まあまあ歩くとは聞いていたが、本当に歩いた。軽い登山と云っても過言ではないだろう。
獣道より多少ましな足場を行くと、鬱蒼とした山林の中ひっそり現れる鳥居。
名もなき神社より小さい規模で、神使にあたる動物の像も無い。
白灰はようやく境内で立ち止まると、顎を撫でつつ語りだした。
「修験界はご存知?」
「ああ、志乃田とか、確か槻賀多方面の神社にも在るやつですよね?」
「此処にも在るんですよ、ただしヤタガラスが大きい所しか面倒みないと決めたので、半ば放置状態の場所です」
「確か修行の為に降りるんですよね? そういうつもりで来たんですか」
「修行というかね、私此処の修験界の保安担当なんですよ」
「そんなの決まってるんですか、意外」
「一応ね、数日に一度は見回りしなきゃならないのですが、まあ私は暇人なので毎日来てます」
白灰の手招きする方へ向かうと、表面の朽ちた屋根の下で手水舎がぽっかり口を開けていた。
他の所と同じく昇降装置になっているが些か狭く感じる。
「お金が回って来ないので、ちょっと修繕が行き渡ってないんです、ようするにボロって事です」
白灰の言葉に卑下は無く本当にボロかった。古びた日本家屋といった程度の老朽具合だが、他の修験界が結構豪奢なせいか此処が一層ボロく感じる。
歩けば床板もギシギシと鳴くし、道中の燈篭も一部点いていない。
「機関から放置されてるって、利用者が少ないんですか?」
「私らが子供の頃は、まだ結構使ってたんですけどねえ。ちょっと薄気味悪いって、徐々に来る人は減っちゃいましたよ」
「気味悪いも何も、悪魔が居る所って大抵そうじゃないですか、異界とか」
「今はそうでもないけど、昔は候補生いびりが酷くてね。下級の者を此処に置き去りにして、本来徘徊していない野良の悪魔を放り込んだりとか、まあ平気で有ったんですよ。修験界は実力以上の層には降りられない仕組みなんですけどね、上級の輩が昇降機に自分の生体情報を読ませて最下層に行って、後輩を無理矢理連れて行くんです」
「それは死人が出なかったんですか」
「そりゃあ当然出ましたよ」
はは、と笑って昇降機に乗る白灰。一層ずつ下に降りては、ぐるりと巡回していく。
「胸糞悪い」
「あれ、それこそ十四代目なんか散々しごかれた方ですよ。しかし彼はまず強かったので、少し経った頃には此処の最下層くらい何でもなかったと思うけれど」
白灰は各所を指差し「ひい、ふう、みい、よ」と確認をしている。
てっきり用心棒の様に扱われるかと思いきや、此処の悪魔達は大人しい。
暗がりにひっそりと蠢き、じっと白灰を眺めている奴も居れば、軽く挨拶する奴なんかも居て。
ある意味、陰鬱なイメージは払拭される。置き去られたサマナーが弱くても、これなら生き延びる事が出来そうな環境だ。
だからこそ野良の悪魔を放ったという事か、それは此処に住む悪魔にとって迷惑極まりない事だったに違いない。
「うん、いつもと同じ燈篭が切れてるし、同じ柱の塗装が剥がれてる、問題なし」
「問題じゃないですかそれ」
「はは、予算がこっちに回ればすぐ直すんですけどねえ。まあ機能していなくとも、この辺りは問題無いんですよ、本当」
「じゃあ何が壊れてたら不味いんですか」
「壁と床の構造自体が崩れると、少し好くないですよ。三×三マスを敷き詰めた三次魔法陣を結界のひとつとしていますんでね、その術のおかげで半分異界みたいなものなんですよ」
「……ペラペラ喋って大丈夫ですかそれ、悪魔が故意に崩すとか」
「崩してもすぐには出られない、結界は何重にもしてあります。それに結構な歪みが生じるので、毎日竜脈なり確認している里の者が気付くでしょう……そろそろ最下層、ね、早いもんでしょ。此処まず階層自体少ないですからねえ」
「白灰さんは……」
「はい?」
