ガス灯が小さく啼く、夜更けの霧雨の中。
魔界から戻れば、此方の時間帯などいつも不明瞭で。
(…寒)
天主教会から、ひそりと抜け出せばこの暗闇。
転々と、道を印す外灯だけが頼りの時間帯…おまけに冷える。
擬態しなければ、暗闇の街路に俺の斑紋は浮かび上がってしまうのだ。
いくら春になったとはいえども、この中を歩くのは…
周囲を確認しつつ、道を選んで進む。
電車の通らぬ時間だが、朝まで待つ気にもなれない。
いいや、電車なんてそもそも、この身体の状態では。
「…臭い」
湿った霧が、髪に纏わり付く死臭を漂わせる。
ああ、こんな時ライドウはどうしていたっけか…
綺麗に並べられた晴海の石畳を踏み、思い出す。
…そういえば、あの男は…返り血を浴びない。
外套が覆い隠すか、刀が綺麗に分断する、その飛沫すら。
頬に稀に飛ぶ赤が、鮮明に記憶に浮かび上がっては、流れた。
無駄の無い動きと太刀筋、悪魔に命ずるその声。
…性格以外は、完璧なのだ。ああ、腹立たしい、あの男。
「おい、君」
「!!」
まさか、こんな時間に人が居るとも思わず、びくりと前方を見た。
油断しきっていた、果たして斑紋は滲んでいなかったろうか。
動悸を抑え、呼吸を整え擬態に集中する。
薄手のよれたコートを羽織った、男性が…ガス灯の下から俺に声かけていた。
「こんな時間に危ないだろう、何歳だね」
「…少し、教会で居眠りしてたら」
「クリスチャンかね?まあいい、正義に貢献すると思って訊ねられてくれんかね」
適当な嘘で誤魔化して、差し出される何かを見る。
近付くポマード臭い頭が、俺の死臭を隠しているのが、気持ち悪くて有り難い。
(警察の手帳……と…写真か)
薄い明かりの下、モノトーンのそれをよく眼を凝らして見れば。
俺の背筋がぞわりと凍る。
「知っているかね?築土の書生だ」
写真には、雑踏に紛れる黒い外套…でも、その中で一際…写りも大きくないのに目立つ。
「銀楼閣に住まう葛葉という男児だ、背の丈は八七」
「は、八七…?」
「…五尺八七寸だ、何だ、ピンと来ないのかね?普通の男なら五尺を省くは当然だろう」
頼むから、センチメートルで云ってくれ。
いや、云われずとも、その男が誰なのか、どの程度の身長なのか知っているが。
俺より拳一つ以上の差が確実にある、ヒールの所為もあいまって。
「で、この人がどうしたんですか…」
「知らんかね?」
「俺は、知りませんね」
「…そうか、有難う」
また嘘を吐いた俺。
踵を返し、去り往く中年男性の背中に、やはり気になって問いかける。
「あの、その人、何かしたんですか」
…何か、だと?今までの、あの男の非道を知っているのは、人修羅の俺だろう?
自分で聞いておいて、反吐が出る。
「詳細は機密だが、通り魔では無いよ、安心なさい」
はっ、と笑ってそのまま暗がりに消えた警察の者。
胸がざわつく……が、しかし、ライドウの安否は、俺の保身の為であって。
別に、思い遣りとか、そういった感情の類では無い、これは。
「いっつも、勝手に…あの男」
ガス灯に、湿った翅で懸命に、群がる羽虫が数匹。
俺の頭上に影を落とし…
(何故だ、あいつは寧ろ、警察すら手駒にする奴なのに)
ジジ、と焼かれて、頭上で死んでいた。
「鳴海さん」
自然と足早になっていたのか、少し痺れた脚を引き摺り、階段を上がる。
「鳴海さん、居ますか」
扉を開ける、暗い事務所には誰も居ない。
壁に貼られたカレンダーの日付を見れば、ああ、出張か…そういえば。
方々を回って、ライドウとは別のルートから仕事を拾うのだっけか…
不在なのに、こんなにも施錠を放置して、どういった神経なんだ。
(ライドウも居ないのか…捜索されてるって事は)
爪楊枝金閣寺がそのまま、机上に誇らしげに聳えている。
なんとなく、その呑気さに苛々して、崩してやりたくなった瞬間。
「いいのかい?鳴海ちゃんの力作、勝手に崩壊させてよぉ?」
ゆるゆると伸ばしていた指先が、節くれ立った指に捕まれた。
はっとして、その先を追えば、窓の薄い明かりに照らされる相貌がくわりとした。
「御同行願うぜ?家政婦の坊ちゃん?」
「か、風間刑…事っ」
潜んでたのか、この男。どうも俺は気が立っていて集中力が皆無らしい。
「不法侵入ですよ」
「何云ってんだぁよお前さん、立ち入りだよ立ち入り、ホレ見ろってんだ」
先刻も見た、あの手帳を鼻先にヒラつかせ、腕を捻り上げられた。
カッとなって、擬態が緩みかけるのを、必死に制御する。
「何だ…坊ちゃん、本当に家政婦でしかねぇのかよ」
もう二人か、潜んでいた人間が出てきて、俺の天辺から爪先を見る。
「風間さん、もう放してやったらどうっすか、暴れても大丈夫っしょ」
「武器らしい武器も、葛葉みたく所有してないみたいです」
机に肩から頬にかけ、ビタンと叩きつけられる。軋む感触に頬が引き攣った。
「っ痛…」
「どうだか、ライドウちゃんの傍にいっつも居るんだぞ?怪しいってもんだろうがよ」
「あ、っ!!」
その指に、他意が無い事は解る、素早い流れからして。
でも、酷く…屈辱的で。嫌だ、嫌だ!
