白い烏〈後編〉
純白の翼みたいなそれを羽織り、鮮血色の絨毯を踏む。
面前に姿を自ら現した俺に、どよめく奴等。
「この宵は、再びお集まり頂き、有難う御座います」
機械的に発する、でも、正直滑稽で笑みは浮かぶ。
軽く会釈をした際に、肩からさらさらと揺れる白いケープが忌々しい。
「ほら、皆の衆、此度はこの修羅が御前達を呼んだのだぞ?」
傍の堕天使が一言発すれば、獅子威しが静寂を割るに等しいその効力。
「ね、矢代…?」
「この場を貸して下さり、感謝するばかりです、閣下」
「頭をお上げ…ふふ…君から社交の場を持ち出すなど、珍しいのだから」
後は好きにやりなさい、と、角を撫ぜつつ微笑む、氷の美貌。
その底知れぬ力に畏怖しながら、俺はただ「はい」と返事した。
そう、此処からは…好きにして良いんだ。
お赦しが出たのだから、どう動こうが…俺の、勝手だ。
炙り出す為の、偽りの宴を…
『この前の席ではご機嫌斜めだったのに、今回は随分と振舞われますのう?』
パズスがずい、と俺の頭上に影を作りつつ寄って来る。
その獣の眼をチラ、と見て、突き返す皮肉。
「マネキンは表情変えませんからね、そう思われたならそれで結構です」
『はっは、それは違いないですなあ…しかしてヤシロ様、そのお召し物…』
『お気に召しタ?眼に痛いノニ』
背後から聞こえる声に振り返れば、眼をぱちぱちしばたくデカラビア。
確かに、その面積に白を映せば痛いかもしれない。
「純白を纏えば、皆さんの眼の色も変わるかと思って」
俺を囲む一同、この言葉に反射的に此方を向いた。
「弱っちい人間な上、清廉なモノ着てたら、煮えくり返りませんか?腹」
もう数体、ガリガリと奥歯を鳴らして俺を射抜いている、その滾った眼差しで。
シャンデリアも揺れる高い天井に、ゆらゆら悪魔達の影が踊る。
少し遠くで、ケッ、と、食んでいた馳走を床に吐き出した悪魔が見えた。
俺が潔癖なのを知っている、でかい図体の夜魔。
「お口に合いませんでしたか」
『…閣下じゃなくって、アンタが直々にってゆうからなあ、来たらなあ?なあ?』
太い角をがっしがし、酷くイライラした挙動で掻くフォーモリア。
『人間ん~、卑屈なんだよぉ、おまえ?』
「今回の、俺が作ったんですよ」
『聞いてるのぉ?なあ?』
「イタリアン、やっぱり悪魔の口には理解不能ですよね、だろうと思った」
ケープから抜いた腕、それに周囲の神経が集中する。
向こうのテーブルのフォーモリアと俺の間が、一瞬で割れた。
皆、これから何が起こるか察したのだろう。
「温かいのと冷たいの…どちらにします?」
『いらねえよぉ、人間の喰い物なんざなぁあ?』
一歩踏み出し、俺のつま先がいつもより数拍遅れて接地する。
ライドウの靴を無理矢理履いたから、確かフェラガモ。1927年製の本物だと。
「イタリアなら食前に聞かれますよ、ああ、でも悪魔に熱の差なんか判りませんよね」
慣れないヒールが痛い、でも、鳴らして向かう。
聴け、この音。食め、この馳走。出て来い、あの悪魔。
「じゃあ、とりあえず温かいのにしときます?」
フォーモリアが、大きな口を咆哮と共に開放した。
俺に返事するかの様に、雄叫びを上げる、その衝撃にシャンデリアがざらざら啼く。
身体の筋力を緩くさせ、牙を剥がすその波動。
踏み締めた足場で、ヒールがぐずり啼く。赤色の絨毯に埋まるそれを、勢いつけて跳ね返す。
懐に潜り込み、両腕の先に纏わせた焔をなびかせ悪魔の太い足下へ。
『っついわ!!このチビがあアァッ』
振り下ろしてくる腕の影が見えた、でも止めない。
頭蓋に酷い震動が訪れて、脳内が揺さぶられる。どうして悪魔になると石頭に成っているんだ?
