その白磁の指先が痙攣するまで。
壊死せぬ様に、しかし喰い込む様に。
縄目の隙間から覗く不自由な肢体は、ほんのりと茜の色で。
ゆっくりと此方に向けられる視線の心地良さよ。
しどけない、それでいてがっちりと編まれる様式美。
伸ばせぬ翅、吊るされる艶姿に、麝香揚羽の影を重ねる。
蠱惑的な闇の眼が己を貫くその瞬間、真に縛されたるは己なのだ―――


蛇縄麻


「十四代目!ねえねえ、まだお帰りには早いでしょう」

弾む声音、実に少年らしいボーイソプラノ。
あのライドウの外套に、肩が触れんばかりに寄り添っては語りかける。
『あやつは此処で唯一の童だ、遊び相手も居らぬ所為か、妙に十四代目に懐いておる』
「あんな非道野郎にですか」
『ライドウは人間の幼子には攻撃せぬからな』
「へえ、それじゃ俺も小さくなればもっとマシな扱い受けれますかね」
距離を数歩分遅れて追従する、俺とゴウト。
空の陽は遠く、薄い雲が天井を覆う様な、冷めざめとした空気。
時折すれ違う黒装束や、行商の人間が俺をジロジロと見る。
どうせライドウの使役悪魔だと此処ではバレているのだが、人修羅の姿を晒す程、俺もこの里に良い感情を抱いていない。
それでも衿の抜きから黒い突起が伸びていないか不安になって、歩きながら項を撫でる。
『視えておらぬ、安心せい』
なかなか目敏いゴウトからの御言葉。
「そうですか」
『お主も擬態ばかり上達しおって…延々とヒトに紛れるつもりなのか』
「ゴウトさんもヒトに魂入れた際、畜生の癖、抜けてると良いですね」
俺の捌く袴の衣擦れに掻き消されたが、しっかり黒猫はフーッ、と威嚇の溜息を吐いていた。
(とりあえず、今回は変な事されずに済みそうだ)
三本松に報告して、必要物資の調達をして…眼の前の子供と少し接して、終わり…だろ?そうだと云ってくれ。
ヤタガラスの里には、出来るだけ居たくない。
ライドウの気配が、MAGが…少しだけざわついている、そんな気がするからだ。
この里に滞在する事態、俺にとって良い事なんかひとつも無い。
「ゴウトさん、今回俺が来る必要あったんですか?」
『さて…それは十四代目に訊いてくれ。我は知らぬ』
「だって、俺此処に来てからライドウの煙草の火ぃ点けただけなんですけど」
ライター代わりか?いや、まさか。
前方のライドウを見れば、少年に向けるその横顔の…まあ、何というか。
優しい顔では無いが、刺す様なあの冷たい哂いでは無い。

「それでですね、如何して仲魔になってくれないの?と訊いたらそのイナバシロウサギったら」
「オオクニヌシを連れて来い、とでも云ったかい」
「そうなんです!流石は十四代目!まあ、結局は物で釣りました…持ってた軟膏油を適当にお裾分けして」
「“水門の蒲”…そのウサギは歓んだのかい?」
「オオクニヌシの代わりには成れませんでしたが、ボクの持ってるの、結構理想の薬に近かったらしいのでなんとか」
「フフ…その薬とて“蒲黄”なのか“ガマの油”なのか、定かで無い伝承だ、最終的には適当に云い包めれば良いのさ、交渉なぞ」
「そんな、十四代目程の造詣も無いこのボクに、出来る訳無いです…仲魔に出来ても所詮一候補の身…自分で管理してはなりませんし」
「ほら…君の生家に蟲なら居るだろう?まるで昆虫採集でも出来る程に。一声掛けて、こそりと分けて貰えばどうだい?クク」
「ぼ、ボクは自分の悪魔は自分で選びます!だって、あいつら…気味悪いでは無いですか」
「君は嫌いなのかい、御上様を否定する?フフ…」
「…血は嗜好まで遺伝しないでしょう?よく…解らないです」

(さっきから何話してんだか…)
イヤに饒舌なライドウの後姿を、ただついて行く。左右の畦道に赤が拡がって来た。
毒々しいまでの色彩が、居住区から離れるにつれて鮮明になっていく。
まるで焔の様に、秋風に戦ぐ彼岸の華。
少年に強請られて、結局足を運ぶなんざ…あんたも何だかんだで、子供相手にはマトモなのか。

