金色の、満月色をした眼を、じっと見ているとのぼせそうで
黒い斑紋を流れ伝う、太陽の陽を反射する水面の色はいつまで見ていても飽きる事無く
黄昏時、貴方の黒髪の先が稲穂の様に、茜に艶めく
その撥ねた癖のある形も愛おしくて
戦いの際、焦がす焔の色の鮮烈さに背筋を痺れが駆け抜けるのです
エメラルドのマグネタイトと、悪魔の残滓に朱く濡れた貴方のそのツノにくちづけて
拭って差し上げたい
ああ、それでも先に逝かねばなりません
隣に並んだあの日から、最期を共にする事は無いと覚悟しておりました
それでも、ずっと傍に居たかった
故意文
「葛葉さんっ、あの……」
背後から女性の声、それも年若い娘の様な弾みが感じられた。
嫌な予感に、俺は振り向きもせずに隣の男に告げる。
「先に行ってる」
「フフ、気遣い無用なのに」
「違う馬鹿、俺は他人の色沙汰に興味も無いし、さっさと帰って荷物を降ろしたいんだ」
「ああ、それならばコレもついでに宜しく」
去り際に押し付けられたのは、よくこいつが持ち歩いているトランクだ。
遠方での依頼や、準備の多い合体の際によく手にしている。
背後に感じる視線が痛くて、仕方無くその持ち手を掴むと。少しだけ指が触れ合った。
「っ!?」
途端、電流が奔る、まるで冬場のドアノブみたいな。一瞬だけ見えたエメラルドの火花。
とことん嫌味な男…触れた瞬間にMAGを流してきたのだ。
MAGは使い方ひとつで、蜜の様にも硫酸の様にもなる。
「では宜しくね、功刀君」
とても愉しげに、ニタリと哂う横顔。立ち止まり振り向く頃には、落ち着き払っているのだろう。
「いつも人使い荒いんだよ!」
背後の女性に聴こえる様に、声を張って怒鳴ってやった。
ライドウの指が離れると同時に、ずしりと重量を増すトランク。
中に何が入っているか大凡認識しているが、改めてこのデビルサマナーの体力が人間離れしている事を思い知らされる。
すぐ目の前にまで接近していた銀楼閣の扉を開ける為、俺も片手でトランクを持つ。
『やれやれ、世の女性が如何に面食いかという事が、よく分かるな』
「ゴウトさんもそう思いますか」
ギイ、と軋んだ音を立てながら開く扉。俺が更に力を籠めると、隙間から黒猫がするりと侵入する。
『しかし、見目で釣れる悪魔も居るからな…容姿が優れている事は、寧ろ武器となる筈なのだが。如何にも納得いかんな』
「だってそれだけじゃないですか、あいつ」
『ほう、ではお主もライドウの顔に釣られたという事になるが?』
「まさか」
失笑しつつ階段を上り、事務所の扉を今度は開く。
ゴウトが隙間から入るなり、フーッと威嚇じみた溜息を吐いた。
視線の先には昼行燈。猫の姿に大人げも無くはしゃいでいた。
「おっかえり~ゴウトちゃん」
立ち上がるまではしないものの、デスクから熱く出迎える鳴海。
一方、無視する黒猫はといえば…ソファで既に丸くなっていた。
『居らぬ方が気楽というに、全くこの男は』
「ん~ナニナニ?顔反らしちゃってえ。あ、そうだね~まだ矢代君に挨拶してなかったっけね、御免よゴウトちゃん」
『猫なで声を猫に使うな、気色悪い』
黒猫の台詞など聴こえる筈も無い鳴海は、能天気な笑顔を俺に向けた。
流石に俺も顔を反らす訳にはいかないので、見つめ返す。
双眸を見て…徐々に視線が下る。見た事も無いスーツ、ブルーグレイで薄く織柄の入った生地……
(またツケで買ったな、この人)
支払うのはライドウで、洗濯するのは俺という事だ。
「おかえり矢代君」
「…はあ、戻りました」
「違う違う、こういう時はお兄さんに笑顔で「ただいま」だろ~?」
「酔ってるんですか?」
気恥ずかしくて、求められてから云える訳無いだろ。
適当に流して、俺は室内に足を踏み入れる事無く扉を閉めようとした…が。
猫なで声から一転した比較的クールな鳴海の声を、耳が拾う。
「ライドウは?」
その問いに、拳一つ分程度の隙間で留める。
「……すぐ後から来ますよ」
それだけ答えて、完全に閉ざした。
これ以上、荷物を持ったまま立ち話をしたくないのだ。
俺は事務所の階から更に上へと上り、ライドウの部屋をやや乱雑に開ける。
ブーツを脱ぎ、ずかずかと足袋で歩く黒檀色のフローリング。
