初めてその姿を見た時、まさかそうだとは思わずに。
「坊、見な。あれが悪名高き十四代目よ」
黒装束の中でもぶっきらぼうな輩にそう声を掛けられ、他人の事が云えたものだろうか、と思いながら…
ボクは黒袖の揺れた先を、凝視し続けた。
だって、あまりに若いし、外套の書生姿だし、何より…
(人形みたいな顔、化粧してる?)
いいや、していないらしい。それもそうか、男児たるもの舞台役者でも無ければ縁も無い。
それでも、おしろい叩いたみたいな白磁の肌で。
かといって女々しい風も無く、帽子の下に見える眉はきりりとして。
長い睫毛が数回まばたけば扇子の様に、眦に影を残していく。
「あれでいて相当の奇人だ、接する際にゃ覚悟しとき」
ボクは黒装束に軽く背を叩かれ、去り際に耳元でぼそりと忠告される。
「取って喰われん様にな」
その含み笑いが鼓膜にこびりついて、ボクの困惑を更に助長させた。
悪名高いと先述された通り、それまで耳にしてきた十四代目葛葉ライドウの噂はとても綺麗なものでなく。
所謂“札付き”というヤツ……
他のライドウ候補を医務室送りにしただとか、里近隣の女性悪魔と幼い頃から関係していただとか。
襲名後も帝都で「悪鬼羅刹の如き活躍」…と、どうやら戦闘狂でもあるらしく。
御上様や装束達が、嗤いながら…憂いながら…憤りながら…様々な顔で語る彼の人。
どんな粗野粗暴な大男なのだろうと、思っていたのに。
「君がこの里で唯一となった候補生かい」
嗚呼、声まで端整で、もう何処を見つめて良いのやら。
慌てて頷き、歩み寄って来る十四代目の為に少し場所を空けるボク。
「次代を担う覚悟にて修練しております」
「へえ、それは偉い」
「でも、お役目が巡って来るとは、思えませんが…」
「何故」
「…その、十四代目がこんなにお若いとは…年齢までは聞いておりませんでした」
「若輩者が…と、水面に波紋が拡がった事だろうね。しかし其処は実力にて一石投じ、小煩い皺がれた水妖共を黙らせる所存」
恭しく語るので、一聴すれば敬意すら感じるその台詞。
でも改めて噛み締めれば、自信に満ち溢れた呪いの言葉だという事が判ってきた。
それが虚勢でも見栄でも無く、あまりにも似合っていたので…
ボクは溜息と同時に、火照った頬に掌をあてがい冷ました。
「息苦しく無いかい?この里は」
「…いえ、此処しか知らぬので、考えた事も」
「面を上げ給え、畏まる必要は無い…見習いとはいえ、僕等は等しくサマナーだろう?」
そっと見上げる…眼の位置が高い。背が高いのかと思ったら、それだけでなく靴の踵も高い。
特注品だろうか、里の人間はまず履かないであろう形状の革靴。
「知らぬ地の守護の為、修練に尽力出来るのかい?」
「それは…で、でも…都会を知るには、ボクはまだ早いのだとか…何だとか…」
「土産話で良ければ、聴かせようか?帝都の事」
その十四代目の提案が、親切心なのかボクには分からない。
半分くらいは、きっと同情なんだと思った。同じ境遇だから、多分憐れんでくれたのだと。
それと…何処か意地悪な眼をしていたから。
綺麗な横顔が、ニタリと哂ったのを見て…鮮明では無いけれど、あの時そう感じた。
それからというもの、里帰りに来る十四代目はボクを見付けては歩み寄り。
帝都のお話を聴かせてくれる様になった。
三河屋の大學芋を携えて、ふらりと現れる黒い外套。
勿論、ボクに会いに来ている訳ではない。他の用事のついでだと知っている。
それでも修練が休みの水曜日に里帰りしてくれるから、期待せずにはいられない。
お天道様が天辺を越した頃からやって来る、いつものあの笑みで。
「お里に帰るのが、嫌いなのですか?」と訊けば。
「さあ、どうだろうね」と返されて、それ以上は追及出来なかった。
だってあの御方の笑みは、ふる里に帰って来ている歓びが微塵も滲んでいないから。
「でも、葛葉ライドウの十四代目として、里には貢献されているではないですか」
「忠誠心とでも云いたいのかい?成程ね」
だって、人も悪魔も、信頼する何かの為に動くのではないか。
きっと口では濁しつつも、十四代目はヤタガラスの為に働いているのだ。
嗚呼、実力も頭も素晴らしい御方。ボクも貴方に、忠誠を誓います。
水妖日の正午さがり
「はい、いつもの」
とさりと胸元に押し付けられた紙袋は、ほんのり温かい。
隙間から甘い蜜の匂いがして、舌に転がしてもいないのに唾液が生まれる感覚。
