもえくぼが出来ていた事でしょうから。
「いやー凪ちょわぁん、綺麗ね可愛いねあけましておめでとぉ〜!」
「ちょっと鳴海さん!もう横になった方が…おまけにまだ明けてないわよ?」
「まだいける!」
「なぁにがいける!よ、ハラスメントな発言しない内に寝ちゃった方が身の為よ」
べろんべろんになった鳴海所長、くすくすと笑って向かいに微笑むタヱさん。
可笑しくて、私も口元に手を当ててしまいます。
「これじゃこの人、初日の出は拝めないわねえ?」
「そうですね、ふふっ」
タヱさんは着物ではありませんが、いつもより良い意味で楽そうな格好です。
きっと仕事納めは済んでいるのでしょう。
温かなストーブが、ぱちぱちと声を弾ませます。
「ねーねー凪ちゃん、アリスもお着物着たいよぉ…」
ソファで甘酒をちびちび呑んでいたアリスさん、私の袖をくいくいと引きます。
可憐な童女の仕草に、少しときめいてしまいました。
「そうですね、では次のお正月までに…私の給与でプレゼントさせて下さい」
「ほんと!?」
「ええ。でも、今お召しになっているコートも、可愛いですよ?」
白いふわふわのコート。揺れるファー襟も愛らしいそれ。
甘酒のせいでしょうか、薔薇色の頬でアリスさんは微笑みます。
「でしょ?夜兄様に買ってもらったの!」
その返答に一瞬、空気が張り詰めました。
でも、タヱさんだけは珈琲を続けて啜っています。カップから離れた口が云います。
「そういえば、ライドウ君最近はどうなのかしら」
知らないからです。
「ん〜…あいつの事だから、何も問題なくやってるっしょ〜…」
羽織りを手にした鳴海所長が、へべれけな声音で答えました、が…
きっと、覚醒したのでしょう、先輩の名前に。
「じゃ、鳴海サンはもう就寝しますのでね〜ご婦人方もそろそろお開きにしときなさい」
「つれないわね!もう…」
ぐいっ、と珈琲を最後の一口まであおったタヱさんが、バッグを手にします。
「じゃあね、凪ちゃんにアリスちゃん!来年も葵鳥さんの記事をヨロシク〜」
「ゴシップに期待してる!」
「アリスちゃんも、また英吉利のお話聞かせて頂戴ね!それじゃ」
ウフッ、と挨拶したアリスさんが、続いて脚を床に下ろします。
「アリスもそろそろ行く〜…お腹いっぱいだし」
それもその筈です、功刀さんの料理を次から次へと…
あんな小さな身体の何処に?という勢いでしたから。
「タヱさん、アリスちゃん、それでは」
私は立ち上がり、会釈します。すると、自分の足袋の薔薇刺繍に眼が行きました。
そういえば、この足袋…
「あんなに急いて歩くから」
「……ぅ」
福禄荘にて、脱いだブーツから出でたのは…妙な箇所が擦り切れた足袋。
指の上が酷く擦れたのか、肌の色も少し赤くなっていました。
「あ、足への修練です」
「…これもサマナーへのプロセスの一環かい?」
「そ、うですっ!」
云い返せば、十四代目葛葉ライドウが哂いました。
「洗いあがったら替えと交換してあげるから、靴に掛けておき給え」
「…で、では、お言葉に甘えるセオリーで」
どこか納得いきませんでした。
何か、見えない引力で統治される感覚です。
私はゲイリンを師としておりましたので、ライドウに世話してもらうのは…
(あんな、哂って葛葉を愉しむ方と、足並みを揃えるだなんて…っ)
沸々と煮えた感情のまま、云われた通りにし…翌日を迎えたのです。
「え…」
ブーツに掛っていた私の白足袋。
綻んでいた箇所に咲いた赤薔薇。
「他の柄が良かったかい?十八代目?」
背後からの声に、振り返るのが恥ずかしい…です。
「…これ、貴方が縫ったのですか」
「粗悪な図柄にしたつもりは無いがね」
何ひとつ、女子めいたものを持ち合わせていなかったあの頃。
まるで花を渡された心地で。
「あ…あの…」
薔薇の刺繍は可憐に力強く、解れを知りません。
「ありがとう、御座いました……“先輩”」
今なら素直に感じます、まるで貴方の様です。
「さ、僕の血が必要なのだろう?往くぞ、凪君」
帯刀し、なびく外套の隙間から光る管。
蘇る、不敵で甘い微笑が。
「凪さんは上で寝て下さい」
