揺籃歌




「へえぇ!お嬢さんじゃあなかったんかい!」
傍のライドウを見れば、別に気分を害する事も無かった様子で。
「随分長身とはお思いになりませぬか」
「違いねぇ、纏足たあ縁が無さそうな靴履いてるし」
「辮髪もアヘンも縁は無いですよ、ダーレン」
「草買っといてよく云うね客人!」
クッ、と哂って札束と引き換えに紙巻き煙草を受け取る。
それを管ホルスターの裏側に、潰れた厚紙の箱ごと差し込む白い指先。
いつ火を要求されるのかと思い、ちらちらと周囲を窺っていると。
「間違えられたのは久々だね」
ふと呟くライドウ。先刻の露天商での出来事だろうか。
あの一瞬、俺への言葉かと思って、胡散臭い店主を睨んだのは秘密だ。
「まあ、あんた顔だけは綺麗だからな」
「おやおや、限定的だね功刀君」
「全部容姿に流れたんじゃないか」
「今此処で君を灰皿にしてやろうか?」
哂いながらの凶悪な台詞に、俺は冗談ではなく背筋が凍る。
元々猥雑な街だ、唐人街…チャイナタウンの街路は眼に痛い。煌びやかなのに、何処か湿ってる。
道端で悪魔を召喚しても気付かれないのではないか?俺が根性焼きされようが、素通りされそうだ。
「さっさと帰りたい…脂っこい臭いが気持ち悪いんだ」
「中華はそういうものじゃないのかい?」
「悪い油使ってんじゃないのか?一部界隈酷かったぞ…店に入る気も失せる」
「しかし僕としては脚休めも兼ね、宿に入りたいのだが?」
「ゲテモノの店入ったらあんた…覚えてろよ」
花模様のギラつく灯篭が、夕刻の空を虐めている。街の光は明らかに星の光を消していた。
思っていたよりも中華料理店は少なく、それこそ喫茶ばかりだ。
昔はこういうものだったらしい。俺は中国茶なら、まあまあ許せる…
僅かな風味の差は、今の俺には判り辛いのが虚しいが。



「少し骨が折れたね」
宿と云っても、ライドウの入る其処は小奇麗な処で。
簡単な武器だけを携帯して、下階のテラスで茶を揺らしていた。
「あんたがそう云うなんて……おい、さっさと部屋に戻った方が良いんじゃないか…」
「へぇ、心配してくれるのかい?」
「雨か槍が降ったら、このままテラスに居たらまずいだろ…っつ!!」
云った瞬間、即座に脚を引っ込めたが、激痛が奔ったのは頭蓋だった。
ぎりりと、前髪から脳天に髪を引っ張られている俺。空いた腕で頬杖するままニタリと微笑むライドウ。
「このまま辮髪にしてやろうか?」
「っだ、おい、っ放しやがれ!冷めるぞお茶…っ」
意識を逸らせば、俺の髪はようやく解放された。少し腰を浮かしていたので、椅子に尻餅ついた。
「…ほら、フフ、ラクシュミーが踊っている…」
云いながら、ライドウは硝子の茶壷を軽く揺らした。中で開いた茶葉の花が色を滲ませている。
「そういえばあんた、さっきシヴァにパールヴァティぶつけたろ」
「そうだが?」
「趣味悪い」
相性を無視して、単に痴話喧嘩が見たかったのだろうか。
「このライドウというお役目、愉しめなければ割に合わぬのでね」
肩でくつくつと哂い、蓮茶を器に注ぐライドウ。たゆたう湯気が頭上の傘に昇っていく。
煙草の煙より、こっちの方が俺は好きだ。
「今、君の着用しているそれ、僕が着ていたらどうだったかな」
思った以上に戦いで煤けた俺の着物の替わりに、此処一帯で見繕った民族服。
これは…アオザイ、なのか?合わせのズボンは楽で涼しくて、悪くないが。
「紫紺の絹、銀糸の花刺繍、腰まで切り込まれた布地のライン…」
黒い孔雀の様な睫をまばたかせ、優雅に茶を嗜むこの男……外道だなんて、見目では気付けない。
「また女性に間違えられたかな?」
「…無いだろ…外套で隠れりゃともかく、その…胸板が…」
「ああ、流石に君よりは有るからねぇ、フフッ」
いちいち腹立たしいこのデビルサマナー。其処が厚いのを知っている俺を殴りたい。
「あんた、化粧でもしてチャイナ着て呼び込みしてた方が楽に稼げるだろ…っつ!!」
頭に警戒して吠えれば、今度は足の甲を革靴のヒールで思い切り踏まれた。
「君にしては珍しい冗談では無いか、功刀君」
すぅ、と細められた眼。仄暗い紫水晶の様な…闇色の眼光。
(何か…云いたげ)
嘲笑でもなく、揶揄いでもなく、勝手に吐きたがるその空気。
蓮茶の薫りで、少し頭がくらりとする。
「眠いのかい…?疲弊する程の誉れ高い活躍をした?君」
「っさい…夫婦喧嘩に火で煽ってどうすんだ……俺の出番なんて無い……」
「その割にはドルミナーが一瞬で誘いそうな血気だね?」
「…あんたが、つまらない話でもすりゃ、一瞬で落ちる」
呟けば、ライドウの唇がゆったりたわんだ。
背凭れに掛けた外套を、改めて掛け直して、脚を組む気配。
俺は視線でライドウを捉えず、味の薄い茶を啜るまま、開いている茶花を見つめた。
周囲のがやがやとした会話も飲食音も何もかも、開花する花を見て、遮断させる。
「では、揺籃歌としてひとつ…語ろうか」
「揺籃歌って何だ」
「子守唄の事さ」
ああ、もういい、歌わせておけ。
本当につまらなかったら…寝てやる。