「それにしても帝都での御活躍、此処にもすぐに話が入ってくるのです、凄いです」
「御上衆の零す文句では無く?褒められた記憶は薄いがね」
「ボクは結果を聞くだけで、周囲の嫉みや卑屈な言葉は呑みません、十四代目の成果を呑むだけです」
「さてその帝都だが、そろそろ大學芋の季節だねえ」
「嗚呼、ボクは帝都の三河屋の大學芋が大好きなのです」
「相変わらずこの里は甘味のひとつも置いて無いのかい、食に関して実に殺風景だろう」
「それなので、ボクは十四代目の手土産の大學芋が本当に、それはもう切実に愉しみで」
「ロンゴ・マ・タネにでも祈りを捧げたらどうだい、里の空き地に畑でも設けて、己で栽培したら如何」
「ロンゴ・マ・タネ?」
「サツマイモの神さ」
「………ま、まぁた十四代目!ボクをはめてらっしゃいますね?」

その会話、俺まで気になり、思わず傍をトテトテと歩くゴウトに視線を落とす。
『何だその怪訝な顔は…云っておくが、実在するぞ…新西蘭のマオリ族に伝わる神だ』
「はぁ?本当ですか?いくら八百万とか付喪神つったって……イモかよ」
それなら、俺は今までどれだけの神を包丁で両断してきたんだよ。実戦で潰した神の数より多いだろう。
眼の前の男も、ああやって哂って話すものだから性質が悪い。
冗談な気もすれば、その一方でライドウの知識なら…と信じてもしまいそうな。
嘘も真実の様に語れるあの唇が、いつもいつも、自信を纏って吊り上るのを俺は知っている。
『…随分、里のはずれまで来たな』
ゴウトの呟きに、俺も今更周囲を確認した。
一面、見渡す限りの赤。少し眼に痛い…直立不動の曼珠沙華。囲む樹々が薄い木漏れ陽をちらつかせる。
「良い処と思いませんか、彼岸花だってこんなに咲き乱れてるんですよ!」
そこで少年の声が、ライドウに同意を求める。
上品な墨染めの柄の着物を揺らして、何かを掴んで。
「此れ、誰が設置したのでしょうか、ボクが此処を見付けた時には既に在ったのです」
きい、きい、と乾いた音。麻縄を結った紐に触れている、青少年の指。
ヤタガラスの里には不似合いな…
(ブランコ?)
高い枝から下がるその縄が、新しくは無いと感じさせる板を結び付けている。
最近設置された風には見えない。座る箇所が、やや磨耗している。
「十四代目…?」
ふと見れば、少年が不安げな瞳でライドウを見上げていた。
打てば反響するいつものライドウと違って、すぐに音が返らないからだろう。
「…よく、見付けたねえ」
ややあってから、そのブランコの紐に、己も細い指を掛けつつ発したライドウ。
その指先からの振動が、紐を伝って枝葉を微かに揺らす。
降る葉にまばたきして、少年が貌を明るくした。
「これ、遊具ですよね?里には無いので確信出来なくて…試してないのです」
「そうさ、此処に乗って…脚で宙を掻いて泳ぐのだよ、そういう遊具」
「でも、吊られる板が高くはないですか?踏み台も無いし…ボクの身長では少し…」
「周囲を注意して見て御覧、其処の樹に洞が有るだろう」
紐を揺らすライドウの指が、す、と近くの樹の幹を指した。
「紐を掴んだまま板を引き寄せ、その洞に足先を引っ掛けてみ給え」
「わ、本当で御座いますね!きっと楽に乗れます」
笑顔になる少年、短く揃えた襟足の項が、足先を掛ける動きで曝される。
その姿を見ながら俺は、どうしてそんな事がすぐに分かるのか、ライドウに疑問を抱く。
まるで、同じ悩みを一度でも抱いたかの様な着眼点。
「こう…腰掛けるのでしょうか」
いまいちイメージが出来ないらしい少年が、傍のライドウに訊ねる。
「そうさ」
それだけ答えて、樹の幹に背を預けるライドウ。学帽の下から覗く眼は、少年というよりはブランコに向いている。
樹の洞から片足を外し、体重を板に乗せる少年が、ぐらぐらと不規則に宙を踊る。
「わ、ちょっと、お尻が乗る前に落ちそうです、っ」
「しっかりと紐を握れば落ち様も無いだろう?正午、しっかり握り給え」
失笑するライドウ、名前らしきものを呼んで、しかし手を貸そうとはしない。
『やれやれ、言葉で云えば誰もが出来ると思っているのかあやつ』
横でゴウトがフゥ、と溜息したが、肝心のゴウトが赤い絨毯の中に埋もれて、俺の視点からは見えない。
ほぼ同意の俺は、相槌しようと赤い隙間に居る筈の黒猫を捜していた、と――