「あ、いえ、年明けと共に帰りますから、このまま椅子で」
「…それもそうか…振袖のまま横になって寝るの、不味いですね」
洗い物を済ませ、軽く伸びをした功刀さんが向かいのソファに腰を下ろしました。
「大変ですね、家事に…探偵社のお仕事、手伝われて」
「慣れました、それに何かしてないと、長い時間は気が狂いそうで」
「独りがお暇だから、ですか」
ランプで薄く照らされただけの部屋。薄っすらと光を帯びた貴方の眼。
「…そうですね、口論する相手もいませんから」
「あ、その…」
早いものですね。
前の桜の頃…先輩の訃報が式に乗せ、飛ばされて参りました。
あの瞬間、違う誰かだと思いました。
思い込みたかった、というより、本当にそう思ったのです。
「功刀さん、この凪で良ければ、話し相手にして頂きたいセオリーです」
さらりと纏う着物の裾から、裸足が見えました。
きっと、擬態していても…そんなには寒くないのでしょう。
その露出に、逆に私は頬が熱くなります。不謹慎です、とても。
「凪さんはヤタガラスから命じられているだけでしょう」
「いいえ、私は功刀さんと接してます、人修羅と接している訳では無いです」
ああ、いつも核心を突く。その瞬間に見せる諦観めいた眼の笑み。
それを見ると、心が寂しくなるのです。
「功刀さん…あの、信じて頂けなくても、良いのです」
いいえ、本当は、ただお茶をしたい心があるのに。
「今、こうして普通に日常を過ごせている功刀さんが確認出来れば…凪は嬉しいです」
この、役目を…どこかで歓んでいる自分が居るのに。
「まだヤタガラスに与するんですね」
「はい、先代の遺志と……先輩からの指導のままに」
冷めたカップ、互いに口をつけません。
冷たい呼吸、ストーブもいつか消えて、雪の音すら窓外からしてきそうな…
「何をそんなに嘆くのだい」
冷淡に、いつもと変わらぬ口調で。
「せ、先輩…私の落ち度で、仲魔が死んだのですよ!?」
「君のハイピクシーが勝手に庇ったのだろう?」
修験場の帰路…涙でグダグダの私を哂って見つめてきたライドウ先輩。
先輩のヒールの足跡は、赤くこの場の板を濡らします。悪魔の血で。
そう、先輩に、結局助けられたのです…ハイピクシーの犠牲のみならず。
手伝ってくれ、と持ちかけて…この有様。
「仲魔が君を助けたのだ、サマナーとしてそれは実に悦ばしい事…」
「…先輩は、辛くならないのですか」
「辛い?サマナーと悪魔は主従で結ばれているのだが?凪君」
ニィ、と唇を吊り上げます。
「仲魔が“命を賭してまで生かしたい主人”に成れたのだから、誇らしいだろう」
「身体へのダメェジはありません、が、ですが…っ」
「あの妖精も、望んでした事なのだ、本望ではないのかい?」
「先輩は寂しくないのですか!?もし…もし、親友のような、身内にも等しい仲魔が……!?」
「身内だって?クク…ッ」
ぞぞ、と蠢く蠍足を、先輩は哂いながらに両断しています。
気付けば囲まれていたのです。
そう、まだ修験場の中…私は涙腺も警戒も緩んでいました。
ライドウ先輩の、ひゅっ、と、指先に柄を回して血掃いする姿。
足元には転がるパピルサグ…開いた口が、ぴくぴくと痙攣して、だらりと泡を流します。
うっ、と何かがこみ上げそうになり、私は顔ごと眼を背けました…
「凪君!」
その瞬間、鋭い声が飛び、続いて銃声が。
ハッと振り向けば、私を庇う形で、リボルバーを構えた先輩が…
「ラ、ライドウ先輩…!!」
「案ずるでないよ…無傷だ」
私目掛け発された粘液が、しゅうしゅうと熔解の音を立てていました。
リボルバーをホルスターに戻す動作で、爛れた外套が揺らぎます。
「フン、死に損ないの癖に一矢報いるか」
先輩が、冷ややかに哂って見下ろす屍骸。
頭部の眉間に一発、綺麗に納まった銃弾が、緩やかに体液を抽出しています。
「しかしね、凪君…」
その先輩の冷たい声が、私に矛先を変えました。やや、予感はしていたのですが…
動悸の激しさを、握った拳で紛らわせます。
「はい」
「何故眼を背けた」
「…それは、じっと見つめるものでは無いと、そういうセオリーで」
「それは死へのプロセスだ…黄泉入りする迷信なぞ棄てたらどうだい」
