生死滲出
『はあ、私が、ですか』
「こましゃくれておるが、素地だけは一級のものだ、崩さぬ様に」
『嫌なのですがねぇ、人間単体に眼を注ぐのって』
槍を担ぎ直し、黒装束の一羽を見る。
槍術の指導に切りをつけ、肩に掛かる銀糸を篭手の指先で掃った。
「ほう、如何様な理由があって?」
『深く関わるのは御免ですから、人間も悪魔も、ね』
「面倒か」
『いえいえ、お里の命は契約に含まれておりますから、なんなりと』
槍に絡ませた腕の先、柄をするすると撫ぜてMAGに融かす。
装束に云われた通り、後に続けば庵が見えた。
此処、ヤタガラスの里で、人間という生き物が住まう箱。
私は基本的に入る事の無い空間。
『では私は、管に入るという事になるのでしょうかね』
「いいや、今後も指導は担って貰うのでな…管から出ている方が長いだろう」
『安心しました、寝すぎては床擦れを起こしてしまいますが故』
鼻で笑って返す一方、装束の足は止まる。
「どうした、居らぬではないか…」
薄く西日の射す板の間、落葉と落陽の見える部屋。
西からの陽を直接降らせるこの庵は…恐らく大事にされていない。
陰の気を呼び込み、やたらに朱が眩しい。
夏には暑く、冬に幽かに注がれる陽とて薄い。
その斜陽の意味するモノは、《衰退》…《死》…
『もしや孤児のあの仔ですか?』
「流石に耳に入れておったか」
『悪魔はね、噂好きですから』
噂、というより、私の好奇心が覚えていたまでですがね。
「ついでだ、師範よ、見回りも兼ねて捜してきや」
装束が障子をやや乱暴に閉め、下駄を履きなおす。
縁側の縁で待っていた私に指令する。
カラスの鳴き声は、里の命。
『仰せのままに』
秋という気候か。
戦ぐ赤が、この眼光という器官を以ってして体を支配する。
"曼珠沙華"はこの里を飾る額縁。
毒花に囲まれた、如何にもな光景…
人間の生活集落から更に離れた里は、國家機関の術師が住まう。
悪魔召喚師…デビルサマナー。
かつての私の主人もそれであった。
しかし甲斐なく散り、今の私を縛るは里そのもの。
自堕落に過ごそうが、縛られようが、大した望みなぞ無い。
ふらりと散策に往かされた折、同族の淑女と戯れ、適当に喧嘩を買う…
それができれば上等。
(里の人間を観ているのも、一興)
嗤えてしまうのだ、里という見世物が。
あんなに小さいのに、其処には既に世界が在る。
同胞の中にも、小競り合いや斜陽が在るのだ。
『居られますか?』
里の、山間近く。鬱蒼と樹が隠す陽射し。
湿った朱色が一心不乱に天を仰ぐ花畑。
あまりな朱の氾濫ぶりに、人間も寄り付かぬ此処に、予感はしていた。
「誰」
利発そうな声音、でも幼さが滲む。
『もう烏も鳴いておりますから、庵に戻って下さいね』
「答えろ、僕は“誰”って聞いてるに」
やや上方からする声と気配に眼を向けると、この花畑で背が随一高い樹から。
褐返色の着物袖を捲り、擦れた荒縄を腕に携えた童が一人。
『木登りですか、元気で何より』
「…タム・リン」
『幾度か面識は有りましたよね?紺色の君』
するすると降りて、数本の曼珠沙華を下駄で踏みしめ着地した。
その少年の眼は、この朱い薄闇で…ひっそりと輝いている。
「ふん、烏の号令でひと駆け…か?犬は色違いの方だに?軟派悪魔」
クー・フーリンを指しているのか。
悪魔への造詣が知れる瞬間、私の興味は花開く。
『いえ、しかしですね、これよりは貴方様のお傍にて番犬ごっこをする事と相成りまして』
ひくり、と、少年の頬が引き攣った。
誰をも寄せ付けない、孤高の狐。
親無しが故、同郷の童達はこの仔を苛む。
生きる為に必要な営みから外れた、狂ったミクロ・コスモス。
「僕は必要としてないに」
