天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも
月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも
霊酒つくよみ・前編
殺風景な道、俺はいつ通っても確信が持てない。
ライドウは頭の中に方位磁石でも入っているかの様に、迷い無く歩みを進める。
時折小川を跨ぐ橋が有ったりもするが、その小川がさっき跨いだものと同一なのかすら、俺は判断出来ない。
どこにでも有る様な多年草が、ようやく初夏の緑を思い起こさせる程度の景観。
「よく迷わないよな、あんた」
「帰宅出来ぬは幼児も同様だろう?君は家の近所で迷子になっていたのかい」
「近所って程、近いか?ヤタガラスの里…」
「電車と徒歩でなんとかなる距離だね、フフ…残念な事だ」
この男の里帰りは、俺にとって気分の良い事では無い。
普段から横暴だというのに、ヤタガラスが絡むとライドウは更に感情的になるからだ。
そんな事を指摘したら、更に機嫌を損ねるだろう。
だから、思っても云わないで…俺は押し黙ったまま追従していた。
「功刀君、確かに此処にはビルヂングは愚か、幹の太い樹木などもそびえておらぬがね……少しは警戒したら如何だい?」
外套から抜かれたライドウの手には、既にリボルバーが握られていて。
一見何の変哲も無い野原へと、即座に発砲される。
『ぴぎゃっ』
小さく悲鳴した何者かが、被弾に跳ねた。
二転三転しつつ雑草に身体をべしゃりと広げたそいつを見て、俺は一歩後ずさる。
蛙だ……しかし、巨大。俺が見た事の有る蛙のサイズの数倍は有る。
イボイボの濁った色をした背中、其処にめり込んでいる銃弾が鈍く光っていた。
「おい、何だこいつ……でかくないか、気持ち悪い」
「やはり視えていなかったのかい。君は街中と大平原と、どちらが身を隠すに向いていると考えている?」
「それは…隠す手段で変わってくるだろ。そ、それよりもその蛙」
「珍しくも無いさ、里の周辺にはごまんと居る」
それを聞いて、更にこいつの里帰りに付き合うのが嫌になった。
小さな緑色の蛙なら、まだ愛らしいかもしれなかったのに。目の前に転がるソレは、あまりにもグロい。
形は蟇蛙(ひきがえる)の様だが、両手にも乗り切らないであろう異様なサイズ。
銃弾を受けても生きているのだ…恐らく化け物に近いのだろう。
『こやつ等は我々ヤタガラスの者を好いてはおらんでな、時折カラスの連中も脚を齧られよる。攻撃手段は、主に毒液だがな』
「か、齧るんですか……蛙の癖に。それでゴウトさんは齧られた事、あるんですか?」
『お主等より視点が低いのだぞ、舐めるでないわ』
まだヒクヒクと痙攣している蟇蛙の横を、俺達は迂回する様に通過した。
一番近い位置をライドウが歩いたが、蟇蛙は余力を振り絞る様な事はしなかった。
(ライドウの奴、ヤタガラスにも反抗的だからな。もしかしたらヤタガラスの人間って、蛙にすら認識されていないとか)
それならば、この面子で恐らく真っ先に狙われるのはゴウトという事になる。
当人が「舐めるな」と云っているのだから、回避は出来るのかもしれないが。
「どうして蟇蛙っぽいあの化け物は、ヤタガラスの人を襲うんです?」
『ヤタガラスは太陽を象徴し、蟇蛙は月を象徴す。性質からして正反対……他にもまあ、色々と有るのだが……お主も其処まで興味ないだろうに』
「そうですね、もう結構です」
猫程度のサイズなら丸呑みに出来るであろう大口が、酸素を求める様にぱくぱくと開閉している。
そんな蟇蛙を尻目に、俺はライドウに置いて行かれないよう足を速めた。
良いんだ、ゴウトに訊いてみたのも、所詮は興味本位でしかない。
どうせ、ヤタガラスが恨みを買う様な事をしでかしたに違い無い……と。
それが聞きたくて問い質してみた、それだけなんだ。
もしかしたら、ライドウがヤタガラスの悪趣味な何かを暴露してくれるかも…とさえ考えて。
(ああ、もう里の入口まで来ていたのか)
俺の邪な期待は成就されなかった。悪趣味な横槍は飛んで来る事も無く、見上げれば里の門が有った。
普段は煩いくらいに饒舌なライドウの口数が、此処に来ると途端に減る。
「今回、俺は何して暇を潰せば良いんだ」
「酒の品評会が有るので、君にも飲んで欲しいそうだよ。近頃売り込まれた数種だ、具合を見て組織の流通に乗せるか決めるのだろう」
このライドウの口ぶりからして、俺を連れてくるのは本意では無かった様子だ。
自身の力が及ばない範囲で俺を扱われる事が、相当気に喰わないのか。
貸した物に傷が付いて返ってきたら腹立たしいとか、その程度の感覚だろうけれど。
“俺が”というより、そのプライドに傷が付く事が嫌なんだろ?