哂っているのに、どこか怒りを…嘲弄を含んだ否定。
「君は仲魔には散々殺させて、それの結果を見ないのか」
「い、いえ」
「殺せと命ずるのはサマナーだろう」
溶けて繊維の透けた外套から、ごそりと何か取り出す先輩…
「削った命を注いだ悪魔に、他の命を屠らせしめんとする訳さ」
「あ…それ…は」
「どちらかが潰えるまでの契約だ…それに生き残る為には、相応の覚悟で臨み給えよ?」
先刻までリボルバーを握っていたその指、やんわりと掴むは…小さな蒼の振袖。
肉体が魂と消滅した、あの子の…
「あの場に落ち残っていた」
「き、気付きません、でした」
「眼を背けたからだろう?」
愕然とする私の指に、それをゆっくりと握らせ…
綺麗なのに、酷く怖ろしい笑みで、私の双眸を見つめてきた十四代目ライドウ。
闇の色をした眼に捉えられ、身体が動きを忘れてしまったかの様で。
「サマナーと仲魔に永久など無い、魂でさえもね」
す、と、握らせ離れて往くその姿。
烏の羽より黒い影。
「心を赦した瞬間、契約破綻し、どちらかが没す」
屍骸を踏み越えるヒールで、ぐしゃりと甲殻脚が割れる音。
立ち尽くす私に、少し振り向いたその横顔が…
「使役悪魔に命を賭すなぞ、愚かしく滑稽そのもの、サマナー失格だよ」
蘇る、孤独の声。
「凪さん…」
その声にビクリと肩が震え、見上げれば…いつも脳裏に描く顔。
「あ、す、すいません!ちょっと、リメンバーしてまして、そのっ」
功刀さんと向かい合ったまま、思い出して微動だにしなかったのでしょう。
そう思うと、腑抜けた顔をしてしまっていたのでは、と不安に襲われます。
「少しびっくりしました、急に黙り込むもんですから…」
「あ、あの、ヤタガラスからの命を反芻してました!」
「熱心ですね」
冷め切った珈琲を端に退けて、盆に乗せる貴方。
きっと、もう飲まないと判断したのでしょう。
「どういった命ですか?」
「一部の面子のみで…申し訳ありませんが」
「俺には云えないんですね」
「…はい」
「そういう真面目な所、好きですよ」
す き
ばくばくと、胸が張り裂けそうになるのです。
その言葉に貴方が重みを持たせた意思は無くとも、私の脳は勝手に繋ぐのです。
「功刀さんっ、あの、やはり上の階、貸して頂きたいセオリーです!」
がた、と立ち上がり、逃げるように事務所の扉へと足を運ぶ私。
逃げなければ、頬が熱くて、発火しそうな心地だったのです。
「勿論ですよ、帝都に居る間は休憩所にしちゃって下さい」
私を、微笑みまではいかずとも、優しい視線で追ってくれる貴方。
「廊下から暗いですから、階段気をつけて」
「はい!気をつけます」
「あと、これ」
下から振った腕、功刀さんの指先から光る何かが放られて…
それをぱしりと受け取れば、冷たい硬質な感触。
確認しなくても察します、鍵です。
十四代目ライドウの部屋の鍵。
「どうぞ、御自由に」
功刀さんの声が、抑揚も無く私を押しました。
それに微笑み返すべきか、悲壮を感じるべきか、戸惑うままに事務所を後にしました…
「先輩…っ!」
あの日、暮れる陽の中…ヤタガラスの里。
「ようやくおいでなすったか、ゲイリン」
黒い装束が割れ、板間への道が開かれます。
開けたそこには、黒い布がかけられた…
「せ、先輩」
「気持ちの良いものとは云えぬぞ」
傍の装束の声に、指は止まりませんでした。
だって、明らかにおかしかったのです。浮き出る布の凹凸が…
「う―――」
払い除けた布の裏面は、濁った錆び色。乾ききった血で、妙なドレープを描きます。
先輩の身体は、両脚も無く、右腕の肘から先も…失せておりました。
その、まるで打ち棄てられた人形の様な姿に、涙より先に…狂おしい、吐き気が。
「っは…」
「大丈夫かい、凪ちゃん」
私の震えたままの手に、一回り大きな男性の手。
視線の端に、スーツ姿の…鳴海探偵社の所長が。
「見た時にはこうだった…すまない」
「ど、どうして」
「それが…」
そこまで云うと、口篭る所長。戸惑う私の問い詰めが発されるその前に
「人修羅じゃ」
背後の黒装束が、鋭く唱えたのです。
「な、何を」
