"El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha"

ふっと落ちてきた呟きは、この国の言葉では無かった。
祝詞では無いと認識してから、我も初めて気付いたのだった。



ブリアレオスの遺骸



『何か云ったか』
「いえ、何も」
『……あまり喋らん方が良いぞ、お主の隣に人間は居らん』
丑込め返り橋ではあるが夕暮れ前、そして天候のせいで暗い。
時折通過する影が、どちらの世界を往く者なのかを見定めんとする程。
異界では無い為、殆どが人に違いない筈だが……
「気違いと思われて結構」
『此の一帯を護るという勤めは如何する、信用を失くされては困る』
「さて、僕は神でも仏でも御座いませぬ。故に、皆から万遍無く其れを得る事は、不可能と思いますが」
『……せめて喫煙は見えぬ処でやれ』
「ああ、しかし触らぬ神に崇り無し、という言葉も有った様な?神には成れているかもしれませぬ」
欄干に着座する我をちらりと見下ろし、哂う書生。
形の良い唇が、弓張月の如く撓んだ。吐き出された紫煙が、空を隠す。
やがて雨がしとしと降り出すと、十四代目は胸元を探り管を光らせた。
召喚されたコロボックルが我のすぐ傍に立ち、蕗の葉を掲げライドウを雨から守る。
まさか、傘代わりに先刻勧誘したのだろうか?
いいや、考え過ぎであろうか。真に濡れたくないのなら、傘を持てば良いだけの事。
「都合良く振ってきたというに、現れませんね」
『……そうだな』
雨に足を速める通行人が、傘も差さずに煙草を吹かす書生を訝しげに一瞥し、過ぎて往く。
「帰還しましょう、今宵の雨はお気に召さないのかも」
『少し待て、本降りになれば来るのかもしれぬ』
この男……雨味のせいにして放棄するつもりか。
“雨の夕に橋を渡る者から《通行料》をせしめる悪魔が居る”との噂が、我等の耳に入っている。
わざわざ天候の怪しい本日を狙い目とし、探るべく此処に居るというのに。
「祈るより水せきとめよ天河これも三島の神の恵に――……」
『何だそれは』
「雨を止める和歌に御座います童子、しかし止む気配は無いですね」
『折角の雨を止ませるつもりか、おい……くそ、鳴海の奴が被害者達からしっかりと聴取していれば、悪魔の目
星もついたというに』
最終確認といった風に、周囲を見渡す十四代目。
人足もすっかり途切れ、我々が接触されぬ今、他には何も訪れる気配が無かった。
指先で葉を揺らした張本人の学帽を、落ちる露が叩く。
「もう用事は済んだ、傘は要らぬ」
『ほっほ、そうかえそうかえ』
「前払いはしたろう?それとも足りないか?」
『……いんや、お前さんのMAGはと〜っても濃いからの、さっきので充分だ、ほほ……』
コロボックルに語りかける十四代目は、有無を云わせぬ笑みである。
鞘に手を置き、親指で鍔を押し上げては戻し……其れを「きち、きち」と繰り返していた。
確かに上背は有る方だが、いかつい図体という訳では無い。
この男には、奥底より滲み出る異様な圧が有った。
『おい、別れるまでは一応仲魔だろう、少しは穏便に済ませろ』
我が一声添えれば、恐らく妙な事にはならぬ。
気の長いサマナーでは無いと暗に教えてやったのだ、早く失せるが良い悪魔よ。
「……ではまたの機会が有れば、好好爺」
『そいじゃの、おさらば〜』
十四代目の言葉にくるりと背を向け、欄干を駆ける小人。
ふと、橋と水路を鳴らす雨以外の音が、鼓膜に残響した。
涼やかな、遠くの虫の音程の微かなそれ……
次の瞬間、抜刀した十四代目の切っ先がコロボックルの脇を掠める。
欄干から落ち、橋の中央にぼてっと転がる小人。
『ひっ、ひえぇ……』
「僕の用事は済んだ、しかしヤタガラスの用事は未だ」
破れた民族衣装の目から、ほろほろと転がる光りもの。
おはじきや貝殻釦、それに……鈴。
小銭も何枚か混ざっていたが、大した額は無い。
『これは……』
「通行料としてこの悪魔が押収した物品かと」
コロボックルは慌てふためき、それ等を拾いもせずにトタトタと離れて行く。
其処に数歩で近接し、前に回り込んだ十四代目。
てっきり攻撃でも仕掛けるのかと、固唾を呑み見守っていたが。
「待ち給え」
『ひっ、ひぃぃ命ばかりは』