烏の御上に呼ばれた宵、その帰りの路だった。
「ヅェンランレンチィジン」
どこか間の抜けたその声音に振り返る。
見た事の無い風体、年齢は同程度だろうか、後ろに撫で付けた髪はどこか枯茶の艶。
それでもふわりと零れる前髪は、毛足の長い小動物の衣の様で。
「ヅォジェンイフヘンスホゥニイ」
つらつらと述べては、急接近し指を伸ばしてくる。
警戒して、僕は腰の下穿きの輪に手を忍ばせ、管を掴んだ。正当防衛なら許される。
「リー!」
だが、その一触即発の空気は僕が勝手に抱いていただけだった。
リーと呼ばれた少年は、声を掛けてきた女性の声に嬉々として振り返り、笑う。
「マーマ」
「此処では日本の言葉を使いなさい!」
「…でも、マ、マ…この子、こっちの言葉、解るよ」
「どうして里から出た事も無い候補生が解ると判断するのアナタは!早とちりも大概になさい!」
ぴしゃりと撥ねつけられ、笑顔はそれでも消えていない。
母と思わしき女性は、亜麻色の髪。この少年の髪色は、この母が原因か。
「シャツヅァイライ、フーニャン!」
異国の着物をひるがえして、僕に手を振り母を追う少年。
その前方でちらりと振り返る女性の視線は、探るようなモノだ。
一瞬の嵐に、滲ませた覇気のやり場を失った僕は、最後にかけられた言葉を思い出し、かあっと血が昇った。



『あっははは!フーニャンですか!』
爆笑したタム・リンは、僕の清書した悪魔合体の表を確認しつつ茣蓙上に胡坐していた。
「笑うでないよ、失礼な奴」
『どちらがで御座います?』
「お前もあの餓鬼もだ!」
墨の乾ききっていない筆を、余った用紙に八つ当たりさせる。
フーニャン…

狐娘

「喧嘩を売っているとしか思えぬがね」
『まあまあ夜様、リーと呼ばれるその男児、恐らくは他の里より移ってきた候補生であります』
流石に師範、情報だけは早いので、毎度僕は他の候補生より驚愕を晒す事は少ないのだ。
「この時期に?フン…どういう足掻きなのだか…根を下ろした里の方が四天王は狙い易いだろうに」
『華僑ですね…母親がヤタガラスの後援者に御座います』
しかし、あの母親、亜細亜の出には見えない。華人に見初められた西洋人か。
「後ろ盾が有るだけで葛葉四天王に成れたのなら、僕は本気で三本松に放火するよ」
『おお怖い…ふふ…しかしですねえ夜様、いくら腐った御里とはいえ実力は見極めまする』
僕に表を突き返すタム・リン、だが、今回は賞賛のおまけは無く。
『そのリーという候補生、貴方様の見知らぬ悪魔を多く知っている』
「…何故だ」
『散歩道の悪魔から得た知識や、行商よりこっそりと買った資料では…補い切れぬでしょう、夜様』
「結局は後ろ盾ではないか、馬鹿馬鹿しい」
表を奪い取ろうと手を伸ばす、しかし放さぬリン。互いの指で空中に展開される合体表。
『…此処から…これだけ、相手には更に知識があるのでしょうねえ…』
ぴんと張られる用紙の端から、リンの指先が虚空に投げ出され、用紙と同じ分だけ滑走する。
「ならば、僕はそいつの知らぬ方面に、同じだけ造詣を深めてやるよ…フフ」
リンの指と逆側から、爪先を虚空に泳がせる。
突如現れた障害に負ける気は、さらさら無かった。
「狸(リー)だろう?化かし合いには負けぬ、僕は狐なのだから」
胸中からぞわぞわと這い上がってくる感覚、蹴落とせば舞い上がる。
そう、此処まで来て、脱落する訳無い、僕が。




