宇宙の統一的な相互対応関係は
神による予定調和にほかならないとされた


死因、apoptosis


「空って、こんなに紅かったか」
「夕暮れ時には朱色に染まるものだろう?」
飛び交う巨大な羽蟲を焼き殺すと、煩い羽音が一瞬で消える。
数匹、俺の焔から逃れた奴が方々へと散るが、暗い穴にホールインワンしていった。
「気味悪い」
穴というそれがまた巨大な食虫植物。大きな口を開いて、粘液の涎を端からたらたら垂れ流し。
ぐじゅ、と閉じたその中で、じわじわと溶解されゆくのか。
生唾を呑んで、そいつから眼を逸らした俺は背後を振り返る。
『あぁらぁ…喰い意地が悪いのねえ、んふふっ…』
しなる鞭の様に荊を四方に躍らせたアルラウネが、蟲をばたばたと地に落とす。
『あんな大きなムシを丸呑みだなんてぇ、ねーぇライドウ?』
くねり、と主人に絡み付き、たった今敵を始末したその荊で求愛する。
鮮やかな荊の緑に、蟲のよく分からない濁った体液が纏わり付いていて、俺の吐き気を促進させた。
「アルラウネ、そういうお前に喰い気が無いとは云わせぬが」
『もう、ケチねぇ、あんな気持ち悪いのをワタシの手脚で処理させたのよ?口直しさせて頂戴よライドウ』
「ほら御覧、云った傍からではないか、意地汚いな…クク」
血振りした刀を鞘に納める主人に、べったりと肩に垂れ掛かるアルラウネ。
顎を軽く掴んで、いつもの様にMAGを口付けようとするライドウ。
じろじろと見ていたって気分が悪いだけなので、視線を逸らそうとした、が…
『ぁん』
熱さに弾かれた様に、アルラウネがその場を退く。続いて俺を見た。
『人修羅ちゃん!待ちきれないの?順番よジュ・ン・バ・ン』
「違う!そっちにまだ残ってたからです!」
熱い接吻を交わそうとするシルエットの向こう、蟲の影が躍ったからしたまで。
放った焔にほんの少し薔薇を焦がしたアルラウネ、焦げた花弁を摘んで溜息した。
『もぅ、妬いちゃ駄目よぉ』
その台詞のニュアンスに、かあっと血が上ったが、助けてやったという事実に俺は冷却効果を見出そうと向こう側を見る。
だが、焼き殺した筈の羽蟲は居ない。消し炭になったのだとしても、無風のこの大地、さらさらと痕跡が下に積もっている筈なのに。
「功刀君、問題点にかすりもせぬ手出しは、横槍にしか成らぬのだよ」
ライドウがちらりと俺を一瞥して、クク、と哂う。アルラウネを捕らえる手指と逆の手指が器用に、リボルバーを構えていた。
「…黙って見ていたとしても、怒る癖に」
「しっかり仕留めれば褒めてあげたよ?フフ」
そう、俺の焔より早く、ライドウの銃弾が敵を狙撃していた。
焼けた灰の死骸は無い。MAGを睦み合う主従の隙間から見えたのは、脳天を打ち抜かれた死骸。
確かに、何かが焦げる臭いより、硝煙の臭いの方が強い。
俺の判断能力と命中精度が頼り無い事を如実にさせられ、やるせない気分で見つめていれば…なんと、まだ絡んでいる。
「いつまでしてるんだよ…!」
いい加減済ませて、さっさと此処から出る算段を企ててくれ。その程度のMAGなんて空気に流せるだろ。
苛々しながらライドウとアルラウネをじろりと睨めば、何故かニヤァ、と二者の眼が俺を嗤う。
そんなんじゃない、馬鹿じゃないのか。乾いた砂をスニーカーの爪先で蹴れば、きゅ、と啼いた。


見渡す限り、乾いた空気に乾いた砂。毒々しい色合いの植物は、殆どが生きている。
草花が生きている、とかそういう倫理観ではなくて、本当に生きて、生存競争をしているのだ。
「別の惑星みたいだ」
「地球以外の惑星に降りた事があったとは知らなかったねえ」
「ち…比喩に決まってるだろ」
「しかし功刀君、当たらずとも遠からずだね、アマラ宇宙という中に漂うひとつの世界だとすれば」
「そんな事が云いたいんじゃなくてだな…どうしてあんたは何処に行っても動じないんだ?」
「異界遊びにボルテクス観光、最近ではケテル城で優雅な休日を過ごさせて頂いているのでね」
よくそんな事を哂って云える、と半ば呆れつつ、足下の黒猫を蹴飛ばさない様に駆け寄る。
「そもそも功刀君、君がしくじった所為だろう?少しは反省している?」
ぎくりとした、確かに悪いのは俺だった。唱え間違えたのだ、魔界への門を開く詞を。
「胎に人面瘡が浮き出たという件、このままぐずぐずしていては、手遅れになるやもしれぬねぇ…?」
「…俺の所為って云いたいのか」
「閣下と人間の富豪ではねぇ……クク、それは君、確かに悪魔を優先すべきさ」
「あ、あんたが別件依頼の事、俺になんっにも説明してなかった所為だろ!?」
仕方ないじゃないか。依頼の時間が押してるとか、あんたが急かした所為で呪文を間違えたんだ……多分。
結局、ケテルにも行けないまま、こんな処に放り出されてしまった。