「呑気な野郎めっ」
あの男が荷造りをする定位置目掛け、トランクを放り投げた。
多少乱暴にした自覚は有ったが、思ったよりも力が入ってしまったらしく。
トランクは、接地と同時にぱっかりと口を開いた。
途端、蓋裏にベルトで括ってあった管が数本、からんからんと床に散らばる。
一方、ぎっちり収まったままの替え外套の上、札と一緒に重ねられた封筒が有る。
暗い色調の中に投じられたその白に、吸い寄せられる様にして指が伸びてしまう。
目の前で裏表と、続けて引っ繰り返す。表側には《ライドウへ》と、宛名が刻まれていた。
それに何か違和感を覚え、再度字を確認していると…
「その恋文は女学生からでは無いよ」
降りかかってくる声。俺は咄嗟に横へと避けたが、その避けた方に向かって振り落とされる手刀。
俺の首を思い切り打ちつけてきたライドウ、その指先にも封筒が挟まっている。
「こちらは先程の子から貰った物」
俺の鼻先に、ひらひらと白いそれを煽がせる。神経まで煽っているとしか、思えない。
「呪いの手紙なら面白いのにな」
「フフ、しかし実際、その方が僕も愉しいよ」
「さっさと手、退かせ」
「ばら撒いた管を即刻拾い給え、それなら退かしてあげる」
云われずとも、乱雑に扱った俺に責任が有る事は分かっている。
しかし、回収しようとしていた矢先に云われると、なんとも腹立たしい事。
「俺だって、踏んでコケたくない」
苛々と吐き捨てれば、ようやく手が退いた。
真剣でなく手だったのは、ライドウの気紛れか。
屈み込んだ俺は、ベッドの下にまで転がって行った銀色を、指先で捜す。
毎日掃除をしてやっているので、埃まみれになる不安は無いが…なかなか目的物に当たらない。
もう諦めて、箒でベッド下を洗おうかと思ったその瞬間だった。
「ひ、っ」
袴の裾から挿入され、膝裏をぐりぐりと圧迫してくる不快な爪先。
「っ、何だよ!!」
「擬態を解けば良いだろう?」
「力仕事でも無いし、管からMAGが常に発されてる訳でも無いだろ」
「違うよ、よく見える様になるだろう?発光するのだから」
一瞬でも納得しそうになった俺を詰りたい、そんな気持ちに苛まれつつ腕を動かし続ければ…
ようやく冷たいそれに触れ、寝台の暗闇からサルベージする事に成功した。
「鞄に詰め過ぎなんだよ」
「おや、普通に開けば零れる事など有り得ぬのだが?」
文句しつつも、管をライドウに差し出す。
一方のライドウは、早速机に着席して何かに目を通している。
転がっていた管への興味は、既に薄れているらしい。
「フフ、御覧よ功刀君、此処」
管と入れ違いに俺へと差し出されたのは、手紙の一枚。
刀のタコすら無いその綺麗な指が、文章の一点を指し示す。
「この字、女学生が使うには少し古い旧字体。それに続く詩の引用も男性的だ」
「…何が云いたいんだよ」
「代筆さ、恐らく自身で書いておらぬよ」
哂ってひらひらと、それがまるで恋文とは思えない扱いをするライドウ。
受け取る度、想いよりも文章を読み取る事に集中する、そういう奴だとは理解していたが…
何度見ても女性からの手紙を添削する姿は、あまりにも意地が悪い。
「谷崎潤一郎の初期の文章を引用するだなんて、それこそマゾヒズム溢るる女性かと錯覚してしまうね。悪魔主義に惚れ込むのは、いつだって瀟洒になりたい男共さ」
「……俺に説明しても無駄だからな、古い作家はよく分からない」
「君にとっては古くとも、僕等にとっては進行形のスタアなのだよ、功刀君」
こうしてひとしきり哂った後は、赤いインクを用意して、万年筆でさらさらと注釈を垂れるのだ。
まるで解答用紙みたいに赤文字の入れられた恋文を突き返されて、ショックを受けない女性は居ないだろう。
「普通に断っても、しつこく付き纏われるのだから。このくらいにして返事してやるが良いのさ」と、平然と述べるライドウ。
誤字脱字の添削、代筆へのコメント、引用した詩に関する勝手な感想…だとか。
「教師気取りかよ」
寝台に腰掛けたまま、ぼそりと黒い背中を詰った。
「しかし功刀君、実際僕が教えなければ、仲魔の大半は手紙を寄越さぬよ」
「仲魔…」
その返事で、ようやく思い当たる。そういえばこの男、悪魔合体をさせる際に手紙を受け取っていた。