『アギ・ラティ』
涼やかに唱えられた術、焔が割れて左右、正面から追い込んでくる。
「そのまま突進し給え」
背後から命じ、僕も己の悪魔に追従する。燃え盛る虎の速度に追いつき、抜いた模擬刀を振り翳す。
焔と焔のぶつかり合いにて渦巻く空気は上昇し、ドゥンを飛び越える僕を薙ぐ。
羽織った外套がそれなりに身体を護り、焦げる熱さも頬をかすめる程度だ。
蓮の花も麗しいその女神に向けて、切っ先を突きたてる。
同時に飛びかかったドゥンが、ふんわりとした下肢の衣類を引き千切る。捻りを加えて身体を下げ、食い千切ろうと…
「紺!止めないか!!」
パールヴァティの胸元に模擬刀を差し入れて居た僕に、怒号が飛んできた。
仕方無いので、ドゥンに向かって一声掛ける。
「蓮根はお預けだとさ、お戻り」
僕の携えた腰の管にするすると戻った虎。脚の錘がようやく消えた女神は、安堵の笑みを浮かべた。
「パール!ごめんね、痛かったでしょ?」
声を掛けるリーも、また笑顔だった。
『模擬とはいえ戦いですから、リー様が謝罪する事など、一切御座いませんのよ』
うっそり微笑む蓮の花。焔の煤に汚れた主人の頬を、優しげに拭っている。
まさか、あの女神を使役していると思わなかった…きっと、家から与えられたものだろう?
いち候補生には得難い悪魔だ。それをあんなにも気楽な風に使役して…
(労せずして、得た癖に)
眺めて思う僕に怪我の痛みは無くとも、苛立ちでどこか頭は痛かった。
「貴様は何をしとるか!」
叱咤の声、直後流れた己の視界。逸らす羽目になったそれを、その声の主に戻す。
僕の煤けた頬は、がさついた太い指に叩かれる。
「止めの号令が入った後に、相手の仲魔に攻撃を仕掛けたままだったな?」
「……」
「そうだろう!?」
前髪を鷲掴みにされる。そうまでせずとも、僕の視線の高さは足りているだろうに。
ヤタガラスの黒装束にしては、妙に血気盛んな奴。可笑しくて、フ、と哂いが零れてしまう。
それを嘲弄と受け取ったか、つい先刻叩かれた頬に、今度は拳が飛んできた。
踏ん縛る程、今日は張り合う気も無いので、そのまま地面に吹っ飛んで枯れた草を舐めた。
周囲の候補生達のMAGが、ひそひそと嗤うのが感じられる。
「模擬戦闘でいくつ殺した?全く…これだから…お上様方も何故こんな危険因子を…」
ぶつぶつと呟く装束は、僕に聞こえていても構わないのだろう。
(僕相手だと、試合相手が真に容赦せぬのだから、殺してしまっても仕方の無い事だろうが)
殺しに掛かるのが、既に僕の手癖なのだ。
起き上がり砂を掃う僕に背を向けるまま、装束は他の候補生達に指示を出している。
太陽が西にゆっくり滑る午後。乾燥した里の空気が運ぶ、生温い風。
夏と秋の境目。
「ねえ、大丈夫フーニャン?」
裾の枯れ草を掃っている際、前方からの声。
誰なのかは、判っている。だからこそ相手にしたくない。
「凄いねえ、自分の悪魔っていっても、熱くないの?フーニャンは紅蓮の属が得意だろうねえ」
この後、軽食し身体を整えてから、再び修練する…その為に候補生達は、連なりひとつの建物に入っていく。
僕は、とりあえず水分だけを求めて足を向ける。
「ぼくねえ、アギ系使ってる仲魔に寄れないんだあ、もう熱くってたまんないから」
井戸水から汲み上げられたそれが飲める給水場、用事が有るのは其処だけ。
「今日のお昼何かなあ、ねえねえ」
「煩い」
「ぼくの実家の地方だとねえ、簡単につまめて、それでいてお腹いっぱいになる料理が多くてね」
飲み終え、陶器をやや乱暴に返却盆へと叩き置く。苛立ちを発しているのが、分からぬのだろうか?
「バイン・ミー・ティットとか、マ…お母さんは駄目って云うけど、ぼくは屋台のが好きでねえ」
「……越南…」
「そう!流石はフーニャン!でも中国に居た時間の方が長いかなあ、でもでも珈琲は地元のが好き」
何なんだ、こいつは…
周囲の人間も、僕に纏わり付くその神経に半ば呆れている。
このリーという男は、眼を糸の様に細めながら、逸れ者の僕にひたすら話しかけるのだ。
「ねえねえ水だけで足りるの?」
その質問は、此処で昔から僕を見ていない者の表れだ。
そんな彼に対し、傍観していた一部から声が上がる。
「おいリー、狐は水しか飲まん時期があんのよ」
「禊の期間っつうな……っ、くく」
野次に首を傾げるリー、こいつはとことん、悪意に鈍い。
寄ってきた候補の男等は、リーが僕をいつ汚物を見る眼で見始めるのかを、心待ちにしている。