胎に人面瘡が出来て「悪魔憑きだ、オッカルト専門の探偵を呼べ」と依頼の遣いを寄越してきた富豪の屋敷は、電車で数時間の場所だった筈。
「でも…此処で足止め喰らって、本当に手遅れになったら……俺、どう責任取ればいいんだ?財産は無いぞ」
「まあ、人面瘡に殺されたという顛末は今のところ聞いた事が無いからね…悪魔の仕業か、ただの狂言か…フフ、拝みに行ってやろうと思って楽しみにしていたのさ」
「悪趣味野郎」
違えたとしても、開かないだけだと安易に考えていたのだが、まさか…違う世界に出るだとか、そんなの堕天使からも聞いてない。
アマラの宇宙を通るとか、そんな話は一応されていたので、きっと流れ着いた形なのだとは思うが。
扉を開いた先、吸い込まれるように風が靡き、気付いたら砂丘に蹲っていたのだ。
そんな俺を隣から見下ろしてきて、これはどういう事?と凶悪な笑みで俺を責めるライドウの眼が記憶に新しい…
「別件依頼、ひとつお流れになるかもねえ?功刀君?まぁ、閣下なぞは待たせておけば良いのさ」
「…すいません」
視線を落として、俺は改めて謝罪の言葉を吐く。
「おいおい、ゴウト童子にしか云ってなかったろう今、ほら、僕の眼を見て云って御覧?」
ライドウはそう云うが、別に謝罪など求めていない事は一目瞭然だ。
(ライドウに謝罪なんて、誰がするか)
新しい遊び場、俺の失態を弄くり倒すきっかけ…愉しい瞬間まさに真っ最中という眼。
この悪魔召喚師、愉しさだけは素直に滲む。眼の黒が爛々と耀く様は俺にさえ判る。
『いやしかしだな…ライドウ、遊んでくれるな…本当にこれは早く脱出すべきであるぞ』
「左様に御座いますか」
尻尾をしょげさせ、どこか口調にも覇気が無いゴウトがそれでも活を入れ、フーッと怒る。
『なぁにが左様にだお主、気付いておるのだろう?この畜生の素体では些か不安だ』
「フフ、じわりじわりと、この地より吸われておりますね、我々の生体エネルギイが」
その会話に「気付いていなかったです」だなんて、云い出せない。
「と、そういう事だ功刀君、先刻の横槍は君のMAGを無駄に消耗しただけという事さ、ックク」
更に“無意味な行動”と箔押しされた気分。
「この空間に居るだけで消耗してるなら、枯渇する前に有益に使うべきだろ」
「君の消耗は僕の消耗に繋がる、軽率な判断は控えてくれ給え」
「煩い、それならアルラウネにMAG補償してないで他の元気な仲魔召喚しろよ」
「蟲は焼けずとも〜…か、フフ」
耳が熱くなって、云い返そうかと見上げれば、ライドウよりも眼が向いてしまう紅い空。
(白じゃなくて、助かった)
白い空…いや、正確に云えば、天に地が這うあの世界、ボルテクス世界…
同じ様な色をしていたら、吐き気が増して酷かったところだ。
「童子」
と、空ばかり見上げていた俺は、ライドウの低いトーンの声に我に返った。
『……居住区、か?』
「この世界の広さは知れませぬが、アマラに関して知る者が居れば尋ねたいところですね」
『言葉が通じればな』
「悪魔なら話は早いのですがね」
そこがまずおかしいだろ、と内心突っ込みを入れつつ、ライドウ達と同じ方角を向いた。
白んだ砂塵の彼方に霞んで、建造物が見えた。



『アラディアとかいう…漂流神なら』
その名前に、思わず眼を見開いた。
『貴方達人間も…稀に悪魔も、流れ着きますな』
「それで言葉を知っている、と、そういう事ですか」
『はは、喰えば理解は一瞬ですから』
続く返答に、背筋が凍った。
集落を行き交う生物は、人の形に近似していた。高い鉄塔も、東京タワーを匂わせる。
成長という過程があるのか、住人達は大小様々で、性別も有る様子だった。
ただ、俺の知る人間と違うのは、その脚が地に着いているという所…
靴を履いていない、それは、歩行の度にずるずると、地と足先が癒着しているからだ。
下ろす爪先が、ささくれ立った草編の地と結合しては、千切れ往く。
この集落に入って、唖然とした。人修羅に成って、散々悪魔を見てきたっていうのに、俺はいつまで経ってもこれだ。
『我々はこうして地より得ているのです、そう…貴方達の言葉で云えば、エネルギーというものでしょう』
どこか有機的な建造物、材質は、きっと聞いても分からない。
じっと見つめれば、確かに胎動を感じる。建物さえも、一部は生きている様だ。
「フフ、では貴方がたは、稀に辿り着く人間や悪魔を喰らうのですか?」
哂って問うライドウ、その外套の下で指を何処に置いているのか、知れてる。
突然声をかけられて、この男が算段も無くついて行く筈が無い。
発されている言葉が、俺達の世界でいう日本語なら、尚更。
『漂流物は、誰が喰らって良いという養分ではありません。我等が神がすべて吸い上げるを待つのみです』
「へえ、神……アラディアの様に、何かに憑依させ、具象化させているのですか?」