ぶつり

まるで太い血管が千切れた時に近い音。
ぞくりとして、着物袖の中の腕を探る。でも、俺の体内からでは無い。
体外。あっちの、ブランコの方角からだった。
赤い絨毯から視線を上げ、ぎしぎしと漕ぐ音が聞こえる方へ。
(何が起こった)
それは、俺の知っているブランコの漕ぎ音とはかけ離れていた。
「ぅ、っグ」
枝から下がる縄が、ぶらりと宙に吊る。幼い頃に見たサーカスの空中ブランコみたく、身体ひとつで。
呻く少年の首に喰い込む縄が、もがく身体を更に揺らす。
『ライドウ!』
ゴウトの怒鳴りで、俺も思わずライドウに視線を送る。
棒立ちの俺が云えた事では無いが、ライドウはあまりにも意外な反応をしていた。

すぐさま刀でも抜いて、垂れた片方の首吊り紐を斬るかと思ったのに。
そんな非常事態、いつもなら一刀両断の癖に。
どうして、真っ直ぐにその宙吊りを見ているんだ、あんた。

『切り離せライドウよ!窒息するぞ!』
駆け寄ってライドウの脚でも引っ掻いたか、ゴウトの声の直後、ライドウが外套を翻す。
抜き放った刀身が木漏れ日を反射して、少年の首に絡まる紐を真横に遮断した。
その太刀筋には迷いも無く、いつも通りの鋭利な残影を残して。
「うっ!」
どさりと落ちた少年、どうやら曼珠沙華の絨毯は大したクッション性も無いみたいで、鈍い音が響く。
「げほっ……っは、はぁ、はぁ、けほ、けほっ」
酸素を貪り、咽る、涙眼で胸元を押さえている。
しゃがんで、その背中をさするライドウ…が、大事に至らなかった事が確認出来たからだろうか、すぐに立ち上がる。
パールヴァティを召喚して、平然と現場検証を始めていた。
『妙な負荷が掛かった箇所が幾つかありますのね、少し匂いますわ…』
「紐が切れたのかい」
『摩擦の時の、焦げ付く匂いと…油の臭い』
「へぇ…油、ねえ」
ざくざく、と俺も掻き分けて、その付近に歩み寄る。さざめく赤い波が、袴越しとはいえくすぐったい。
『まあ、人修羅様、袴姿もよく似合ってますわ、ふふ』
女神が俺に気付いて微笑みかけてきたが、一瞥くれた後は無視する事にした。
「単に老朽化してたんじゃないのか…ってかあんた、しっかり看てやれよ、薄情者」
俺はライドウに吐き捨てて、未だ蹲る少年を少しだけ屈んで覗き込む。
どこかあどけない眼、この里に居る割には澄んでいた。
「…あの、立てます?」
「お気遣いは、無用に御座います」
ぴしゃり。
続いて、す、と掌で拒絶された。ゆっくり立ち上がり、土埃と潰した赤い紗を払い落とす少年。
俺が…ライドウの使役悪魔でなければ、差し出そうとした手を取ってくれたのだろうか。
(悪魔の癖に、管にも入らずに隣に…とか、そういう事か?)
余計な事を考えてしまって、居た堪れなくなって、俺もすぐさま手を引っ込めた。
『何処も痛くしておらぬか?正午』
ゴウトが曼珠沙華の中から呼びかけてくる。眼を凝らさないと見えない、隙間の黒。
「はい、童子…ごめんなさい、ボク、迷惑を」
『構わぬ…怪我も無い様子なら、それで良い』
やや溜息のゴウトに、喜びというよりは厄介事を回避出来た時の安堵が滲んでいる。
この黒猫、長年畜生の姿で居る所為なのか、自分だけでも危険回避しようとするきらいがある。
『では殿方の皆様、そろそろお暇致しますわ、うふふ』
微かにMAGの発散を感じて振り返れば、パールヴァティを管に還したライドウが云い放つ。
「打った箇所が後から痛むかもしれぬだろう、正午」
「は、はい!」
「今日はもう帰って、横になっておいで」
「で、でもこの程度の打ち身で嘆く程、ヤワでは」
「帝都に帰るのは明日に延ばそう…それまでには、この遊具も直しておいてあげる」
それを云われた瞬間、弾いていた水をいきなり呑み始めた植物の様に、瑞々しく笑う少年。
ライドウとまだ少し長く居れる事実…そして、遊び場をそのライドウが繕ってくれるというのだ…
懐いていれば、嬉しい事この上無いだろう。
「ち、今日帰れないのかよ…」
大人気無く吐いた俺の呟きが、思ったより大きく響いた。
銀楼閣が俺の家という訳でも無いが、此処よりマシなんだ。鳴海所長だって、デリカシーが無いだけだ。
『お主は相変わらず空気を濁すのが得意だな』
俺の靴の先まで擦り寄って、ふふん、と黒猫が髭を得意げに揺らす。
云う・云わない、の差なだけであって、ゴウト童子…あんただってそうだろう。
ライドウが、この里に居る期間を延ばすだなんて…きっと何か腹に抱えているに決まってる。
片方の紐だけでゆらゆら揺れる座席の板。それと一緒の間隔で尻尾を振るゴウトを見て、俺は妙に苛々していた。