これでも死なない自分に嫌気が差して、それでも死なない事に安堵して。
「チビ、で、悪かったですね!」
偏った中身を振って戻すかの様にして、二撃目が来る前に力を籠める。
先刻の雄叫びで弱まった腕先はそれほど隆起しない、でも問題は無い。
「ほら、どっちかっ、選んで下さいよ」
酷い体躯の差、その脚に抱きついてる様に見えると思う。
でも、上からの声に状況は一瞬で判るだろう。咆哮じゃなく、悲鳴じみた雄叫び。
「レア?ミディアム?」
『があああっあああぐ、ぐぞぉっ、ごの!』
焔の塊と化した毛皮、灼熱を振り払った腕が、再び下りてくる。
地団駄するその脚を放して、後方に宙返りしつつ発った場所を見た。
焦げる腕で、その足場を砕くフォーモリアが映って流れる。
その光景に続けて、顔面の削げた頬骨をカタカタと覆い、狼狽したビフロンス伯爵が。
表情筋も無いのにどうして狼狽してるとか解るんだ。俺もどうかしてる。
きっと、いつもまとわりついてくるから、嫌でも解る様になってしまったんだ。
『猫かぶってんじゃねえぞおおぉぉお?』
ずんぐりとしたその肉体、火達磨で此方に突撃してくる。
擦れた絨毯がずるんずるんと、フォーモリアが駆ける脚で剥けていく。
「がっ!ぐぅ、うッ――」
奥歯を噛み締めて、その轟々と燃え猛る夜魔を、骨も砕けに受け止めた。
じり、と、俺の手から離れた焔が俺を焦がす。
『!!あぐ~~~~っっ!おま!!おま!!』
「生焼けの、赤い断面、気持ち悪いから…っ」
ふいごの様に、受け止める腕から魔の力を注いだ。俺の焔に塗り替えんと。
「だから、ウェルダンで」
ああ、眼の奥から、項から、どくどくと脈打つ。
マガタマが無くても、この焔は俺から出ずる。加熱は得意だ。
『んご、ぉぉおおおぁあぁあ』
…どこか笑ってさえいるんじゃないか、俺は。
なんだ、ライドウが居なくても、平気じゃないか。
「しっかり口付けたら、食べて下さい」
先刻この悪魔が吐き棄てたモノに、爛れたその体を叩き付けた。
「パンツエロティ、オレキエッテ、ブッラータ…しっかり揃えたのに、パスタばっかですけど」
いつもは、俺を詰るこのヒールで、山羊みたいな角をぐりり、と詰る。
床に沈んだフォーモリアが情けない声を上げた。
ずるんずるんと、絨毯みたいに皮膚が削げて、赤いじゅくじゅくした皮下組織が零れる。
何故か、酷く苛々する。気持ち悪い。
「食べて下さい」
角を押しやり、絨毯を汚した半咀嚼物に、その顔を擦り付ける。
「食べろっつってんだろ!!」
まるで俺を見ている錯覚に、眩暈がしそうだ。
この、ヒールで、頭を…角を……
『いや、人修羅殿はお料理も大変お上手で』
ふと飛び込んできたその聞き覚えのある声に、詰る足先を止めた。
視線だけでその発生源を辿る。
『茹で具合も完璧でありますね』
黒い帽子、黒いローブ…黒い巻き毛が艶やかな。
「…ラウル」
『おや、自分の名をご存知でしたか、これは光栄に御座います…』
「デュラム小麦、わざわざ取り寄せましたので」
『故郷の陽の薫りさえしそうですよ』
現れたな、イタリア悪魔め。
フォーモリアからヒールを退ければ、ごてん、とその頭が絨毯にぶつかって揺れた。
他の悪魔達がその瞬間、息を呑んだ。
「流石に判るんですね、貴方」
判らせる為に準備したんだから、当然だ。