『上からの命令です、この巣に居るからには従わなければなりませぬよ?』
ざくざくと朱色の波を立たせる少年が、早速私を突っぱねた。
(そうでなくては、面白くありませんからねぇ)
ほくそ笑んで、彼が先刻まで居た樹を眺める。
音も無く垂れ下がる縄を見て、その先端に何を括るのか、考えていた。
何の為の工作をしていたのか…
恐らく、童の遊びでは無いだろうと。縄の先端の輪を見て思う。
『お待ち下さいな』
新しい主人の後を追う。
『下の名を頂きたいのですが』
「どうして」
振り返らない背中に、穏やかに答える。
『私の鳴き声を判別して頂きたく存じます』
そう告げれば、夕刻の陽射しに照らされた顔が、ゆっくりと此方を向く。
小さな顔に、切れ長な眼が綺麗だ。
「僕の名前なんて…皆と同じ、紺か狐と呼べば良いし」
『何処から見ても人間の形ですが?それに、名は結びを強くしますからね』
風が出てきた。先刻の縄の影も、それに揺られる。
「お前も苦労すんね、厄介者を押し付けられて」
ざくざくと、茂る小路を進む姿は、焔の中を歩むかの様に見える。
『いえ、永きこの生、色々噛み締めるが愉しい事と心得ておりますからねえ、ふふ』
その、細い背中にさくさくと数歩で駆け寄り、自身の甲冑から垂れるマントをカチリと外した。
『お体を壊されては私が叱られてしまいますから』
私の羽織らせた布を、一瞬ビクリとして手を掛けた少年。
顰めた眉、薄く開いた眼で私を見上げた…が、そのまま止まる。
私はそれとなく知っておりましたから、貴方が笑顔を向けられる事の少なさを。
それに如何様に返すべきか、戸惑いをきっと見せると確信を得て…
やんわりと、微笑んだのだった。
「結局は己が大事、と受け取って良いん?」
『ええ、私は隠しませぬ、ですから、貴方様も明かして下さいな』
「フン、悪魔め」
立ち並ぶ樹の影が一層濃くなる。
遠くの山の端に、ゆっくりと温かさが吸い込まれようとしている。
帳の下りる空気を感じて、か、ぽつりと呟く少年。
「夜」
『ええ、そろそろ来ますね』
「違う、僕の名前」
はっとして見つめ返せば、大股で逃げる様に離れて往った。
頭上の空の色は、あの仔の眼の色と同じに染まり始めていた。
葛葉四天王、という席を取り合うべく組まれた候補の雛鳥達。
常人には見えぬ存在が視える、特別な霊力を持ち合わせる人間。
いつかは此処を巣立ち、各々ヤタガラスの一羽となり暗躍するのだ、陰の世界で。
『夜様、失礼』
手にした竿で、数日前にマントを掛けた背に、ぴしゃりと軽く打った。
キッと振り返る、その怒りすら綺麗に映える相貌に、笑顔で云う。
『背筋が猫の様でしたので』
「そんな事まで云われんのか」
『貴方はきっと背が伸びますから、進言させて頂きますね』
「ホクトセイクンかヤマにでもさせたら?板でさぁ…肩を一喝…くふふっ」
冗談めかして哂う、その形は幼いのに、会話の術は大人びていた。
『上背があるのは得ですよ?それだけで相手を威圧します』
「薪は楊枝にならぬ」
『夜様、それに立ち姿が美しく見えます』
「悪魔が駆れて戦う事が出来れば、それで良いら…」
『美しさに悪魔は惹かれます、貴方様ならまず、それが早いかと』
「ああ、だからお前は容姿ばかり磨かれてるのかに?色惚け」
辛辣な言葉も、弾ませる会話の術。
くすくすと私から零れる笑いは、意図せずとも発されたもの。
其処に才を感じる。
『おや、リャナンシーと遊んでいたのを見られましたか?』
「僕の庵の外で遊ぶな…」
『夜様に何かあっては困りますからねぇ、在宅警備です』
「の割に、喧嘩には口出ししんじゃん」
『貴方の首を絞める事となります故』
「なるほど…お前、馬鹿じゃないら?…守護と庇護を履き違えてない」
落ち葉の獣道を並んで歩き往けば、見えてくる湖畔。