「有難う御座いますっ、十四代目」
口角を上げて、くしゃりと笑って見せた。
釣られてくれるかもしれない、と毎回思いつつ歓びを体現しているのに…やっぱり今回も駄目だった。
すっきりとした形の良い唇は、軽く吊り上がるだけ。
残念無念、それでもこれ以上求めるのは傲慢かもしれない。
忙しい時間を割いて、ボクにお話を聴かせてくれている、こうして大學芋までお土産に…
「しかし此度は時間が限られていてね、君と話した後は三本松の処に行かねば」
「いつもお忙しい中…感謝しています」
「責務でなければ僕は愉しい事しかしないよ。君が按ずる必要は無いね」
頂いた大學芋で、懐がぽかぽかしている。
ちらりと横を見れば、高い位置に聡明な横顔。
特別に相手をして貰えているのだと、こうしてお供する瞬間にボクは高揚する。
「最近は山風も穏やかになってきましたから、瑠璃沼に行きませんか?」
「良いだろう、最近足を運んでいなかったから丁度良い」
「周辺の琵琶も実り始めて、景観の彩も良い具合になってきたんですよ」
「瑠璃沼の近くに、もう幾つか小規模な沼が有るだろう?昔は其処で釣りをしたものさ」
「釣りですか!一体どんな餌で何が釣れるのですか?」
「餌は必要無いよ…針だって無くとも良い。糸とMAGを垂らしておけば、それで充分釣れる」
ほら出た。こうしてさらりと述べるから、本当か冗談か判断に困る。
でも、十四代目なら…冗談事も真実に変えてしまうのかもしれない。
「そんな太公望じゃあるまいし…一応読んでますからね本、ボクだって」
「では今度試しにやってみ給えよ。コツはね…待ちの際にMAGを流し過ぎない事さ。MAGは容易く水に溶けるからね」
簡単に云うけれど、難しい事だ。
一気に放つ事は簡単、しかしほんの微量を均等に放出し続ける事は至難の業で。
得物に纏わせるMAGが刃になるのだって、熟練が必要なのだ。
十四代目は容易くそれをしてみせるが、綺麗に纏わせないとロクでもない切れ味になる。
「やれやれ…カラスは釣りも教えていないのかい、やはり娯楽にとことん疎い場所だね此処は」
失笑する十四代目は、白い綺麗な指先を外套に忍ばせて、すぐ引き抜く。
掴まれる管を見て、てっきり召喚でもするのかと思ったが。
それは振り翳される事無く、ボクに差し向けられた。
「暫く貸してあげる」
「えっ!そ、そんな、ボクになんかどうして」
畦道の脇を歩みつつ、十四代目は管の環に爪先を潜らせた。
摘まむ様にして、きゅ、と捻る。僅か開いた隙間から、夜光虫の様にMAGが舞う。
「このようにして…爪一枚程度開いておく…すると、ほんの少しずつ内部のMAGが流出する…判るだろう?」
「はい、悪魔不在の管だったんですね、それ」
「まずはこれを糸の先に括り付け、水面に落して見給え。どの程度のMAGで獲物が近寄ってくるか、自ずと判断出来る様になるだろう」
「でも…そうすると、十四代目の折角のMAGがいつかは無くなってしまいます、勿体ないです」
「自分のMAGを注げば同じ様に使えるよ?」
「ボクのでは…その、寄って来る獲物が雑魚になりませんか?」
すると、管を手にしたまま口元に持って往き、クックッと肩を揺らした十四代目。
合わせて零れたMAGが、僕の前髪を掠めて霧散した。
自身の吸気にそれが微量含まれているのを感じ、少し胸が高鳴る。
「久しいね」
やがて開けてくる景色の中、名前の通り瑠璃色の水面も美しい沼が現れる。
そこそこ大きい面積で、風の無い日には周囲の木々や向こうの山々が水鏡に映り込む。
「しかしこの沼は釣りには向いていない」
「そうなのですか?」
「今まで僕が教えた事を思い出してみ給え」
「あー…そうですね、魚はあまり居ないですよね。でもほら見て下さい、いつ見ても綺麗ですよね?」
「…水質に変わりは無い様子だね、色の具合も以前と変わらぬ」
ボクの言葉に返ってくる答えは、どうやら着眼点が違う。
空の紺碧を模したかの様な沼に、ボクは感嘆したけれど…
十四代目は、沼が何故その色をしているのか科学的根拠に基づいて述べた。
悪魔を使役しながらその姿勢でいる事に…時々頭が混乱しないのか、ボクは疑問に感じて仕方が無い。
そういえば、十四代目の庵にある本棚は難しい本ばかりだった。
オッカルトや哲学の背表紙が並んでいる…と確認したその矢先、科学や経営学の背表紙がつらつらと続く。
一体どっちを信条にしているのだろうか…?