「…本当に、何も無ぇんだな」
「ひィ、ッ!」
かさつく指が、肩甲骨から腰骨まで一気に駆け下りた。
脚を蹴られる様にして、机の壁に押し付けられ、撫ぞられる。
舌打ちする風間刑事が、放し間際にもうひと押し、俺の頭を机に擦り付ける。
衝撃に、眼の前で金閣寺が崩落して、軽い音を立てた。
「ん、武器無し、おいお前、戸ぉ閉めろ」
「はい」
勝手に進むやり取りに、ついていけない。
擬態の俺の肉体は軋んでいた。よろりと上体を、腕を伸ばし上げれば…そのまま引かれた。
「うっ」
「重要参考人だかんなぁ?家政婦なら見てるかもしんねぇだろ?ライドウちゃんのイロイロ」
ソファーだから、先刻の堅い机面より幾許かマシだったが…
説明も無しのこの扱いは、はらわたが煮えくり返りそうで。
軽く押さえつけられるまま、横倒しにソファーに居ると…
ライドウにそうされている錯覚まで出てきて、恥が滲出する、脳内から。
「ライドウちゃんはホルスター以外にも、ズボン下に隠してると俺は踏んでるんだが」
「俺が、なんで…こんな!」
「ちょっとした毒針なんかをよぉ?」
「っ!!!!」
ぎゅむ、と一瞬、股座を掴まれ、萎縮する。
「は〜流石に此処にゃ無ぇか、おまけにその得物自体かわいいもんたぁな?坊ちゃんだなぁ――んぶッ!!」
「痴漢野郎ッ…け、警察に突き出す…っ」
俺に頬を土足のまま蹴られ、ハンチングがずれた風間刑事。
でも、続けて爆笑した。
「もう来てるぜ?帝都警察部」
信じられない、が、事実そうなのだ。
自分の台詞の滑稽さに、唇を噛んで睨み上げれば…ようやく本題に入りそうだった。
「ちぃとばかし、ライドウちゃんに聞きたい事があってよ」
「何、ですか…俺は無関係だ、奴の居場所なんて、知らないです」
「庇ってるんかい?」
「知らない…あの男が何処に行こうが野垂れ死のうが、知ったこっちゃないです」
「冷たいねぇ?友達なのによ」
横にされているのに、頭に血が昇る。重力に逆らってる、感情が。
「友達なんかじゃない!」
俺の突然の剣幕に、周囲の刑事も一瞬警戒した。
上から風間刑事が、失笑する。
「だってな、毎度金魚の糞みてえに甲斐甲斐しくついて回ってるからよ」
「き、金魚の…」
耳まで熱くなる、まさか、そんな喩えにされて喜ぶ訳無いだろ。
おまけに、好きであの男に追従してる訳…
「ライドウちゃんが傍に置くんなら、何か隠し持ってるか…ソッチの人間だろ?」
ハンチングを被り直し、部下に命じて机のランプを点けた。
過激な正義に、ロウを感じて、眩暈がする。
「それとも…パシリか?奴隷?まぁーライドウちゃん女王気質だかんなあ」
悪気も無く、俺に笑って云う。
帝都の人間は、そう感じるのか。俺が…あの男の傍に居る事を。
とても、対等では無いと、既に空気が滲んでいるのか。
「んま、いいか、なあ家政婦の坊ちゃんよ、聞きたい事あるだけだからな?」
「俺は…何も知りません、帰って下さい」
冷たく返しても、照らされる刑事達は無視する。
取り出した手帳をはらはらと指で捲り、確認しつつ聞いてくるだけ。
「最近よ、ライドウちゃん、何処かに長期滞在するとか云ってなかったか?」
「…いえ、さっぱり」
今、強い悪魔に読心術されたら、少し危なかったと思う。
瞬間、大國湯の銭湯を思い出していた。
あのヤクザの親分と…きっと、何か話してたんだ…ライドウ。
「本当かぁ?だってよ、坊ちゃんそりゃ困るだろが、晩飯の買出しとかよ」
怪訝な顔で云う風間刑事に、俺はゾッとした。
まさか数日尾行でもされていたのか…確かに、その通りだった。
ライドウの突然の不在に、俺は憤っていた、いつも。
飯の支度をしても、俺と鳴海と、酷い時なんかゴウトも置き去りで。
無駄にさせまいと、ライドウの分を食べる事もあった。
俺なんか、沢山摂取する必要なんて皆無なのに。
どうして此処で、家事なんてしているのか、人修羅なのに。
(仕方無いだろ、だって、戻れないし、魔界に居たくない)
居候なりに仕事をすれば、さりとて無駄になる事に…自分の成果が無為にされる事に。
(本当に俺は必要なのか)
此処に居て良いか、不安になる、そんな欠片さえも。
「深川方面の遊郭とか、お調べになったんですか…」
半笑いで、見上げて吐き捨ててやる。
「どうせあの男の事だから、誘惑された人が匿ってるとか、でしょう…」
いっそ、本当に遊郭に居たなら、ひっ捕らえたら良いんだ。
俺がこんな目に遭っているのに、女の上で哂っていたら…
そのまま極刑にでも処されろ。