さして透き通ってもいない其処の岩石に、道具を一式下ろす。
竿を槍の如く回し担ぎ、一瞬警戒した貴方に向かい、差し出した。
『さ、どうぞ、夜様の分です』
その眼つきが険しくなった。
「…おい、僕は太公望じゃあないに、やっぱ馬鹿だらお前」
『ふふ、稽古ばかりではお疲れかと思いましてねえ』
用意した釣竿は、餌すら括れぬ真っ直ぐな針、しかも短い。
間違って魚が喰らいつこうとも、引っ掛かりもせずにするりと抜けるだろう。
「馬鹿馬鹿しい、一人で遊んだら?」
『では、私が手本を御覧にいれましょう、夜様』
ああ、愉しい。槍術の手本を見せるより、この方が性に合う。
水面の私の笑みが、針の切っ先で環状に割れる。
垂らした先には餌も無し。
『生き物は、知らず知らずに気配に寄せられます…』
一呼吸軽く置き、篭手の先から魔力を流す。
私の甲冑の色を融かしこんだ様なソレが、釣竿を伝い、針の切っ先へ。
傍に居る貴方が息を呑んだ。
『持った得物に流しませう』
針の先から、魔力が滴り形を成す。
揺らめく影が、それに喰らい付いた。
一気に引き上げ、雫が冷えた空気に舞う。
『狩った得物に流しませう』
流し方を意識して変える、引き上げたその魚は一瞬で貫かれた。
尾の辺りから突き出た針は、針に非ず。
「マグネタイト…」
『御名答、ささ、このまま焼いてしまいましょう』
主人の回答に満足して、私はアギを唱える。
『内から焼いては“外はパリパリ中ふっくら”になりません!炎は外から、ですよ?』
眼前に引き寄せ、適当に見繕った小枝を、MAGの針で貫通した穴から通す。
唖然とした主人に、今度はソレを差し出した。
『食べ盛りの貴方が召し上がって下さいな』
「…そ、そのまま?」
『そうです、マルカジリ、でどうぞ?回虫くらい胎で殺せなければ葛葉になれませぬよ?』
(いつかは人を殺めるのだから)
受け取り、皮の焦げた魚を暫し見つめた主人。
ぎょろりと舐める目玉にいい加減辟易したのか、頭からかぶりついた。
咀嚼の仕方は幼い。
『如何です?』
「………なまぐひゃいに、これ」
『ああ、せめて塩くらい振るえば良かったでしょうか…申し訳ありませぬ』
謝罪すれば、嚥下して…小さく吹き出した。
「でも、中はふっくらだ」
呟いて、細い腕を突き出してくる。
「その竿を貸せ、MAGの疑似餌を作れば良いんだろ?」
『私の故郷では疑似餌釣りが基本でしたからね、餌を与える必要は無いのです』
ああ、真意を察する貴方は聡明だ。
『腹ごしらえも済ませたのですから、暮れる前までに五匹程度はお願いしますね』
「…倍の十は釣ってやる」
見上げてくる眼に宿るのは、貪欲に上を獲る姿勢。
それは戦い抜く上で必要な欲求。
美しい姿勢で竿を振るった横顔は、捕らえる側の笑みを浮かべていた。
「最近紺色の稽古をつけるのが怖いわ」
刀の師範が、がやがやと集まる稽古場の隅で零す愚痴。
「与えてるのは何の変哲も無い木刀ってのに…切れ味がある」
それはそうだ、その為に普段からMAGを揮う機会を与え続けているのだから。
あの方の魔力を操る術は、恐らく候補衆の中では一番だろう。
『おや、候補の童に畏怖してらっしゃいますか?』
私の声にぎょっとして振り返る。
嫌悪感を滲ませるその表情、云わずとも判る。
悪魔如きが、というその感情。
「他の候補と手合わせさせた折に、怪我させんじゃないか、アレは」
『修行中の負傷なぞ、日常茶飯事でしょう?』
(そう、修行中なら、ね)
軽く会話し、道場を出れば、曇り空。
その空が如く、此処に淀む空気に、少し感情を呑まれる。
サマナーとして、悪魔を使う…
悪魔は、使役すべき存在。上に居るのは、人様。
その間に、別の感情は、在りや?契約が結ぶそれは?