「うん、おいひいれふ!」
畔の倒木に腰掛けて、袋の大學芋を摘まめば行楽気分。
「そうかい、それは何より」
「数年前からずうっと変わり無いですね、味」
「滅多に変えるものでも無いだろう」
「アポリオン騒動の時は、もう二度と三河屋のが食べられないかと焦りましたから」
「フフ、案外君も悠長だね」
「ふふっ、なーんて嘘です…だって、十四代目が帝都を護りきれない筈がありませんから。あまり心配もしませんでした」
発展はせども、衰退は無いだろう。この方に護られる帝都は、本当に幸福だ。
十四代目を奇怪と糾弾する一部の連中は、ボクにとって理解不能で。
「完璧にやり遂げたとは云い難いが、運にみすみす殺されるつもりも無かったからね。それに、僕も此処の大學芋が食べられなくなるのは御免さ」
ボクの膝上に手を伸ばし、刀を扱っている割には節くれ立ってすらいない指先を踊らせる十四代目。
咄嗟にボクは脚をピンと張り、甘い香りの袋を逃す。
「おや、僕にはくれないのかい?」
「いいえ十四代目、指が汚れてしまいますからっ……ボクが摘まんで、お口に放って差し上げます」
平たい竹の楊枝を、ぐずりと芋に刺す。
少し大きめの物を選んだのは、十四代目の唇があーとぱっくり開く様を、まじまじ拝見したいから…
直後に訪れる光景を妄想して、疼く心が手を震わせる。
「十四代目っ…はい、あーん」
垂れそうな蜜の為に、掌を受け皿にしつつ差し出した。
恥ずかしがる事もせず、十四代目は唇を薄っすら開き始める。
この方は照れなど微塵も見せないで、いつも堂々と男らしく潔く。
かといって堅苦しい事もなく、変幻自在な水の様に瀟洒。
ほら、開いてく唇はまるで朝露払う花の開花の様に……
「おい」
はっ、とボクは、突然飛び込んできた声の方を見てしまい。
しまったと顔を戻せば、既に咀嚼している十四代目と目が合った。
肝心の瞬間を逃した虚脱感に、がくりと肩を落とす。
「べたべたべたべた………俺の目が有る事、忘れていないかあんた等」
「らに、くぬひくん、やひもちはみぐるひいね」
「喰いながら喋るな!恥を知れって云いたいだけだ…女々しいんだよ」
「その感覚を意識している奴はそもそもやらぬ」
蜜に濡れた唇をれろりと舐めずる十四代目の姿に、思わず惚けてしまうボク。
ああそうだ、十四代目の悪魔も同行していたんだっけ……忘れていた。
眼中に入っていたのかもしれないが、脳が判断しなかったみたいだ。
「この様な戯れ、遊郭では呼吸の様なものさ」
「子供の前でそういう話出すなよ」
しかもこの悪魔、ボクを完全に見縊っている。
子供って、それはそうだけど……そんな年齢の問題では無い。
『おい正午、そろそろライドウは回収させて貰うぞ』
「……あ!はい童子」
『そうしょぼくれるでない、帰りにまた顔を合わせるだろう』
倒木の端にひこっと乗り上げたゴウト童子が、ボクに尻尾を軽く添わせた。
(そういえば、童子も…)
童子は人修羅の足下に隠れていたから……見えていなかったから忘れていただけだ、うん。
「そういう事で功刀君、君は正午と暇を潰して待っておいで」
「「はぁ!?」」
十四代目の言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまったボク。
同時に上がった声は人修羅のもので、似た様な反応をしてしまった自身を恥じた。
「どうして俺が子守りなんか」
「松の御前に行きたいのかい?何も愉しい事は無いと思うがね」
「だからってどうして、こい――…この子の面倒見なきゃいけないんだよ!」
「違うよ功刀君、僕は正午に君を任せるのさ」
哂いつつ立ち上がり、外套の裾を掃う十四代目。
納得いかないのか人修羅は黙して腕組みし、指をぎりぎり袖に立てている。
「お任せ下さい十四代目、無事に暇を潰しておりますから」