そう夢想しながら唱えれば、風間刑事は手帳をしまった。
「お偉方とかがなぁ、何でも?悪魔使って此処一帯の水脈を弄ってるらしいぜ?」
悪魔…だと。
「な?オッカルトだろ?水脈ったってちゃちいモンじゃねえ、金が動くんだカネが」
「どうしてライドウを、それなら犯罪者の様に追うんですか…悪魔は、あいつの専門で」
「お偉方の依頼先がライドウちゃんだからよ」
何だって…
利権か?本当に、黒い話だったのか、まさか。
黙る俺の後に、傍の刑事が眉を顰めて零す。
「風間さん、あんましペラペラ喋ったら…」
「良いだろ、乱暴に入ったんだ、ワケ云うけじめはつけさせろってんだ」
ぎしり、と、ソファーから退く風間刑事。
俺にかかる圧が和らいで、動悸が少し落ち着いてきた…少し、だけ。
「最近この辺の湯屋、一部営業してねえだろ?やっぱ水脈狂ってんだとさ」
「どうして、狂わせて何を…何の為に」
「自分の処に引き込めば、そりゃあ坊ちゃん、懐暖かいだろぉがよ?ん?」
我田引水…正にそのもの、か。
でも、おかしい…ライドウが、あの男が、そんな面倒な事するか?
いくら面白い事だろうと、気難しい政治屋や金融相手は、嫌う筈だ。
奴のやり方に…反する気が、する。
「おい、ちょっくら抜ける」
風間刑事が、呆然とする俺を一瞥して、傍の刑事に俺を任せる。
「自分はどちらに付きましょう」
片割れが発すれば、俺の傍に張り付く刑事がそれに返す。
「外の方がこの時間は危険っしょ、いいすよ、オレだけで残りますわ」
「大丈夫なのか?しっかりその子を見張ってろよ」
「丸腰な家政婦に逃げられるかっての」
一々苛立つ応酬、風間刑事等を見届けながら俺はソファーで上体を起こした。
「俺、まだ解放してもらえないんですか」
「ちょっくら待ってな、風間さん等結構鼻利くかんなぁ…」
残った刑事が、云いつつ煙草を取り出した。
「なぁ、灰皿無い?」
図々しい、しかし適当な所に破棄されても困る。
「随分と警察の方は凶悪なんですね」
視線だけ送りつつ、指先をテーブルの下に伸ばす。
板のすぐ下に、もう一段、隙間が有るのだ。其処に入れてある。
「凶悪?良くゆ〜わ」
まだ若い風の、その刑事が…刈り上げた髪を掻き上げる。
片手にした煙草を差し出し、俺にニマァ、と笑った。
「ん、火」
「は…?」
「ライドウにいつもしてっしょ?ホラ、火」
途端、脳内に危険信号が流れる。
この刑事は、俺が半分悪魔だと…知っている、のか。
「誰がっ」
ソファーの端まで一息に退いて、掴んだままの灰皿を振り上げた。
その脳天に、振り下ろす。硝子製だが、死に至るダメージは無いと、根拠の無い確信の下に。
しかし、俺の持つ灰皿は、びきりと亀裂が奔ったかと思えば、割れ落ちた。
その向こう側に、先刻までの刑事の姿は無い。
『ホンット、凶悪っしょ、人修羅さぁ』
煙草を指にしたままの、角を生やした悪魔が一体…
角の先端は、灰皿の破片を掴んだままの、俺の指の傍で止まっていた。
見覚えがある、いや、昔見た奴とは魂は別物なのだろうが。
「止めないか!ナガスネヒコ!」
ガチャリと音がして、同時に静止の声が入る。
あの、ガス灯の下で会った警察の人間だった。そう、過去形になった。
みるみる内に、そのよれたコートも、中年の相貌も変化してゆく。
なびく長髪は、眼の前で笑う悪魔と逆の白髪、若い顔立ち。
『ってよぉ〜兄者、折角助けてやろーってのに、この仕打ちっしょ?カチキレれるっしょ』
『擬態していたのだ、信用など得られる筈無いと思わんか』
『ちぇ、そのまま刑事本業にしたらいいすよ』
本来の長い髪をばさりと払うナガスネヒコ、手にする煙草だけは擬態対象と無関係らしい。
指にしたままのそれを、俺に突き出し再度「ん」と促す。
『オレ等は十四代目の管仲魔、彦兄弟、コレ、そのライドウから』
「待ってくれ、おい…やっぱり意味が解らないんですけど」
何だ、悪魔だったのなら、もっと勢い付けて振り下ろせば良かった。
そう思い返しつつ、差し出された煙草を見れば、確かにあの男の物だ。
『見ての通り、私はアビヒコだ……申し訳無い人修羅、しかし敵を欺くには味方から、とは思わんかね?』
『オレは正直かったりーんすけどね』
『少し黙らんかナガスネヒコ』
あのポマード臭い風貌から逸して、暗い肌に白髪が映える悪魔らしい貌が見えた。
もう遠慮も要らないだろうと思い、俺はソファーから完全に立ち上がる。
「ライドウは何してるんです?俺放置で、また勝手に暴れてるんですか」