「あの子供、どうしてあんたなんかに懐いてるんだ、理解不能だ」
上から吊るされるぺンダントライト。その飴色のガラス細工が、壁や障子に鼈甲色の影を落とす。
このあまり広いとは云えない部屋で、今夜は待機の様子。
窓を見れば、西日が入る造りではないか。きつい夕刻の日が降り注ぐ所為か、敷かれた薄い織物も一部色褪せていた。
「外の話をしてくれるのが、僕しか居らぬからだろう」
「へえ……“変な事吹き込んでくれるな”って怒られないのか?此処の…その、カラスに」
「フフ、あまりに俗っぽい事は話さぬよ、本当にどうでも良い事しか云わぬ…老い耄れ烏が見向きもせぬ程度のね」
古びた背の低い机の上に、灰盆を置いて煙管を噴かすライドウ。床に直接膝を立てて、すぅ、と煙を窓に吐く。
「なあ、此処、誰か使ってる部屋?」
「僕が候補生の頃に過ごした庵だが」
「候補生…」
「ライドウの十四代目を競い合った数年だったが……クク、今思えば下らぬ修練に明け暮れたものだよ」
月の光さえ遮る闇、この里は山間に在るからか、外がとても暗い。
こんな夜中になれば、それこそ闇一色。
「あの子も、候補生なのか?」
敷物の柄を、無意味に指先で撫ぞりつつ、ぼんやりと疑問を発した俺。
腰を下ろしたまま、曲げた膝に顎を乗せて、するすると模様を辿る。
「そうだねえ、この里には若いのがアレしか居らぬ」
「十五代目…って事なのか」
「他に彼より強いのが出なければね、それに…」
窓の外、月光が照らす雲間かと思ったが、ライドウの吐いた毒霧だった。
「アレが理想と現実の落差に耐え切れる事が出来れば、の話さ」
その声音に、どこか哂いが滲んでいる。
「あんたは理想持ってライドウに成ったのか」
先刻から俺が撫ぞる模様は、まるでマガタマみたいで、胎がぞわぞわする。
「別に、理想なんて無いさ…ただ頂点に立つ為に必要な立ち位置というだけ。縛りを解くためのね」
かつん、と落とされた灰が、少しの間の後に崩れ散る。
俺が灰にした悪魔達が脳裏に過ぎってしまい、ライドウの手元を見るのは止めた。
「フフ…まあ、理想の世界なら、在るがね」
強い眼を感じ、外した視線を結局引き寄せられる。
「でも、この世界にはカグツチは無いだろ」
「そうさ、謁見し、打ち勝ち、祈れば創世出来る…という訳では無い」
「いくらデビルサマナーったって、あんただって人間でしか無いじゃないかよ…稀に疑いたくなるけどな」
「別に世界を殺して、改めて創世までする必要も無い」
学帽をきっちりと被り直して、闇色の濃い眼を、俺から逸らしたライドウ。
「勿論、悪魔に転生する必要も無いねえ?」
ニヤ、と哂ったその横顔に、沸々と苛々が込み上げる。
「おい、今ゴウトさん何処だよ」
「付き合いの長い衆で集って、夜通し酌み交わしているよ。童子は呑めぬが」
「あっそうですか!てっきりその帽子の上かと思った」
「猫の手を借りる程、挑発が不得手な筈も無いだろう?クク、この僕が」
「…チッ、この…」
いきり立つ俺をよそに、立ち上がり外套を纏うライドウ。
「おい、そういうあんたまでどっか行くのかよ」
まともに挑発を喰らった俺は、立ち去られては怒りをぶつける先が無い。
ライドウが、あの少年に発する揶揄いと違って、俺に発する言葉には嫌味が雑じる。
どういう違いがそこにあるんだよ。
「月夜の散歩にね」
「俺の寝る場所は…」
「その敷物の上に寝転がって居れば充分だろう?リャナンシーがくれた上質なペイズリー柄だよ」
「布団とか無いのかよ」
「この庵はもう休憩にしか使わぬ、置いて無い」
項がビリビリしてきた。いっそ熱に身を任せ、ツノでも生やしてやりたくなったが…
俺が怒ったところで、この男にはそよ風みたいなものだ。
「寝ぼけて燃してくれるなよ?ではね」
普段の装備になったライドウが、軒先からヒールローファーを履く。
こんな真夜中にただの散歩なんて、わざわざこの里でしないだろ。俺相手だからといってこの男、適当過ぎやしないか。
「此処に…里に縛られたままで悪魔召喚皇とか、笑わせんじゃねえよ」
少し荒れた庭先を往く黒い背が、一瞬止まる。
俺の、生唾を呑む音が聞こえる。怖いなら…不安なら、口に出すなよ、と自分で思う。
ライドウの、首から上で振り向いた横顔が、暗い其処からでもシルエットで見える。
「緊縛はね、功刀君」
吊り上がる口の端まで、見えるようで。
「解ける様に仕組まれているのだよ」
銃弾でも飛んでくるかも、と身構えていたが、流石に妙な音を外で響かせるのは避けたいらしい。
暗闇に消えたヤツを確認して俺は、はぁ、と安堵の息を漏らした。
先刻までライドウが肘着いていた机に、前のめって突っ伏す。冷たい。
(何処に行くんだ)
あの少年に会いに?まさか、こんな夜更けに。
ゴウトの所?いいや、カラスと酌み交わすなんざ、あの男がしたがる訳無い。
そんな…明るい方角に歩いていかない、そんな背中だった、見送ったそれは。
(あのブランコか?)
紐を直すなら手元の見える日中に作業するだろ、やっぱり違う…?
薄く幾重にも傷が刻まれた机の面に、頬を寄せる。
仄暗く光るライトが天井を照らせば、あまり高くない事が判る。
閉塞的な空間、遊びの無い部屋。
リャナンシーに貰ったとか云ってた敷物だけが、少しの彩を添えていた。
「貢物の上でのうのうと寝れるかってんだよ畜生が」
それでさえ色褪せ、擦れてしまっている。
(あの、ショウゴとか云う子みたいに、誰かに懐いていたんだろうか)
机の脚に連なる引き出しに、ぼんやりと指を落とす。
(あんな風に、快活に笑っていたのだろうか)
脳内のどこかで、そんな事…ある筈無い…と、考えている。
だって…想像、出来ない。
俺は、見た事無い。
する、と開けた引き出しを、少し覗き込む。妙に心臓が躍っていた。
大事な悪魔の管でも有るのか、いつか聞いたチョウケシンの標本でもあるのか…
「………」