「禊?儀式の前なの?」
その候補生等を振り返り問うリーの、向こう側から僕を舐めつける視線。
「生き物喰うにゃ糞抜きすんだろ」
「え?うん…あんまり食べさせて貰えないんだけど、水爬虫とか虫の中だと人気あるね」
「それと同じこったぁよ」
「…え?」
卓で着席して食事をしている他の一同が、耐え切れずに吹き出した。
きょとんとするままのリーを無視して、僕は背を預けていた壁から離れる。
「臭い汚物撒き散らすより、マシだろう?」
「っぐ!!」
通り過ぎ際、リーの背後のそいつの胎に、指先をめり込ませる。
拳の必要は無い、大事な要点を突けば充分痛手になる。
ぐぷ、と吐き出すのを必死に抑え込もうと屈むそいつ。立ち上がる周囲、椅子の音が煩い。
「ざけんな手前」
「お前に床掃除させても良いんだぞ狐」
そんな気はさらさら無いので、僕は軽やかな足取りで出口を目指す。
はだかる数名を振り切り、小手先で往なし、己の下駄に指先を突っかける。
「フーニャン」
日常茶飯事だから、誰も追ってこないと思っていたのだが。
本当に、煩い狸め。
「僕は男だ…“娘”は外し給え」
「フー、ダイジョブ?」
「云っている意味が解らない」
「お腹空いてそうな顔してる」
それに妙に頬が熱を帯びた、それは、恥だった。
図星、ではあった。人間の身体は、こういう時にも疎ましい。
背後より追従する小動物みたいな男に、振り返り、逆に此方から詰め寄ってやる。
畦道を過ぎ、寂しい景色の一帯、僕の庵の近く。
「なんなら、お前を喰ってやろうか…」
掴み上げたチャイナの詰襟の感触は、正絹だ。この成金狸め。
「…フー」
「狸汁にしてやろうか?それとも、まだ被ってそうな此処でも剥いでやろうか?ククッ」
蔭る樹の隙間、水分を失い始めているその幹に押し付けて、下肢の股を膝で擦ってやる。
この男、態度は女々しいが、一応モノは在った。
「だって、僕は狐だろう…?精気を啜るは、天狐(ティエンフー)に成る為と思わなかったのかい?」
「ぼくを喰ってフーがお腹膨れるの?」
「捕らぬ狸の皮算用、そんな事は喰らってから分かる事さ…」
この状況で、怯えもしない…歓喜もしない。そんなこの男の感情に、酷く苛立ってきた。
膝頭に当たるモノが、やんわりもたげてきているのすら、ただの生理反応なのだろう。
「この里に昔から物資提供してるから、話には聞いてたんだ」
明るい色の髪、眼の色も日本の者より薄い。僕の真黒い髪と眼を、其処に映り込ませて、じっと見つめてくる。
「写真に写ってた女の子が忘れられなくって、あんまりに美人だから」
追い詰めているのは、僕だろう?
「チャイナ・カラーの衣装で、悪魔と戯れながら、おじさん達に抱かれて――」
「その写真、如何した」
「ぼくの荷物に」
「寄越し給え…!」
御上め、物好きがきっと流したのだろう。後援者の手に渡るのもおかしい話では無い。
樹から掻き寄せて、リーに与えられた庵へと先導させる。
道中に、先走った曼珠沙華が寂しくぽつりと揺れていた。
(消してやる)
辿り着いた先、リーの部屋は抜群の環境で、調度品はオリエンタルな柄模様。
華奢な取っ手の引き出し、綺麗な装飾の管が詰められた其処の、更に下…板を外した奥底に。
異国の衣装で着飾られ、動物の体勢で犯されている僕が居た。
「どいつから流出したのやらね…ク…ククッ」
忘我状態の時の豚共に問い質せば、吐き出すだろうか?
あの臭い陰茎でもねっとり舐め回して、微笑み見上げれば吐き出すだろうか。
今度からシャッター音に警戒せねば。
「次の機会に…フフ…吐かせてやる……」
大事に仕舞われていた僕の恥部、モノクロのひとひら。
リーにひらりと促して、述べる。
「これ、処分するからね」
あっ、と、名残惜しそうな顔をしたリーの眼の前で、写真をただの塵に変える。
蓮模様の絨毯の上に、僕の欠片が…散華の様に。
指先からすべて離れ発った後、視線をリーに戻せば…
「ねえ、そういえばさっきの続きは?」
いつもの腑抜けた微笑。
「喰わないの?ぼくで良かったら、フーがそれで歓ぶなら…」
その影すら無い笑顔に、背筋が凍った。先刻、写真の話を出された時よりも、鮮明に。
「イカレたお前なぞ喰ったら、食中りでも起こしそうだ…!」
小奇麗な部屋から、逃げる様に出た。
おかしい、僕が追い詰めていたのに、僕が捕食側だったのに。
あの、無邪気な笑顔が、おぞましい…



