月の 沙漠を はるばる と
 
  旅の 駱駝が 行きました

鉱石ラジオから流れるノイズまじりの歌声。
湯上りに涼む、むさ苦しい男達が、竹細工の編み椅子にどかりと腰掛け、談笑している。
誰か、その放送を聴いているのだろうか、ただの環境音と成り果てていた。

 J O A K  J O A K

  こちらは東京放送局であります…

 ただいまお送り致しましたのは 詩人の加藤――

「おぅ葛葉、よう来たな」
番台の傍まで行けば、俺達に向かってきた声。ラジオの放送を完全に掻き消す存在感。
いかつい体躯、着物袖の端から豪華絢爛なソレが見え隠れする。
「湯場に行かずとも、夢の国々諸国漫遊が可能ですね」
「ペンキ絵と一緒にすんなやワレ」
がははっ、と笑い飛ばして、揶揄したライドウの肩を小突く。
その腕から獄彩色の、俺とは全く意味合いの違う紋様が今度こそハッキリ見えた。
この銭湯に来るのは、好きじゃない。
番台の傍で、いつも女湯の方に逃げたくなる。
いや、そんな事してはそれこそ大問題なのだが。
男湯には、いかがわしい輩ばかりで、俺の精神を削るから。
「後ろの小僧は珍しいのう?え?」
腕組みしつつ、その眉間に皺寄せて、極道の親分が俺を見た。
ライドウの後ろに隠れるなんざ、あまりに情けないが。
犯罪の片棒を担ぐ類の人種とは、出来るだけ無縁で居たい。
「…どうも」
無視しては咬みつかれるかと懸念して、軽く会釈する。
クスリと哂って、ライドウが返答した。
「佐竹さん、築土の湯屋が現在閉まっているのは御存知で?」
「たりめぇよ」
「なれば、此処の占有時間を控えさせては如何です?貴方方の、ね」
学帽のつばを少し上げ、畏れもせずに極道者に意見する書生。
遠目に見れば命知らずってもんだろうが…
「他所の客が流れれば、肌より懐が潤いましょう?」
「…っふ、そうやな、その通りや」
「組の方々は見えているだけで客掃けさせてしまいますからね、フフ」
「失礼なやっちゃなお前、正直で気持ちエエわ」
その会話の通り、近場の銭湯が閉まっているのだ。
仕方なく、こっちの大黒湯に来た、俺はただそれだけ。
でも、ライドウは…それだけじゃない、そう感じる。
(またどうせ黒い話だろ)
嫌々ではあるが、とても独りで来る気がしない。
シャワーで流せば済むと云え、俺は正直毎日入浴したい性質の人間で。
ボルテクスの頃だって、泉が無けりゃ発狂しそうだったと云うのに。
「功刀君、外道だよ」
鬱々と考えていれば、腰の周りが外気に触れた。
巻いていたタオルを取られたと気付き、かといって手で隠すのも恥だ。
「てっ…め」
「呆けてそのまま湯船に浸かるかと思ってねえ、まあ、それで私刑に遭ったところで僕の知った事では無いが」
「丸出してる神経の方が知れない」
そろりとライドウの下肢に視線が落ちてしまう。
ハッキリと目視するなんて、嫌な事ばかり脳裏を巡って仕方無い。
現在の自分の姿からか、立派なそれに畏怖の記憶を引きずり出されてか。
ぞわぞわと背筋を悪寒が駆けて、俺はその場を離れる。
もう良い、さっさと入って、さっさと出て勝手に帰ろう。
背後にライドウという後ろ盾が居れば、喧嘩を売られる事も無い。
がらりと開け放って、一気に湿った空気が身体に纏わり付く。
この圧迫感のある暑い空気が、少し肺を痛める。
その感覚に少し人間を思い出して、勝手に和むんだ。
そう、ただそれだけ。成長しない俺の肉体は、老廃の残滓すら無に等しいのだから。
こうして湯に入浴するなんて、悪魔からすれば馬鹿馬鹿しいのかも知れない…
「せっかちだね…早く晒したかったのかい?」
掛け湯する俺に、ニヤニヤとして迫る声。
それに追従して、ややドスのきいた声音が笑いあげる。
「葛葉、そら御立派様持ってる奴にせめて云わんとアカン」
頬が熱くなる、そんな事、わざわざ云うな。
水音にあまり隠れない親分の声が、浴場にこだまする。
火照りすら恥なので、即刻湯船に脚を入れた…この上気は蒸気の所為だと。
熱くて焼け切れそうなのだが、俺は一息に飛び込んだ。
「帯刀する得物は、それなりに立派でなければ心許無いでしょう?佐竹さん」
「はは、まあそやな、遊女と指切りも出来ん程の小物じゃ面子も立たんわ」
「たてたいのは茶と面子と竿ですね」
「腐れ書生が」
一体どういう会話してんだこいつ等。
周囲の舎弟が、湯煙の隙間から窺っているのが俺にも判る。
刺青の肌の隣に、惨たらしい背中。
あいつ等…どうして、あんなに晒せるのか、それこそ気が知れない。
ライドウが普通の書生で無い事は、その背で一目瞭然だ。話すより早いと思う…しかし…
「フフ、佐竹さん」
結構前から顔馴染みだそうで。
「今度お邪魔して宜しいですか?銀楼閣では頼り無いので」
「いつでも来ぃや、夜長の暇潰し相手なら仰山居る」
どこからが本気で、どこからが冗談なのか。
何の話をしているのか、俺にはさっぱりで、理解したくも無くて。
だって俺は、この時代の存在ですら無い。
「頼りにしてますよ…佐竹の兄貴?ククッ」
学帽を取り、礼をしたライドウ。
しっとりとした前髪から、墨色が滴りそうな艶に、眼が引き寄せられる。
「おい、あんま垂れ流すなや、反応させおってからに、性質悪ぅて敵わん」
「タチが悪い?反応しているのでは?」
「ほんっに性質悪いわお前、悪魔っちゅうのはお前やろが」
悪態だが笑って叩く、そんな極道と馴れ合うあの男。
苛々する…俺は今、悪いのぼせ方をしている気がする…
舎弟のチンピラが居ない隙間を探し、其処に滑り込んで、カランを叩きつけるかの様に押した。
溢れんばかりの湯が桶にたゆたうのを上から見下ろして、背中の声を聞く。
 「また近い日に葛葉の兄ちゃんと遊べるんか?」
 「丁半か花札か、麻雀でもええわな…」
 「ごっそり削がれても、あの貌拝めりゃそう高くもねえ」
木桶に溜まったお湯を、自らの脳天からぶちまけた。
鼓膜に伝わる水の振動が、人間の余計な声を遮断した。