『ええ、馴染みの空気です、此度の晩餐会は』
ヒールの汚れを、ずりずりと絨毯の毛足で落とす。
黒い妖精の属に歩み寄れば、ひらりと舞うケープにその視線が喰い付いたのが判った。
そう、パスタじゃなくて、これに喰い付け。
『てっきり御不満かと思っておりましたのに…』
「改めて着たら、そんなに悪くなかったですよ」
相手の興味を引くギミックを。
喰い付いたら、一気に引かず、じわりじわりと。
「この刺繍、イタリアのですよね」
『ええ、ブティに魔力を籠めまして』
「貴方がその国の眷属だって聞いたので、今回は趣向を凝らしてみたんですけど」
『…ほお、それはそれは、身に余る光栄で御座います』
間接的に気分を上げさせる。あまりに直接的だと、警戒される。
「夢が…」
その、黒いローブの端に指を伸ばせば、やや身構えるラウル。
俺の指先の黒に、しかし見惚れている。おぞましい。
「夢見が、面白かった…です」
『然様ですか、それは良かった』
「もっと作れませんか?こういうの」
本当は脱ぎ捨てたい、肌からじりじり吸われるこの感覚、落ち着かなさ。純白。
それ等をかなぐり捨てて、如何してこの悪魔を釣ったのか?
ライドウの言葉が反芻される脳内。
“利用価値が有るから”
そう、全ては、それだけ。媚びる筈も無い。
どうして俺が、悪魔なんかに…
ライドウの真似までして、交渉していると思っているんだ。
こいつに、聞きたい事があるからだ。
『勿論、貴方様にぴったりの纏物をお作りしましょう、人修羅殿』
その黒い帽子の影で、双眸がギラリと光った…
俺が頷けば、それがたわんで三日月の様に微笑んだ。
周囲の悪魔が、俺の様子に唖然としていた。一部は食事にがっつくままに見送ってきたが。
俺達の退場で、宴は早々にお開きとなった。
『人修羅殿は博識なのですね、自分の拠点にしている処を把握されている』
暗い廊下を歩む際、傍からかけられる賞賛。
『靴も…イタリーのですね、とても良くお似合いで御座います』
「どうも」
貴方が褒めてるのは全部ライドウの物ですがね。
『以前から資料にて拝見させて頂いておりました、ボルテクスという処は、如何でした?』
「如何って…何がです」
『居心地』
「最悪でしたね」
そうこう云っている間に、薄く灯りの下がる扉が見えてきた。
冷たい古城の、それも地下。暗色日輪すら届かない空間。
『あのカグツチとやら、纏う衣装の色がすぐに退色しそうですね』
「熱は、そう感じませんでしたが、太陽と違って」
『だから上半身を曝していても焼けなかったのですね』
その発言に、思わず顔を見つめ返す。
「ふっ…服は!受胎の後目覚めたら――」
『おや、着きまして御座いますよ、人修羅殿』
この悪魔…
『ささ、どうぞ…自分の工房です』
すう、と開かれる扉は、想像よりもスムーズな動きだ。
促されて足を踏み入れるなり、視界に飛び込んできた物。
「…悪趣味、です」
踊る、沢山の骨。骸骨達。色んなポージングで、ファッションショーみたいに。
『然様で御座いますか?骨の標本はとても使い易く、見目も美麗と思いますが』
「人間じゃない骨まで…」
『自分は人型以外も承っておりますので、閣下の物も』
真赤な別珍のドレープが効いたドレス…草で染めた様な渋い色味の帯が絡む法衣…
これの一着一着が、何らかの力を湛えた魔具なのか…?