「代わりにコレをあげよう」
先刻吹かしていた煙草の吸殻を、コロボックルの裂けた衣装に突っ込んでいるではないか。
学帽の下から哂う眼の、これまたいやらしい事。
「今後は道端で拾うか、真っ当に交渉して入手し給え。その辺の女児とて物々交換している」
『いやぁ、一応ホレ、傘代って事で……』
「がめれそうな相手には、事後請求していたのだろう?僕には事前交渉した癖にねえ……」
『タダより高いものは無いって、お勉強になるじゃろ?暗い時間に出歩くお子様達には良いお灸になったろぅ』
「煩いねえ、放っておいてもせこい男はもてないし、奔放な女はそういうつまらぬ男で花を散らすのさ。勝手に
人の世で知る羽目になるのだから、棲み分けてくれないと困るのだよ」
これ見よがしに切っ先を揺らし、艶めかしく刀身を光らせている危険な書生。
それにつられ、ようやくヘコヘコとお辞儀しながら夕闇に消えたコロボックル。
『ほほ……そいじゃ失礼〜』
納刀音の直後、カツカツと革靴で橋を鳴らす十四代目。
腰を屈めて拾う仕草に、溜息のひとつも無い。思惑通り、といった風が外套を揺らしている。
『あのコロボックルが犯行者なのだと、いつ気付いた?』
「先日、探偵事務所から出てきた被害者と鉢合わせたでしょう。当時の僕等は彼女が被害者などと知る由もあり
ませんでしたが……彼女の帯に括られた根付には、鈴が無かった」
『よもやそれだけで判断したのか?』
ああそうだ、確かこの男「素敵な根付ですね、少し見せて頂けませんか」とか唐突に云い出しおって。
しょげた顔で銀楼閣から出てきた少女が途端に頬を染めた、あの軟派な光景が甦る。
一寸ばかり根付を指先に取り、すぐさま返却したので、てっきり口説く口実なのだと思っていた。
いかにも、色恋に憧れる少女を弄びそうな奴だ。葛葉を継いだとはいえ若い男なのだから……
「あの根付けは、毘沙門天様に並ぶ露天商が売っている物。竹細工の毬の中に鈴が入った構造ですが、被害者の
それには中身の鈴だけが無かった」
『自身で抜き取った可能性は』
「竹毬には、ばらされた形跡は無い。中身だけを綺麗に抜き取るのは至難の技です。肉を開かず、人の臓物をすっ
かり抜き取る事ならば悪魔連中は得意でしょう?まあ、コロボックルの獲る物なぞたかが知れておりますが」
雨とガス灯によってきらきらと濡れ輝る、その光りものはどれも子供騙しな品ばかり。
身内にでもくれてやるつもりだったのか、それともコロボックル自身がまるで鴉の如く奪ったのか。
「蕗の傘を差し出されたならば、子供は大抵喜び入るでしょう。橋を渡り終えた辺りで、恐らく物騒な事を述べ
て物をかっぱらうのです。」
『……まあ、命を弄ぶ類の悪魔でなくて良かったわ』
「ほら、この鈴。頭に響くでしょう、まるで悪魔の声の様に」
片手掌で包み込み、リリリ……と振り鳴らす十四代目。
やや籠ったその音は、妖精や魍魎のささやきにも近い。
「此れを売る露天商は、普段は霊具を金王屋に卸している職人。小遣い稼ぎに時折、縁日に並ぶのです」
『では退魔の効力が具わろう、何故それを悪魔が欲するのだ。いくら音が軽やかで、光りものといえど……』
「時に童子、ノミにやられたりはしないのですか?」
これまた唐突な問いに、我は身体をぶるりと震わせた。
雨粒を全て弾ききれる訳では無いので、そろそろ寒い。この肉衣が嫌がっている。
『被害は有る。それを按ずるならば、晴れた日に我の寝床を干しておいてくれ』
「痒ければ引っ掻くでしょう、しかしやりすぎれば蚯蚓腫れとなる。耳が寂しければ楽を奏でる、しかし大き過
ぎれば鼓膜が疲弊する。人恋しさに求める、しかし構われ過ぎれば途端に面倒へと変わる」
歌う様に呟く姿に、惑いは見えなかった。好奇心が過ぎる割には、この態。
襲名前から噂には聴いていた訳だが、実際関われば如実に感ずる。
情に絆されず、理詰めで生きているのだろう。
『聴き過ぎなくば只の鈴だと云いたいのか』
「はい。ご覧下さいまし、鈴に薄っすらと塗料が付着しているでしょう。あの竹細工に施されていた朱色をして
いる……中でころころと遊んだ折に色移りしたのかと」
『確かに、聴く程に特徴的な音色だ。しかし、万が一それがコロボックルの正式な持ち物だった場合には、如何