『ヤシロ様?』
「…!」
がくり、と意識が覚醒する。
水音が消えたと思えば、眼の前は硝子でも無い。
遠目に見える風景は、ペンキ絵の宝船でも無い。
(…ケテル城)
意識を飛ばしていたのか、そんな気持ちが良かったのか、この羊水みたいな薬湯が。
『も、もしや…寝られておいででしたカ!?も、もも申し訳御座いません!眠りを妨げるなどという矮小な私めの、この愚行!!』
騒ぎ立てるビフロンス伯爵、その背で揺れる燭台の火も揺れた。
「…寝起きと思うなら、少しは静かにしてくれませんか」
『はっ、はひぃいい!!』
ああ、八つ当たりだ。
自己嫌悪しながら、体の良い相手だからと、今度はカランでは無く伯爵に当たった。
ソーマの風呂は、あの銭湯の茹で上がる様なそれと大違いで。
明らかに、この肉体に効力を発揮する。
大國湯の湯船に揺らぐ自身の身体と違う、斑紋の輝く身体。
数日前と違い、大衆に晒さずとも済む、たった独り様の浴場。
髪の雫を払っただけで、ふわりとしたタオルに身体を包む。
『紋のお色も落ち着かれたターコイズブルーになられましたねぇ!ソーマがよっく染み入った様で!…っはぁア』
足下の豪奢な敷物に滴るそれ等を、伯爵は羨む様に眺め射る。気持ち悪い。
疎ましくて、思わず溜息を吐いた。
『お、お疲れなのでしょうカ?』
「この城に来る事実に、既に疲弊させられます」
閣下に報告する、という行為は。
他にも色々付随するから、口頭報告だけで無い。
土壇場に立たされなければ悪魔になれない、そんな俺にルシファーは呆れている。
それと同時に、虐げ遊ぶのだ…どこかのデビルサマナーみたく。
『お茶をお淹れしましょうカ!?お好きな茶葉なら補充済みであります!!ぬかり無く!』
「結構です、もう今回は帰りますから」
『お見送りさせて頂きます!!道中暗いですからねえっ!足下を照らさせて下さいまし!』
「いっつも暗いでしょう、この城…そんなの理由になりゃしない」
この、魔界全体、陽の光なんてものは存在しない。
それが無くても此処は存在出来る、人外の住む世界なのだから。
学生服で、ビル影に阻まれて歩いていた東京の…暗闇とも、違う。
また溜息しながら、薄い黒服に袖を通す。
緩いボートネックから角が出るように、角度をつけて頭を潜らせる。
そんな自然な動作。項の突起を自分の一部と無意識に意識してしまう…この精神が歯痒い。
カーキ色のボトムに脚を入れると、伯爵が零す。
『御脚の斑紋が見えなくなるのは、非情に勿体無いです…!』
そんな“勿体無い”なんて感覚、悪魔にあってたまるか。
「裸の王様でもしろって事ですか?」
『い、いぃえぇ!ヤシロ様が露出を嫌うのは勿論存じております故!』
「だったら、余計な事云わないで下さい」
黒色のガーゼが緩く包む、身体の冷たい斑紋熱。
俺の会話は、銭湯でのライドウと佐竹とのモノと…全く違う。
毒があっても笑い飛ばせるあの男達がおかしい。
『纏っていようがいまいが、私めのお慕いするヤシロ様に御座います』
悪魔の要素が無ければ、見捨てる癖に…
そう思う俺は疑い深いのか、伯爵がどんなに慕ってこようが、赦せない。
そう、未だに契約主のライドウが赦せないのにも等しく。
「功刀矢代、か……固体の識別名称でしょう、貴方等にとっては」
人間と悪魔の……どっちの俺を視ているのか、問い質してやりたくなる。