リーは、確かに強い。
僕の相手に程度が宜しいと、それからずっと組まされ続けた。
狐と狸、と、周囲が揶揄するのも気にせずに、リーは笑うだけで。
本当に、頭がおかしいのではないだろうか…



「油揚げ、美味しいのに」
向かいの席で、油揚げの煮浸しを頬張るリーの笑顔が今日も気持ち悪かった。
「気分の問題だ」
「ねえねえ、今度マ…お母さんがね」
「もう“媽媽”で良いよ、云い直しすらうっとおしい」
「やった。そ!それでね、マーマがさぁ…」
口を開けば母親の話。僕は適当に流す、最早念仏だ。
「フーと初めて会った時、フー、チャイナ着てたでしょ」
そして、突如飛ぶ話。この男の思考回路は脱線し過ぎで読み難い。
「それが何」
「あれねえ、マーマに見せてもらった事ある衣装だったんだあ」
「フフ……まさかその時は淫蕩に使用されるとも思わなかった…と?」
「写真見た後だったから、あ〜とは思ったけど」
残りを掻き込んで、笑顔で手を合わせるリー。
「チゥアンラ!」
盆を返却しに向かう足取りに億劫さは微塵も無く、その妙な朗らかさがこの里で浮いているのだ。
「あの時マーマに叱られちゃったっけ、此処の言葉を使いなさ〜い!って」
夏の夜、痛む腰に苛立ちながらの帰路で遭遇した事を思い出す。
あの格好を見られると思っておらず、 すぐ管に指が伸びた程度には羞恥だった記憶がある。
「ねえフー、ところであん時、ぼくが何て云ったか解ってた?」
「解ってたから警戒したのさ」
「あ、そっかあ、そうだよねえ。いやーそれにしても、女の子かと思ったけど、やっぱでっかいから違うねえ」
お前の母親の、僕を見る眼。僕が何者かを見知っている眼だった。
「ぼくね、フーが羨ましかったんだ」
「フン、ならば狐にでも化けたら?」
「あのね、狸って書くけど、中国じゃ山猫の事なんだよ?」
「知ってて云ったに決まっているだろう」
しれっと述べれば、隣を歩くリーが憤慨した、しかし笑顔で。
「ぼくが葛葉に成りたいのはねえ、マーマを喜ばせたいからなんだあ」
ややそばかすの散った頬で、無邪気に。
「マーマはね、家を大きくしたいんだ。僕にまあまあ霊力が有るから、候補に上ったんだけど…」
「簡単に云うね」
「でもねえ、ヤタガラスのサマナーって、影のお仕事ばかりだし……あのねえ、マーマはね、お金が大事なんだ」
一瞬、その声が、突っかかった気がする。
朗らかな貌が消失したかと期待して横を見たが、相変わらずの気味悪い笑顔のままだった。
「ねえ、知ってるフー?お金だけならね、此処の御上様達に気に入られて、お人形になれば、手っ取り早く貰える」
「…だろうねえ、悪趣味な連中だから」
「葛葉四天王こそ皮算用だよ、そんな先よりも…今、お腹いっぱいになりたいんだよマーマは」
僕を見るその眼が、憧れにも近い色を宿している理由…
まさかと思い、念仏に珍しく聞き入った。
「フーみたいに美人だったら、ぼく、直ぐにでもお人形になってマーマに喜んで貰えたのに」
その、耳が腐りそうな経を唱えて貰った礼に、笑顔の狸の頬に拳を叩き込んでやった。



こいつだけには、絶対渡してなるものか。
葛葉の席は、僕が座る。お前が座るのは、その大事な大事な母親の膝上で充分だ。
そう思っていたね。
そうそう、君以上にマザー・コンプレックスだったねえ、そいつは…