「里を出て、もっと自由な生き方を模索したいとか、そういう事は考えないんですか」
脈絡も無い問いに、自分でも驚いた。
何を思って訊いてしまったんだ、俺には関係無いじゃないか、このサマナーも、この里の事も。
「私には十分というか、外はちょっと疲れちゃうんですよね」
「里の方が息苦しくないですか?」
「どうかなあ、似た様なもんじゃないですかね、何処も狭い世界の集合体ですよ。ただし、違う世界と接したいのであれば、留まる必要性は感じないですね」
「ライドウが里だけじゃなく、ヤタガラスまで潰そうとしていたら、どう思います?」
流石に立ち止まるかと思ったが、白灰は歩みも止めず昇降機にさっさと乗り、俺を待っている。
彼のすぐ傍に立ち、俺は答えを待った。
「好きにしたら良いんじゃないです?」
「でも、ライドウにそうされたら“此処でいいや”って云ってる貴方の住処も無くなってしまうじゃないですか」
「私には、十四代目の思考は読めないですね。でも今の話を聞いても、何故だか彼らしいとしか思わないし、止めようとも思いません」
「白灰さんはどちらかといえば、あいつに賛同してる、って事ですか?」
「さてそれもどうですかね、現体制に問題が有るとは思うけれど、変えようとまでする意思や気力が私には無いです。きっとこの無気力が私という人間のつまらなさなのでしょう。良くも悪くも現状維持が基本なので、師匠も発展性の有る紺野君に付けられた。稽古をつけてやって楽しい相手は、私でなく紺野君だったのだと思いますよ」
どうしてこんな事を訊いているんだ。
なんかこの人だったら、ライドウの味方をしてくれる気がした。
(味方?)
まるで今、誰も味方が居ないかの様に考えていた、ごく自然に。
「人修羅君は十四代目がヤタガラスを潰せと命じれば、応えるんです?」
「えっ」
「きっと貴方には何も関係無い面々でしょう、この私だってそう。そんな人間達をサマナーの命令ひとつで殺戮出来る?」
「それは……」
想像した事は有る、いや何度だって妄想した。
自らの目的の為にライドウが、倫理的にいかれた命令をしてきたらどうなるかと。
「許されない事だとは思います」
はぐらかした俺を、白灰は薄く笑って見逃した。
「ひい、ふう、みい、よ、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とう……うん、問題無さそうです、帰りましょうか」
昇降機がギイギイと昇りゆく最中、あと一層という所で隣の白灰が囁いた。
「何か煩くないですか」
「えっ、この装置の音が?」
「いや……ちょっと失礼」
「いっ!?」
白灰は突然、俺の胴を抱く様にして、そのまま押し出してきた。
第一層の床に尻餅をつく。痛いと云う事すらどこか憚られ、声を殺したまま面を上げる。
俺の視線は白灰でなく、その向こうに飛んだ。先刻まで居た昇降機に、わらわらと何かが蠢いている。
「あいつら……一体何処から?」
「上です、降ってきてますよこれは」
色とりどりの……なんて言葉では生温い、ヘドロのような色で照る連中だ。
昇降機の外柱にベタベタと張り付いては、焦がす様な臭いを発し始めた。
「スライム、ブロブ、ブラックウーズ……合体事故の残骸といったところでしょう」
「呑気ですね、あれ何とかしないと帰れなくなりません!?」
「ああ、瘴毒撃に注意してください、ブラックウーズが主な腐食発生源です。その羽織は多少防御になると思うので、着たままでいいですよ」
「突破するんですか」
「最初はこけら落としみたいになりますかね、結構捌いてからじゃないと危険だし、しばらく麓で応戦しましょうか」
淡々と決める白灰はライドウとも違った冷静さで、多椀の仲魔を召喚して早速向かわせている。
「アタバクです。呪殺を掃うので、ブロブのムドも平気でしょう」
