「全く何をしているのやら」
冷たい声が、頭上から降りてくる。
そして、自分の呼吸が煩かった。
「はぁっ……はぁっ…」
気配が傍に降り立ったのを感じ、身構えるが脚は云う事を聞かない。
一瞬の暗転の後、青空が天井に広がる。咄嗟に上体を起こせば、削りに削られた自分の脚が見えた。
突き出た骨を見て視覚的なダメージを受け、視線を逸らした。
「アルラウネ、一寸の間、乗客を薔薇庭園へ御案内し給え」
『結構広いじゃない、それなりに養分が必要よ』
「構わぬ、僕のMAGで足りぬとは云わせない」
『んふふっ、まかせて…』
一瞬機関室の窓から人影が覗いた気がするが、深緑の荊でたちまち覆われた。
しゅるしゅると繭玉の様に機関車全体を包み込むと、その隙間に薔薇が咲き薫る。
「功刀さんっ!先輩っ!」
荊が足場を埋める寸前、上から飛び降りてきた凪。
俺を見て、ライドウを見て、最後に車両を眺めていた。
「これは…イバラのブラインドですか」
「雁字搦めに見えるが、MAGで少し弛むよ。十八代目、君は中に入り負傷者が居らぬか確認してくれるかな」
「功刀さんのお怪我は」
「僕が看る」
嘘臭い台詞を吐きながら、何かを胸元から取り出し筆記しているライドウ。
手帳の様なそこからビリ、と破り、凪に差し出す。
「先輩、これは何のナンバーで…」
「子供・老人・妊婦の居た席だ、優先して確認し給え」
「は、はいっ!」
「ハイピクシーが擬態出来るだろう?安堵感を与える印象の人間に擬態させ、看て回らせるのだ。傷のある者にはさり気無くディアをかけるのだよ、良いね」
云われると、凪のその眼は葛葉の眼になっていた。
ハイピクシーを、俺の面識の無い女性に変化させ、荊の隙間をゆっくり開いていく凪。
車両に入る直前、一瞬眼が合ったが、いたたまれずに俺から逸らした。
「さて人修羅…車両を目隠ししている間に済ませようか」
凪の目も消えたのだから、此処からまた毎度の如く躾が始まるのかと、自然に身体が強張った。
砕けた枕木を軽く俺に蹴り飛ばし、鼻で笑うライドウ。
「憎き僕を引き摺り下ろしたい一心で、君は多数の人間に迷惑を掛けたのだよ」
「……俺は」
「これならば、車掌を脅して安全に停車させた方がまだ無難だったろうにねえ…ククッ……もし重傷者でも居てみ給えよ」
胎の底が、熱い。
「まさしく悪魔ではないか、君」
強い力のマガタマを、俺の身体が拒絶し始める。
先刻までは同調していたそれが、ジクジクと俺の中で暴れ出す。
「ぅ、うぅーッ」
それまでは恩恵を受けていた脚が、途端に血を噴いた。
治癒が遅れている、しかしこのマガタマでは、苦しいばかりで。
普段眼の前でしないのに、耐え切れずにイヨマンテを取り出すと、えずいて吐き出したガイアと替えて呑む。
「はあ、ぁ…はぁっ、はぁ」
こんなにも、肌を晒して…
悪魔じみたマガタマ呑んで…
そして一瞬でも、複数の人間と引き換えに…俺は…
「……行くな、よ」
血反吐かと思ったが、どうして俺はこんな言葉を吐いている。
「行くなよ、ライドウ……居ろよ…帝都に…」
「先刻述べたろう、帝都守護の代わりなぞいくらでも居る」
「違う!!」
この否定は、あんたに云ったのか、俺自身に云ったのか。
「違わないね、功刀君。それに僕は別に、葛葉として生きたい訳では無い」
「今、帝都守護を満足に出来る奴はあんたしか居ないって、ゴウトさんが云ってたんだ…!」
「他の為に己を犠牲にしろと?フフ…では君も、他である僕の為に己の希望は捨て給え」
人間に戻る望みの為?
それだけなのか?
確かにこの男は強い、切れ者で、ルシファーの事も俺より知っている。
でも、その存在だって代わりが居ないと思わない。
じゃあ、何故俺はこんなにもなって、こいつを止めた?