「頼んだよ、ソレが粗相をせぬ様に見張ってくれ給え」
そう云いつつ去る背に、人修羅は小さく罵る。
「は…ふざけんな、糞野郎……あんたこそ、松に泣かされない様にな」
やがて、ぽつねんと残されたボクと悪魔。
ちら…と彼を見れば、向こうも丁度ボクを見た瞬間だったらしくて。
弾かれる様に、互いに視線を逸らした。
嗚呼、十四代目に任された役目とはいえ…少し胃がキリキリする。
三河屋の大學芋も、話に聴く帝都も、ずうっと不変だというのに。
最近、十四代目が変わった気がする。
(こいつが…現れてからだ)
忠誠心の欠片も無い悪魔、しかも半分は人間…だと聞いている。
それだから管に入らないそうだ。いっそ入ってくれたなら、視界から失せて気分も良いのに。
特に会話する事も無いので、ボクは先刻預かった管を指先に弄んだ。
少しだけ先端を引き、云われた通りに爪一枚程度…隙間を残す。
其処から綿毛の様にふわふわと、風も無いから不規則な動きで舞うMAG。
すると、視界の隅に居る人修羅が項をさすり始めた。
落ち着きが無いというか…その浮足立つ様を見て、ボクは何となく感付いた。
(十四代目のMAGに反応してるのかな)
深い契約を結んだサマナーのMAGというものは、使役される悪魔にとって格別の味らしい。
知識では持ち合わせているものの、こうして目の当りにするのは初めてかもしれない。
だって、大抵は使役印を結び終わりか、下手すれば口約束の主従関係だったりして。
血肉を呪いとして交わす契約はサマナーの負担が大きく、ある種賭けに近い…だから、きょうび流行らないのだとか。
「…人修羅さん」
気付けばボクから声を掛けて、管をひらひら振っていた。
苛々する、項がビリビリと痺れを伴って熱を孕む。
あの男から直接MAGを感じ取るのは、最早日常的な事だから平然として居られるのに。
第三者の手の内に転がされるあいつのMAGを感じると、嫌に身体がぞわぞわする。
「これ、欲しいです?」
そこに、この台詞だ。俺をパブロフの犬とでも思っているのか、この子供。
項から手を外して、袴の帯を軽く握った。
「さっき君がライドウから受け取ったんでしょう…どうして俺に渡す必要が有るんですか」
「だって、凄く物欲しそうな眼で見てらしたので」
「…別に、充分足りてるから要らないですよ、MAG」
「足りてる?」
「あいつから必要分は貰ってますので」
「そうですか、余計な事云いましたねボク、すいません」
充分な量、今身体に留まっているのかといえば…まあ、そこそこだった。
嫌がらせの様に与えられない時と比べれば、かなり潤っている方だ。
「そうですよね、十四代目がケチな訳無かった」
少年は笑うなり、また倒木に腰掛けた。
俺に背を向けたから、ようやく相手をしなくて済むのだと安堵したが…
話は続いていたらしく、あくまでも無邪気な声が俺の足を止めさせる。
「でも、最近忙しいみたいです」
紙袋の音、僅か揺れる頭。どうやら残りの大學芋を咀嚼している。
「最近大きな事件も無いのに、以前の様に半日留まってくれる事も減りました」
一つ摘まんでは、吐き出されていく言葉。
「先日…貴方が管に入らぬのかと、御上様方が色々されたそうですね」
俺の心拍数が上がる、向こうは相変わらずもぐもぐと、咀嚼の合間に語り続ける。
「十四代目が……代わりに叱咤を受けたと…」
「此処の連中が異常なんですよ。ライドウに降った暴力が俺のせいだって云うのなら、それはお門違いだ」
「ボクだって、十四代目を不当に扱うじいさん達は嫌いです」
少年の動きはぴたりと止まっている、全て食べ終えたのだろうか。
あの店の大學芋…ライドウの身体で食べた時、酷く美味しく感じた事を思い出す。
「でも人修羅…貴方みたいな特殊な悪魔を使役するから、十四代目は更に苦労してますよ」
「そんなのはあいつの自己責任です」