『あの風間のオッサンの云ってた事は本当っしょ』
「水脈云々ですか?」
『いや待ちなさい人修羅、我々兄弟は稀に警察の人間と成り代わり探っておるのだがな』
「ライドウの命令ですか?ならどうしてライドウに罪が行ってんですか今回」
『だーから雲隠れしてんっしょ』
「俺に捜査が回ってくるのを予測してる筈なのに、あの野郎…一人だけ隠れてるんですか」
『それは仕方の無い事だ、あの方は今現在表に出るべきで無いと判断しておろう』
「……っ…交互に喋るな!!」
俺は怒鳴りつつ、割れてしまった灰皿の破片を、ブーツでソファーと床の隙間に追いやった。
今は片している場合では無い、土足だろうが構うか。
『うむ、ではあの方の御処へ御案内致そうかね人修羅』
『兄者いい加減人間のオッサンの真似し過ぎて老け込んだろ、語調』
長い一角をぶつからぬ様に、近付きながらも離れ合い、悪魔の兄弟は俺を囲む。
『そいや兄者、途中すれ違ったりしんかったの?人修羅と。教会張ってたんっしょ?』
『それがだな、あまりに貧弱に見え、まさか人修羅とは思わなかったという事だ』
もうそのお喋りを止めてくれ。悪かったな、貧弱な見目で。
『あ、そーいやぁ人修羅、この煙草吸う?ライドウのMAGが詰めてあってさぁ…どよ?良いっしょ〜?』
「…要らないです」
『良いのかね?長期の擬態には最高の一服だぞ?主人のMAGが携帯出来るとは、幸せだ、我等は』
「だから!要らないって云ってるでしょう!」
ぴしゃりと拒絶した。本当は、伸ばしかけた指先が震えていた。
ソーマの風呂では充たされない胎の底が、空いていたから。
そう、それだけ、なんだ。
案内された先は、案の定、深川方面…それも萬年町。
「あーあ、風間のオッサンにどう説明すりゃいいかな〜」
「その辺は十四代目が抜かり無く運ぶと思わんかね?ナガスネヒコは面倒臭がり過ぎだ」
人間の姿でその会話は、違和感があった。
左右の正体を知っているからこそだが…どちらにせよ、俺には楽しくない。
「さて、其処の茶屋だった筈」
彦の兄の方が水路の傍で脚を止めた。ちらりと見えた水路は、ゆるゆると流れていたが…
確かに、上に揺れる桜の花弁達は、その勢いの無さに渋滞を起こしていた。
水路にも、影響が及んでいるのだろうか…
桃色の花弁は、発光している様にも見える。それはこの街路の所為。
「よりによってオカマロヲド…」
気が知れない…思わず声に出てしまった。
「オカマっちょの方が義理堅いからじゃないすかねー」
真剣なのか適当なのか、へらへら笑って呟く弟が、兄にジロ、と睨まれている。
「見るが早いと思わんか、人修羅」
「ライドウが居るんでしょう?俺を放置しときたかったんじゃないですか?あいつ」
「この宵…既にお開きの会合だろう、風間刑事が掴む尻尾はもう無い事からしても」
警察の捜査が行き詰っているのは、ライドウの思惑通りって事か。
「偉い人ってのが此処に集まってるんですよね」
「極道者に護られてな」
呆れた。やっぱり、偉い人ってのは癒着があってなんぼ、なのか。
朱色の格子戸を眺めれば、桃色の灯篭で鈍っては居るが、戸の向こうもぼんやりと明るい。
人の気配も、確かにする。
「上からコッソリ見たらどうよ、下のヤクザ衆に説明すんのもたりぃっしょ」
「っ、わ」
突如、両腋にコート袖が介入してくる。俺の意見など聞かずに進み、靴先は地から離れた。
擬態を瞬間解いたナガスネヒコが、二階の出窓に飛んだ。そう、俺を掴んだまま。
「突然止めて下さい!許可も無しに触るな!運ぶな!まだ誰も見るなんて…」
『ライドウが悪の会合に出席してるのがムカツクの?』
「違う、あの男がえげつないってのは知ってますから」
『どーなんかね、何がワルなのか、一度見たったら良いっしょ』
したり顔で俺をパッ、と投げ放すナガスネヒコ。慌ててその空室に転がり込んで、外を見た。
霧雨のまだ引かない暗い空に、眼の光る悪魔が笑って手をヒラヒラさせていた。
『んじゃ、オレは兄者と共に帝都警察部に戻りまっす』
「待て!おいっ」
『下の階で話が終わったら、ライドウに直接聞きゃ良いっしょ、オレ等まだまだ仕事あるから』
下方から、兄の方の声が響いてきた。
「では十四代目に宜しく…“家政婦少年の裏は取れた”と、風間刑事には説明しておく」
窓から見下ろせば、既に彦兄弟は人間の姿で刑事として踵を返していた。
「…くそ」
桃色の光が溢れる、逆光で室内は暗い。
(見ろ、聞け、ったって…どうすれば…)
ふんわりとおしろいの匂いが立ち込める部屋を見渡し、襖の位置を確認する。