何も無かった、空っぽだった。

見なかった事にすべく、叩き付ける様に引き出しを戻す。
突っ伏していた机上を突き放して、軒先から出て駆ける。MAGの軌道が消える前に。
周囲に気配が無いのを確認して、完全に悪魔の姿に。
契約に縛られた指先まで、光る斑紋は主を感じ取ろうとする。冷たい夜風に流れてしまう、その前に。
きっと、闇の中でぽっかりと浮かんでいるこの眼。猫のそれみたく瞳孔が影を捉え、伸縮するのだろう。
擬態して抑えている時よりも、遥かに視える。
如何して、あの男はこんな真っ暗闇を歩めるのか。慣れた路だから?
(何処行った、ライドウ)
畦道を辿るが、ブランコとは違う方向な気がする。山の影の間から、建造物の影が見え隠れしている。
「あ…」
極僅かなMAGが、此処で途切れた。
眼の前に建物の入口が有る、施錠されていたなら…大人しく帰って、あのペイズリーの上でうなされつつ寝よう。
沢山のマガタマに埋もれる夢でも見そうで、考えただけでぞわりと悪寒する。
(え、普通に開きやがった……不用心…)
ぐ、と扉を押せば動いた。閂は外れている。
集会の会堂とも違う様な…住居なのか…?門を過ぎても、更に入口までの空間が有る。多分、立派な屋敷。
(ヤタガラスの、御上の家…とか)
それしか考えられないのに、更に侵入してしまう。
もう一枚の扉を横に開き、屋内に入った瞬間感じる。複数のMAG。
ぞぞ、と斑紋に熱が奔って、悪魔の本能が警告する。知らないMAGを感じたなら、構えろ、と。
強張った脚で少し前に進めば、段差が有る。
視線を降ろせば、見慣れた靴が綺麗に爪先を揃えて置かれている。高慢なヒールのそれ。
(やっぱり、居るのか)
不法侵入なのに、俺も靴を脱いでいる。日本人だし、どうしても家屋の土足は慣れない。
長い廊下…左右に襖が連なる。ひたひたと歩めば、少しだけ灯りが零れる襖が有った。
息を殺して近付く、淡く隙間から零れる灯り…それでさえ、ほんの僅かだ。
そうっと、眼を細めて凝らし、覗く……