するのだ』
「童子、お忘れですか?筑土の異界では最近、それこそ光りものが流行している事。互いに見せびらかし、気に
入った物は交換したり」
『それならば、店から直接くすねはしまいか』
全て拾い集め、信玄袋にさらさらと注ぎ入れる十四代目。
それを外套の嚢へと納めると、腰を屈めたまま今度は我へと腕を伸ばしてきた。
『要らん、駆ければ銀楼閣はすぐだろう。雨濡れも好かぬが、お主の腕も同等に心地が悪い』
「人間の臭いがお嫌いで?」
『違う、とにかく自由が利かん事には落ち着けぬ』
「人の手に渡った物には……ほら、色々籠るでしょう、フフ……それが光りものの色艶を増したり、あるいは濁
らせたり。悪魔は中古品が好きなのですよ、大勢の手垢のついた物が。だから店からくすねるより、持ち主から
直接取り上げる方が心地好く、薄暗い快感が有るのです。我々の世界と同じく、盗難物よりも戦利品にハクが付
きます」
雨の中、湿った外套はなびかない。
土の臭いに混じって、すらりと交叉する足下から香る。
白檀だ、それも香り高い。くすみや淀みの無い、纏う者の気を昇華させる類の……所謂本物だ。
『ほぼ毎日水を浴びているだろうに、そこまできっちり香を纏う必要が有るのか?色気付いたところで、葛葉の
役目を捨て恋路に向く事は許されんぞ』
「程好く隠してくれましょう?硝煙臭だとか血臭だとか。合成香料は安価ですが、こうは紛れませんからね。高
砂香料のゼラニオール、リナロール、ヘリオトロピン……幾つか纏ってはみましたが、今一つで」
『その為だけに纏うのか?』
「堅気の中にうろつくのですから。此れは嗜みに御座います、ゴウト童子」
『やくざ者の様に云うな、葛葉を貶すつもりか』
「葛葉四天王もかつての誉は霞み、今となってはカラスのおつかい係。塵山を漁り、腐肉と光りものを三本松に
献上致す」
『き、貴様……!』
声を上げて哂う男を、我は追い駆ける。
結局、銀楼閣に到着した頃には、我の毛皮はじっとり。
一方の十四代目は、胸元から取り出した煙草の箱をトントンと。
抜き出され咥えられた一本は、湿り気も無く我の髭よりピンとしていた。



『全く、高笑いが似合って如何する!』
「はははは、まあまあゴウト様、ちゃんと働いてはくれているんでしょう?だったら良しにしましょうや」
『道端で煙草を吹かすわ、女子供の風俗雑誌で喜ぶわ……』
「そんな十四代目の推察通りに事が運んで、一件落着ですぞ」
『被害者達に、押収したあの小さい……それこそ子供騙しなブツをだな……返却してやったのだが。其れの御礼
にと貰った押し寿司をだな……あやつ、銀楼閣の鳴海にまずは喰わせて毒見しおったのだ!』
大暴露のつもりだったが、一同は大爆笑。
共感が欲しかっただけに、これはげんなりする。
「頭は回る子でしょう、それにゴウト様の一番欲しがってた“腕っぷしの強い奴”ですよ。今更文句無しです」
我も、最近は里帰りすると十四代目に関する愚痴ばかりで不味い。
昔から用事が済めば、気の知れた連中と他愛も無い会話なぞを交わすのだが……
これまでは敵対する者の情報や、界隈の噂が話の主軸だったというのに。
『強いのは当然として、我は戦闘狂を寄越せとは申しておらん』
「いや流石に、手当たり次第喧嘩ふっかけてるワケじゃあないでしょう?」
黒装束の隙間から見える眼は、皆細められている。
他人事のつもりか、笑いおって。
『これではライドウの品位が落ちる』
「しかしゴウト様、十四代目はヤタガラスの注文突っぱねる事が有るんでしょう?それは凄い……凄い事ですよ。
もしかすると奴こそ、ゴウト様の望む――」
『あまり口にするな』
「あれ、もう行っちまうのですか」
『どうせ酒も呑めぬ躰だ、ひとまず達者でな』
円座からするりと抜け、戸口をフッと吹けば此の身体ひとつ分の隙間が開いた。
閉める事は容易では無い為、後はそのまま中の連中に閉めさせるつもりだった。
「お早いお帰りで」
背後で、バン、と閉まった戸。
頭上には十四代目の腕が有り、我の麓へと影を落としている。
『なんだ、待っていたのか?』
「イヌガミに張らせておいたので。部屋の中から童子が抜けたら呼ぶ様に、と」
『ふん、御目付役を監視か。愉しいか?』