『あの様な仮初のモノと同一視しないで頂けませんかな…我等の神は既に此処に居られる、常に我々と共に』
「まさしく“神”の姿ですね、フフ……しかし僕等はそろそろお暇したいので、帰り道を教えて頂けませんか」
葉脈の様に血管が奔る肌、鮮やかな翠の髪を揺らして笑う別世界の住人。
この住人に「立ち話も何ですから」と、最初通された時、椅子を促されたが断った。
座った瞬間、触れた其処から融合しそうで、少し怖かったから。
向かい合って、先刻からずっとおぞましい会話。
『折角来て頂けたのです、最期の瞬間までどうぞごゆるりと』
「ちょっと…待って下さい、それって、俺達に死ねって云ってるんですよね」
聞き捨てならずに、思わず口を挟めば。
『人聞きの悪い…いえ、我等もヒトでは無いですが。そういえば…貴方もニンゲンとはどこか違いますな』
この返しだ。人間の知識を得ているからだろうか…人間の語彙が豊かで、ムカつく。
苛々と拳に力を込めれば、相手の口の様な器官がぱくぱくと、まるで俺を笑う様に開いていた。
『脈の流れが高揚しておりますね、どうぞ、したければ、お打ち下さい』
「何ですかそれ……『お前達の帰り道なんて知らないから、殴っても無駄だ』って事ですか?」
『いいえ、我々は朽ちても、すぐに甦りますので、人間的に云う“死”に恐れを抱いておりません』
揚々と述べる相手を見て、少しの困惑と凶暴な感情が、俺の中で巡り出す。
ちら、と隣のライドウを見れば、一瞬こっちを見返してきた。俺を止める気はなさそうだ。
「…帰り道、何処ですか…門とかを開く詞が必要なら、それを教えて下さい」
『綻べば何処からでも出れますよ、ですがね…我々は取り入れた餌をみすみす還す気は無い』
「殴ります」
『どうぞ干乾びるまで、ごゆるりと』
その答えが返った瞬間、俺の拳は住人の頬から抉り込み、脳天から突き抜けた。
思った以上に柔らかく、ぶちぶちと管の千切れる感触と音がおぞましい。
腕にこびりついた残滓が、ぼたぼたと地に落ちる。
「…っ……避けもしなかった…畜生!」
腕を振っても、どうしても湿っている指先、傍のライドウの外套を思わず掴んだ。
「己の着衣で拭い給え」
ぴしゃりと跳ねられ、スニーカーの甲をヒールで踏まれる。
それに小さく呻き、俺はライドウを突き飛ばして仕方なく自分の着ているジャケットで拭った。
擦り付けた液は、幼い頃に草葉で駆け、無意識に潰してしまった植物の痕にも似ている。
『おい、ライドウ大丈夫なのか……って、おい…お主…、また強硬手段に出たのか?生臭い臭いがするぞ』
出入口からそそくさと顔を覗かせたゴウトが、入ってくるなりフギャアと啼いた。
その翡翠の視線は、俺の吹っ飛ばした住人の残骸に注がれている。
「違いますよ童子、フフ…失礼な、そういう乱暴事は総て僕の仕業とお思いで?」
『佐竹の事務所で抜刀したのは何処のどいつだ』
「さあ?」
『風間に代わって尋問した事も知っているぞ』
「おや、童子の猫耳には未だ入っておらぬ事と思っておりましたが」
また凶悪な話をしている。呆れる俺も、床に散った残骸を見ながら「他人の事が云えた立場か」と自分を罵りたくなる。
いや…眼の前で死ねと云われたら、そして殴って良いと許可されたら、これはもう…
「不可抗力」
ぽつりと呟いて眺める先、残骸がじゅくじゅくと音を立てて床と同化していった。
「違うね功刀君、予定調和だろう?」
ライドウが哂いながら、外套をなびかせる。もう此処を出るらしい。
集落内で一番大きな建造物だ、きっとこの集落の長か何かだったのだろう。
「予定調和ってライドウ…それ、どうしたって俺がぶっ飛ばす未来が待ってた、とか云いたいのか、おい」
置いて行かれるのも嫌で、追従する。見上げてくるゴウトの視線がどこか苦しい。
『はぁ…やったのはお主か人修羅』
「いえ、だってゴウトさん。此処の方、俺等に死ねって、殴っても良いって云ったんですよ」
『お主は人修羅だろうが、その一発に人間の何倍の力が宿ると思っておる?』
「御当人にも、お許しは頂きました」
『そういう問題では…はぁ……お主も似てきたな』
「は?」
何に、と問い質すより早く、ゴウトはするりと駆け抜ける。
『ライドウよ、お主もお主だ、相手が口を割らぬと公言していたとて、読心の隙すらなかったのか?』
黒をなびかせる前の人物に、咎める口調で責める黒猫。振り返りもせず、ライドウは冷静に返す。
「童子、読心は思っている事しか読めませぬ」
『感情を支配出来ている相手、という事か』
「此処の住民達にとっての絶対的な神、がそうさせているのでしょう。現に、整然とした心で、言の葉として入って参りませんでした」
『ちゃっかりと読んでおるではないか』
ニャア、と溜息の黒猫。その頭上に一瞬イヌガミがくるりと回って、アオォン、と吠えた。