しかし、葛葉に成る決定打は無い奴だと感じていた。そういう意味での不安は無かったよ…
ただただ、僕がリーを気味悪がっていたのは…
その、母親への無償の情念だった。



丸い月が天に輝いている。
悪魔の高揚と、秋に燃え立つ樹々の紅葉。
「良かったあ、ぼくパールが居ないとてんで駄目でさあ!フーと組んでなかったら危なかったよ」
あの女神の管は、リーの懐に今無い。
今回は支給された悪魔を使役しての山篭りだった。
明日の正午、太陽が真上の頃まで、耐え凌げば良い…
ただし、一所に留まるのは危険だ。悪魔が闊歩している夜の山…人間が居ると知れ渡れば、集まってくるだろう。
ヤタガラスらしい修練だ…
「まさかザントマンだけとかねえ、ぷっ…ぼくもう笑っちゃって」
「フン、いつもだらだらと笑っている癖に」
僕の管はオバリヨン。普段よりも下等な位の悪魔を与えるのは、意図的に、だろう。
しかし、あまり召喚したくは無い。余計なMAGと気を遣うより、己で雑魚を一掃した方が楽なのだ。
(それに)
ちら、と横を見る。いつもにっかりと浮かぶ三日月の様な笑みの口元。
オバリヨンの口元を見ると、被りそうで。
「どうしたのフー?」
「…いや、さっさと明日の正午になってくれはしないかと思ってね、君のその胸糞悪い笑みから早く解放されたい」
「ひっどーいなあ、フーってば」
「寝ている時もその顔なのかい?気味悪いね」
「パールはそう云ってたよ、ぼく、幸せそーに笑って寝てるんだってさあ」
「何それ、女神に子守唄でも歌って貰っているのかい?」
失笑し、足下にうぞうぞと這い上がってきたウーズを刀で刺した。
「そうなんだ、よくマーマが歌ってくれたのをね……ぼくのパールは、擬態も出来るから、就寝時にはマーマになってもらうの」
膝上に…というのは、あながち間違いでも無かったか。
どこまで母に陶酔して、恋慕しているのだ、この男。
「睡呀睡在那个梦中…」
搖籃曲という物、僕には無縁であるその歌。
傍で同じ様に、群がる雑魚を切っ先で脚から剥がすリーは、気持ち良さそうに笑顔で歌う。
「マーマはね、ぼくが本当に小さい頃は、よく寝かしつけてくれてたんだあ…」
「今は金を数える声が子守唄かい」
「ははっ、そーかもしんないねえ!でもね、本当なんだ…嘘じゃない」
周囲を確認して、刀を鞘に納めるリー。枯茶の艶が月光に輝くその髪を、ふわりと後ろに撫でつける。
「マーマの声で眠るとね、明日も頑張ろうって気になれるよ、しっかりパールは起こしてくれるし、快眠さあ、良い夢見れるの」
「…嘘とは、思ってないよ」
「うん」
己を稼ぎの道具かの如く扱う母でも、お前には絶対なのか。
意味が解らない。
葛葉に成る目的には、一寸たりともお前の意思は含まれておらぬのだろうか。
(良い夢、ね)
想像も出来なかった。