「…深い契約は、双方の意思が噛み合わないと結ばれないって、ボクは習いましたが…?」
浅黄色の着物に、黒い襟巻の少年。
中学生になったばかり程度の齢に見えるが、小さく俺を振り返る眼はじっとりしていた。
「でも貴方から忠誠心の様なものを、一切感じられない!それなのにMAGを吸い上げてばかりで、挙句に人間のフリばかりで…悪魔として役に立っているんですか…」
剣幕に自らはっとした顔をして、深呼吸をする少年。
冷静さを保つつもりで、どうやら初っ端しくじったらしい。
俺も怒鳴り返しそうになったが、それを見て同じ様に深呼吸して返す。
「単なる利害の一致ですから、俺とライドウの間に信頼とか忠誠は無い」
「…云い切るんですね」
「俺はあの男の事、憎いですから」
「あ、あわよくば十四代目を利用した挙句に魂を喰らおうとしてる…とか!?」
「あんな野郎の魂、下手物だろうから願い下げです」
すっくと立ち上がった少年は、紙袋を片手にしたままもう片手に管を携える。
「ねえ、暇潰ししませんか」
ライドウに向けていた笑顔を形を潜めて、俺に向けられるのは敵意まみれの眼差し。
どうしてこんなに憎まれているかなんて、一応解かっているつもりだ。
単純に、俺がライドウの傍に存在する事が許せないんだ、この子は。
人修羅という中途半端で特異な立場が、ライドウの気を惹いているだけだというのに…
こんな関係、恐らく少年の憧れるものでは無い。きっと正体が見えていないのだろう。
(だって、あんなにじゃれ合ってたじゃないかよ。何をそんなに不安がるんだか)
杞憂だろ…、と思わず失笑すれば、挑発と受け取ったらしく睨まれた。
「まだ水遊びには早い季節ですが、少し頭冷やしましょう、ボク等」
「俺はまだ冷静なつもりですけど」
華奢な指先に弄んでいた管を、唐突に放り投げた少年。
放物線を描きながら、陽光を反射してぽちゃりと沼に消えた。
「先に見つけて、拾った方の勝ちです」
「…犬みたいだ」
「ね?そこそこ暇は潰せると思いますよ。ボクは悪魔入りの管を所有していないので、貴方も悪魔の力は使わないで下さいね」
「見つからなかったら、どうするんですか…ライドウの奴、怒りはしなくても嫌味くらいは云ってくると…」
「「早速釣りに使っていたら流されてしまった」と云えば良いじゃないですか」
見せつけてくる挑戦的な笑み…俺は煽ったつもりだが、動じていない。
狡賢い所に親近感を抱いて、あの男は可愛がっているのかも…と、どうでも良い事まで想像した。
「それに、見つからない筈が無いのです。十四代目から預かった管を、みすみす失くす真似はしません」
「……俺は沼なんかに入りませんよ。付き合う義理も無いし、そもそも袴が濡れる…不衛生だ」
「そうですねぇ…先に見つけられたら、あの管の中のMAGは差し上げます」
「だから…足りてるってさっきから――」
「ボクが先に拾ったら…目の前で悪魔になって下さいよ」
予想外の条件に、思わず目許が引き攣った。
「だって、いつもいつも擬態されてるでしょう?一瞬しか見た事無いから、あの斑紋姿」
「俺は見世物じゃない」
「共に捜してもくれなかった、と……十四代目に報告しても宜しいのですか?」
こいつ、どうしても俺を沼に引きずり込みたいらしい。
せめてこの場にゴウトが居れば、猫を被ってくれていたかもしれないのに。
「我儘な糞餓鬼だと思っているでしょう?そんな事分かってます。ボクはただ……今、滅茶苦茶を云って貴方を困らせたい。それだけなんです、人修羅」
シンと静まりかえる沼地に、鳥の声だけが響いた。
水鏡が、落ちた枝葉で割られて幾重にも環を作る。
(見てる分には綺麗な沼だな…)
瑠璃沼とか、確か云っていた。その蒼の手前に佇む少年の着物の色と、よくマッチしていて。
(こんな場所に誘うなんて、色気づいた奴…子供のくせに)