自ら事前に受け取るか、あのうさんくさい医者に事後受け取るか…
「悪魔、それもこれから合体して消える連中に…そんなの貰って嬉しいのか?」
「僕への恨みつらみが記してあったら、面白いだろう?」
「封筒に納まるのかよ」
「おや功刀君。残念だが、僕はそういった手紙は貰った事が無いのだよ」
嘘吐け、と反射的に返しそうになったが、案外そうかもしれないと留まった。
仲魔使いの荒い奴だが、契約内容は違えない。少しケチだが、MAGの質も高い。
悪魔にとって、条件の悪いデビルサマナーでは無い。
(でも、俺とあいつ等じゃ扱いが違うじゃないかよ)
いっそ管に容れられていた方が、この男の野蛮な日常に付き合わされずに済むというもの。
「あでっ!」
「ほらほら休憩してないで功刀君、此れを届けてくれ給え」
ベッドに腰掛け深く溜息していた俺の膝を、踵でげしりと蹴ってきたライドウ。
足袋とはいえ、妙にスナップの利いた一撃は革靴のヒールと錯覚させる衝撃で。
「痛ぇんだよ野郎……でも、届けろって…」
ライドウの指先には、添削済みと思わしきあの恋文。
「先刻の子だよ、窓から見て御覧」
「は?窓って…まさか、待たせてるのかよあんた」
「何も僕は云っておらぬよ、勝手に此の部屋の窓を見上げているだけさ」
薄くレースカーテンの敷かれた窓に寄り、橋から軽く指で覗く。
海老茶色の行燈袴で、うっとりと見上げる三つ編みの少女が――
「っ……」
「ほらね、往来のど真ん中で夢見る障害物になっているだろう?早く其れを渡して、掃除してきてくれ給え」
「最悪、目が合った……」
咄嗟にカーテンを閉めると、ライドウの指先から封筒を奪い取る。
「遮光カーテンまで閉めなくとも良いのに、部屋が暗いよ」
「レース越しだと視線が貫通する」
「フフ……ま、僕は暗い方が好きだけど」
「なら問題無いだろ、いちいち文句云うな…!」
外履きに替え、部屋を出る際にライドウを振り返った。
暗い部屋の中、それでもカーテンの隙間から零れた太陽が逆光を作り出す。
腰掛けたまま、ぐらーんぐらん、と。椅子の前方の脚二本を、浮かせてふざけているライドウ。
仰け反っているが、逆さになってもやはりムカツクくらいに美人だった。
やっている事は、あんなにも幼稚なのに。
「ね、その返事は僕からだと、しっかり云い給えよ?君からの恋文と一瞬誤解されかねない」
「当然だ、俺は関与してない、こんな趣味の悪い返事の仕方しない」
「では、君はいつもどうやって返事しているのだい?」
その問い掛けの瞬間、奴の唇がきゅっと端を上げる。
きっと分かって云ってやがる、性根の腐ったスケコマシ野郎。
「ラブレターなんて貰った事無いんだよ!」
支えになっている椅子の後ろ脚へ目掛け、俺は室内履きを投げつけたが…
ばたんと倒れる椅子から、瞬時に飛び退いたライドウ。
俺の目の前に着地するものだから、嫌な予感がしてすぐに踵を返す。
「ククッ、御愁傷様」
激しい蹴りでも無く、軽くトンと背を押されただけだったが…
俺こそが支えも無くて、宙を二・三回引っ掻いた後に階段を転げ落ちたのだった。
「古傷が痛むのかい?」
せせら哂うライドウの声に、先日の事を思い出していた。
敵の攻撃に対して、俺が一歩出遅れたせいだ。
「もう治ってる」
「当然だろう?僕のMAGで治癒が促進出来ぬ筈はあるまい」
「余計な消費したくなかったら、俺で遊ぶのを止めやがれ」
背後に感じる、威圧的なMAG。
それは自然と仲魔に流れていくもので、戦闘が始めると同時に水門が開くかの様だ。
潤った土壌が悪い物を生み出す筈も無く、この男の生体エネルギーは悪魔を奮い立たせる。
「ねえ、判っている?それともやる気が無いのかい?働きが非常に悪い」
「煩いな…目の前に来た奴は始末してるだろ」
「索敵して嗾け給えよ、売られた喧嘩は骨までしゃぶってやらねばなるまい」
「…あのな、俺は喧嘩したい訳じゃない。悪魔とは出来るだけ関わりたく無いんだ」
警戒は解かずに、ちら、と背後を見た。
煤汚れた尾を振りつつ帰ってくるイヌガミを、外套の襟に軽く寄せながら哂うライドウ。
俺が先刻放った焔で、少し焦がしてしまったのだ。申し訳無いなんて、微塵も思わないが。