「あいつら、火炎通りますよね?」
「はは、大丈夫ですよ」
「貴方の仲魔の邪魔にならないように動きますけど、何かあれば声掛けてください」
面倒見て貰っている以上、協力しない訳にもいかず。
かといって直接触れるのは嫌なので、アタバクが次から次へと落とす連中を、俺は焼却するだけだ。
実際、柱にへばりつく奴等は固まっているので、集団で熱を持てば装置が危ないだろう。
それにしてもこの悪魔共、呻くだけで何も云わないし、目的が不明瞭で不穏だ。
『白灰殿、なかなかキリが有りませんな!』
アタバクが得物の柄頭を一旦床に着け、やや大きく発声した。
当の白灰は遠くから戻ってきた風で、少し息を切らせている。
「この層に効いてる呪術は元から備わったものだけで、あの有象無象を大量発生させている要因は見当たりませんでした……はあ、いつまで湧くのやら」
少し具合が悪そうだ、直接戦っている訳でも無いのに、どうしたのだろうか。
アタバクも俺も、相手のレベルが低いので傷は殆ど負っていない。
それでもやはりだるさというか、持久戦ならではの疲弊は見えてきた。
「放り込んでいる、というよりも……何処かと繋げているのかなあ」
背後で呟く白灰を振り返る、先刻以上に顔が青白い。
足先まで来ていたブロブを蹴飛ばし、駆け寄ってみた。
「大丈夫ですか」
「いや、すいませんね……私、体力がなくて。こんな長期戦は久々なんてもんじゃないですよ、困ったなあ」
そうだ、動かずとも召喚中は消費してるじゃないか、サマナーというものは。
今更気付いて、ちらりと彼の仲魔を見た。まあまあ高位の悪魔らしく、それなりの力の発散を感じる。
「あのアタバク仕舞ってもいいですよ、俺一人で暫くやれます」
「ああ……」
「白灰さん、MAGあまり多くない方ですか」
「そう、そうなんですよ……だから火力の高い仲魔についてもらって、すぐに終わるようにしてたんです。こんな状況にならない為にも、見知った場所しか出歩かない様にしてて、その割には見事閉じ込められちゃいましたね。置き去りの話とか……自分で説明していたのに、はは」
「何処かと繋げているって、さっき云ってませんでしたか」
「はい、例えば異界と繋げてあるとすれば、本当にキリが無いかもしれませんからねえ、ちょっと考えさせて欲しい──」
「俺が直接行きますよ、確認しに」
白灰がどこか疲れた声で笑った。止める風でも無いし、呆れて笑っている訳でもなさそうだ。
うーん、と軽く唸った後に、懐から管を抜いた。
「アタバクに号令して、一瞬大きく道を作って貰いましょうか。人修羅君の体躯なら、もしかしたら出られるかもしれないし」
「抜けられるのであれば応援呼びます、遮るものが有れば壊すかどうにかしてきます」
「頼もしいねえ、まあ無理はせず」
「そんな言葉、ライドウに掛けられた事無いですよ」
「はは、結局は貴方の自己判断に任せている、だから昨日は敗けちゃったんですよ」
忘れかけていた傷に塩を塗り込められた感じで、幸先が悪い。
「アタバク、突進で上を開いた後に壁を張りなさい」
『承知!』
間髪入れずの指令とアタバクの反応に、慌てて昇降機へと戻る。
どろどろにミキサーされた腐肉が、頭巾を掻い潜り額を濡らす。
血肉の臭いの方が酷かった気もするが、こういった連中の化学物質が灼ける様な臭いも嫌いだ。
「肩借ります」
アタバクに一応の許可を得てから、その強肩を踏み台に駆け上がった。
『返せよ小童』
昇降機の箱(足場)の上に這い乗り、上を見上げた。
蛮力の壁が、柱の内側に沿って筒状に伸びている。これなら降ってくる悪魔を軽減しつつ、吊り紐を伝って上に行けそうだ。
「壁は十二秒です」
白灰の声が聴こえたが、既に俺は出口付近まで来ていた
手水舎が出口であり、地上の陽が見えてくる筈なのに、おかしい、暗い。
(壁が有る!?)