『大正の日本國に合わせた着衣も、いくつか拵えた覚えが御座います』
色んな衣装を纏った骨のマネキンが、皆一様に作業台を眺めている配置。
「…よくこんな処で作業出来ますね貴方」
『見つめられつつ織り出す行為は、至福のひとときでありますから』
突如、今纏っているケープの、その端を掴まれた。
『さあ、採寸しましょう…』
「え、っ」
『骨の記憶から肉を割り出すのがザラでした、が…人修羅殿には肉がありますので』
唇が怒りに戦慄きそうになる、触るな!と……
「…手短、に…」
それを押し殺して、赦しを与える。
『有難う御座います。では失礼致します』
「っ、あ、の…モノサシっていうか、巻尺みたいの、使わないんですか」
冷たい血肉の指先が、ケープを捲って俺の腕を取った。
たゆたう黒髪の隙間から、嬉しげな眼が俺を絡め取る。
『指を滑らせば全て解るので…記憶中枢にそのまま仕舞えますから、楽であります』
何を尤もらしく云ってるのだろう、この悪魔め…
『まずは、腕の裄から測りましょうか…ああ、この黒い紋様をこんなに間近で…ふふ、ふ』
つつ、と辿って走る指に、腕が震えた。
ずい、と侵入してくる黒い爪先が、衿を割って、鎖骨を滑り落ちてゆく。
『肩幅は…あまり無い…』
「…っ……」
『胸周りは、筋肉が薄いのですね、ああ、あの力は魔力に依存しているのですか』
「っは……やく、済ませ…」
見知らぬ指が蹂躙する肌、気持ち悪い、気持ち悪い。
『腰の細い事………』
「…!!」
腰骨から、更に下に流れ落ちてゆく指の冷たさ。瞬間的に体が跳ねた。
ラウルを突き飛ばし、乱れた着物を掻き抱いた。ああ、無理だ、これ以上。
「そ…こまで、測る必要が」
『ヒトで云うヌード採寸というモノに御座います』
別に下卑た笑みでもなく、嬉々としているその声音。
『それに、その下肢の斑紋がどの様に奔っているのか…非常に興味が御座いまして』
「興味だけでジロジロ見るな…っ」
引き寄せた獲物に、自分を何処まで喰わせるか。
愉悦に相手が蕩けている瞬間が、一番のチャンスだと、ライドウの背中で知っていた。
あの男が、交渉悪魔の要求に応え、MAGをその唇に…ああ、思い出すだけでも、妙に苛立つ。
その接吻は、あくまでもライドウが与えるを赦している行為。
必死に貪るのは、交渉相手なのだ。
恍惚と貪る相手を、そのままゆるゆると管に封じる事もあった…
そう、喰われる側になる事は、避けなければならない。それなのに。
『人修羅殿…それでは作れません』
「適当で良いです!下は」
ギリギリまで引き寄せるなんて、無理だ。身体を捧げるなんて、尚の事。
どうしてライドウは、自分を切り売り出来ていた?そんなにまでして何をしたかった?
『それはいけません、残す作品は全て完璧でなくては気が済みません』
「そんなの貴方の勝手だ」
『その斑紋に、最も合う至高の一着を…』
と、ラウルの指先に絡んだ何かが、するすると空を舞った。
それを辿れば…自然と俺の体に…
何だ、おかしい、体が…
『先日お贈りしたこのケープ、着て頂いており大変悦ばしく思います』
「俺に何の怨みがあった」
『怨み?いいえ、自分は貴方様のお姿に感銘を受けている衆の、ほんの一握りでありますよ』
「この白い服!これに変な夢を―――…」
がくん、と力が抜ける。
突如訪れたその脱力に、体勢を立て直そうと脚だけが踏ん縛るが、無駄だった。
とさり、と支えられ、黒い巻き毛が首をくすぐる。
『…ええ、夢より侵蝕し、人修羅殿の気を手繰り寄せるのが、この衣装の役目』
「な………」
『その斑紋が浮かばぬ貴方様は、人間と同じ…一時的に抑制は可能だろうかと興味が御座いまして』
暗い帽子の影と、俺の顔の間に通るのは、白い糸。
ラウルの指先で、糸紡ぎされるそれは、俺のぺらい胸板を走っている。
『こうして、仕付け糸を抜くと……ほら、如何ですか?』
「はあ、はああぁ」
吸い上げられる感覚が一層強くなる。だらりと下がる指先の斑紋が啼く。
俺の身体が、おかしくされている。
『この聖衣は、この糸を抜いて完成なのです』
「ど、ういぅ…っ…おま…ぇ」
『人修羅殿の斑紋に合わせて織り上げたレェス…抜けば逆の紋様に、貴方を封じる呪いに』
端に目盛りの付いた作業台に、そのままどさりと押し倒される。
反射的に項を庇おうとしたが、痛みの空虚さに驚愕した。
項の、突起が…無い!?