「人間の言葉が通じる相手に御座いますので、まぁ…懐柔出来ぬとも思いませぬが」
『フン、もうあの通り、喋れもせんだろうが。イヌガミ、もういいぞ、控えておけ』
「童子、僕に代わって命じないで頂きたい」
『この異世界で気を張らせては苦痛だろう、少しは休ませてやれライドウ、お主の消耗にも繋がるのだぞ』
「これはこれはお優しい。確かに、この面子で一人生き延びるが不可能は貴方様に御座いますからねえ、フフ…」
素直に御礼が云えないのかよ、と辟易したが、ゴウトもゴウトで嫌味だから、おあいこだ。
廊下を抜ければ、紅い空が広がる外に出た。思えば、あの空間から廊下、こうして外に到るまで、段差も無い。
建造物は上に階が無いものばかり。何処に居ても、足先からエネルギーを得ているという事か。
『して、その神の名は聞いたか?』
「いいえ、きっと彼等も知らぬのでしょう」
大人しく管にイヌガミを戻したライドウが、淡々と返答する。
集落は、胎動を感じるが、個々の意識を殆ど感じない。感情が無い…訳でも無い様子だが、喜怒哀楽に乏しい。
狂信的な信者が、ただ日々を神に捧げて生きるその空気感に近い、そんな…

ぐず

湿った音、反射的に構えて振り返る俺とライドウ。
その発生源を捉えた瞬間、そこから、しゅるしゅると一瞬で生える。
早回しの記録映像の様に、芽吹いて手脚が伸びた。
花弁が開くが如く、髪がふぁさりと空に舞えば、同じ形の口がぱくぱく嗤った。
「どうぞ、ごゆるりと」




「化け物達」
「君が云えた台詞かい」
「再生力じゃないだろ、マグマアクシスで灰にしても…数時間後には同じ奴が歩いてた」
「へえ、君は時間の感覚がまだ残っているのかい?繊細だねえ、この世界に時計なぞ在ったかな?」
「……っくそ!いちいち揚げ足取るな」
空から降る雨に、大地が噎び啼く。潤いを得て、しっとり膨らむ。
紅い雨が気味悪くて、俺達よそ者は、適当な建造物に逃れた。
地階に下っても、足下はやっぱり蠢いている。
地に足が着いていない状態というのは、この世界で基本無いらしい。それはそうだ、彼等の養分摂取の手段なら。
しかし靴を履いていても、どうしたってじわじわと地表から俺達の生体エネルギーは搾取されている。
まるでこの大地が生きているみたいに、獲物を嗅ぎ分けて、吸い取っている。
『はぁ…地に足が着かぬ心地だぞ』
ゴウトは船酔いの様に、小さく呻いた。四足で接地しているから、影響が大きいのだろう。
その身体を憐れに思いつつ、樹海の色をした屋内を踏み往く。
「此処、何の場所だ…?」
もう、手当たり次第だった。怪しい所は追求する、挑発してきた奴は、一応問い質し、場合によっては処分した。
誰かを殺せば、それが鍵となるのかもしれない、そう思い殺しても、しゅるしゅると生えてくる。
もしかすれば、再生しない奴というのが存在しているのでは、と。
しかし無差別に住人を殺す気は起こらない。それが帰還の鍵とならぬ場合、ただの大量虐殺になってしまう、それは御免だ。
そんな存在に成りたくない。
「…なにもかも、此処の人達にとっては神の恩恵ってやつなのか…」
「フフ、君が云うと滑稽だ」
「あんたが云っても不気味だろ」
雨の降る時間帯は、まるで恵みでも授かるかの様に、住人達が外に出る。
そう、だからこそ雨降る今、奥が気になる。誰か、居やしないだろうか、と。
「どうして…殺しても同じ存在がまた生まれるんだ」
「個体情報を記憶している神が、再生させるのだろうさ」
「…集落の外の、蟲とかは?アイツ等もまさか、再生してるのか?」
「外の生命体は違うだろうね、普通に繁殖して増減しているのだろう。この集落にとっての同胞では無い…という事だろうさ」
「人間も悪魔も、なんでも増え過ぎたらまずいだろ?…此処の住人達って、増えも減りもしないのか?」
奥へと続く廊下は薄暗い。ぼんやりとユリの形の花が発光して路を照らす。それさえも花なのか、確信が持てないが。
「神が調整しているという事なのではないかな、フフ……ほら、扉が見えたよ」
ライドウの云う通り、廊下は終わり、扉が見える。近付くと顎でくい、と促されたので、俺はそっと手を掛ける。
仕掛けは無い。と、開く前に、俺は気付いた事を口にした。
「……あんた、俺で試したろ」
「今?それとも数刻前?」
「二回もかよ」
「確かに、今は罠など無いか、君に開けさせたねえ、君ならば治癒も早いだろうし?」
「…その、“前の”は何だ」
「あれは此処の長だろうかね?あれを殴るを見過ごした事も、該当するかな」
俺の、扉の取っ手を握る指に、ライドウの指が重なる。
「『己は甦る』と云った相手の言葉が本当かを、見定めるべくね」
「…それならあんたが斬れば良かったじゃないか」
「それと、単純に君が殴る様を観賞したかったのさ」
吠える代わりに、指に力を込めた。
「殴り損だ」