アタバクの蛮力の壁じゃない、別の何かが蓋する様に張られている。
試しに片手で殴ってみたが、見事な手応えの無さ。触れてもおらず、割れない油膜のようで気色が悪い。
それならどうかと焔を吹きつける、すると氷が軋むような音がした。もう一押しと吹き込めば、暗い天に光の筋が入った。
だが、思ったよりも頑丈だ、亀裂がなかなか拡がらない。
もう十二秒経つかもしれない、じりじりと圧迫を感じる……薄くなる周囲の壁、ガラスの曇りが晴れるかの様に、泥の悪魔達と目が合った。
「うぅッ、グ……」
とうとう潰えたか、それこそヘドロの中に投げ込まれた様な状態、息苦しさより熱さが上回る。
頭巾の隙間から顔にぶちゃりと貼り付いて来たブロブが、呪詛を吐く。それを一瞬吸い込んだが、咽返す様に焔と吐き捨てた。
僅か口に残った悪魔の残滓を、横にプッと吹き付ける。
「邪魔だ!」
頭から下にびっしり纏わり付き、じゅうじゅうと肉を焦がしてくる。
目一杯伸ばした腕先に意識を集中して、この吐き気と景色を遮断する。
紐が燃えようが、俺が灼けようが構うものか……あの蓋さえ壊してしまえば。
指先だけ出ていれば何とかなる……
『あと一度だぞ小童』
聞こえがクリアだ、身体の重みも減った。視線を下ろすと、アタバクが全ての腕を閃かせていた。
槍から剣から金剛杵から、得物を総動員させて、俺に貼り付いていた残りの悪魔を殺ぎ落とした。
『いいか、儂はそろそろ消える、あと十秒程度しかやれぬでな』
云い終えるとぐっと構え、八本の腕が左右対称に組まれた。
壁が再び張られていく、悠長にしていられない、すぐに上に向き直った。
足元でMAGが飛散し、サマナーの所に還って往く。アタバクを戻した白灰の声が、遠いのに鮮明に聴こえ始めた。
ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの──
マグマアクシスが天を割り、薄暗い陽射しが降り注いだ。
紐が焼き切れる前に這い昇り、此処が手水舎だと認識出来る場に躍り出た。
穴だらけになった羽織を脱ぎ捨て、周囲を見渡す。
まだ気配が有る、たった今まで呪術を執り行っていた匂いが残っている、逃がしてたまるか。
「動くな、動けば此処から撃つ」
銃は無いが、神経を研げば魔弾モドキは撃てるだろう。
出任せが効いたのか、気配は離れるのを止めた。
そろそろと近付く……何も驚きは無い、木陰に隠れて居たのは里の人間らしき男だった。
「さっきまで、何してたか教えて貰えますか」
間合いを詰め、じっと睨んだ。やや腰が引けていた相手も、この沈黙に落ち着きを取り戻したか睨み返してきた。
「いんや、俺こそ隠れ身で此処を張ってたんだぞ」
「どういう意味です」
「白灰と一緒に閉じ込められてたんだろ?」
黒い着物に黒い帯、黒い襟巻に口元を埋めた男。どこか見覚えがある様な……
「知っているなら助けてくれても良かったんじゃないですか、俺はともかく白灰さんは同胞でしょう」
「おいあんた、十四代目の八つ当たりに巻き込まれて、今お預け喰らってる真っ最中だよな」
「な……にを」
「あいつ、自分が敗けた腹いせにあんた等を閉じ込めたんだよ、手水舎にシキミの壁張ってさ。見たんだ、あんたが出てきて真っ先に逃げたのは十四代目の方よ」
「そんな……」
「目撃してんのバレたら口封じされちまうから、俺はこうしてコソコソせざるを得なかったワケ」
「そんな訳ないだろ!」
気付けば男が吹っ飛んでいた。どうやら思い切り殴ってしまったみたいで、右の拳がヒリついている。
危ない……殺したら色々面倒だし、非常に不快だ。こんな事で人間殺傷の履歴を残したくない。
仰向けにぐったり伸びている男の顔を覗き込む、やや白目を剥いて足先が痙攣していた。暫く起き上がれないだろうと推測して、俺は手水舎に戻る。
真偽はともかく、今は白灰を引き上げる方が先だ。暗がりを覗き込み、名前を呼ぶ。