「…フー!」
「承知している、少しは君も立ち回り給え…!」
己とリーの脚に、蔦の様な魔の脈が這い上がるのを目視した。
斬り祓おうが、吸い付いてくる。物質的な打撃は透過される様子。
突然だ。気配を感じなかった、まさかリーと適当な会話をしていて気が逸れる僕では非ず。
(術者の領域から出れば無力化出来るか)
まだ脚が動かせる間に、来た路を捜し、駆け始める。
「あっ、フー!落とした――」
てっきり追従してきていると思ったが、その声に思わず振り返った。
僕の与えられたオバリヨンの管を拾いに、踵を返す馬鹿狸の背中。
その瞬間した予測通り、リーの脚は掬われ、管も草間を跳ねて茂みに潜っていった。
(優先すべきは術者の駆除)
動きを止めるな、どうせあの魔の手には直接干渉出来ないのだ。納刀し、下から這う喰らい手から逃げる。
しかし、何処に居る。満月の光が眩い所為か、空気がざわついて探り難い事この上無い。
領域が広いだけ、相手が強い証だろう。
(上から視れば少しは早いか)
雑木林への入口に駆け、根元に寝転がるオルトロスを踏み台にして伸びる木の枝に指先を絡ませる。
片方脱いだ下駄を、空いた指に持ち、鼻緒に枝を通す。
『オイ小童!!良イ夢見テル時に貴様…!』
下方よりオルトロスの声がしたが、僕はそれどころでは無いのだ。
「あはっ、そのまま夢の世界に引きずり込まれなくて良かったではないか!」
哂って返し、振り子の様に反動を付けたまま、身体を上にぐるりと運ぶ。
擦れた下駄の鼻緒は千切れる事無く役目を果たし、僕は枝の上に跨った。
着物の裾は少し裂けたが、気にする程では無い。
上から視る、MAGの立ち昇る場所を捜す……上空の月が煩い。僕を呼ぶリーも煩い。
(…感じはする…が)
異界からの干渉なのか?それとも僕が未熟なのか?
息を吐き、胎内からMAGを四肢に廻らせる。まばたきを止め、宵闇の空気に融ける。
異界に潜れずとも、蠢く気配を知る事は可能だ。悪魔に教わったのだ、僕に出来ぬ筈が無い。
さざめく気、瞼を下ろし視界を遮断する。
「…くっ」
蠢く悪魔の気配が、瞬間、真下に来た。
オルトロス?いやまさか、獣はうつらうつらと舟を漕いでいただけで、敵意を感じなかったでは無いか。
眼を見開き、跨る木の枝に、履いた下駄を引っ掛けて立ち上がる。
僕の体重に揺れる樹が、木の葉を降らす…下のオルトロスに、それが掛かる。しかし、獣は振り払おうともしない。
じくり、じくり
半睡眠のオルトロス、その身体を蝕む影が色濃くなった。
手脚の先から、冷える感覚。眠る獲物を襲うのはおかしな話では無い、が。
(睡眠麻痺を起こしている)
あんな侵入者、普通反射が許さず飛び起きるだろう。
「フー!“マ・デ”だ!寝ちゃ駄目!」
脚を引き摺りながら、戦ぐ尾花に突っ伏すリーが叫んだ。
「マ・デ!?」
「金縛りだよ…っ!」
術のひとつとして、それを用いて何かを会得する悪魔…
獲物は、寝かせたままの必要があるのか。
下方のオルトロスの眼が、でろりと蕩ける。虚空を見つめるまま、じわじわとMAGが失せていくのが感じられた。
吸魔されているその悪魔、しかし眼はうっとりと夢見ているかの如く…
(夢…)
脳内に展開された悪魔絵図。合致するモノが有り、僕は草原に突っ伏すリーに駆け寄るべく飛び降りた。
着地の際、じん、と骨に少しばかり響いたが、どうでも良い。
「リー、君のザントマン、外法の壁は使えないのか」
「さ、さあ、判らない」
「夢喰らいは外法の術だ」
オルトロスを喰らい尽くしたのか、うぞぞぞ、と、尾花の戦ぎで進行方向が割れた。
相手が此方に標的を切り替えた事が判る。
リーの腰から垂れるホルスターに指を伸ばした。四肢を雁字搦めにされているこの男の代わりに、僕が悪魔の指揮を執ろうと。
金属の冷たさが一瞬爪先から流れたが、MAGを流し込むその前に、思い切り後方へと引かれた。
「っく!」
がつがつ、と、頭を数度打ちつけつつ、僕は仰向けに草地に寝る。
咄嗟に上半身を起こし、背面へと左の脚を回し入れる、が、やはり手応えは無い。
打ち当たる先の無くなった足先の下駄が、すこん、と脱げる。
『こんな月夜の晩、どうして寝ない、悪い人間の仔だぁねぇ…』
裸足になった僕の足を、ぬるりと舐めつけていく黒い影。
予想通りの悪魔の気配に、僕は鎌を掛ける。
「あのオルトロスの夢は、もう喰らったのか」
おぞましくもくすぐったい足先で蹴飛ばそうにも、霧を蹴るような感じしか無く。
『悪魔んは夢であって夢じゃないからねぇ…無味無臭で胎は膨れないのだぁよ』
ざく、と枯れた色の尾花を踏み分けて、僕とリーの間に現れた…
「…莫奇!」
リーはようやく察したらしく、己の四肢を見て、身体を捩る。
『無駄だぁよ栗毛色の坊や、久々の人間の夢だぁ…喰うまで返す気は無いねぇ』
ずるずると、影の触手に引き摺られ、僕とリーの距離が狭まる。
やはり神獣バク、か……眠る者から夢を引き摺り出し、啜る悪魔。
攻撃が通らない事から、どうやら僕等よりも上を往く能力らしい。
「参ったね、これは寝れないな」
背中合わせのリーに哂って云えば、リーは僕の方に首をぐぐ、と向けて情けない声を上げた。
「ね、ねえどうしよう、外法の壁張っておけば…」
「先にMAGが尽きるさ、無駄な事は止め給え」
「ええっ……ね、ねえねえ、どうやったら逃げれるかなあ?フー…」
「喰われる以外となると…カラスの迎えが来るか、それより先に気紛れで其処のバクに殺傷されるか、だろうね」
「そんなぁ」
「どこぞの馬鹿狸が、落し物なぞ拾いに止まるからだ……フン」
僕の足を引っ張って、ああ、やはり腹立たしい男だ。
夜風にふわりとなびく柔らかい髪が、僕の項をくすぐって更に苛々させる。
『坊や達、下の里の仔だろう?なぁに…修練に来て悪魔に殺されるなんざ、よくある話さぁ』
やや尖った鼻先を、僕とリーの腕につん、と押し付け嗤うバク。
『デビルサマナーに成る為の修練だっけねぇ?そら…美味しい夢だぁなぁ』
「美味しくないですよぉ、お願いです、今回は見逃して貰えませんか莫奇」
『上の満月が見えてないんかねぇこの坊や、相当の節穴だぁ』
飢えている悪魔が、獲物を逃がしてやるなぞ聞いた例がない。
「リー、余計な口を利くな、労力の無駄だ」
僕が背後に向かって云えば、バクは鼻でふぐぐ、と嗤う。
『そっちの黒髪の坊やの云う通りさぁ…人間、疲弊すると眠くなってまうんだろぉ?ん?』
そう、眠れば喰われる。
『強制催眠だとなぁ、夢見る確率低いからねぇ…じっくり時間と共に、坊や等が眠るんを待つだぁよ』
「はぁ…そうですかあ…残念……はぁ、寝るならマーマの子守唄が良かったなあ」
『ハハハ、まぁ気落ちするなぁよ、人間の小童なんら一人分で充分だぁねえ』
そのバクの言葉に、僕とリーの背筋がしゃんとなる。
今の台詞が意味するのは…“先に寝た方が喰われる”という事。
「フー…」
背後のリーの声が、やや怯えを纏う。
「…この修練は、組んだ相手と帰る方が評価が高いからね…」
ぽつり、と返してやれば、嬉々としてリーの背中が弾んだ。鬱陶しい、僕の背中にまで響くではないか。
「だよねだよね!頑張って起きてよぉね!うん!」
「…余計な浪費をするで無いよ、全く…」
背中の男の空回りな元気に、思わず溜息が出た。
が、それも月が薄らいで往くと共に、じわりじわりと静まって。
溜息は、やがて噛み殺す欠伸に変質していった…
こういう時、人間の肉体を恨む。