「索敵して追ってくれる犬にも劣るねえ」
犬の頭を撫でつつ俺を侮辱する声に、ひくりと頬が引き攣った。
対して、撫でられるイヌガミは頬を緩ませている。
『褒メラレタ』
「違う、そいつは俺を馬鹿にしたいからわざわざ云っただけだ」
『ジャア、今ノハ嘘カ、オベッカナノカ』
「……いや」
『クゥーン』
「…そんな眼で俺を見るな!」
しょげて垂れ下がった尾を、叩く様にして煤払いしてやる。
俺の焔で汚れたという事実を消して、気を紛らわせた。
『感謝スル、人修羅』
ニヤニヤしているライドウの顔を、なるべく視界に入れない様にして問い質す。
「さっき追ってた奴等、まだ一体残ってるだろ」
『残ッテル、ビルヂングノ隙間』
銀座なので、それなりに背の高い建造物に囲まれている。
そして異界なので、夕暮れ時の森の中に居るみたいな空気だ。
「確かドアマースだったねえ……電撃を使う奴を召喚しても良いが、この辺はツチグモには少し窮屈かな」
カツカツと石畳を鳴らして、ライドウが歩き出す。
血振りしたばかりの刀から、数滴悪魔の体液が滴っている。
「ふむ、パールヴァティかミシャグジかね」
「後者は止めてくれ、見たくない」
ひるがえる外套の裾からはらはらと、数粒ルビーを落としてしまったのではないかと錯覚する…
「女神が望ましい?フフ…君も好きだねえ、マザーコンプレックス」
「猥褻物を召喚するなって、俺は云ってるんだ」
「では君で片してくれるとでも?」
「その犬よりは手早く始末してやる」
と、キネマの大看板に重なる影が微かに動いた。あれが絵の一部では無いと判断し、俺は一歩が慎重になる。
軽く深呼吸して、数歩目で速める。すると悪魔の影もキネマ看板から抜け出して、路上を駆け抜けた。
車も走っていない路面、交通違反を気にする事も無い。俺はただひたすら影を追って、袴をばたつかせる。
そのドアマースという悪魔は、四足を駆使して街燈によじ登り、更にビルの出窓に飛び移った。
俺はライドウに一瞥をくれる。すると奴は既に外套を肩へと払って、するりと刀を翳し構えている。
何も云わずに哂って、その切っ先にMAGを一点集中させる仕草。
みるみるうちに刀は伸びて発光する槍となり、俺の足下へすい、と薙いで来た。
その蛍光色の刃に飛び乗ると、俺の地下足袋が少し灼けた音がした。
「君が飛べたら苦労も無いのに」
「そんな化物で堪るかよ」
「化物だろう?」
「さっさとしやがれ」
横槍から会話まで、数秒も無い。
俺が両足の先を刃に絡ませれば、ライドウがニタリと哂って思い切り肩を使う。
ターンして踊るかの様に振り薙ぎ、ぶん回す。
一番勢いの付いたところで、俺は足を開いて放たれる。
ドアマースが先刻まで居た出窓をはっしと掴んで、その遊びに転がり込む様にして乗り上がる。
異界の淀んだ埃を袴から掃い、隣の窓を睨む。
黒い影が一瞬びくりと俺を見つめ、すぐに逃げた。
「待て」と陳腐な言葉を吐く事も無く、それを追って俺も跳躍して隣に移る。
二歩で跳んでいたのを一歩に短縮して、腕を伸ばす。
指先に魔力を流し、ぐわりと空気ごと薙げば、アイアンクロウの爪先がドアマースを転がした。
『ぎゃうッ』
転落していくその影を目で追うが、地にべしゃりと崩れる音も無く。
黒い影がびくびくと空中で痙攣しているのは、ライドウが槍の切っ先にそれを刺しているから。
「串刺しだなんて、趣味が良いなあんた」
嫌味のつもりで云ったそれも、戦闘中のライドウにはスパイスらしい。
俺を見上げた眼は、悪魔でも無いくせに爛々と輝いている。
「どうするんだよ、その悪魔」
街燈に飛び移り、そこを経由して地上に降りれば、丁度ライドウの傍だった。
混乱してばら撒いたんじゃないかというくらい、沢山のルビーが転がっている……勿論、錯覚。
「さあ?でも最初に嗾けてきたのは彼等だし、ねえ?」
脇で支える槍をゆっくり捻るライドウ、すると頭上から呻き声が降ってくる。
『う、う~ッ……も、御勘弁を』
「君の仲間は皆始末したよ、しつこくて参ったからねえ」
『し、かし私は、私自身はクズノハに興味は――』
「おや、付き合いで参戦していたのかい、それは社交的な事だ」
『っぎぃいい』
ゆっくりと刃を伝う色…ライドウのMAGよりも、悪魔の体液が割合を占めてきた。