「はーい、無事ですよ無事」
下方からの安穏とした声が些か呑気に感じ、何故か俺が溜息を吐いた。
目の前の吊り紐は少し焼けていたが、人間一人分なら十分支えられる太さを残している。
「お疲れでしょうけど、この紐で昇って来て下さい」
云いつつ紐を揺らそうとした、何故か指先が宙を泳いだ。シュルシュルと蛇の様な動きで、紐は落ちていった。
鼓動が跳ね上がる、前傾姿勢のままゆっくり背後を見やる……刀で一閃したのだろう、そういった構えのサマナーが立っていた。
「随分と汚い恰好だね、功刀君」
「……ライドウ、あんた何を」
「暫く口を噤んでい給え」
吊り紐を切り落としたと思えば、俺の脇から手水舎の暗闇に身を乗り出している。
「ひい、ふう、みい、よ……聴こえているかね白灰」
ライドウの声音から、感情は読めない。こいつの愉しそうな声は、嬉々としているのか憤怒なのか憐憫なのか分からない。
「十まで数えたらまた閉じてしまうよ、いつ、むう、なな……」
「また、って、あんたが塞いだのかよ!」
「やあ、ここの……」
俺の声なんか完璧に無視して、数え続けるライドウ。
いよいよ十の手前に来たが、そのまま黙って外套の隙間に指を差し入れる。
するりと抜いた管を、まるでポイ捨てみたいに闇に放った。
「お返しするよ、上がってくる程度の余力は有るだろう?」
ライドウの言葉に、何を投げたか察しはついた。これは白灰が居なければ話が進展しないだろう。
どこか落ち着かない空気に割って入る様に、ヴリトラがぐわりと飛び出して来た。
その龍に掴まっていた白灰が、一歩退いた俺の傍によろめき降りる。
頭巾は乱れ、艶の無い白髪が顕わになっている。跪き、表情も見えない。
「白灰さん、大丈夫ですか」
あまりの疲弊っぷりに、流石に肩を貸す。ヴリトラは既に管に戻ったのか、姿が無い。
こんな事をしてはライドウが嫌味のひとつでも云うか、はたまた蹴りが飛んでくるかと思ったが、何も無い。
「今夜迎えにあがる。約束通り、それのMAGは補充して返しておくれよ、では」
それだけ云い残し、鬱蒼とした道を颯爽と歩いて往く。
霧の向こうで黒猫と合流し、振り返りもしない。どうやら本当に、そのまま帰還する様子だ。
暫し呆然としていたが、乾いた笑いに意識を呼び戻される。
「は、はは……いや、いいんですよ人修羅君、まさかこうなるとはなあ」
「俺にはさっぱり事情が分からないんですが」
「帰りがてら、話しますよ。大体聴こえてました、耳は良いのでね」
「あの、あっちで伸びてる男は」
「放っておきなさい、シキミの壁で塞いだのは多分そいつ。憶えてません? 昨日、十四代目に喧嘩吹っ掛けたというのは、その彼ですよ。都合良く濡れ衣を着せてしまうつもりだったんでしょう、十四代目に」
そうなのか……それを聞いて、色んな意味で安堵している俺が居る。
吊り紐を切ったのは間違いなくライドウだが、直後脱出の手段は与えていたじゃないか。
流石に、本当に見殺しになんか……しないよな。
「私がね、十四代目を閉じ込めた事があるんですよ、もう少し幼い頃」
白灰の台詞は、耳に入ると泥の様に、俺の感覚を鈍らせた。
相槌の度、口にまだブロブの滓が残っている様な苦みを感じる。
「正確に云えば、閉じ込められた紺野君の見張りをやらされたんです。彼は強いから平気な顔して上がってくるんだけど、第一層でああして、シキミの壁で塞いどくんよね、壁といってもちょっと脆いの、なんせ中途半端な腕の者が集まって練り上げたものですから。でも異界と繋げる術は、まだ使えなかったなあ」
白灰の歩みが遅い、焦れた俺はとうとう懐に潜り込むと、背に担いだ。
さして嫌がる素振りもなく、白灰は俺の耳元で内緒話の様に続ける。