真っ直ぐ見つめてくる瞳には、少年ながらもサマナーらしい熱が有った。
悪魔を見る眼、というのか…読み探ろうとする、無遠慮なソレ。
土足で俺の精神を踏み荒らそうとするあの男と、類似する視線。
それを突っ撥ね、掃う為には……売られた喧嘩を買う他無い。
ただ、葛葉ライドウのMAGの為に踊らされるという公式は嫌だった。
ライドウは、俺が負けたなら「いくら擬態しているからとはいえ、負ける奴があるかい。それでも僕の悪魔?」とか云って…詰るだろう。
勝っても「子供相手に勝ちも譲らぬのかい、ゆとりの無い奴だねえ」とか………
ああもう、馬鹿にした哂いが脳裏に渦巻いて、こんな勝負やる気も出ない。
「……ひとつ、色つけてくれませんか」
「はい、何でしょう」
もっと…勝負に勝った際の利益が、“それらしい理由”が欲しい。
俺にとっての遊びが無ければ…勝負の先の快感が無くては、乗る価値も無いから。
“俺が先に拾ったら、君のMAGも下さい”
先刻追加で提示された条件を、脳内に反芻した。
なんだ、ちゃっかり悪魔ではないか…サマナーのMAGを欲しがるだなんて。
でも、ボクに負けじと性悪そうだから…きっと吸った挙句に「ライドウのより不味い」とか吐き捨てるんだ。
それを想像して、余計に負けられぬ、と背筋が伸びる。
負ける筈が無いから「いいですよ、その際にはどんどん吸って下さいな」と、豪語してやった。
万が一そうなっても「悪魔め」と、罵ってやれる、悪く無い話だ。
「中央に行くほど深いですが、気を抜かなければ溺れる事も無いです」
「陽射しの届かない深さ?」
「いえ、この昼下がりならぼんやりと水中でも見える筈ですから御安心下さい」
説明しながら、帯を解く。
素肌を晒しても、そこまで寒くは無い。入水の瞬間は心臓が締め付けられそうだが、すぐ慣れるだろう。
たった今まで腰掛けていた倒木に、軽く畳んだ着物と帯を重ね置いた。
以前より筋肉は着いたと思う、それでもまだまだ足りていない。
ぐ、っと両腕を伸ばして筋を伸ばし、準備運動の様に身体を解していく。
「脱いだらどうですか、水の中だと凄く邪魔で重くなりますよ、着物」
問い掛ければ、人修羅は溜息の後に指を首元に運ぶ。
衿の袷に沿って爪先を下ろすと、袴の腰帯に引っ掛け…
前の結び目を解くと、しゅるしゅると草地にそれが接地していく。
馬乗り袴から脚を抜くと、下にも何か穿いているのが見えた。
黒地の…やや艶のある生地で、ぴったりと膝までを覆うそれ。
(なんだあれ、水着?袴の下に?変なの…)
袴の次に上の着物を脱ぎ、薄い肌着の前釦を外していく人修羅。
現れる肌は、特に筋骨隆々という訳でも無い。擬態で体格は変わらない、つまり悪魔の時もあの程度の肉なのだ。
「潜って捜して拾う、ね?単純明快でしょう」
「…そうですね」
「ただし、沼には沼の生き物が居ますからね。領域侵害と思われない程度に、泳ぎましょう」
訝しげな眼でボクを見下ろしてくる人修羅…
沼の生き物と云われて、何を想像したのだろう。図鑑に載っている昆虫や魚だろうか。
「あ、そうだ」
思い出した様に、がさりと袋を持ち上げて鳴らしてみせる。
「お芋食べます?まだ残ってますけど」
「…要りません」
「そうですか」
まだ数個残ったままの大學芋の袋を、ボクは片手に携えたままで。
いつまで手にしている気なのか、と思った事だろう。一瞬手元を、そんな視線で貫かれた。
(ボクは確認したからな、好意を受け取らなかったのは人修羅だ)
脳内で威嚇しつつ下駄を脱ぎ、足袋から足先もずるりと抜く。
同じ様に、向こうも素足を晒した。脛に毛の一本も無くて、なまっ白い。
そうだ、人修羅の生体なんて知らないから…それが剃毛しているのか生えないのかすら判らない。
あの黒い下穿きの中…一般的な青年と同じ身体をしているのか?