「いえ、別に。早いところ筑土に戻りたいだけです」
可愛気を葛葉に求めた事は無い……つもりであったが。
此処まで突っぱねられていると、過去の連中と比較してしまう。
皆それぞれに、確かに癖は有った。長所も短所も。
掴みどころの無いこの男が、一番気味が悪い。
『あっちに居る方が落ち着くのか?』
「では童子は、同業者が多い方が落ち着くと云うのですか?」
『話が早いだろう』
「確かにそうですね、僕は気が休まりませんけど」
少しばかり珍しい反応だった、常に過剰な自信に満ち溢れている十四代目にしては。
奴の数倍の歩数で並び歩きつつ、奴の顔をちらりと見上げた。
眉目秀麗という言葉が似合う。それが魔的でもあり、事実様々なものを引き寄せているのだろう。
我とて、傷痕だらけの背中を知らない訳では無い。
だが、それまでなのだ。この男に関する情報は、どれも受け入れ難い。

「ゴウト童子、ひとつ貴方に訊きたい」
『……此処は電車だぞ、お前はまた奇人と見做される』
「結構、さて本題に参りましょう。もし我々が相手をしているモノ達が悪魔ですら無かった場合、どう説明する
のですか」
夕暮れの車内は、静かだった。
窓が一枚の絵画の様に、燃える茜と山影の二色刷り。
緩やかな曲線は、電波塔の影絵をゆっくりと横流し。
『意味が解からん、馬鹿な猫にも解る様に説明してくれ』
「無機的な外見の悪魔が居るでしょう?あれ等が本当は其処に佇むだけの物体であり、僕等サマナーが其れを勝
手に“悪魔だ”と称して叩いているだけだったら?という話です」
『何を云うかお主……』
「人と違うモノが視える?果たしてそれだけですかね。幼き頃より“お國の為に暗躍する葛葉”という、その様
なおとぎ話を云い聞かせ続ければ、様々な物が悪魔にも視えましょう。八百万といえども、物は物……」
十四代目は顔色も変えず、愚弄を続けた。
この我の正体を、察しているにも関わらず、だ。
『お、おとぎ話だと?』
「左様。無機的に限らず、どの連中に関してもいえる事……オンモラキは、絞められ軒先に干された鶏肉かもし
れませんし?ヒトコトヌシは、旋風の紡ぐ只の木葉。ポルターガイストは、紐が千切れて道端に転がったさるぼ
ぼ」
『ぬ、ぬぬ……』
「窓より見えまする、夕焼けにそびえるあの鉄塔が、果たして鉄塔だと云い切れますか?オボログルマと自動車
の区別がついていますか?」
『ぬかせ!帝都に来て……確かに大きな件は未だ無いが、しかし貴様は葛葉ライドウとして魔を祓ってきたろう
に!普段を忘れたか !?』
「あの里が、継承者として《気違い》を育てているのではないかと思ったまでです。もしかすれば童子、貴方こ
そが一番初めのドン・キホーテ卿だったのかもしれませんね……フフ」
爪先が痒い、内より魂が騒ぐ。
目の前で哂う男の頬に、引っ掻き痕でも残してやろうかと思い、膝に飛び乗った。
瞬間、車窓の影絵は止まり、重心が揺れる。
『フギャッ』
立ち上がる為に開かれたであろう十四代目の膝から、我はステンと転げ落ちた。
電車を降りる外套の背に、我は剥き出しの敵意を籠めて啼く。
背後からは「いやねえ、野良猫かしら」という潜め声が我を追い立てていた。



『サマナーを気違いなどと抜かしおったのだぞ!』
『ははははは』
『笑い事にするでないわ!』
『うんうん、ごめんゴメン。でもゴウト、最近愚痴っぽいよネ』
トートの言葉を打ち返せず、我は鼻先をムズムズさせるに終わる。
向うに見える合体檻がゴウンゴウンと揺れ、幾度目かの光を放っていた。
間仕切りで区切られた此の一角は、簡易的な書庫と化している。
十四代目が、部屋の書棚からあぶれた分を此処に積み込んでいるのだ。
ヴィクトルに事前確認も取らずに持ち込んだものだから、当時は失笑したものだが……
今では業魔殿の一部として溶け込んでいる、おかしい。
『ヴィクトルもヴィクトルだ。こうも私物を置かせては、いつかは奴に乗っ取られるぞ』
『ドクター、興味有る事以外はどーでもイイ人だからネ。実験スペースに侵出されなければ平気でしョ』
『誰か奴を止められんのか!』
『ちょっと何云ってんのサ、御目付役って誰だっけ』
ヒヒの鼻先をヒクヒクとさせ、トートは笑うばかりだ。