暗い曲がり角、この城の構造を全て理解している訳無いが、このルートは空見で歩ける。
与えられた部屋から、帰路一直線。
晴海の天主教会から、銀楼閣まで一直線。
余計な道は歩かない。余計な労力に疲弊したくない。

 『あのデビルサマナーにやられた』

そう、余計な音を聞きたくないから。こんな風な。

 『こないだは人修羅と一緒に来てた』
 『まさか手ェ出したの?』
 『馬鹿ガ』
 『片脚ぶった斬られたけど、気持ち良かった』
 『げぇえ、アンタそういうシュミだったのォ?』

人間も、悪魔も、噂が好き。
そんな喧騒に揺らされたくないんだ、俺は。
こんな…こんな…

 『ゾクゾクする、あんな眼の出来る人間は滅多に居ない』
 『確カニ、美味ソウ』
 『きゃはっ、だよねだよねェ?人修羅よかよっぽど悪魔よねェ』
 『あの黒ラクダさえヒトガタに擬態して従いたいのが本心だそうで、色目出したくなるのも解る』

こんなの、いつもの様に無視すれば良いんだ。
何を云われたって、無関係。付き合いが悪いと云われたって、俺のペースが有る。
人間の頃から、もうずっと変わらない…そう、変わってたまるか。