『一寸お兄さん、まぁだ着替え終わっとらん子達が居るんですぇ?こん、すけべぇ』

間近からの声に、咄嗟に背後に飛び退く。項の突起が襖に擦れたが、そんな痛みはどうでもいい。
『あぁ、もしかして十四代目のお連れ様?』
少し掠れた声が、妙な色香を漂わせる。この襖の向こうで何が起こっているのか、怖い。
閉まるままの襖に向かって、問い掛けた。
「……ライドウ、やっぱり居るんですか、此処に」
『はあはあ、何、通りたいんで?うふふ、もしかしてぇ、噂の人修羅だったりするん?』
「そんな噂、どうだっていいです。通してくれるんですか?」
『旦那様は“通すな”だなんて…そんな命令して無ぅござんすがねぇ…通りたきゃあ通っておくんなし』
ふふ、と笑う声は、複数聞こえる。悪魔だという事は判る、MAGの震える性質に違いを感じるから。
手を掛けた隙間から感じるそれは、少しケバいMAGな気がする。
(女性の悪魔か…まじまじと見なければ良いだけの話だろ…着替えも何も、半裸の悪魔ばかりだし)
胎に力を込めて、襖を開け放った。
光る双眸が複数、俺に注がれる視線。だが、位置がどれも低い。
『あんれ、可愛い子!』
踏み入れた俺の脚に、すり、と頭を寄せてくる。長い黒髪が袴に纏わり付く感触。
床を這っている悪魔…
「離れて下さいっ」
女性の顔を蹴り飛ばす自分を見たくないので、言葉だけはまだ控えめに拒絶する。
すると、反対側からも、ずりずりという音と共に。
『通るんは勝手ですけんどぉ…あちき等、戯れは好きでありんすよ坊』
にしゃあ、と笑うその顔は、どこか歪んでいる。
その苦痛の入り混じる表情に、違和感を覚えて視線を下ろした。
「っ、ひ!?」
腰までは裸身の女性なのだが、そこから下は芋虫の形。蠢く床に、ぬらぬらと粘液が光っている。
先刻の俺と矛盾して、咄嗟にその蟲を蹴り飛ばす。
『はぁンッ!!』
転がりのたうつと思いきや、何故か快感めいた悦の悲鳴。
うつ伏せにヒクヒクとしている姿を、俺は嫌悪で見つめる。
その背に回された腕から伸びる縄…あれに引き止められ、あまり飛ばなかったのか。
『ねぇお兄さん、お嫌いですかぁ』
『この縛りは蛹でありんすぇ、ふふふ、ぁひひ』
五、六匹は居るのか、蹴っても蹴っても這いずり寄ってくる。
『綺麗な蝶に生るにぁ、こん甘ぁい苦痛に縛られて冬ぅ過ごすんでござんす』
「そんな、っ、聞いた事無い!」
オキクムシが進化するなんて、俺は知らない。
そもそも、縛られて責められて、どうして昇華するというのだ。馬鹿馬鹿しい。
「貴方達のサマナーがそう云ってるなら、それは嘘八百だ!」
繋がれるその縄を薄暗い中に見定め、指先に焔を点す。
ピン、と張ったその縄から、MAGが伝い流れるのを感じた。それを遮断すべく、俺は燃す。
薙ぎ払う様にして火を放てば、その瞬間に部屋が明るく照らされる。
蠢く蟲の胎、女性の乱れた黒髪、涎を垂らして愉悦に浸る貌。一気にそれ等が露になる。
「う…っ」
思わず逸らした視線の先、太い木の幹をそのまま活かした柱が見えた。
大黒柱というものか?その立派な支えの表面が、酷く歪な風に見えるのは俺の錯覚か?
いや…錯覚じゃない。
びっしりと、小さな何かが表面を蔽い尽くしている。
俺の肌が戦慄き、眼の奥が熱を孕んだ。
「っ、き、もちわる、い!!」
『春にぁ着替え終わるんでありんすぇ』
種類までは判らない、でも、蝶の蛹だという事は判る。教科書のより、はるかにエグい外見だったが。
燃える縄が照らしだす、大量の蛹は薄い黄色。硬質さは微塵も無く、少しの振動で剥がれ落ちてきそうな。
よく写真で見るのが八ッ橋なら、こいつ等は生八ッ橋。薄っすらと中身の餡が見えている…
『旦那様がぁ、縛った風に見えるからジャコウアゲハが好きで好きで』
『でもなぁ、餌ぁ少ないんで共食い始めるからに、あれでも減ったんよぉ?』
『あちき等もそういや苛々して喰い合いしたっけぇ』
『虫のいい話やねぇ』
『あっははははぁ使い方違ぅとりますえ〜』
けらけら笑うオキクムシ達。しかし俺が蹴り飛ばす必要も無いくらい、笑いと裏腹に項垂れ始めた。
身体を束縛する縄が燃され、MAGが遮断された事が大きいのか…その眼はとろんとしている。
『ほんに、けったいやねぇ…折角の愛の縄がぁ』
『自由な身体程息苦しいもんは無いですわぁ…翅伸ばせんかて、別にええですわぁ…』
へらりと呟くオキクムシ、その芋虫の胴体を踏まない様にして、奥に進む。
『そん身体の紋様、坊、いいなぁいいなぁ、縄なんてぇ無くっても縛られとるみたいでござんすぇ…ふふふ……あひいぃッ!!』
「俺の身体の事、触れないでくれますか」
斑紋の事を口にした一匹の胎を思い切り蹴れば、そいつは自由な筈の腕すら動かさずに仰け反った後、びたん、と床に崩れ落ちていく。
気持ち悪い……いくら人型とはいえ、それは上半身だけだ……
そう、こいつ等は悪魔、悪魔だ。
『人修羅の坊やぁ、甘いなぁ、顔蹴ったってやりゃあ良いんに』
『ほんに、蹴ったいやねぇ…』
『あっは、あは!まぁた使い方違ぅとりますえ〜』
もう、付き合ってられるか。この蠢くドM共。
溜息を吐き捨てて、縄が続いていた奥へと歩みを速める。
蹴った爪先の、ぶにょりとした感触が吐き気を催していた。早く、慣れたMAGを啜りたい。
燃え千切れた縄を辿る俺は、身体が熱い、まるで導火線の火の様に駆ける。