『少しの間封じれたなら、それで良いのです』
くい、と持ち上げられた俺の腕先に…斑紋は無い。
まさか、まさかこの瞬間…俺は、ただの人間なのか。
先刻まで憚らせた焔すら発せない、その寒さに心臓が萎縮した。
この、白い着衣が俺の足枷になっている、またしても。
「何、が…目的」
『下肢の寸法計測で御座います』
「そ、そんだけの、為に…こんな、っ」
見下ろしてくるのは、確かに黒い影。でも、素知らぬ一悪魔。
『伯爵には劣りますが、自分も貴方様を痛く痛く焦がれております』
崩れた着物の袷に、黒い爪先が不躾に潜り込む。
カッと血が上る感覚と同時に、気付けば拳を振るい上げていた。
「あ、っ」
白い頬に叩きつける寸前で、細い指に軽々と受け止められる。
そう、俺が思っていたよりも、この腕は遅く、弱々しかったから。
『御無理なさらず、ほんの数刻、人間に等しいだけですから』
「あ、っああ…あっ」
『黒いレェスの織り成す魔力…その目のパターンも是非教えて頂きたく』
がくがくと、肩から震える。意味の無い喘ぎが呼吸と漏れる。
そう、間違いなく、俺は恐怖していた。この城に、この状況に…
脆弱な人間で居る事に。
『下を測り、しっかりと、貴方様に合う着衣を織り上げましょう…ふふふ』
「か、閣下が、閣下がこんな無体を赦すと――」
咄嗟に出たのは、堕天使を餌にした逃げ道。
しかし、この悪魔はうっそり微笑む。俺の腰帯に指をかけて。
『閣下は“後は好きに――”と、申されておりましたので』
ぞわり、と背筋が凍る。
『我等一同、好きに飲食し、喧嘩し、宴に興じた訳であります…』
ああ、そうだ、閣下は…ルシファーは俺を試して、遊んでいるんだ。
どうしてそんな存在を盾にして恫喝したんだ、俺は。
…馬鹿だ。釣られたのはどっちだ?
「下、暴いてみろ……戻ったら…俺が悪魔に戻ったら、殺す……っ」
『しっかりと織り上げた魔の滴る衣装で、強大な力を引き出せたとしても?』
「俺は、悪魔の力なんか要らない!」
『今、この瞬間は欲しているのにですか?』
その指摘の、あまりな図星に声が出なくなった。
『御安心を…痛くはしませぬ、どこぞのサマナーと違い、貴方様を傷つけたい訳では――』
「記憶…戻せよ…!」
出なくなった筈なのに…どうして、この叫びは、喉奥からこみ上げた?