 『人修羅がくたばったら、あのデビルサマナーを引き入れてくれないかな』

ひたり、と止まる足音。
自分の動きが客観的に感じられる、どうして。
『ヤシロ様!』
傍の伯爵が、フリル袖の白を揺らしてスーツの腕を差し出す。
『私めにお任せ下さい!貴方が御手を――』
慌てている、それはそうだ。だって、いつもは聞き流すのだから。
方向転換して、囁き声の部屋に踏み入れる。
空気が瞬間、冷却された。
ジッ、と黙して俺を見つめる悪魔数体。形だけ用意されたテーブルに、肱ついたり腰掛けたり。
酒という形に似せた、魔力のこぞむ飲料を嗜む場だった。所謂酒場。
カウンターの向こう、佇む女性の形の悪魔が、顔を顰める。
豊かな胸に、開けたばかりの瓶を持ち、唇を尖らせて。
ウェーブがかった白金に近い髪を、肩から掃う。
『面倒事なら外で願いますわよ、人修羅様』
『酒棚だけは御勘弁を』
傍の黒服のバーテンが、釘を刺す。男性体と思ったが、声は女のそれだった。
しんとする中、後ろから続いた伯爵の背負う灯りが俺達の影を揺らす。
『しかしですねぇマヤウェル!パテカトル!』
『何よ』『何か』
『下らぬ思想を眼の前にして、酒が美味くなるとでも思ってんですか貴方達は!愚かです愚か愚かァ!!』
きょとんとして、女性らしい方が伯爵に微笑んだ。
『だって、噂は格好の肴でしょ?』
どっ、と湧く周囲の悪魔達。伯爵がカタカタと、そのしゃれこうべを震わせた。
滲み出るその怒りを、どこか冷めた感覚で感じ取った俺。
『あら、サマナー葛葉はお連れで無いの?呑みっぷりが見れると思ったのに』
その名を出すな。折角の冷たい身体が、沸騰しそうになるんだ。
『きゃはは、ねえ今度連れて来て下さいよォ人修羅サマ!あの格好良いサマナー』
はしゃぐ妖精、正確にどの種族の悪魔かなんて、そんなの知らない。
それの声がするテーブル目掛け、伯爵が骨の両手を翳した。制裁か、俺に代わって。
…でも、もうそれが既に腹立たしいんだ。
「余計な真似するな!ビフロンス!!」
叫び、その骨の先が握り締める燭台の焔が轟く前に。
俺の焔で掻き消した。
同情なのか?庇護なのか?
悪魔なんざにそんなモノ、買いたく無い、そんな俺が酷く惨めだろうが…!
「外でなら、構わないんですよね!?」
返答も待たずに、妖精と獣の座るそのテーブルの下に滑り込む様に潜る。
片脚を軸に、四方のテーブル脚目掛け、回し蹴り砕く。
支えを失って落つる頭上の板を、拳で叩き割る。
貫いた先で酒瓶が割れ、未だ半乾きの俺の髪に降り注いだ。
『ひぐッ』
割れる破片の隙間から、皮膚を傷付けながら伸ばした指先に捕らえる妖精。
大きな体躯の獣の悪魔が影になるが、その胎目掛けて掴むコレごと、拳を叩きつける。
「っ、ぉおおおッ」
相手の咆哮を無視して、軋む腕も無視して。
入り口までひっくるめて、吼えながら押し進めた。己の咆哮で掻き消す悪魔の叫び。
空間から出た先、石壁がみしりと悲鳴を上げた瞬間、脳内の血もようやくゆるゆると収まる。
一瞬の強い酒に喰らったダメージの様に、寒気が足下から、襲ってきた。
『ヤシロ、様…!御靴が汚れておりますッ!』
伯爵の声に、ぴちゃ、と…ブーツを少し上げてみれば、水音がした。
廊下の赤絨毯が、色を濃くする。寒気は、この気味の悪い…液体から。
『げひゅっ』
壁に縫いとめた獣の、咽たそれを顔面に被った瞬間、ぬるつきと臭気に…吐き気がした。
鷲掴んだままの妖精の痛々しい姿も、普段程気に止まらない。
「汚い!汚い汚いっ汚いっ!」
その、牙を剥いた犬の様な獣の口に、妖精を突っ込む、拳ごと。
甲ががりがりと犬歯に削られて、骨が突っかかったが、もう今は塞ぐ事しか考えられない。
その煩い口、臭い口、黙らせてやる。
「はぁっ…はぁっ…」
だらりと垂れた舌の上に、身体の捩れた妖精を残して、手を引き抜く。
まるで妖精を噛み砕かんと、口に留めた状態。
ずるずると、石の壁に獣の体毛を含んだ血が、残留して模様を描いていった。
「そんなに、あの男と遊びたいなら、勝手にして下さい…」
呟き、ブーツのソールを、地に崩れた獣の脚になすり付ける。
が、更に汚くなった気がして舌打ちしてしまった。
背後の狭い入り口に、野次馬が集まってきてるのか、気配の圧迫感が酷い。
込み上げる胸の圧迫感も…蒸気のそれで無く、吐き気の…
『外でって云ったじゃないのよ!』
その、空気すらつんざく声音に、視線だけ振り返る。