「こん、こんこんこーん」
遠くから聞こえてくる…《とおりゃんせ》でも《かごめかごめ》でも無い。
椿の蕾が生る樹を壁にして、静かにその向こうを眺め見た。
着物の袖を掴み合い、じゃれあう童達…と云えば聞こえは普通だが。
単体に対して囲み、殴る蹴るの其れは、遊びとは云い難い。
「顔は止せよ、じじい等に文句云われんに!」
「狐、やったら贔屓されてんしなぁ、おめぃ」
せせら笑って、両側から羽交い締めにされる主人の胎を蹴った童。
鼻緒の先を指に引っ掻け、下駄の歯をあばらに抉り込む執拗さ。
「ぁっ、ぐぅ……こ……この、群れ烏……ふ、ふふ」
流石の主人も厳しいか、咽る声が絞り出されている。
しかし、哂って睨み返すその歯向かいが、更に歯を喰いこませる。
その、自尊心の高さ故、貴方は嬲られる。
骨折までいきそうなら、止めに入ろうかと考えあぐねている私。
すると、主人の指先の揮えが一定の動きを取っているのを視界に確認した。
呼び醒ます印。その指先に滲むMAG。サマナーの動き。
瞬間、周囲の童達が脚を止める。
地中より、ずぐり、ずぐりと生えた何か。
それ等が脚を捕らえていた。
そういえば…今、私刑が行われている場所は、墓地の傍ら…
(召し寄せた?)
候補のはしくれだけあって皆、己の脚を掴む白い骨が視えるのだろう。
悲鳴を上げて、私の主人を突き放し、倒れ込むなりもがくなりする苛めっ子達。
「…っふ……ふふっ、仲良く、遊んでたら?」
阿鼻叫喚の中を這い出て、駆け出した主人を視線で追う。
肩で息をして、やがてその足どりはふらりと定まってくる。
予測通りの場所に向けられた姿勢に、それとなく笑みが滲んだ。
きい
きい
『夜様』
暫く歩いた先で、最近は耳に馴染んだ音が響いていた。
此処の、薄暗がりが、貴方には心地好いのでしょう。
「……此処に垂れた紐が、あのままなら、すぐに逝けたのに…この、お節介が」
『そう仰いますな、はは、悔しい癖に、まだ死ねない癖に』
微笑んで、近くに寄れば、紅い華水面が揺れる。
こんなに綺麗なのに、里で貴方しか理解していないとは、嘆かわしい。
「ブランコなんてさ、幼稚だら?……作り変えるにしたってさぁ…」
『《鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし》』
ひとつ詠い、その板に項垂れた貴方ごと、ぎい、と押す。
『ブランコは漕ぐものです、往ける所まで高く…ね』
揺れるまま、うっそりと見つめてきた主人の眼が私を捉える。
『愛は待つものではありません、憚り、激しく奪いに往くものです』
「愛って…そもそも何を指すの?」
少し咽て、貴方が唱えた。
「子孫を残す為に、生体が脳に与える錯覚?自己保身の為の依存?」
とても幼子から出る言葉とは思えない。
『それは個々で違いますからね』
強く押す、高みに往く程、しがみ付く腕。
『心配も妬みも慈しみも支配欲も肉欲も、思う者によれば愛となりましょう』
「おい…なにそれ…不明瞭」
『ええ、難解な感情です』
貴方が、きっとそれを感じ取った事が無いのです。
生まれた頃から、ずっと此処で虐げられる貴方には…
恐らく、偏愛しか与えられた例が無い。
高い魔の力…ともすれば、影の者に近いその気。
乳臭さを払拭した、その冷たい相貌。
「帝都に往けたら…愉しいかな?」
ぽつりと零された貴方の声に、何故か戸惑う。
此処とて腐ってはいるが…人の多い都会は、異界の様な場所だ。
『夜様が候補の頂点に達すれば、往けますよ』
それが幸福なのか。
「そう……ま、拾われ者の使用価値なんて、それで決まるって自覚はあったからに」
痣だらけの素足を振るって、己の力で漕ぎ始める。
「葛葉の帝都守護…獲るぞ、僕……なあ、リン!」
北風も出てきたこの頃より、貴方の眼が葛葉に向いた。
疾走すれば、風はより冷たさを増す。
失速すれば、再び加速する事は難しい。
夜様…貴方は、何に向かっているのか、解っているのですか?
知っていて止めない私は、残酷でしょうか?