何処に居る…葛葉ライドウ…
俺と契約したデビルサマナー…
俺を…縛る男…!





「まさか、自ら赴いてくれるなんて…いや、感動してしまったから、指先が巧く動いてくれなかったかもしれん」
僕の耳元まで唇を寄せて、内緒話の様に囁いてくる。
ヤタガラスの御上、それでもまだ若い方だ。顔に皺は少なく、黒い装束に身を包んでいる。
薄暗い中、縛り上げる肢体だけが鮮明に浮かび上がる様に、自身は融け込む黒を纏うのが信条だとか…
まあ、云いたい事は解らないでも無いが。
「学生服の上から、堪らんなぁ、その、弓月の君…だったか」
「はい、高等師範学校に御座います」
「帝都でも優秀な書生の纏うそれの、その布地の上から……はぁ、っ」
既に悦に浸りきっているのか、手前の部屋の蟲達を縛り上げる割には、本人が被虐性欲を持ち合わせている。
見下ろせば、薄く膨れた下肢の一部。流石カラスのお偉方、三本目の脚はいつまでも元気で何より。
「嗚呼、梁を高く造っておいて正解だった…紺、今のお前の上背、低い天井では吊るし難いでなぁ」
「御上様、自分は既に名を棄てております故」
「あぁ、十四代目ライドウだったなあそうだなあ、んん…」
梁から吊るされる僕の四肢を、雁字搦めに縛り上げる縄。
戦う際に汚れや裂傷が生じるとはいえ、学生服の替えをこんな理由で増やすのも如何なものか。脳内で失笑する。
「初めて縛ったのは、お前の初物を散らした時だったかなあ…わたしは、その躯に侵入はしなかったが」
縄の隙間、圧力から逃れんとする肉体。関節に近い程、服の皺が深く影を落とす。
「あの時から虜になり、色々縛り上げてきたが…どれもお前程の美しさは無かった」
「…フフ…自分が纏うのはただの肉衣…骨も人間の骨格…他の者を縛るのと、何の違いが御座いましょう」
「違う、全く違う、ほぅら、此方を見ろ…ほらほら、紺……嗚呼、更に綺麗な顔になって」
「自分はライドウに御座います」
昔に還って、勝手にはしゃいでいるのか、幸せな頭だ。
そろそろと、背中に回され括られた手を握られる。袖口から、乾いた指が少し入り込んでくる。
「刃物は忍ばせてない様だな」
「縛る前に確認されたでしょう」
「縛った後になって、袖口まで落としこんだのは何処の誰だ」
「さて、記憶に御座いませぬ」
「そのなぁ…緊縛されているというに溢るる高慢さが良いのだ、人間も悪魔も、綺麗に縛ると蕩けていけない」
装束の頭巾の影から、悦びにしなる口が見えた。薄く見える眼の色が、僕の眼を見上げてうっとり呟く。
「他は勘違いしとるなぁ…捕虜の姫さんや孕んだ妊婦を責めたって、そんなん何が良いのだろうかなあ…?か弱い女子供よりも、もっと妖艶に薫るんを、知ってるぞ…わたしは…ふ、ふふふ」
この男の嗜好は、少し先を往き過ぎているのかもしれない。
緊縛師の殆どは、縄目から主張される乳房や、乱れる長い黒髪、女性ならではの肉感的な画を好むこの御時世。
世に蔓延る緊縛絵とて、その様な構図が多かった。
まだ候補生であった僕を、集団で輪す為だけに縛ったその時に、この男は目覚めた様だった。
少しばかり遡り、己の身体がもう少し小さかった頃を思い出す…