胸を開く悪魔の指に、怯える筈なのに。ただの人間のこの身体で…
「記憶…奴の…ライドウの記憶、元通りにしろ」
『それが聞きたくて、自分に接触を試みたのですか?』
更なる図星は、もうどうでも良い。
ライドウへの申し訳無さなんか、全然抱いてない。
ただ、ただ俺が…息苦しいだけ。俺にとって、今のあの男の状態が…
「お前には出来る筈、だろ…!お前の見せた悪夢が!」
『それは直接的な要因では御座いませぬ、自分には操作し得ぬ範囲』
「嘘だ」
『いいえ、これが真実……記憶、ですか?』
くすり、と笑った悪魔が、手にした仕付け糸でぐるぐると俺を台に固定する。
「嘘、だっ、嘘だ嘘だ」
『記憶が飛ぶなど……それはサマナー葛葉の落ち度でありましょう…』
お前に、何が分かる。
『人修羅殿の気に病む事では御座いませぬ』
同じ黒でも、全く違う。
悪魔の俺を崇拝する指先と視線。
これが酷く息苦しい。
半端な俺を嘲笑する爪先と紫煙。
あれは吐き気がする、嫌悪感がこみ上げる……のに、どうして…
どうして、付き従う?
どうして、俺はあのデビルサマナーに…
『……御加減が、優れませんか?』
探る指先が、下肢の裾を払う直前に止まる。その光る眼が俺をじっと見つめる。
『人間の、涙、は……確か、哀しみと苦しみで落つるモノ…』
涙?
『つまり今の人修羅殿は、余程気分が振れていると見ました』
「…何云って…俺は、泣いてなんか」
『そうですね、少し後にしましょう。そういう光物はこの眼には厳しいので…ああ、眩しや』
着物の袷がゆっくり閉じられ、上に覆いかぶさっていた影が退く。
『では、それも涸れ果てた頃に、採寸致しましょう?人修羅殿』
カツリ、とブーツの音と愉しげな声が、遠くに去っていく。
薄暗いランプがふっ、と消され、暗闇が訪れた。
ひとまず、難を逃れたのか……いや、後回しにされただけと思うが。
遮光幕の隙間、黒い日輪がゆらゆらと、窓に揺れていた…
朝も夜も無い、ずっと常闇。
「誰が……涙なんか…」
ずっと、ずっと流せる人間に還れるのなら、そう在りたい。
人間に戻る事が、俺の…最終的な目的なのだから。
でも、こんな形で手に入れたかった訳じゃ…
どうして、俺だけではしくじる?あの男の真似したって、成功しない。
今までどうやって生き延びた?
…ボルテクスで、俺の尊厳をいつも奪ったあの存在が…
…ずっと、俺を奮い立たせて、生かしていた…と、どこかで解っていた。
(このまま帝都に戻らなかったら、きっとあいつ、哂うんだろうな)
あの日から、あの吐き気がする程の狂おしい交わりから、会ってない。
外套を叩き返しに戻った先、既に消えていた。
すれ違い…鳴海に聞いてもゴウトに聞いてもすれ違い。
俺を避けているのか、今までは俺が避けていたのに。
(このまま、契約も自然消滅、か)
乾いた笑いが自然と出て、喉を震わせた。
なんて馬鹿馬鹿しい、本当に、ただのマネキン、着せ替え人形じゃないか。
友達に人形を貸す程度なのだろう、堕天使にとっては。
それで自我が壊れたら、それまでの玩具。そう云いたいのだろう。
(葛葉…ライドウ)
ああ…乱暴でも、欲望任せでも、本当は良かったのかもしれない。
血濡れの繰り糸で、俺を…踊らせて欲しい。
もう一度、泥山から引き摺り墜としてくれよ。
やり場の無い、この孤独に濡れた力の矛先を。馬鹿にしたその哂いで、俺に与えろ。
「 」
唇が…暗闇に囁いた…契約の名を…来る筈も無い…
かつん。
音が、呼応する。
ラウルの帰還かと、身を強張らせ、いっそ瞼を閉じた。
気配が、する…傍に立つ、影の気配が。
先刻閉じられた着物の袷が、また開かれる。
無心でそれを受け入れる、もう、早く過ぎてしまえ、と。
どうせ、血相を変えて怒りを撒き散らす、あの男は居ないのだから。
整然と行使されるのだろう。
痛みは無い筈…ただ、吐き気を堪えるだけで良いんだから――………!?