十四代目は、見た事があるのだろうか。
「…何ジロジロ見てるんです」
毛とか、生えてるの…か?
「えっ、あ、いえ何でも……思った以上にか細いんだなあ、と思って」
「悪かったですね、特に修練とかして生きてきた訳でも無いですから」
「それで十四代目の補佐が出来ているのですか?」
「あいつの思う様に動けなくたって、そんなの…標的を始末すれば結果オーライです、あいつに文句を云われる筋合いは無い」
入水可能なまで肌を晒して、互いに睨み合った。
あと二年もすれば、絶対ボクの方が身長は高くなるだろう。
「では合図から五つ数えて、飛び込みましょう」
「…どうぞ」
「あっ、ひとつだけ」
「はあ、何ですか」
「命の危険を感じたら、別に擬態を解いても構いませんよ?」
ボクを見つめる双眸の間、眉間の皺が深くなった。
「ただし、悪魔に戻ったら離水して下さいね。その時点で貴方の負けって事です」
「君は平気なんですか、丸腰で」
「ええ、ボクはきび団子よろしくこの大學芋でも持って入るつもりです」
「…魚の餌にでもする気…?」
「まあ、そんな所です。折角水に入るのですから、撒き餌でもしながら…ね?ふふふ」
「…………ライドウじゃないけど、本当、悠長なんだな君…」
なんだ、ちゃっかり会話まで聴いていたのか。
それならもっと当てつけてやれば良かったかな、と後悔に胸がギリギリした。
でも、この胸の焦れも数分後には解消される。
悪魔に変貌し、のこのこと陸に上がる人修羅を見て…きっとボクは満足出来るのだから。
「水は綺麗ですから、変に躊躇する必要は無いですよ。それじゃあいいですか…」
隣を見上げれば、勝手にしてくれといった目配せ。
それではお言葉に甘えて、ボクの旋律で数え出す。
一…二…三…四……
五を唱え、脚を揃えて爪先からざぱりと飛び込んだ。
自分の作り出す波と、隣から来る波がぶつかり合う揺れ。
肌に纏わりつく水を掌で確かめる様に、人修羅が少し立ち止まる。
多分、このまま進めるかを判断したのだ。潔癖とは聞いていたけれど、入水してから更に思案するなんて。
(優柔不断なの)
それでも行けると判断したのか、身を沈め始めた人修羅を見てボクも深呼吸をした。
とぷんと頭まで沈め、眼を開く……うっすら上から光の射す水面下。
光の反射で瑠璃色に見えていたから、こうやって下から覗くと透明な沼で。
奥に進む程に陰影が深くなり……やがて、視界の端の人修羅の影もぼやけて消えた。
既に足が着かない深さで、手にした紙袋から漏れていた気泡も尽きたらしい。
(そろそろ来る…)
暗がりから、ぞわぞわと見え始めた蠢き。
サマナーならすぐに判る、水流に一段と濃いMAGが混じって肌を撫でていくこの感覚。
『何しに来た…小童』
一…二……数え始め、視界に納まっているのは十体だ。
良かった、その程度なら余裕も有る。
『捜し物か』
『驚く事も無し、顔にそう書いておるわ』
嘘吐け、多分水面下、会話を聞いていたに違いない。
もしくは、管が降ってきたから…それを捜しに潜ったと判断されたか。
(だってボクはポーカーフェイスという奴だもの)
『しかし、我々の庭だ…タダで遊泳させるのは、気が進まんなあ』
『美味しいもの、持ってないかあ…え?』
悪魔のMAGが融け込むこの沼、薄っすらと肌で呼吸が出来るから、こうしてのんびりやり取りが出来る。
それこそ悠長に。
『その手にしてるの、なんだ』
『水ん中でも分かるぞ、甘い甘いニオイだ』
騒ぎ立てる水妖達、形はまばら……それこそ河童の様な奴から、ケルピーみたく藻の様な奴まで。