「私はまあ、今と大して変わりなかった。無気力で、周囲に倣って適当にそういう事をしていた。でもまあ、いざ閉じ込められてる紺野君を見下ろしたら、色々思いましたよ……それでね、“十数えるまでに壁壊して出られんかったら、師匠を返して貰うかんね”って、投げかけたんです」
ぞわっとした。白灰はこれまでと同じく、乾いた笑いを含ませて語る。
「そうしたら彼、躍起になってね。初めてそんな姿を見たものだから、驚いた。シキミの壁越しにだって分かるくらいの必死さで、そんな彼は……それは……ああ、言葉にゃ出来んかな。とても後ろ暗い気持ちですがね、私の心臓が速くなったの、あれが初めてでしたよ」
「……どういう気持ちだったんです、貴方は」
「はは、そこ詳しく訊きたいの? 雑な言葉を選びますけど、快感って奴だと思いますよ、近い感情としては」
「結局どうなったんです」
「シキミの壁って、決まった属性でなけりゃ壊れないんです。さっきの壁が火炎弱点だったのは、ありゃ運が良かったとしか云えない。さておきね、昔のソレがどうなったかというと……十以内に壊せなかったんですよ、彼」
「師匠は返して貰ったんですか」
「まさか、そんなの私の勝手、寝言に等しい。里の御上が配属を決めますからね。冷静に考えれば分かるのに、あの時の紺野君はどうも熱くなってしまったみたいで、きっとそれだけ師匠が気に入ってたんでしょ」
そろそろ白灰の住処だ、このまま上がる事は出来ない、あまりに悪魔で汚れている。
ちら、と自らを見下ろす、ああ……擬態すらしていなかった。手足に黒い紋様が伸びている、我ながら気持ち悪い。
「息切らして、半殺しにして捕獲した悪魔に術使わせて、ようやっと壁壊して這い出てきた紺野君はね、体中血塗れのまま、綺麗な眼に涙が滲んで」
そこまで聴いたらもう駄目だった。白灰を縁側に叩きつける様に投げて、俺は庭先に吐いた。
泥を吐いているのか、血を吐いているのか分からない。もしかしたら、只の胃液なのかも。
「はぁ……はは、いや……それ見たら、流石に可哀想になっちゃいましてね、そんで私、気が狂った様にずうっと数え続けたんですよ、十まで。ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ……目の前に居るのに、居ないみたいでねえ、いや、彼がもうあの時から、私の前に立ってくれていないのかね……ここの、とお、ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とぉ……ひぃ、ふぁ、み、よお、つぃぁ、ま、なね、や、かへな、たヴぉ──」
「うるさいっ!」
「あの時の紺野君も、そう云いましたよ」
「もう……話さなくていいです」
「待って人修羅君、貴方にMAGをあげなければ、さっき十四代目も云っていたでしょ」
「要りません」
「でも約束ですから、ね?」
吐き捨てた血反吐を、傍の井戸で汲み上げた水で散らした。続けて、自分の脳天に浴びせる。
そんな禊で落ちきる筈の無い粘液が、痣の様に肌に残った。
縁側に横たわる白灰を見下ろし、今さっき被った水の様に冷たい声を浴びせる。
「分かりました、補充させてもらいます」
「どうぞ、お好きなだけ」
許可が下りる前に、身体が動いていた。
間接的といわず、肌から吸い上げた。白灰の胴を抱き竦め、背骨が軋んだって止めやしない。
疲弊していた事を知っている、だからこそ吸い上げてやる、骨の髄まで。まだ、奥底に残っている筈だ。
呻く白灰の、その色素の薄い眼に涙が滲むのを見て、脳天に血が上った。
白髪を鷲掴み顔を引き寄せ、口に噛みつき、唾液に血が混ざるまで激しく吸った。
無理矢理開かせた気道から、薄く薄く水で溶いたようなMAGがじわりと立ち昇ってきた、と思った瞬間。
側頭部に衝撃が奔り、俺はそのまま畳の上に吹っ飛んだ。
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