少し開けば、光も無い廊下が広がっていて、その行き止まりに階段らしい暗がりが見える。
這って行けば、近付くにつれ暗がりは明るみに変わり、気配が混入してくる。
一段一段、掌を着いて、下階を探りながら降りれば…
話し声、それとなく、から、やがて鮮明に。
「本当に水脈は戻るのかね?」
「あの湯屋には大枚叩いているんだ、いい加減戻ってくれんと!」
スーツ姿も居れば、着物の初老の男性まで。十の人数は居る。
誰がどの業界人か知らないが、確かに偉そうだ、皆一様に。
「戻りますよ、朝方にはね」
はっ、とした。ああ、あの男の声だ。
少し身を乗り出して、視線をギリギリの範囲まで流す。
外套のまま、煙管でふぅ、と毒を吐くライドウが…
「金融水脈でも牛耳るつもりだったのでしょうかね、何者かが抜け駆けしたのだと思いますよ」
いつもの、あの美しい立ち振る舞いで、述べていた。
「抜け駆け?誰が…」
「さぁ?自分はただ、水の妖を始末して、本来の流れに戻しただけに御座います」
フフ、と哂って、管の辺りを外套上から指で撫ぞる仕草。
「居るのでしょう?この中に、非公認のサマナーを雇ったか…サマナー御本人が」
と、ライドウが云い放った直後…畳の上、円状に並べられた座布団の一箇所が、欠けた。
台詞に触発されたのか、そのお偉方の一人が飛び掛る。
「ふざけた事を吐くな!書生如きが!」
あっ、と思わず声が零れ、俺は階段から転がり落ちた。
一斉に俺へと眼が集中する一方、気を散らす事も無いライドウが、腕を振り抜く。
金属音がして、畳に突っ伏す俺の眼の前で、軽い音がした。
今度はマッチ棒でなく、封魔管。
「…サマナー!!」
「お前まさか、ヤタガラスに与しておらんだろうに!」
「悪魔使いだったのかぁ、あんたぁ…たまげたわい」
ライドウの煙管で、指先に携えた管を跳ね飛ばされたか。
それが俺の手前まで、吹っ飛んで来たという事だ。
周囲の男達が怒号を飛ばす中、部屋の四方から晒を巻いた極道者が駆けつける。
「おいライドウ、ワシ等は此処で血祭するのは御免やぞ、畳張り替えんとアカンくなる」
その中から、よく通るドスの効いた声がした。見れば、あの貫禄の違い…やはり佐竹だった。
非公式サマナーを取り押さえる子分に目配せして、周囲を鎮めている。
「のぅ坊?お前も血ぃ苦手だろうが?え?」
転がるままの俺に、振り返りニィ、と笑った。
俺は慌てて立ち上がるが、状況も解らないのに云い訳なんか出来る筈も無く。
唇を噛みつつ静止していれば、ライドウが肩を震わせ哂った。
「ッフフ……佐竹さん、そいつは慣れたものですよ、血なんてね」
奴のその声に、否定しようと僅か首を振ったが、佐竹も笑い返している。
「そやな、血ぃの臭いしよる、ビンビン」
風間刑事には指摘されなかったというのに、それこそ慣れた者の違いなのか。
「処分は貴方達にお任せしますよ、ヤタガラスに預けては、それこそ私刑では済まぬかも知れませぬ」
振るったのに、先端の灰は落ちていないのか、手にした煙管を再度咥えるライドウ。
黒に真鍮の細工だろうか、あまり明るくない室内で、それがきらりと光った。
「帝都の水を踊らせたウンディーネは、此処に居りますよ…フフ、使役するなりに可愛がりますので御安心を」
畳に捻じ伏せられるスーツの男を、見下して冷淡に微笑むライドウ。
愛撫みたく胸元を撫ぞり上げる白い指先は、封魔した水の精に対してか。
「っ、カラスが、良い気になって!ウンディーネなぞくれてやるわ!」
「自分はこの件、一切カラスに絡めておりませぬ、お生憎」
「ど、どうやって警察に説明つけるんだ?え!?きっともうお前の悪行は噂されてるぞ…葛葉ライドウ!」
「……警察?」
すぅ、と煙管から吸い…唇を離す際、舌が赤く覗く。
ニタリとしたその顔は、愉しそうに吸った毒を吐いた。
低く視線を落とし、そのサマナーを覗き込む様にして、妖しく微笑み、吹きかける。
「もう居りますよ?帝都警察部…この空間に」
「な、に」
「誰、とは云いませんがね…クク……狂犬と名高い風間刑事の上司様ですから?ねぇ…きっと流してくれますよ」
煙管の先端の灰を、今度こそ落としたライドウ。睨み上げる、そのサマナーの脳天に。
悲鳴するその男を、極道者が取り押さえる。周囲の男達が取り囲むまま。
暴力的な空気が渦巻く、MAGでなく、そういう感情だけで構成されるモノが。
「自分は帝都の御為、水脈を戻しただけ…土地権・水源の権に関しては、どうぞお好きに」