それを見た我の頬も、ヒクヒクと引き攣る。髭が揺れる影を、視界の端に捉えた。
『あ、ゴウトだめですよーだめだめ、ページに爪を立てたらダメ』
『く……すまん』
『そっちの梯子の脚でも引っ掻いてネ』
すっかり猫扱いである、畜生姿の悪魔からでさえも。
この事象にもいい加減慣れたと思い込んでいたが……そうでも無いらしい。
しかし、このままでは今読んでいる書物を傷だらけにしてしまいそうだ。
我は大人しく、立て掛けられている書棚専用の梯子へと歩み寄った。
木製のそれはしっとりとした重みを湛え、様々な書物の湿気を染み込ませているかの様な、なんともいえず不思
議な匂いをさせていた。
『なあ』
『はあい?』
『ドンキホーテという言葉を知っているか』
爪を砥ぐ合間に、ふと訊ねた。
すると、トートは開いていた本を音を立てて閉じる。カンテラの作る影が、微かに揺れた。
『何?一体全体どうしたのさ、ゴウトも小説とか読みたくなったのけ?』
『先日耳に挟んでな、出自が気になっただけだ』
『クズノハに訊けばいいじゃナーイ』
『それが躊躇われるからこそ、お主に訊ねたというに!』
『あぁはいはい、クズノハの云ってるコトが解からなかったのだね、ナルホド』
図星だ。
肯定する事はしないが、否定する程この悪魔の性格を知らぬ訳では無い。
数代前の葛葉ライドウの時代より業魔殿に住みついており、御用とあらば管にて出張する生き方。
里や学校では補えぬ学を、ライドウに与えてきたのだ。
そういう事で、他の仲魔よりも我に気安い。
『解からなけりゃ訊けばいいのに』
『面子が立たん』
『だって十四代目、頭良い子でしョ……分野にもよるけど、先輩風吹かせるのは諦めなって』
『吹かしとらんわ!』
『そお?疾風属と見紛う時があるヨ?あんま昔のライドウは憶えて無いけど、最近の中じゃあアノ子はお勉強好
きな方だぁね……んん、有ったアッタ』
梯子も無しに浮遊して、やや高い位置の棚からスウッと本を引き寄せるトート。
背表紙を掌にくっつけたまま、頁をざあっと波打たせる。
モゴモゴと、何も食べていない筈の口を蠢かせ、一寸置いて発した言葉。
『"El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha"』
呪文の様なそれは、異国の言語であろう。
そして意味は解からぬが、聴き覚えは確かに有った。
『そう、それだ。あやつが唐突にその言葉を』
『こりゃあね、小説のタイトルだよゴウト』
『小説……?』
『ほら表紙見てちょ、ってスペインの文字は読めないよネ。この国の言葉に翻訳されて無いんだよねぇ、まだ』
トートの掌でくるくると踊らされる本は、ややくたびれた装丁をしている。
海を越え、幾つかの手を介して此処まで辿り着いたのだろう。
『して、それはどういった内容なのだ』
『んん〜……騎士道物語に感動しちゃった爺さんが、自分を騎士だと思い込んで大暴走して、割と平和なご近所
へ冒険に発つ話』
『もうろくした爺の話か?』
『ちょっとちょっと、ゴウトもかなりのジジイでしょ。キホーテさん一応下級貴族だし、騎士道が絡まなけりゃ
聡明な老人だし、フィクションなんだし迷惑でなんぼだし』
キホーテ……そうだ、十四代目の台詞に居た。
そんな奴と同一視されたのか、我は。
(一番初めのドン・キホーテ)
あの、憐れむ様な嗤う様な、十四代目の眼が脳裏に甦る。
『どうすんの?読むのけ?』
『所詮、大衆向けの娯楽小説だろう。簡単にお前があらすじを説明してくれ』
『はぁ、何云ってんのサ。聖書の次に世の中に出回ってるって噂だよ?あ、人間の世の中ね、これ重要』
首を左右にカクカクと捻り、フーッと一息吐いたトートが再び本に視線を投じる。
『そんじゃライドウが合体に飽きる前に、さくっと説明しちゃうかネ』
トートが紡ぎ始めた物語の中で、キホーテ卿は殆どいかれていた。
己が騎士だと云って譲らぬ、嘲弄すら遠い耳には聴こえておらぬのか。
聴いていると、こちらが恥ずかしくなってくる様な、そんな出来事ばかり。
中でも特に、風車に突撃をかました話が……


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