片開きの扉の隙間、背中合わせに中に一歩踏み出す。
しんとした室内…が、足下の感触に、流石に鈍感な俺も気付いた。
「…此処、おかしい」
「おかしくなかった処なぞ、この世界に在ったかい?」
気付いてる癖にはぐらかすな、と、ゴウトと同じ事を云いたくなった。
哂うライドウは、ヒールをカツカツ、と鳴らし哂う。
そう、此処は“鳴る”のだ。有機的な、あの胎動する床とは違う。
硬質なタイルが敷かれた、冷たい部屋。この部屋は、養分を吸収する術が無い。
「これ…ベッドか?」
床上に置かれた、ちょうどヒト一人分が寝そべれそうなそれ。
他の建造物でも見れたが、アレ等は床と一体化した、草のベッドだった。
でもこれは違う。硬そうな材質で出来た、捻りの効いたアーチが綺麗な。
なんだか、久々に人間世界に戻ってきた心地にさせる部屋だ。
疲れていたので、思わず突っ伏したくなる欲求が疼き出した。マットレスも、そっと押せばじわりと窪む、低反発の様な感触。
『あの…』
突如、か細い声が聞こえてきた。
『そこはわたしの寝床です』
人と近似している、とはいえ、相貌が愛らしく見えるのは罪だと思った。
振り返れば、翠の髪をざっくばらんに下ろした、少し幼い女性体…
廊下から、おっとりとこちらに歩み来る。
異様な感じがした、何故そう感じるのか、自身でも一瞬分からなかった。
「傘に長靴…息苦しくないのですか?お嬢さん」
問い掛けるライドウと同じ疑問を、俺も無意識に抱いていた。
そう、この世界の住人は皆、素足だ。それなのに、この少女ときたら、長靴を履いている。
長靴では足先が地に這わず、養分を得られない。
それに、今は外で紅い雨が降っている。恍惚の表情で他の住人は浴びるのに、何故傘を持っている?
『もうわたしは、吸う必要が無いのです』
ただぽつりと呟いて、少女の姿をしたその住人は、傘の露を胎動する廊下にぱぱっ、と掃った。
紅い雫が血溜まりの様になった後、ぐんぐんと吸われていく。
それを見届けると、傘を立て掛け長靴を廊下に脱ぎ残し、いよいよ部屋に入って来る。
『…ニンゲン…と……』
ライドウを見た後、首を傾げると俺を見つめた。
『アクマ…じゃ、ない?』
ついこないだと同じ事を云われているのに、この少女には憤慨しないのか?と、ライドウの眼が俺をニヤ…と射抜く。
気まずい俺は、少女が寝床だと云うベッドから慌てて離れて、視線を逸らす。
「あの…貴女も知ってるんですか、人間とか悪魔を」
『わたしたち、神様と繋がっているから、こうしてニンゲンの日本国の言葉も発せます』
云っているシステムはそれとなく理解出来たので、質問を切り替える。
「此処の方々は、養分が吸えないと…いつか死ぬんですか」
『死……?』
知識が有っても、概念までは理解出来ないのだろうか。
それはそうだ、俺だって、悪魔なんて…と思ってた。成らなきゃ、解り得ない。
「死…っていうのは……他の住人の様に再生したりとかいう事も無く、完全に消える事を云います…多分」
思うまま、適当な説明をすれば、ああ、と呟く少女。
『消えることが死というなら、そうです、死にます、わたし』
その返事に、俺とライドウは集中した。
『わたしの消える事を、邪魔しないでくださいね』
明らかに、この少女は怪しかった。出口の鍵…かも、しれなかった。





『まあ、それでその衛星はどうなさったのですか』
「ロケットに仲魔を乗せて、処理して貰ったのですよ」
『共に爆発しなかったのですか』
「しましたよ、ねえ?童子?」
黒いベッドに乗り上げ、ニタリと哂い黒猫を見るライドウ。
『いけしゃあしゃあと……我と再びまみえた時のお主の怪訝そうな顔、忘れやせぬぞ』
髭をひくひくと引きつらせて、ゴウトがニャアニャア鳴く。
その様子に、視線をライドウへ戻した少女。
『この…ネコ?の方を、乗せたのですか』
「この御方が勝手に乗っただけですよ、フフ。まあ、こうして感動の再会を果たしている訳ですがね」
クス、と流し眼で傍のゴウトを見るライドウ、その言葉に感動の気配は無い。
それにしたって、俺も初めて聞く内容だったので、呆れる一方で…感嘆もしていた。
「本当に、あんたは滅茶苦茶だ」
ベッドの端の、ライドウからなるべく離れた場所に腰掛けた俺が吐き捨てれば、また哂う。
「叢書が出せる程度には冒険活劇しているねえ」
「そのロケット、何乗せたんだよ……仲魔って」
「天使だが、何か?」
思った通りの回答に、特に返せる訳でも無い俺。
『天使というのは、背中に翼のあるヒトガタですか』
「そうですよ、しかしアクマとも呼び、それをサマナーは使役出来るのです」
『形は関係無いのですか?ニンゲンとアクマの区別は、何を参照すれば良いのですか』
「生命の糧は近いものがありますからね、正確に云えば、形を構成する物質の違いでしょう」