「手ぇ差し伸べといて、途中放棄かよ…は、あんたって本当……」
立てない、あの時と同じ様に、きっと縋る眼をしているんだ。
「とにかく、行くな、行くなって云ってるだろッ――」
新たな痛みが奔った。
てっきり黒革の靴先で蹴られたと思ったが、そういう衝撃では無かった。
「駄々も大概にし給えよ」
片膝をついたライドウが、俺を睨んで頬を打ったのだ。
今まで蹴られたり、銃で嬲られたり、そんな事ばかりだったのが…突然の平手。
「本当に君は成ってない、我儘だね、親の顔が見てみたいよ」
かあっ、と頬が紅潮するのが判る。俺が母親を手にかけた瞬間、見ていたじゃないか、この男。
「知ってる癖に、っ」
「ああ、そうさ、君の本来の姿も、身内も、家も…総て知った上で君を使役していた」
“していた”
何がしていた、だ、無責任の大馬鹿野郎。
「やれやれ、処理が面倒だなこれは…少し出遅れるか」
呆然とする俺を放置して、ライドウが立ち上がる。
ひらりと外套の端が、俺の打たれた頬をくすぐって離れた。
その後は、よく憶えていない。
気付けば、銀楼閣に居た。
凪の押す車椅子で、屋上から遠くを眺めていた。
僅か見える地平線に列車の影を見て、あんたがいよいよ旅立ったのを知った。
『肝心な言葉はですね、夜様、云ったら御終いなのですよ』
銀髪をさらりと甲冑から掃い、騎士が僕に微笑む。
「言霊と成り得るからだろう?」
『まあ、それも有りますが』
「他に何かあるのか」
『永い生の中…ああ、人間はそれでも短かったですね。と、それはさておき、何が云いたいのかというとですね…』
書棚を整理する互いの手が止まる。
僕に向けられる眼差しが、悪戯っぽく光った。
『過去に云っていた己の言動と、酷く矛盾する可能性が有る。何かを発信する際には、あまり明確な輪郭の言葉で表さぬが吉でしょう』
「成る程、若い頃に云っていた事と、老いてから云う事に温度差が生じるという事か」
『然様に御座います、ま、それは仕方の無い事ですがね。歳を取れば価値観も変わりましょう』
「フン、せこいなお前」
『リン機応変と云って下さいまし、夜様』
「すこぶるうざったい」
入手順に並べた書物は、確かに一貫性が無い。
左では宗教を謳い、右ではオッカルトの崩壊として科学を謳う。
僕は己の眼で見たものを信じるが故、この様にひとまず総てを呑み込もうと手に取るのだ。
『ま、それに…相手に先に云わせたい言葉とか、あるじゃあないですか』
「何だそれ、誘導尋問しろという事か?リン」
『平たく云えばそうなりますねえ…しかし夜様こそ、いつもそうしているではないですか』
「僕が?」
『ええ、貴方様は実にお上手だ。特に情が滲む場面において、相手をまるで操り人形が如く誘導するではないですか』
「フフ、人聞きが悪いな」
『その点は心配に及びません、わたくしは悪魔ですからね』
「ほざけ」
『御自身の感情を出すのが、怖いのですか、夜様』
書棚から引き摺り出した本が、背表紙から解れ、ばらばらと床に散った。
馬鹿みたいに繰り返し読むから、老朽化が早いのは仕方が無い。
(いいや、それよりも)
主人にふざけた言葉を叩き付けたリンを叱咤しようと、隣を見る。
「十四代目」
リンでは無い、黒い装束。
西陽に炙られる己の庵でも無い。此処は三本松が根を張る屋敷の、宝物殿だ。
「如何なされた、十四代目」
「いや、少し思考していた」
「独逸帰りの疲れが有るのでは」
「フフ、それこそ杞憂だ」
記憶と逆の動きで、書物を棚に収めた。
三日三晩ひたすらに記し続けたというのに、たった数冊程度か。
読むのは一瞬というのに、やれやれ。
「しかし、よくこの量を記憶された事だ」
「一字一句とまではいかぬがね、術式の要点さえ記憶出来れば問題は無い」
独逸のサマナー連に渡っていたヤタガラスの書物を向こうで記憶し、帰ってきてから書の形にした。
何故“書物ごと持ち帰らなかったか”と問われれば、理由を説明するのは簡単だった。
「では、御苦労だった十四代目」
「これに免じ、あの鉄道の一件は流して下さらないのですか」
「さあ、それは松様に聞いてくれないと分からん」