「リー…」
返事が無い。
「おい、この愚図」
一緒くたに絡め縛られた腕を振るい、リーの手の甲を思い切り抓った。
「ぁひ…ッ!び、吃驚したぁ」
「フフ…狸寝入りかい?」
「あー!ねえねえ!英国語だと“狐寝入り”なんだよね」
「知ってる、よ!」
「いッ…」
首を後方に勢い付けて倒し、リーの頭蓋に打ち付ければ、くぐもった呻きの後に笑いが零れてきた。
「あー……ねむ…」
「止めてくれよ、魂の抜け落ちた遺骸ほど重いものは無いからね」
「うん、分かってる……」
バクの領域から出れば気付かれる。しかし、だからといってバクに攻撃をけしかけるのも、危険だ…
一撃で仕留められない事は、此方の死に繋がる。携えた武器が無意味なのが、哂える。
(喰われるのは、一人だけ)
背中の覇気が消え、呼吸が一定の律動で波の様になれば…睡眠に入った証拠。
そうしたならば、後は相手を放っておけば、己が助かる。
バクの云っている事が本当ならば、それで決着はつくのだ。

月が雲間を滑り降りる…
虫の声すら穏やかに、草木も未だ眠っている。
安穏と僕等の眼の前で、バクは四肢を折り曲げ、眠りに就いていた。
喰らう側は、暢気であり、見せ付けるその姿勢は酷く残酷だ。
「…おい、狸」
背の呼吸が空気と同調し…こくり、と船を漕ぎ出す瞬間。
僕は刃を閃かせる。声だけで起きない狸に活を入れる。
「僕だけで帰還して、カラスの衆に嗤われるのは嫌なのだよ」
三途の川の船頭の様だ。こっくりこっくりと、僕の背中から川を渡ろうと呼びかけてくる。
しかし、乗ってやるものか。
指をきゅ、と締め、短刀に力を込める…その、繰り返し。

「…ねぇ……フー……」

その繰り返し。

「…何」
「どうして葛葉四天王になりたいの…」
如何して。
「…さあね、生まれたらあそこに居たのだから、おかしい話でも無いだろう」
色々な思惑は有ったが、この男に話しても無意味だ、と思った。
葛葉という力を得れば、何か視得る…と。そう思っている僕とは、全く性質が違うのだから。
「ぁあ…怖い、なぁ……狸寝入りじゃないやあ、今度こそ沈みそうだよ…ぼく…」
リーの声に、それでも妙な笑みが混じる。
「ぼくはねぇ……本当はね…日本國の平和とか、結構どうでも良いんだ…」
里においては禁句のそれを、背中越しに聞く。
「ただ…ただ、マーマに喜んでほしくて……色々…憶えたよ……」
「母が死んだ瞬間に、葛葉を放棄しそうだな君は」
「えへへ…まぁ…そう、かも……まぁ…まぁ、でも…もう…眠い…なぁ」

繰り返し…
では、無かった。

「何のつもりだい」
リーのMAGの流動に、僕は小手先の刃を構えた。
溢れ出すそれは、リーの腰下の管から悪魔を引き摺り出す。
「ねえ…ごめんねフー」
首で振り向くその貌は、泣きそうだが、やはり笑顔で。
「ぼく、二度と本物のマーマの子守唄を聴けずに死ぬなんて…嫌なんだ」
「ちっ」
「だから、君が寝て…!君が死んでよフー!!」
召喚されたザントマンの背負う袋目掛け、僕は容赦せずに短刀をナイフ投げの要領で投げつけた。
身体が大きく動かせぬ今、狙えるのは背後の召喚者か、悪魔。
だが、リーの命令を止める程の致命傷を与えられる気は無かった。それならば、あの眠りの袋を駄目にすべきなのだ。
「ザントマン!ドルミナーを!」
そのリーの声にすら靄が掛かる、急激な睡魔が全身を貪り始めた。ああ…少しばかり、遅かったのか。
流石の僕も、この緊張状態の中、長く居過ぎた。所詮は人間……生態と、術には抗えぬ。
馬鹿な奴…母なぞ…苗床でしか無いのに…
お前の母など、お前を道具としか見てないというに。
悪魔と人間の契約ですら無い、それなのに…何故…
「ごめんね、フー……でも、寝てる顔も綺麗だね、羨ましい、写真で見たまんま。マーマが欲しがってた、綺麗な人形、羨ましい」
云い返す意識すら、今、手放そうとしている僕…
のそり、と起き上がるバクが、下りる瞼の隙間から見えた。
「…そういえば、ぼく、フーの下の名前、聞いてなかった…――」
そこで、意識は閉じた。
ああ、案外呆気無いのだな、という感覚。
そして、少しばかり、タム・リンの顔が浮かんで、消えた。



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