ベッドできゃっきゃと、何を考えているんだライドウは。
もうずっとこの調子で、もしかすれば数日はこうしているのではないか。
暗い部屋にずっと閉じ篭って、この少女とお喋り三昧。
「貴女に近いのは、アルラウネかな…フフ」
『さきほど見せてくださったアクマですか』
「この世界は植物の色をしている、生える都市も、住む生き物もね」
『ニンゲン……の、住む世界は違うのですか』
「何を云わんとしましたか」
発声を一瞬塞き止め、開いた口が震えた少女を見逃さず、さらりと問い詰めるライドウ。
『…個体名称に関してです。漂流してくるニンゲンも、次元が違えば性質も同じ様に違いました。だから、それを思って』
その眼は透き通っている様にも見える。少女の眼はビー玉の様な質感で輝き、薄い碧。
無造作な髪も、ゴウトの眼を暗くした様な色。
四肢は少し葉脈の透過が見られるが、それも他の住人に比べると、どこか細かった。
死ぬ、と云っていたから…衰弱の前兆なのか。
『あなたがたの、個体名称は』
「自分はデビルサマナー十四代目、葛葉ライドウに御座います」
女性なら誰でも一瞬蕩けそうな笑みを、悪気無く咲かせるライドウ。そこに穏やかさは無いが。
それを整然と構えて見やると、少女は小さく頷いた。
「して、其処で不貞腐れている紋様だけは派手な奴が、自分の使役悪魔の――」
「おい」
少しベッドに乗り上げ、思わずライドウを睨む。
だが、少女の眼が俺を見て、訊ねているのは一目瞭然。
少し近くなった距離で“人間の形にやっぱり近い”と、再認識して、俺は少し頬が熱くなっていた。
「…功刀です」
ぼそりと呟いて、元の位置に腰を下ろせば、容赦無い追い打ち。
『アクマなのですか?』
「…半分」
『クヌギというアクマ?』
「いえ…その……」
どう答えるのが正しいのか、いまいち判断出来なかった。
違う、それは…クヌギヤシロは…
「人修羅という存在で、名を功刀と云うのですよ」
声を辿れば、長い脚を組んだライドウが、少女に向かって云っていた。
『個体名称がクヌギ…?』
「そういう事ですね、しかし、お見せしたイヌガミやアルラウネ…という呼び方、それを個体名称とするならば、少し違う」
不思議な顔をした少女が、ぼんやりとライドウの胸元を眺めている。管の銀色が、少ない光を反射して鈍く輝いていた。
『葛葉ライドウも、個体名称では無いのですか』
「そうですよ…フフ、ライドウと別に、僕にも名が有る」
ライドウの名前を知った幾つかの場面を思い出し…それがつい先日にも、遠い過去の様にも感じる。
「しかし僕の事はライドウと、アレの事は人修羅と呼べば良いのです」
『ライドウ…ヒト…シュラ……』
「名、というもので、互いを捉える…“人間”は」
己の真名は、教えないつもりだろう。ライドウは、上の名まではするりと教えたとしても、下までは中々云わない。
『わたしも、あれば…教えたいのですが……知らないのです』
「貴方達の云う神にとって、わざわざ与える必要も無いからでしょう」
『互いの認識は、名でする必要は無いからです。それぞれ、生まれ出ずる際に、役割があるから、他との干渉に名は要らないのです』
それでも寂しげな眼を、初めて見せた少女。
感情を萌芽し出すその姿に、くす、と哂って黒い影が囁いた。
「橘と呼びましょうか」
『タチバナ?』
「柑橘系の樹木、咲く花は純白の小さな五弁、とても清涼でいて薫り高い実をつける、言葉は“追憶”」
説明からイメージしているのか、少女がしばし黙る。この世界に無いのなら、薫りまではピンとこないだろうけれど。
俺は、人間時代に何回か吸ったあの芳しい薫りを、脳内に思い出そうとしていた。
確か、あまりに酸味が強くて、香り付けや、マーマレードジャムにしか使えない果実なのだ。
「“永遠”の象徴ですよ」
ライドウの、低めに囁くテノールが、ベッド以外何も無い空間に響く。
学帽の下、暗闇の中でもしっとりと、黒い眼が光っていた。
「フフ…もう少し、お喋りを続けたいですか?」
その闇色の眼に吸い込まれる様に、じっと見つめ返す少女の髪が…微かに震えていた。


時間の経過と共に、意図は解ってきた。
ライドウは、この少女を生かし続ける為に、団欒を作っていたのだ。
「自殺者を止めるなど…その様な無粋な事、本来ならせぬよ」
さらりと云い、湿気た廊下で煙草を噴かす。
「延命は、何が目的だよ…出口は知らない様子だし、粘っても無駄だ」
「フフ、君には苦痛な時間かな?」
「まあ、あんたが話題豊富で、俺の出る幕は無さそうだけど」
「あれから集落を廻って見たろう?彼女だけなのさ、自ら死に向かう個体が、ね……この世が排除しようとしている、何かの意味が其処に在る」
ライドウがふぅ、と吐いた煙は、厳かに脈動する壁に呑まれた。漂流者のエネルギーだけでなく、紫煙すら喰らうのか。