誰も俺なんか気に留めず、いよいよ私刑の始まりか。ライドウは哂って手を二回叩いた。
あのサマナーが抜け駆けした、という事しか判らないが、きっとそれで十分だった。
「ねぇ?佐竹さん…話した通り、水に流されましょうねぇ?フフッ」
「あの重役が終結の為の生贄かい葛葉、おっかねえもんじゃ」
「僕にとって、あの男が企業のお偉方だろうと関係無い、第一線から離れているなら、下にも影響はほぼ無いでしょう?」
云い終えたライドウが、まるで…俺がビフロンスに投げたかの様に、佐竹に目配せしていた。
後始末は、佐竹の組の仕事なのか。
「さ、行こうか、功刀君?」
と、あまりに自然に声をかけてくるので、俺は咄嗟に反応すら出来なかった。
外套をばさり、と羽織り直して、いつものあの眼で俺を真っ直ぐ見つめる。
何故か、怒鳴りつける威勢も出ずに、か細く俺は問いかけた。
「…あんた、俺に一切話さなかったよな、今回の件」
「それが?」
「迷惑…被った」
「へぇ?アビヒコ辺りが先手を打って、君に忠告しに巡回してなかったのかい?」
その言葉にぎくりとする……そう、アビヒコは人修羅だと判らなかったんだ、俺の事を。
だから、刑事の一人として通行人の俺に聞き込みをした。それだけに終わった。
ああ、あれは忠告の為だったのか…そう、か。
「魔界から天主教会へ戻るのは時刻も不明瞭だからねぇ…あの職業なら深夜でも怪しくないだろう?」
「あんた、管に入らない悪魔、どれだけ使役してんだ」
「さあねぇ?君に教えたところで、記憶出来まいだろうよ」
「…っ」
戦慄けば、場を取り仕切った佐竹が、ライドウの背後で笑った。
「あんま苛めんなや葛葉、悪魔とかよぅ分からんが…お前がその坊を放って不安にさせたんは違いねぇ」
その言葉に…どうしたのだろうか。妙にカチンときた。
相手は極道の親分だと、分かっているのに、声が喉の奥から突き抜ける。
「不安じゃない!どうしてこんな男…ッ!」
もう、いい加減にしてくれ、沢山だ。
「功刀――」
ライドウの声を通過して、茶屋の出入り口に駆け出した。
俺の顔を微妙に見知っている極道者達は、俺を止めずに視線だけで追ってきた。
そう、取り押さえる必要なんか感じてないからだ。
そう…脅威も、心配も、何も抱かないのだ。
何か、が俺である必要は無いのだ。魔界でも帝都でも。
(どうして俺が、どうして誰も)
桃色の街路に飛び出たが、この妙な時間帯、オカマすら居ない。失笑モノだ。
「はぁっ、はぁっ」
霧雨だろうがお構いなしに、何も追ってこないのに、ひたすら駆け抜けた。
多くの視線の中に居れば、意識せずには居られないから、逃げたかった。
水路の上の橋を渡れば、ぎしぎしと啼く足場。
桃色の灯篭が、桜を一層鮮やかに照らしていた…
花弁は、懸命に水面を泳いでいる。水音が、先刻より大きい。
ライドウの云っていた通り、本来の流れに戻りつつあるのだろう。
「――ッ!?」
水音が近くなる、いや、俺が近付いたのか。
視界が横になり、一気に高度が下がった為だった。
じくじくと、熱から寒気に変わる…ああ、どこか、撃たれたのか。
「呼ばれて返事もしない、止まりもしない…」
首だけを動かして、視線を声の方に投げた。
薄い、桃色が霧雨で乱反射して、異界の様なけぶる空気の中に…俺の主人が見えた。
この気候だからか、既にリボルバーはホルスターに戻されている。
「“待て”も上手く出来ないとは…僕の悪魔の自覚、あるのかい?」
「…んな、自覚、持ったら…最後、だろ」
力が入り難い…脚を撃たれたのか。
「今回は利権絡みだ、それこそ君を連れた状態が面倒と思ってねぇ?」
「俺は…」
「君が人間を尊重するかの様に横槍を入れる事は、予測されていた…」
「人間を…尊重?」
「そうさ、君は毎度、まるで善人が如く僕を糾弾するだろう?闇に精通しているだけだというのに」
学帽の下からのその眼は、光っている様にも見える。
いや、周囲の光を飲み込んでしまうのか、深い闇の様に。
「余計な事を口走られても困るのでね」
かつかつ、と、石畳を啼かせる。
すぐ傍まで来ると、脳天を靴先で小突かれた。痛みにすくむ身体が、びくりとした。
「臭いよ…何を殺してきたのだい?」
「殺しては、ない…多分」
トップスのネックに、靴先を差し入れて、項の辺りを甲で苛めてくる。
ぐぐ、と絞まる首許に、呼吸が困難になる。
「フン、僕が居らぬ間、しっかりと城で暇潰し出来ているではないか」
その嘲笑にカッとなって、その小突く脚を咄嗟に掴み上げてやった。