「っあ、あああ゛ーッ!!」
突き刺さる、鋭い痛み。針状の硬質な、何か。
想像もしていなかったソレに、途端瞼を開くが、見えない。
暗幕の隙間から、日輪は厳かな闇しか零さない。その所為で、俺の目の前の正体が見えない。
「ぁぁあああぁぁっだあああ痛い!痛いぃッ!!」
人間の俺の肌に、容赦無く入っては出て行く何か。
跳ねる身体が痛みと抵抗を滲ませて、相手を蹴り上げようとした。
ぱしり、と先は捉えられ、呆気なく封じられ。
する、とブーツが脱がされる。軽くなった爪先の寒気と痛みが鮮明になる。
と、思い出したかの様に肉に刺さる針。
ずるる、と皮膚に刻まれる熱い糸が、俺の肌を…肉を…
「はぁっ、ぁ、っ、っぐ!!」
腕を、確かめる様に、その指が踊る。
暗闇の中、視えない形を辿る様に、記憶を辿る様に。
俺の身体を推し測る、冷たい指先。
指の後を追って潜る針と、糸。
びきびきと、腕が熱くなる。燃え立つこの感覚…酔い痴れる、堕落の焔。
呑み慣れた…魔力が。
「はーっ…はーっ……」
凄まじい痛みに、眩暈がする。引き攣った様に、出入りする針に持っていかれそうになる。
固定されていた腕が捕らえられていたのだ、きっと俺の緊縛は既に解けているのに。
どうして俺は逃げなかった?
そろり、とケープが肩に下ろされ、横たわって息も絶え絶えの俺に…被さった影が囁く。
「後は、自分でおやり」
その声で、身体が目覚める…覚醒する。そう、頭は既に認知している…
上体を起こし、窓の在った方へと駆け、指先に暗幕の感触を確認すると左右に開いた。
重い闇に薄い闇が射し込んで、少しだけ照らされた作業部屋。
俺の寝かされていた台の周囲には、誰も居ない。
どくどくと、胸が煩い。腕が、ああ、熱い。
『人修羅殿…?』
出入り口の扉が少し開き、あの悪魔の声がした。
視線で追えば、俺の姿にやや驚く彼。
『戒めは、そんなにも簡単に溶けましたか』
悪魔の黒いローブは闇に紛れて、よく確認出来ない。でも、今なら大丈夫だ…強く出れる。
「一発殴らせてもらいます」
『何故裸足なのですか』
「閣下からお咎めの無い程度に…っ!」
『くすっ…人間の御身体で?』
大勢の骸骨に囲まれて、その観衆の中。闊歩しつつ俺は睨んだ。
ケープを掃い、腕をラウルに突き出す。すると、案の定…
『な、黒蔦の紋様、何故…』
俺の腕に奔る、黒い刺繍。
乾ききらぬ血が鈍く輝く、その縫い目は、寸分違わず俺の斑紋の通りに。
本当に、糸が縫いつけられている…
自分で見ても、痛々しくて身の毛がよだつ。
『し…しかし、腕のみ、ですか…なればさほど問題でもありません…』
そのあっさりした温和な笑みを、叩き潰してやる。
「良い、腕だけで充分だ」
黒い糸が、俺に魔力を流し込む。浮かばぬ斑紋の代わりに啼く。
そう、腕さえ悪魔なら。
「二度と俺に近付くな!ラウル!!」
叫びと同時に、織り上げる焔。瞬間、ローブの袖で顔を覆い、マカラカーンを唱えたラウル。
誰が、そこに振り下ろしてやるか。分かっていて放つ程、愚かじゃない。
左右に広げた腕で、火の粉を散らして骸骨に蠢く熱流を。心に喰らえ。
『っああああ酷い!!酷い!』
それまでと打って変わって、声を張り上げる悪魔。
燃え盛る骸骨達は、纏う着衣が燃料となって更に情熱と踊る。
『作品達がっ!あっ、あっああ!!』