「…意地汚い」
「アルラウネより?」
「あんたなあ……命かかってるんだぞ、よくもそう暢気で居られるな、ライドウってのは螺子が抜けてるのか…ッ、げほっげほぉッ!」
侮蔑を吐き捨てると、間近から、ふ、と吹き掛けられ、堪らず咽た。
そんな俺を見て、ふ、と鼻で哂うライドウ。悪気のカケラも無い。
「さて、もう少しばかり現世に執着して貰おうではないか」
「それだけの為に、楽しくお喋りしてんのか、あんた……」
こうして腰を下ろしている床や壁から、じゅくじゅくと肉まで吸収されそうな気がして。
上着を敷いて、くったりと休息を得る。どこか、やはりだるい…
「もっと遠くに…探しに行くべきじゃないのか…仲魔に偵察させろよ…」
「遥か上空より見下ろせば、この集落を取り囲む砂漠地帯が、ぐるりと這い上がるように包み込んでいるらしい」
どこかで聞いた様な構造。
「…何処のボルテクスだよ…気分悪い」
「フフ…世界は個人の機嫌なぞ伺わぬ。まぁ、ショボーの眼だからね…もしかすれば見落としがあるかもしれぬが」
隣の部屋の中では、タチバナが眠っている。養分を得ずに衰弱を待つ筈の彼女は、今も生き長らえていた。
目覚めては、廊下に出て。根を下ろせば、彼女の中の脈が潤う。
少し、あと少し、と、延命を続けていた。
「最近、あのさ…タチバナ…さん」
靴紐を結び直しつつ、何となしに口から出る。
「笑う様になってきた…気がするんだけど、俺の気のせいか…」
異世界なのに、ましてや人間ですらないのに。
どうしてこんなに近いのだろう。
「此処でしている行為が無為と感じるなら、何処へなりと、探索に行くが良いさ」
「…あんたの読みが外れる事は、滅多に無い」
彼女の延命の先にある答えが、出口の鍵だという…朧気な推測。俺だけでは、到底思いもつかない。
「それに、砂漠でMAG尽きたら…本当、どうしようもない。此処の蟲からMAGは吸えない…」
この大地、俺達のエネルギーを喰う癖に、あの蟲共からMAGは発されない。
では、一体どうやってあの蟲達は生きている?
「蟲は外敵の可能性がある」
「俺等だってよそ者だ、なんで蟲は喰われてないんだよ」
「よそ者だろうが、喰えるものは喰うのだろうさ」
じゅ、と蠢く壁で煙草を揉み消して、くつくつと哂うライドウ。流石に煙以上は喰いたがらないらしい。
「やれやれ、偏食だね…折角喰わせてやろうと思ったのに」
指に残ったシケモクで、俺の掌をつつく。
「さて、橘の君が目覚めたら、次は何を話そうかね?君も少しは女性と話す術を身に着け給えよ、功刀君」
はぁ、と溜息で、仕方なく俺は吸殻を握り潰し、灰にした。
「こんな事にMAG消耗させるな」
「おや、もう足りないのかい?貪欲なのか容量が狭いのか…クク、いずれにせよ、今の程度ならこれで事足りるだろう?」
床に落としていた視線が、横にぶれる。ライドウに、項の突起を掴まれ、顔を向き直される。
「ん、グっ…」
噛み付くようなそれに、怒りが生じつつも、身体は正直にMAGを迎え入れる。
(何だよ、今さっき、あのまま掌を掴めば、そこから充分流せただろ)
暴力的な欲求を発散する術が、此処では無い所為か…
「ぁ、ふ」
俺の呼吸を殺したがるかの様に、角度を変えて密閉される。
蟲を殺すよりも、この男にとって嗜虐の欲望を解消出来るのか。
『おはよう、ございます』
その涼やかな声、咄嗟にライドウを突き飛ばした俺は発声源に眼を向ける。
目覚め、部屋の扉を開けたタチバナが、ぼうっと俺達を見下ろしていた。
大して高くも無い目線から見下ろされ、責められている様な、呆れられている様な錯覚に陥る。
「ち、違っ…」
「何が違うのだい功刀君?だらしが無いねえ、口の端からMAGが垂れてるよ」
ばっ、と唇を手の甲で拭えば、別に何も垂れていない。騙しやがった。
『今のは“キス”ですか』
薄い衣に身を包むタチバナ。編まれ、サイドからふわりと結い上げてもらった翠の髪は、パールヴァティの仕業だ。
あの女神…「可愛いお人形さん」と、私情を滲ませまくって、愛でていた。
「き、き……きっ」
「そうだよ、接吻(キッス)というものだね」
「貴様ぁッ」
振り上げた拳、しかし血の上った俺の攻撃は容易く往なされ、結局俺は腕を掴まれたまま、腹にヒールを喰わされた。
『…お主等、本当に何とかしてくれよ…猫の干物は嫌だぞ、おい……聞いとるのか…』
ライドウの学帽の上にずっと退避していた黒猫が、ようやく呟いた。


結われた髪をそっと撫で、パールヴァティに小さく微笑みかけたり。
ライドウの話す悪魔の話に、透き通る眼を薄っすら輝かせたり。
あの悪魔が見てみたい、と強請ってみたり。
日々日々、異世界の少女の欲求は増すばかりで。
知識だけは有るらしいお菓子の話に、眼をきらきらとさせていた。
打ち解けたのか、この短期間で。