が、即座に納刀したままの鞘で、重く一撃…腕の筋に喰らわされる。
痺れる腕はそのまま落ちて、俺はライドウに縋る形になった。
酷く、惨めな構図。
「僕はねえ、功刀君…デビルサマナーだよ?葛葉ライドウなのだよ?」
ずる、と、掴み寄せられるガーゼの襟が…
びり、と、千切れそうに、俺の代わりに悲鳴する。
「適材適所、使役する仲魔の其々…使い道は心得ているのさ」
「道具、だろ、どうせ」
「そうだねえ、そういう契約の下にMAGも与えているのだから、何も悪くは無いだろう?」
事実、ライドウに使役される悪魔達は、皆愉しげだった。
俺を除いて。
「俺は…俺はっ」
触れそうな睫がくすぐってくる、苛々する、何も、愉しくなんかない。
「俺は、あんたの傍に居たくない」
怒りを滲ませた筈だってのに、何故かか細く消えていった。
ただ哂う、その相貌に淡々と告げた。
「俺の分まで空気吸って、俺の発する気も吸って、俺の事、全部掻き消すんだ…あんたは」
「…随分と抽象的だね」
「この世界でも、城でも、何処でだって、俺はあんたの影でしか無いんだろ…」
もう、自分でも何が云いたいのか分からなかった。
「居なくても事が進むなら、最初から契約するな――ッ!?」
云い終わらない内に、額に衝撃が奔った。
こつんと、つばの感触に続いてがつりと頭蓋の打撃。頭突きされたとようやく把握した。
「下らぬ戯言はそれで終いかい?」
思っていたより石頭なのか、そのくらいお硬い頭してくれてたら楽なのに。
そんな事をクラクラした脳内でぼんやりと考えていれば、突如太鼓を取り出したライドウが見えた。
たたん、たたん、と、鳴らされる音に呼応して、龍の頭が街路に下りてくる。
『狭いなライドウよ、そして花街にしては実に粉っぽい…人間の“化粧”のニオイか?』
「コウリュウ様、花粉症では御座いませぬか?季節ですからねぇ…フフ」
こんな処に呼び出して、なんて奴だ。
「い、っ」
「ほら、しっかり乗り給えよ、墜落しても骨は拾ってやらぬよ」
促され、仕方無くその鱗の背中に跨った。あまり機会の無いこのタクシー。
電車も無い時間帯だから…の選択か?
ライドウは全ての主導権を握られる事を避ける。
コウリュウにも、あまり乗りたがらないのに。何だ、何処へ行く気だ。
霧雨の雲間は、酷く湿っている。寒い…ライドウほど着込んでいないので、酷く。
「この麓でお願いしますよ、コウリュウ様」
『ほう、随分辺鄙な処を指定するのだな』
降ろされる、その場所は確かに鬱蒼としていた。
樹々の隙間に飛び降りるライドウ。俺はコウリュウの頭まで這って、足場を確保しながら降りる。
『足蹴にするでないわ』
その文句に振り返った頃には、既に空に帰っていた。
とはいえ、応酬するつもりも無かった俺は、視線を周囲に流す。
何だろうか、何も無い様に見える……影になったラヂヲ塔がぼんやり霧隠れ。
山寄りだが、それも本当に…人の介入しない範囲だろう。
獣道しか見当たらない。
「…おい、もう汚い話済んだなら、さっさと銀楼閣戻らないのかよ」
「朝に水脈が戻ろうが、ボイラーで沸かすのは時間が要るだろう?近場の銭湯にはありつけぬ」
「大國湯は」
「あすこは開くのがやや遅い」
ざくざく、と湿った草木を掻き分けるライドウ。
溜息でその後を、一定の間隔を開けて追う。
「沸かぬなら、湧かせれば良いだけだ」
呟いた奴は、突如管を外套から突き出す。警戒していた俺は、身構えたが…
蛍光色と現れたその悪魔は、あまりに普通の動物のシルエットをしていたので、拍子抜けする。
「何だよ…その悪魔」
「序列四拾七番の公爵、ウヴァル」
黒いのは、逆光によるシルエットかと思ったが、毛色が黒だった。
ヒトコブラクダ、という生き物の形をしている…悪魔には、見えない。
『ミサー ルヘイル』
ぎょっとして、そのウヴァルを眺め見た。その獣の口から発される声音は、しっかりと声だったから。
「ミサー ンヌール……さて、辿ってくれ給え、ウヴァル」
返事して、外套の内から取り出した織物をそのコブに掛けたライドウ。
チラ、と振り向き、俺に指図する。
「その様にだらりと追従されてはねえ?…迷子になりたいのかい君?」
「ま、迷子だと…っ…馬鹿にしてんのか」
「ほら、さっさと乗り給えよ…クク、探してなぞやらぬからね」
でも、実際身体は妙に疲弊していた。おかしい位に。
睨みつけながら、その二輪より車高の高い背中にぐ、っと跨った。
身体の下で、七色の煌びやかな織物が揺れる。