「ほれ、尋問されてきおったに」
はっ、と間口の方を見れば…夕焼けの焔に包まれた、人修羅…
血汚れの着物袴で、翁達に連れられつらつらと、此方に向かって来ていたのです。
その血は、受けた尋問のものなのか…それとも…先輩の…
「功刀さん!」
声をかければ、貴方は魂の抜けた…それこそ人形の様に、ぼんやりと私を見ました。
あの金色の輝きは、ただ仄暗く霞んでいて…
「これゲイリン、この主人殺しに恩情を持つでない」
「こやつ、殺した主人の屍骸を運んで来たのだからの」
功刀さんがライドウ先輩を?まさか、嘘、嘘です。
「そんな…!きっと勘違いです、人修羅は主人を失って…呆然としてしまっているだけです!」
立ち上がり、功刀さんを囲むお上殿に進言しました。
「俺が殺した」
と、その緊張する水面に一滴。
人修羅の貴方が、かすれた声で投じたのです。
「似た様な…ものですから」
続くその言葉から、直接手にかけたのでは無い、と読み取れましたが。
それでも、この状況でそんな云い方…おかしい、貴方は混乱しています。
「矢代君、滅茶苦茶云うなよ…俺が見た時、ずっとライドウを抱き締めてたじゃないか」
先輩の身体に黒布を掛け直しつつ、鳴海所長が語ります。
「それに、こいつの顔、俺が見た事無いくらい…穏やかだ」
そうなのです。先輩の身体の凄まじさとは裏腹に…その死に顔はとても…
『いずれにせよ、新たな守護者を探す必要があるな』
するり、とお上殿の影を縫って出てきたゴウト童子。
とてとて先輩の顔に近付いて、フン、とひとつ啼きました。
『贋物を置きおったか…確かに、大人しく閉じ込められ続けるお主では無いと、違和感はあったがな』
ゆらりと黒い尾で、先輩の白い頬をひと撫でし、ミャウと鳴いてます。
『…ライドウより、己を吐露しおったか…馬鹿め』
その童子の口調に、決して嘲りだけでないと感じ…私の心が軋みます。
ああ、先輩は…きっと…本当の心のままに、死を迎えたのでしょう。
童子は、短い爪先を板に引っ掛け、とてとてと帰って往きました…
「さて、人修羅の処分は如何に?」
と、お上殿達の声が、山に帰り往く烏の様に方々から。
「十四代目を喰い殺しただけの魔的な引力…味方になれば強いものの、危ういな」
「諸刃の剣を扱えるは、そこの死体だけだったろうに」
口々に、まるで私達を嗤う様なその物言い。
ライドウ先輩の顔を見つめたままの鳴海所長は、微動だにしませんでしたが…
人間誰しもが発する気が、滲んでました。それは、怒気の色をしていました。
「しかしのぅ…まさか狐が逝くとは思わなんだ、負け知らずの化け物がの」
「まだまだ肉も若かったのに、惜しい事」
「遺品は役立つ、この男、かなり蓄え込んでおった様じゃ」
一方…両手を符紐で繋がれたまま、功刀さんは眼を瞑る…とても静かで、所長とは間逆。
そのまま処分を下されようがお構いなし、といったその風に…私が冷や汗を流していました。
「おい、やれ、欠損してはいるが、顔は綺麗なままじゃて」
「ふっふふ、紺を屍姦したいと云ってた奴がおろう?腐る前にしたらどうだ?」
「孔も残ってる」
その、あまりな会話。
私は震えて声も出ず、鳴海所長が口を開こうとしたその瞬間―――
紐が踊り、焔が虚空に渦巻きました。
そんな貴方の姿を初めて見たのでしょう、鳴海所長は、開いたままの口。
私はと云えば、動けずに…
焔を操る人修羅を、ただ呆然と見て、直立不動でした。
「触るな」
光る斑紋、突き出る項の黒き角。
逆光に煌く、虞を纏う金色の双眸。
「そいつに触るなあああっ!!」
両腕に点した焔が、鳳凰の翼の様に、貴方の着物袖を燃やしても。
千切れた紐を掻き切って、踏み出した先に横たわる先輩を…
「おい!取り押さえぬか十八代目ゲイリン!!」
烏の命令すら遠くに感じました。
抱き締めたまま、先輩を燃き尽くす煉獄の焔。
人修羅の腕の中で、骨身になって往くその姿を…
誰にも止められる筈は、無かったのです。
蘇る、焔に抱かれ逝く安堵の表情。
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