他の候補の少年達が、少しふざけ合って互いに捕縄術を掛け合う中。
僕だけ、師範として縄を執るこの御上に、縛り上げられていた。
まるで、作品を自慢するかの様に、高い高い梁に吊るして、縄の掛け方を指導する。
“この、手首をあまり絞めてはいけない、末端は絞め過ぎ易い…”
冷めた眼で、指導の指先を見る僕。身体を這い回る指と縄に、熱くなる事は無い。
(冷静に捉えよ、縄の先を通す順序を記憶しろ、組まれた謎は紐解ける)
それに集中すれば、こうして晒される事の羞恥からも逃れられるのだ。
普段は標的にする癖に、こういう時ばかりはじっとり見つめてくる他の餓鬼共。
“早縄はシバブーさえあれば済む。本当にお前達に教えたいのは…拷問縄でな…ああ、いやしかし、流石に紺に試す訳にもいかんなあ”
そう云いながら、この男の眼が、訴えていた。
ようやく下ろされ、硬くなった身体を伸ばす僕に、こそりと、まるで内緒話の様に。

“紺、お前だけに、特別に、皆に教えて無い縛りを教えてあげよう”

勿論拒否は出来ない。当然、その個人的指導は、候補生への思い遣りでも何でも無い。
一定の周期で、縛り上げられる、夜毎、色んな形で。
しかし、紳士的と云えば紳士的であった。
縛り上げ、撫でるだけで、それ以上は無い。
この男にとって、緊縛したイキモノは作品であり、美なのだ。
肉を渡る縄が左右対称、シンメトリを描けばそれだけで破顔するフェティッシュな嗜好で。
拷問縄とて、この男が掛ければ絶妙で、妙な苦痛は無かった。
だが…其処に、落とし穴がある。
その、絶妙な痛みの入口をくすぐる縄の感触が、縛された者を悦ばせてしまう。
この男は、縛った作品に満足されたくないのだ。
そう…悦ばない僕が、この烏にとっては、光物に等しい存在だったのだ。


「紺…お前は私が編み出した新しい縛りも、時間さえ有れば懐柔した、どういう頭をしているのだ?」
物憂げに呟き、記憶を巻き戻していた僕を軽く揺らす御上。
少しだけ首が絞まり、それでも呼吸が困難な程には達さない。
虚しい程に、様式美を求めているのだろう、苦痛を与えたい訳では無い様子は、昔と変わらぬ。
「御上様、数術に公式が有る様に、捕縄術にも破縄術が有るのですよ」
抜け駆けさえしなければ、解ける造りになっている。
「お前はいよいよライドウを襲名し…わたしは縛る最高の素材を失ってしまったのだ」
「申し訳無く候、僕がこの里に居たのは、葛葉ライドウに成る為に御座いまする」
軽く開かされた膝頭、跪く様な形でぐるりと縄が僕を弓なりに反らせている。
この胸にホルスターも無い、縛りには邪魔になるから、と外されていた。
傍らの床に、刀とリボルバーが並んで置かれている。じっ、と持ち主の僕を見上げるかの様に。
「しかし、今宵僕が縄を頂きに来たのには、しっかりと理由が御座います、御上様」
「…縄が好い訳では無いだろう、つまりはわたしの縄を、また解く快感を得に来たのか?」
「勿論、縄解きは謎解き…解けた瞬間の快楽は美味しゅう御座いますが、それとは別件で」
僕は首を仰け反らせ、其処の縄の感触を強くする。
喰い込む表面からの痛みは無い、それは、これが普通の麻縄とは違うからである。
「以前、縛りながらに教えてくれたでしょう…バイコーンの馬油で鞣した縄だと」
「よく憶えているな、そう、バイコーンの馬油は馴染みが良い…湿り過ぎず腐らない、肌も痛めない」
「確か手製で御座いますよねぇ…こんなにも縛りに適した上質な縄、ここらの市販ではまず見ぬ逸品で」
「そうかそうか解るか…その通りだよ紺、私が作る縄しか無い、途中のオキクムシのもそうだ」
簡単に答えが出て、僕は吊られながらにして、唇が吊り上がるのを止められなかった。
クク、と絞まる喉から哂いが零れる、やはり絞め方が甘いのだ。
「如何して、何故早まったので御座いますか?」
突然の問いに、僕の脚と縄のコントラストを愉しんでいた男の指が止まった。
「…何を云い出す?」
頭巾に隠れた御上の眼が、縛りを解いた僕を見る時の眼になっていた。
既に、答え合せは出来ている。
「抜け駆けはいけませんねえ御上様…他の御上衆に何を云われる事やら、クク」
「抜け駆け?」
「縛られてないというに、何故そんなに震えておられるのですか…御上様」
ニタリと哂う僕が映り見える様だ、その怯えた双眸に。


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