いいえ、仕方の無い話…私はこういう生き物ですから。
「リン、先日依頼した本」
ふと、思い出したのか、主人が椅子に座ったまま顔を向けてくる。
あれから少しばかり経った…それだけなのに、人間の成長は早い。
すらりと着物の裾から伸びた脚は、薄く、しっかりと筋力を湛えている。
まだ子供…だが、幼少というには大きい歳と成った、私のサマナー。
『行商にこっそり頼むの、結構大変なんですよ?』
「…嫌なら僕が自分で頼むわ」
『そそ、それは危険ですからっ!』
フン、と哂って、私から渡されるを待つ。
外はしとしと雨が降り、そんな貴方の黒髪がどこかしっとりと艶めいている。
陰った少年の美しさは、ここら一帯の悪魔にも伝わっていた。
役得、と女性悪魔に罵られる私は、毎度笑って誤魔化す。
『私が妙な眼で見られますよ…ホント』
求められるのは、雑誌が殆ど。
他からの情報を遮断される此処では、当然御法度。
こんな橋を渡ってしまう私は、恐らくこの少年に何か抱いている。
“浅く広く”が身上だったというのに、どうしたものか。
『はいはい、此処に揃って御座いますよ』
風呂敷を、天井の隅、隠し納戸から取り出す。
槍で金具を引っ掛けて、するすると開け閉めする。
その槍先で断ち切らぬ様気をつけながら、主人の眼前にぶら下げた。
『キング・宗教と科学・蠍・少女文芸・小令女・GERMANIA…』
「フフ、そぅそぅこれこれ…」
ちらり、眼を通したが、どの雑誌もちぐはくで。
「クッ…フフフ…見て!これを呑むと簡単に勃起するんだと…あっはは!」
内二冊なんかは女性向け。
「“帝都の乙女はリリアン・ギッシュを真似て化粧する”……ふぅん」
『お化粧ですか…実はその辺り、私は疎くてですねぇ』
「アイライン、を筆で引いて、シャドウなる粉で暈す…だって」
頁をぱらりぱらりと捲っては、眼を細めて愉しそうにする。
その顔を見ると、葛葉の席を獲り合っている事など、忘却しそうになる。
「シャドウっていうの、チョウケシンの鱗粉で代用可能かな?」
『夜様、モボにでも成られるのですか?』
「違う…!女性悪魔との交渉はこの手の話題が引きが良いからだよ、馬鹿」
『はあ、なる程、貴方もいよいよ私の仲魔入りですか』
「馬鹿、ばーか」
長い脚で軽く蹴られた私は、笑って板の間に敷かれた柄の織物を踏みしめた。
勾玉柄と呼ばれるそれは、私の呑み友達がくれた物。
私の故郷ではペイズリーと呼ばれる。
装飾に拘るリャナンシーが、私の主人に、と…所謂貢物という奴である。
しかし、浴びる様にその後呑ませ、お流れとさせた。
淑女の毒牙にかかるには、まだ早いというもの。
そろそろ十二・三程度の歳となるのか…このお方は。
「…此処の頁は、割愛」
ふと零した言葉に、視線を下ろせば…手にする雑誌の見開きは写真。
人間が見れば美味しいと感じるであろう、その料理。
『珈琲、紅茶に、ハヤシライスに、ヒレカツ、ビフテキ…』
「はぁん……流石に、胃にくるな、それ…」
その、やや憔悴した声音は、それ等が重い、という意味に非ず。
小さく胎の嘆きが聞こえて、私は小さく吹き出してしまう。
『夜様の性格に反し、胎は素直ですねぇ』
「茶化すか口説くしか出来ないの?お前」
逆に座り、椅子の背凭れを抱えて、唸る貴方。
「こういう時、悪魔は楽だに……」
悪魔と人間の比較が、思わず口をついている。珍しい……きっと苦しいのだ。
それもその筈、断食も既に四日目。
また御上達の命な訳であるが、今回は少しおかしい。
「どの宗派の真似事だろ…カソリックかな?仏かな?印度のかな?ふふん」
『どれにも該当しない感じですからねぇ…何を考えていらっしゃるのやら』
「体内の気を云々とか?…そんならもっと楽な方法があるだろ…全く、厭になるら?」
しとしと、格子の向こうの紅葉が濡れている。
伝う雨粒が流れる、地面を叩く、屋根を叩く。
暫くすると、数冊まとめて雑誌を寄越してきた主人。