わいのわいのと蠢く鬼やら幽体を掻き分け、女性が躍り出てきていた。
マヤウェルとかいう店主悪魔の片方か。俺の眼の前に、割れた破片を操り飛ばしてくる。
アルコール臭い破片が一斉に、振り返った俺の身体に突き刺さった。
瓶の破片だからか、貫通する程の鋭さは無いので、却って痛い。
薬品でも入れていたかの様な色をした瓶の欠片。碧い切っ先が服を裂いて肉に埋まる。
息すれば、酷い異物感に見舞われた。揺れる影で把握する、喉に埋まる一際大きな破片。
『ディアラマなら私めにも使用可能に御座いますヤシロ様!』
駆け寄って来た伯爵に一瞥くれ、その言葉だけは信用してやる。
ゆらりとそのまま、視線をマヤウェルに流した。
見目は可憐なその姿、胸元に携えた酒瓶の水面と、豊かな乳房が揺れていた。
『お帰りになって!』
「二度と!来ません!」
マヤウェルの放つ二撃目の軌道を、振り翳す腕で歪ませる。
脈動した肉体から、刺さる破片が蒸発していくのを感じる。焔が全身を舐め回して往く感覚。
中にマガタマが無くとも、この身体に住み着いた忌まわしい力。
「っ、は」
と、喉の異物感の代わりに、赤色の飛沫が上がった。融け失せたのか、血が噴出する。
一瞬激しい痛みが駆け巡り、呼吸が乱れるが、伯爵の唱えた術が其処を塞いで往く。
口に溢れる錆の風味を嚥下して、腕の魔力を流転させる。
鞴の様に空気を扇げば、マグマ・アクシスが舞うアルコール煽られ更に彩めき立った。
轟音の後、訪れる静寂。酔いの醒めた空気というモノに似ている。
俺の焔に、一同は口を開いたまま…
噂話も今は叩けないだろうと悟り、俺は転がる獣を汚物みたく跨いだ。
「しっかり店内には残してないでしょう?血汚れ…」
そう吐き捨てて、震えるままのマヤウェルに。
「もし残ってたら、お湯じゃなく水で、酵素含んだもので叩き落として下さい」
それだけ云い残し、生臭くなった酒場一帯を通過する。
追従してくる伯爵が、足下を照らした。
『やはり汚れてしまっております!下賎なモノの体液が!!あぁああぁ』
煩いけど、実際その通りだ。ソーマの風呂で折角身奇麗にしたと云うのに。
「…いいです」
『えっ』
「今はもう、さっさと此処から出たい、生臭い」
俺に刺さるのが、ただの物質的な刃なら良かった。
傷は、いくらでも癒える、この悪魔の身体なら。
囁かれる嘲弄が、何よりもうざったい。
強制的に、此処に居るのに。閣下の剣にさせられたのに。
ライドウは、俺を利用しているだけなのに。
俺は、どれだけ惨めなのか。
閣下にぶら下がり、ライドウに縄引かれ。
不安定な悪魔達の上に、好奇と蔑みの視線でせっ突かれ。
『せめて御髪を乾かしてから!その美しい黒橡の色が褪せてしまいますよぉぉ!』
伯爵が差し出す白い布、それをさらりと受け取って、顔だけ拭った。
薄暗い窓から透ける日輪月光に照らされ、鈍い血の色を布に確認する。
もう、身体の傷も塞がり始めている。
「髪は良いです」
『何なら替えの布をお持ち致します!準備が足りず申し訳御座いません!いやはや私とした事が――』
無視して、指先に点した薄い焔で、こめかみをはらりと撫ぜる。
雨樋を伝う雫の様に、つう、と伝わった熱が湿気を掃った。
「あの廊下の悪魔と、酒場の件、宜しくお願いします、後片付け…」
返事の代わりに面倒を押し付けて、足早に駆け出す。
ボルテクスで、悪魔やライドウに追われた時より幾ばくか遅い程度。
『ヤシロ様ァ!!貴方様の住まう処は魔界に有りや!!此処です!此処なのです!!!!』
背後の声も聞こえぬ様に、即座に角を曲がる。
途中、数体の悪魔にぶつかった。夜魔やら、鬼女やら、姿すらはっきり認知しなかった。
挨拶でも侮蔑でも、どんな反動でも、今は嫌だ。
知っている、俺よりライドウを奉る悪魔共が、この城に居る事を。
(なら、俺は何の為に悪魔にされた)
俺の必要があったのか?今の存在意義さえ、ライドウの吐息で消える灯火の様に。
ライドウの激しい焔が、俺の蝋燭を消すんだ。
「此処でたまるかよ…っ」
独りごちて、堕天使もお気に入りの薔薇園を駆け抜ける。
花弁と薄く血を散らして、城門まで、ひといきに飛び立った。
廊下を巡る事すら腹立たしくて、結局バルコニーから入り口まで、一直線だった。

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