「ねえ功刀君、恋文を渡す際の、あの付添いの女学生とか」
「…おい」
「何なのだろうねえ、野次馬?それとも失恋した直後に慰めて欲しいから、渡す当人が連れているのかな?」
「…あんた、始末するならさっさとしてくれ」
「君が掃除してくれるのでは無いのかい」
思えば、嗾けられていたのは俺だ。
このドアマースは、既に逃げの姿勢だったじゃないか。それを追ってまで、俺は殺したかったのか?
悪魔を殺す事に罪悪を感じはしないが、それだって状況による。
「もう反撃の余力も無いだろ、その辺に捨てれば良い」
「手を汚したくないと?駄目だねえ…約束が違う」
「違う?違うのは――…」
そこまで云って、唇が閉じた。喉が酷く渇く感覚。
云えるか…「あんたがいつもと違う」だなんて。
確かに、売られた喧嘩は倍返しする野蛮な野郎だが……本気で逃げる相手に、普段はここまでしない。
そういう遊び方はしない、俺が見てきた限りでは。
この男は無抵抗の相手より、刃向かってくる奴を嬲る事に快感を覚えるのだから。
「違うのは?」
催促するみたいに、肩を動かして槍を捩じるライドウ。
その小手先で弄ばれるドアマースの胎が、ぐずぐずと重みで槍を呑み込んでいく。
「だからっ、もういいだろ」
その傷口を見ているのも寒気がして、俺はとうとう槍を掴んでしまった。
ぐい、と引き下ろして刃を押しやる。ライドウに突き返すかの様に。
「君が悪魔を助けるとはね」
「無抵抗の相手に…胸糞悪いだけだ」
「槍でも降りそうだねえ…」
「っ、ぐ」
「ほぅら降った」
愉しそうな声で、いけしゃあしゃあと続けるライドウ。
ドアマースの胎から引き抜いたそれを、今度は俺の肩に突き刺してきた。
でも、貫通する程では無い。恐らく、もう気が済んだのだろう…
この男が、何に苛々していたのか解からなかった。またヤタガラスの里に行く予定でも有るのか?いや…特に聞いていない…
『う……うゥ』
俺の膝上で、苦しげに呻く悪魔。ライドウにやられたこいつに同情する訳じゃない、そうだ…それこそ違う。
ただ、普段と違う暴力の発露に…嫌気が差した、それだけだ。
『人修羅、今日ハ優シイ』
近くでころころとはしゃぐイヌガミに、今度は俺が苛々した。
これが優しさに見えるだなんて、やっぱり獣の頭なのだろう。
あれから、ドアマースは俺に懐いてしまった。
ライドウもライドウで、あんなにまで甚振った悪魔を、何故か仲魔に引き入れた。
俺が珍しく助けた悪魔だから…恐らく、嫌がらせだろう。
俺としては…もう見たくも無かった。
悪魔を助けたその事実と、肩を並べて戦うのも御免だった。
それなのに、あの男は……
『そこのデビルサマナーさん、ちょっと』
異界での呼び止めは、依頼か喧嘩が殆どだ。
咄嗟に構え、俺もライドウも踵を返す。
…と、そこに居たのは血眼をした悪魔では無く、どちらかといえば…
『あの、お渡ししたいモノが』
夢見る女学生のソレに近い、そんな眼。
「…おい、俺は向こう行ってるからな」
ライドウに吐き捨て、その場から逃げる様にして駆け出した俺。
奴の返答も聞かずに袋小路まで来ると、本来なら猫が溜まっている塀に背を預けた。
『人修羅様』
追従して来るのは、例のドアマースで。
イヌガミよりも長い尾を振って、まるで飼い主を追う犬の様だ。
「主人は俺じゃないと思いますけど…戻ったらどうですか」
『……サマナーは、今何を?あのネコマタが渡していた手紙は…一体』
しかも、またネコマタ。あの男、妙に雌猫を惹きつける。
「最近人間の真似事して、ラブレター渡すのでも流行ってるんじゃないですか」
『ラブ…レター?』
「恋文ですよ、人間の文字書ける奴なんて限られてるとは思いますけど」
『…人修羅様は、貰った事が』
まさか同じ質問をされると思わなかったが、ライドウよりは厭らしさが無い。
だからといって、会話を楽しむ気も俺には無い。
「ありませんよ」
『…他の仲魔から聞きましたの、合体でお別れをする際に…サマナーに手紙を渡すのだと』
「それも貰った事ありませんから、そもそも合体させるのも好きじゃない」
『お別れが辛いので?』
「違う、あんな事率先してやる程、俺は……」
非人道的?悪魔的?