黙って受け取り、微笑んで唱える呪文。
椅子から立ち、先回りして主人が開け放った障子。
更に向こうの雨戸の隙間まで、一気に。
「フフッ、さようなら!帝都の薫り!」
炭化したそれ等が、焔と疾風の術で、外へと追いやられて往く。
別れの言葉と共に障子を閉めた横顔は、名残惜しそうにも見えた。
読み終えた冊子は、全て焼却して、風と流すのだ。
証拠隠滅の儀式を、既に幾年行ってきたか…
『取り寄せに数月…読むは一瞬、ですか、いやはや儚い』
「溜息吐くなリン、しっかり此処に在る」
綺麗な指先で己の頭蓋をトン、と小突く主人。
だが、それは真実だ。異常とも云える記憶力を以ってして、貴方は外を知る。
「帝都に往けたら、まず何処を散策しようか?」
机に戻ると、管の手入れを再開した。
寝床を綺麗に磨き上げる、大半の悪魔は気にしないが、こうして見れば気分が良い。
デビルサマナーの携帯する、大事な道具。
そう、道具。
「ミルクホール?活動写真も良いなぁ」
『それは守護の散策とは少々違うのでは?』
「煩いな…お前もモガを口説いてみたいんだろう?スケコマシ!」
ククッ、と哂って管をひとまとめにする。
手入れを施した後は、機関に返す必要がある。
そう、まだ候補の内は、決められた管しか持てないから。
蛇の目傘を確認し、支度を始めた主人に声を掛ける。
『この雨なら、他の仔達もうろついてはいないでしょうねぇ』
「何ニヤけてんの?リン」
『いえいえ、私、あの方々が嫌いでしてね』
下駄に足先を突っ掛けた主人が哂う。
「へえ、奇遇…僕もだ」
開いた紅い蛇の目が、頭上でくるりと嗤う。
薄い陽が、我々の体を染め上げる、傘と同じ色に。
「未だに狐だの云って油揚げを投げてくる」
『もう何年ですかねぇ、成長が見られませんねえ』
「ま、昔に比べて蹴る場所は姑息になってきたかな?」
主人の着物から覗く範囲に、痣は見られない、成る程。
「体を触ってくる輩が出てきたのは…おぞましいけどね」
それを聞いて少し、ぞわりとした。
最近感じるこれは、錯覚では無かったか。
確かに、候補の一羽だろうが、機関のカラスだろうが、最近妙に…
私の主人の肌を、ねめつける様に見る。
他の師範が手取り足取り、やたらに…
「リン」
『え、あ、はい』
「どうした…?着いたぞ」
気付けば、この里の本殿…三本松様の鎮座する“崇高な場所”に居た。
この里、いや、ヤタガラスの長たる神木…
「渡してくるだけだよ、リン、お前は此処で――」
「紺、待ちなさい」
割って入る声、其処に我々は視線を配す。
黒い頭巾を巻いた…烏の人間。
「タム・リンには先にお引取り願いましょう」
淡々と告げられ、私は朗らかに応える。
『おや、ではこの傘は置いて往きましょう、私は隠し身さえすれば、水濡れはしませんからねぇ』
相合傘は、この様な際には困り物であった。
「紺、貴方にはお役目が」
「随分と…急で御座いますね」
「しかし、これで断食は終りとなります、喜びなさい」
「はい、有り難う御座います」
淡々と返す主人の顔は、薄く哂っている。
此処での処世術…何事にも、哂ってかわす事を身につけた夜。
不敵な笑みは、力さえ具わっていれば、魅了か畏怖を生む。
「ではリン、軽食でも用意しておいてくれ」
『終わったら食べる気満々ですね』
「当たり前だろう、それと少し冷える、部屋でも暖めておいてくれ」
『御帰りを待っておりますね、夜様』
別れを告げ、私は雨の中を歩んだ。MAGのベールを纏って、はじく水。
周囲を眩ませ、景色に影を落とすのみとなり、縫い歩く。
と、庵に佇む影を見つけ、その脚を止めた。
『…何用でしょうか』
黒い羽達は、嗤った。
庭に出来た小さな水流に、貴方の愉しさの、炭化した残滓が、さらさらと融けていた。
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