確かに、葛葉ライドウという男は、俺の知る限りでは交渉上手で、口説くのだって巧い…
いや、俺は口説かれて使役下に入った訳じゃないが。
『いつか作ってほしいです、ジャムたっぷりのスコーンというモノが気になるのです』
タチバナは、俺を悪魔と畏怖しない。人間と悪魔の差を、知識としてしか有していないからだ。
人間のライドウと、半分悪魔の俺を、同じ眼で見つめる。
「そんな簡単なのでいいんですか…」
『色とりどりの、宝石みたく艶めくジャムと、柔らかな白い雲母の生クリームで、着飾ったお菓子が見たいのです』
「…ジャム…分かりました」
さっさとこの世界から脱出したいのに、安易に頷く俺。
こうして調理の依頼をされると、嫌だとか、云いたくない。
『人修羅は、人間と感じ方が違うのに、よくお料理できますね』
「はぁ…昔取った杵柄ってやつです」
短い期間で、タチバナは随分と喋りが細やかになった気がする。
語彙だけは豊富だったのに、それを使う機会も無かったというだけで…
この世界の神だとかが喰った人間の知識は、総てでは無いものの、住人達に流れているらしい。
人間と、違うのは身体の仕組みだけか。
『“橘の花”のカタチは想像できるのですが、薫りという概念がいまひとつ』
呟くタチバナに、ライドウは隣から語る。
寝台に腰掛け、ただ話を聴かせる毎日。この世界にもサイクルは有るので、その一周を一日とした。
「タチバナ、空気を感じる事は出来ないのかい?」
『この世界に芽生えるモノは、どれも似通ったニオイで、よくわからないです』
「確かに乾いているね、おまけに雨の後は生臭い、錆の臭いに近い」
『十四代目ライドウからは、違うニオイがする…それは判ります』
「僕かい?……フフ…これは白檀の香だよ」
『ビャクダン?』
白いシーツにライドウが指先で綴る。
「《白檀》……隣の国では《栴檀》と書く」
『…“栴檀(センダン)は双葉より芳し”という言葉なら、知識としては有しているのですが…この字面、本当はビャクダンと読むのですか?』
「フフ…少々ややこしいがね、読みはセンダンでありながら、それはビャクダンを指しているのだよ」
『…?どういう意味でしょう』
「ほら云ったろう、ややこしいと。その諺の栴檀はビャクダンの事を指すが、同じ文字で栴檀(センダン)という植物が、また別に存在しているのさ」
知識だけは有る所為で、稀に辻褄が合わずに混乱していた。
『センダン…』
「樹皮が駆虫薬に要される植物だ」
『駆虫薬…』
一瞬、タチバナの眼が濁った様に見えたのは気のせいか。
『もっと、色々聞きたくて、お話したくて…もうわたしは…本当は消えていなくてはならないのに』
最近のタチバナは、どこか鬱屈としている。
「何故消えねばならぬのだい?」
『…理由なんて、神がそうせよと云うからです。わたしの命は生まれた刻より定められているのです』
「それで満足?」
『…橘の花の薫りを、吸い込んでみたいです』
その会話を聞きながら、俺は廊下に出た。少し外が気になる。
どこか脈動の弱々しい廊下。ランプも明滅を繰り返し、管理の行き届いていないアパートの様だった。
廊下を抜けた先、ロビーの様な空間は、何かを啜る住民達でひしめき合っている。
魔界のBARみたいな空気、俺は話しかけもしないでテーブルっぽいそれ等を掻い潜る。
『人間、お前達が流れ着いてから、どうしてこんなに大地が干乾びている』
ローブの様な葉衣を纏う大柄な生物、俺を睨んだ……多分。
眼に生気が無いので、恐らくという推測でしかない。
タチバナの眼は、今でこそ生き生きとしているが、最初はこうだったな、と思い出す。
『雨も降りやしねえ』
俺に解る言葉で発している辺り、この住人達は皆、感情を持っている事が判る。
各々に役割が有るという事も、タチバナから聞いた。人間の世界と同じだ。
「すいませんでしたね」
軽く返し、西部劇の酒場みたいな軽い開き戸を開けた。
ここ数日、定期的に外に出て空を見上げているのだが。
事実、最近の空は薄暗い。雨は日に日に減り、植物が枯れ往く様に、鮮やかさが周囲から消えている。
潤いを失くした住人達は、保存してある養分を啜り生き長らえている様子。
きっと今、此処の住人を殺せば、以前よりも再生に時間が掛かるのだろう。
反面、俺とライドウの身体はまだ平気で、ライドウ曰く“時間経過が違うのではないか”という話だ。
(多分多分って…全部推測でしか無いじゃないかよ、馬鹿げてる…さっさと、この世界から出ないと)
随分と冷えてきた外の空気、まるで冬の様に。
どこか、違和感がして…空をもっと、眼を凝らして見上げる。
薄っすらぼやけていた空が、雲間の様な亀裂を作っていた。

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