燃えるそれ等に縋りつつ、術の効果で己は焼けない悪魔。
情けない声を上げるまま、作業場を右往左往。
息の上がった俺は、ただただそれを見て、熱い空間の中で立ち尽くす。
『自分はただ、人修羅殿を作品に取り入れたかっただけでっ』
のたまいつつ、まだ燃えてないマネキンのひとつに掴みかかったラウル。
同じ黒の、たゆたう着衣も艶めかしい…ソレが、喋る。
「ヒトの作品に落書きするものでは無いな…」
はっ、と見上げた悪魔。俺も、その瞬間にようやく気付いた。
轟々と燃え盛る焔の中、残る人型の影。
喋る筈の無いそれは、ニタリと哂ってヒールを鳴らす。
「人修羅…は、僕の作品だから、ねえ?」
離れようとしたラウルの襟首を掴み寄せ、そのまま足掛け、背負い投げる。
その流れる動作に、口すら挟めない俺。
『ウ!!グ、ッ』
「非戦闘員ならば大人しくしてい給え…よ!」
レザーのコードやレースの端切れ、骨の散った床に投げられたその悪魔を、強かに蹴り上げた。
ごろごろと転がった先、テーブルにぶつかれば、その上に積まれた装飾が飛散する。
「!そうだ、っ…一発、くれてやらなきゃ、っ」
其処に歩み寄って、くたびれた黒いローブに、拳を振り上げた矢先…
「お止し、閣下がオーダーメイド出来ぬとお怒りになるかもしれないからね」
俺に発された声に、苛々しつつも拳を引いた。
気を飛ばしてしまったらしいラウルを、軽く爪先で小突いてみれば
行儀も悪く舌打ちが出てしまった。
未だに肌に纏わり付いてくるケープを、ばっさりと脱ぎ捨て
パチパチと未だ燃え盛る骸骨にそれを放れば、ゆっくりゆっくり燃えていく。
「流石に特殊な素材で織り上げてある、一瞬で焦げる化繊とは違うね」
「あんた、さっき投げた上に蹴り飛ばしただろ」
「ローブで見えぬ場所だ」
「最低」
吐き棄てて、自らの腕を眺め見る。無理矢理に縫われた肌が、薄く変色してきている。
「本当…最…っ…低、だ」
「ヤタガラスの羽から紡いだ特殊な糸だよ…フフ」
哂う、いつも通り、今まで通り。
「んな、もん何処に」
「此処だよ」
ひらり、と捲られた外套。その先端の綻びから
ゆらゆらと解れた糸が…焔に炙られ揺れている。
ああ、マジなのか、あの沢山の有象無象の血を啜ってきた…あの外套の糸…
「汚、い……不衛生」
「云うと思ったよ…クク、潔癖め」
熱の所為か、ふらふらする。奴の影が視界に定まらない。
おい、もっとしっかり…見せろ。見せてくれ…今のあんたは、一体…
「お、い…夜」
朦朧とした意識で呟いた。
がしり、と掴まれる腕、引き戻される…この身体…
「フフ…あの纏い物の刺繍、全然…駄目だね」
小手先だけの力を使い果たし、もう余力が無いのだろうか…
あの、慣れた、嫌味ったらしい声だけがする。
「この斑紋を完全に刻めるのは僕だけだ」
刺繍を撫ぞる指先、斑紋を縁取る様に、ざっくりと、しかし要所要所を捉えた位置取り。
星座が如く、点と点を結ぶ線が魔力の通り道になっていた。
「よ…る」
幾度、名前で呼ぼうが、跳ね除けない。
馴れ馴れしい、と怒らない。
「其処に寝ている妖精の属よ、そんなに自分の物にしたくば、名前でも書いておいたらどうだい?」
あは、あはははっ
こだまする笑い声の中…俺は意識を飛ばした。
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