「直接跨っては、魔力の脈が乱れるかもしれぬのだよ」
「脈が…」
「そう、水脈と同じ…僅かな綻びも、歪曲も、正常な流れに支障を齎す」
織物の端を指先に遊ばせ、クスリと哂うライドウがウヴァルに何か唱えた。
もったりとした揺れに、脚でハングオンして、しがみ付く。
「き、急に動くな…!」
「フフ、水の匂いを嗅いでいるのさ」
「み、水…?」
「そういうのが得意なソロモンの悪魔だ」
ゆっくり白んでゆく空が、朧月に照らされている。
ざりざりと、ラクダのウヴァルが踏み締める大地の音が変わり始める。
『イッディーニ マイヤ イッディーニ マイヤ』
ぼそぼそ喋る下のウヴァルが気味悪い。
「なあ、何云ってんだ…この悪魔」
「水を欲しているのさ」
「つっても何でこんな山中で…もう水脈云々は済んだんじゃないのか?」
「折角召喚したのだから、利用し尽くさねば勿体無いだろう?」
「何だよ、それ…意味が分からない」
ライドウの返答に、最早追求の気すら失せ、項垂れた。
サイケデリックな織り柄の反物…幽かに異国の匂いがする。
「アトラス紋様、クイナクなる民族衣装にも使用される」
「別に、聞いてない」
「派手だろう?」
「デュオニュソスみたいで眼がチカチカする、けばい」
苛々し過ぎて、ライドウがムカつき過ぎて、何も考えて無い俺。
鬱蒼とした景色は、徐々に色が変わってくる。
断崖絶壁に近いのか、岩肌と、乾いた砂が姿を見せ始める。
(いつもこうして放置と思えば引きずり回して、最悪だ)
ぼうっと前方の、ウヴァルの脳天を見ていたその時。
「月の〜…沙漠を…はぁるぅ…ばぁると」
数日前の、大國湯にあった鉱石ラジオが蘇る。
「旅の〜…駱駝が…行きぃ…ました」
ノイズも何も混じらない、冷涼とした声音。
ウヴァルと並ぶライドウが、赤い唇で紡ぐ。
祝詞でも呪いでも何でもなく、ただの童謡。
ライドウに一見似合わない、少年少女の歌…
「広い〜沙漠を…ひぃと…すじに――」
「っわ!?」
いきなりの静止、もんどりうった俺はウヴァルの首に突っ伏した。
歌を止めたライドウが、ニタリと哂ってウヴァルに問いかける。
「ワッラーヒ?」
『イエムキン モムキン』
「シュクラヌ」
その哂いのまま、会話を終えたライドウが、管を振り翳す。
あ、と思い飛び降りれば案の定、俺に配慮も無しで管にウヴァルを戻したのだった。
「一声かけろよ!それにさっきから意味不明な言葉で会話して」
「エジプトの口語“アーンミーヤ”だ、ウヴァルも大して上手では無いがね」
する、とホルスターに挿すと同時に、反復する指先が隣接する管を引き抜く。
その流暢さは、言葉だけでなく指先も、か。
「穿ち給え、ショウテン」
巨体がたたらを踏めば、僅かに地が揺さぶられる。
『ライドウ、何を叩けば良い!?そこの小僧か!?』
牙の隙間からギョロリと俺を見据えた象に、ライドウは失笑して顎でくい、と示す。
「砕け散ってしまうから今は止しておくれ」
今は、とは何だ、この男。
『山!?よもやこの山を砕けと云うのか!?』
「ああ、そこの一部で良い、その頚動脈に一撃宜しく」
『うむ!ライドウの云う事ならば此処が脈にて違い無し!ォォオオオオオン!!』
巨体に負けぬ矛を振り下ろし、開けた空間の草地を叩き割る。
ぞぞぞ、と、足下で蠢く音と感触。
砕け散った地表から、噴出する間欠泉。
少し浴びたのか、ショウテンが一瞬嘶いた。それを見てせせら哂うライドウ。
唖然としている俺の眼の前で、ショウテンに代わりイッポンダタラを召喚し、命令する。
岩肌から砕かれる無骨な、それでいて頑丈そうな天然の石材。
それ等が振り抜かれる槌で、間欠泉を囲めば…なみなみとたゆたう水面。
遠くに見える断崖からの水平線と重なる。
「施工完了」
さらりと述べて、愉しそうに仲魔を管に戻す。
くるくると指先に遊んでから、ホルスターに仕舞うライドウ。
完成した天然温泉の湯気なのか、霧雨なのか、朝靄なのか判らない。
そんな霞んだ空気の中、その黒い外套に向かって…俺は感嘆が出た。
「施工ってあんた…これ」
「温泉」
「そうじゃないだろ!何しに来たかと思えば…!こんな事?」
「地の水脈を占うウヴァルが居れば、可能かと思ってねえ…目星は付けていたのだよ」
不敵に微笑み外套の襟を緩めるライドウ。まさかと思い指先を視線で追えば…
するすると、外套を脱ぎ、一際大きな岩に掛けた。
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