「フフ、阿漕な商売をしていらっしゃる」
これで今回の役目は済んだのだ、さっさと里から退散したい。
廊下を渡る折、障子越しに響く笑い声。
「独逸でもあの十四代目がひとつ喰わせたそうじゃないか」
「はは、まさか全焼とは恐れ入った。親族という話は本当か、だとすればあ奴は親殺しの重罪人よの」
「此処に属しているサマナーは皆罪人の様なものだが、あれ程狡猾にやってのけるのもなかなか居らん」
「あの狐めに化かされてきっと自ら火を放ったのだろう、憐れなゲルマン人共よ」
さっさと通過すればと思うところだろう、だが其処は曲がり角に面した部屋なのだ。
黙して廊下を踏む僕が角を曲がり、陽を遮る方角に来ると、障子に黒い影が落ち込んだ。
途端、誰かを察したらしい。笑い声が鎮まる…
通り抜けるその前に、一枚隔てて高らかに述べてやる。
「狐が恐ろしいならば、眉に唾でも付けては如何に御座いますか」
MAGが殺気立つ気配、がららと開く障子、しかし僕は動かない。
甘んじてその、しわがれた脚に蹴られ、踏ん縛る事もせずに廊下から中庭に落ちてやる。
まだ少し遠い春、お池の水は冷たい。
眼を開けば、水面を裏より眺める程に沈んでいた。
泳ぐ朱を口付けて吸い、ざぱりと立ち上がる。膝より上、思ったより深かった。
たゆたう学帽を掬い上げ、滴る水滴も掃わず被る。
「十四代目…障子を隔てて聞くなとは云わん、しかし応えて良いと誰が赦した」
沈黙のまま、黒い纏物に身を包む御上を見た。
「返事をしろ」
部屋に座ったまま、開いた隙間から此方を眺め嗤うもう一人。
その両人の眼が注がれたと感じた瞬間、ニタリと口角が上がるのを堪えられない。
「申し訳…御座いません…ん、ぁ」
「ひっ!?」
「くふ…見事ならんちう哉ゃ…流石は、趣味の宜しい御上様方…クク」
嗚呼、喋り難い。そんな僕の舌先に踊る金魚を見て、御上の肩が跳ねる。
それを一瞬でも拝めて、既に哂いを止める事が出来なくなっていた僕。
「う、薄気味悪い奴め…其れを早く戻さぬか!」
「気分を害した、早々に視界から失せよ狐め」
そんな事を云いながら、躯を貪る時にはもっとよく見せろと叱咤する癖に。
思いながら、ふ、と水面に吐き出し、ぽちゃんと跳ねた朱色。
「これは失敬、ではお望みのままに退散致しまする」
「廊下を濡らすなよ!」
「フフ、承知致しました」
芝生に転がったままのトランクから、太鼓を取り出す。
ざわりと靡く草木、お池の朱色が恐怖に惑いぐるぐると徘徊し始める。
『狭いぞ十四代目』
舞い降り、しかし狭さから頭から首を庭先に突っ込む形となったコウリュウ。
眩い輝きに眼をやられたのか、瞼を痙攣させながら見上げる御上達が実に滑稽だ。
「流石はコウリュウ様、其処のらんちうよりも見事な鱗の金色哉や」
『…?しかし息苦しい、早く乗らぬか』
不思議そうな眼を向けられたが、特に説明するまでもない。
偉大なる金魚に跨り、何処か悔しげな顔の御上を見下ろす。
こんな場所で召喚しては、きっと後日これをネタにされ、また鞭でも振るわれるのだろう。
『少し濡れてはおらんか十四代目』
「烏の行水というヤツですよコウリュウ様」
『まだ人の身には寒い季節であろう、十四代目はやはり不可解ぞ…』
悪魔に呆れられるままに、その背で頬杖する。
龍の角にトランクの掴みを通し、暮れ往く山間を眺めていた。
独逸の旅はあっという間に終わり、こうして日本國の夕日を見ている事実。
ちら、と下界を見れば、まだ舗装されていない鉄道路線が見えた。
上から見るとそこそこの距離が破壊されており、施工には時間を要しそうだ。
『何を哂っておる十四代目』
「いえ、少し面白いものを見ていただけですよ」
煌々と輝くこの悪魔も、純粋な存在なので堅気の人間には見えぬ。
しかし、人修羅の姿は人間にも丸見えだ。中途半端な性質が、双方の者に認識される所以なのだ。
あの時…直走る列車の上、ボルテクスで常に見ていた姿を晒されて高揚した己に、思わず哂いそうになった。
(僕と君が…一番正直だった時期かもねえ)
リンの言葉を思い出す。
“先に云わせたい言葉”
次のページ>>