ライドウ相手に説明すれば、それこそ鼻で笑われるであろう単語の羅列。
しかも悪魔相手に…俺は何を躍起になって説明している。
『私……人間の文字を、習おうかしら』
出来るだけ逸らしていた視線を、呟くドアマースに向けた。
黒艶の毛並が、辛うじて淫猥さを軽減させているその肢体。
女性でなく、家畜を見ているつもりになれて……アルラウネより、マシだ。
「どうぞ、御勝手に」
何故別れに手紙を送るのか…しかも、あんなに手酷くしてきたサマナーに。
俺は理解出来ない。無理矢理羽交い絞めにされて、支配下に置かれた俺には…
(無理矢理…?)
最初に差し出された手を、掴もうと自ら手を伸ばしたのは…誰だった…
あの野蛮な、享楽的なデビルサマナーを、どうして。
どうして……先日違うと感じた?だって、嬲る様な奴じゃなかったのか?
このドアマースを甚振っているのだって、別に可笑しい事も無い……と、思ったのに。
(あいつは、去る者は…追わない)
そう、そこまで執着しない。合体の際に貰った手紙さえ、一度目を通せば終わりにしているくらいだ。
それなら今、目の前に居るこの悪魔に、妙に突っ掛かったのは何故だ?
『人修羅…様?お加減が優れませんか?』
心配の滲み出ている声を、無視した。
恐らくライドウは、あの時甚振った手と同じ手で、万年筆を握り…
この悪魔に教えるのだ、人間の知識を、文字を。
刃で貫き甚振っている時と、同じ様な哂いで愉しげに。
(いかれてる)
恨みの手紙でも、欲しがっているのだろうか。
そんなもの、俺がいくらでも書いてやれるのに。
「もう少し近くで待機し給えよ、功刀君」
脳内に浮かべていたどす黒い奴が、俺の思考に水を差す。
颯爽と歩いて来る、その姿だけは紛れも無い美丈夫なのに。
「それとも、隅でこそこそと獣姦かい?」
趣味の悪い冗談に、相変わらず反吐が出る。
そして、隣で頬を染めるドアマースにも、怒鳴りつけてやりたい気持ちになった。
昔、犬を飼いたかった時期がある。
母が仕事の過渡期に差し掛かると、俺は当時流行り始めていた“鍵っ子”というものの一部と化していた。
与えられた玩具や本は、思考して反応しない。やがて飽きてしまう。
かといって、外出してまで他人と触れ合いたい程の人恋しさも無く。
漠然と…ただただ、尻尾を振って、自分に懐いてくれる小動物が欲しかった。
それを思い出すくらい、ドアマースは…しつこい。
ライドウが文字を教え始めたものだから、部屋に行けば決まって机に向かっている。
「常に召喚してるなよ、獣臭い」と、そんな文句でも云ってやろうかと思ったが…
尻尾を振って挨拶に寄って来るその悪魔は、存外悪い匂いでも無く。
寧ろ、ずっと傍に居るせいか、微かに白檀の香りまで漂わせて…俺を更にイラつかせた。
犬の鼻で、ずっと香の匂いはキツイのでは無いか?そんな必死に文字を覚えなくても良いじゃないか。
(どうせ、終わる…)
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