しかし、皆一様にして供物を欲しがる…
(十四代目から、昔聴いた通りだ)
この沼は瑠璃色の美しき蒼、しかも大変自由に水と遊べる。
それは、水妖達が四六時中この沼と在るから。
彼等のMAGが水質を変え、細胞に喰い込む程の生体エネルギーを水に運ばせる…
だから、まるで魚の様に呼吸が出来るのさ。
勿論…本物の魚では無いからね、そう長くは居られぬ。息苦しさはすぐにやってくる。
そして、忘れてはならないよ。
水妖達はいつも腹を空かせている、貢物のひとつでも持って入らねば…機嫌を損ねてしまう。
が、あまり悲観する事でも無い。彼等はこの領域でもかなりの古株、然程動きは速くない。
泳ぎの得意な仲魔でも召喚して、それにしがみ付いていればあっという間に草の上、重力のしもべさ。
あんなにふやけた大學芋でも、歓んでかすめ取って往った。
十の影を見送って、煩い動悸が静まるまで立ち泳ぎしていたボク。
実を云えば、直接彼等と関わるのは初めてだったから…少し怖かった。
でも、これで袖の下は通った。ボクはもうこの沼を自由に泳ぎ回れるのだ、またまた悠長に。
(人修羅は供物になる物なんて、何も手にしていなかった…だからもう、きっと陸上だ)
十四代目の話では、確か焔の術しかマトモに使えないとかで。
しかも相手は十体、擬態状態では始末も出来る訳が無い。
そもそも、始末なり逃亡なりした時点で、あの人の負けなのだ。
この勝負に乗った瞬間から、悪魔になる他道は無かったという事。
(こんな糞餓鬼で申し訳無いですね、でもこんなの子供の遊びでしょう?)
稀に息継ぎしに浮上して、再び舞い戻って揺れる水草の中を捜す。
深い場所は、目を凝らし…感覚を澄ませる……
管から十四代目のMAGがじわじわと流れている筈だから…感じ取れさえすれば、あっという間に見つかる筈。
水妖達は、陽射しと草木のMAGを水にいつも感じているから、物質的な空腹感の方が強いそうだ。
つまり、管の微量なMAGを感じ取れる程、鼻の利きは良くないという事。
(おかしい…)
それでも、どうしてかなかなか見つからない。
ボクはこの沼に投げ込んだ筈なのに、まるで存在していないかの様に感じ取れず。
幾度目かの浮上、呼吸を荒くしながら陸地を見た。
人影は無い……人修羅の姿は見えず。
どういう事だ、まだ沼の中?
もしかして、水妖に喰わす何かを、あの黒い下穿きに忍ばせていたのかもしれない。
鼓動が奔り、水中なのに嫌な汗が滲んだ気がする。
まずい、早く見付けないと、負ける。
思い切り息を吸って、再び蒼い水を掻き分け潜った。
先刻よりも薄暗くなってきたのか、見え辛い…更に感覚頼りにならざるを得ない状況。
と、ボクの感覚を突き刺す様にして水が纏わりついてきた。
でもこれは、憶えの有るMAGじゃない。溶け込むどころか……視覚すら刺激する、この水。
(濁ってる、この色…錆の様な)
ボクは鮫でも無いので、それに誘われたりもしない。
いいや、それどころかゾッとして足をばたつかせた。恐らく、何者かの血液が水流に流れてきたのだ。
「ぷあっ」
水の床から頭を突き出し、濡れた前髪を空いた手で払い除ける。
陸に…人影が居る。でも、その項に黒い突起は無い。
その影に向かって、思わず叫んだ。
「まさかっ、見付けた…!?」
草地に膝着く人修羅。負傷でもしたのか、それとも疲労か。
まだ沼に四肢を浸すボクを、首を捻って振り向く。
その口に、鈍く光る銀の管を銜えて……薄っすら嗤っていた。
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