「どうして俺なんだよ…そういうのは専門家喚べよ。そもそも俺は未成年で――」
「悪魔用の酒だよ、様々な悪魔に飲ませて性質を見定める。そういう利き酒会さ、定期的に行われている」
何だよ、その「おあつらえ向きだろう?」とか続けそうな台詞。
俺の目許がヒクヒクしたのは、里の中に入った緊張感とはまた違うストレスか。
「おい、それにしたって……此処の連中が使役してる悪魔に飲ませれば済む話だろ」
「君はどの属にも該当しないからね、ひとつの記録として欲しいという事だろうさ」
「……実験台かよ」
「自覚、無かったのかい?」
無い訳では無い、ヤタガラスどころかライドウにもその気は見られた。
しかし面と向かって云われると、頭にじわじわと血が昇る。
つかつかと先を行く鋭利な革靴を、俺の地下足袋で止めた。
「何」
ライドウの声は、酷く愉しく無さそうだ。
俺も、思わず立ちはだかっておきながら……静止してしまっている。
いっそ擬態を解除するか?さながら挑発の様に。
いいや、この里で堂々と悪魔の姿を晒したくは無い。既に正体がバレているのだが、そんな問題では無い。
「余計な視線を集めるでないよ、愚図」
「ッ、ひ!」
「全く、人間を手にかける度胸も無い癖にね。悪魔らしい振る舞いをしたくないなら、大人しくして居給え」
思考は唐突に中断され、俺は息を詰まらせながらよろよろとうずくまった。
ライドウの蹴りが、ズバンと俺の股座にキまったからだ。
胎がきゅう、と無数の糸で雁字搦めに縛り上げられるかの様な、四肢を支配する痛み。
『おい……人修羅、大丈夫か?置いていくぞ』
口ぶりだけは心配しているゴウトも、さくさくと傍を横切って行く。
俺は猫の様に低くなった視界で、揺れる尻尾を恨めし気に見つめて溜息した。
ああ、苛々する。
先刻人修羅に喰らわせた蹴りを、もう少し強くしておけば良かったと思い返していた。
うようよと板の間を行き交う黒装束共は、まるで残飯を探す烏の様で。
様々な属の悪魔と肩を並べている人修羅は、袴姿ではあるものの素肌に斑紋が巡っている。
ヤタガラスからの命令だった“本来の姿”で飲酒しろ、との。
当然の様に、人修羅は命じた黒装束を不機嫌そうに睨み返していたが。
「十四代目、貴方は参加されないので?」
カンカン帽の男が、僕の隣に並んだ。
上から下まで黒い、それは麦藁を墨色に染め上げた独特な帽子だった。
やや特徴的な格好なので、すぐに誰かは判った。
「効能を熟知した酒しか、嗜む気はしないので」
「ははぁ、なぁるほどお」
「参加命令も、僕には出ておりませんから」
黒装束に囲まれた人修羅が、渋々とお猪口に手を伸ばしている。
そのお猪口を一気に口元へ運んでいる所、横から腕を取られ怪訝な表情をしていた。
僕等はやや遠巻きに、観察をしている。
「あぁ、貴方の悪魔……人修羅でしたっけな。なかなか未知数とは聞き及んでますけど、蛇の目すら見ないでグイッといくとは……ハッハ」
「蛇の道は蛇でしょう、あれは酒に縁が無くてね」
「はぁ、貴方は大酒呑みなのに?」
その返しに僕は軽く失笑し、流した。
利き酒は、最初の一口よりも先にまず、香りと色を見る。
お猪口の内底面にある、青い二重丸紋様……利き猪口が《蛇の目》と云われる所以だ。
その紋様の揺らぎ・ぼやけ方から、酒の透明度を確認する。
そうして、上立ち香を鼻腔にくすぐらせ……ようやく口に含むのだ。
しかも複数酒を確かめるのだから、ごくごくとあおってはいけない、後に影響する。
個人の好みで減点する事も、当然宜しくない。
利き酒とは、不慣れなほど正当な評価が出来ない行為。そう認識していたが…
人修羅にさせている利き酒ごっこは、少し様子が違う。
酒を摂取した際の、人修羅の魔力変動を記録している。
「美味しいか否か」という意見を、こちらから訊ねる事もして無い。
つまりあれは、利き酒の様式を真似ている別物だ。
人修羅の味覚は使わず、その躰に訊いている様なもの……
「まんさく・からじし・まさむね辺りは人間が飲んでも割とイケますが、属別に効力を発揮する酒はクセが強くて参りますな!」
「わざわざ属別に製造されているのだから、味に特徴が出るのは当然でしょう」
「十四代目…ふっふ、其処でアレですよお!属性を選ばない、口当たりの宜しい――…」
「さて、何でしょう」
「惚けないで下さいな、《つくよみ》ですよ」
先刻から煩い隣の男は、この里のサマナー…兼、問屋。
僕と話し込んではヒソヒソ囁かれるだろうに、と、昔は思っていたのだが。
この男も里では浮いている方であり、評判を左右する事は互いに無かった。
いつも身形だけは上等だが、面立ちは衣装に負けている。家に由緒というものがあり、金なら幾らでも有るそうだが。
無精髭にぱさぱさとした頭髪。齢は僕より五つ程度上なだけというに、少し老いて見えた。
ずんぐりとした背格好に、疣の様な出来物やシミが顔面に多い為、昔から蝦蟇(ガマ)と呼ばれている。
他者の容姿なぞどうだって良い事だが、僕は少々違った理由でこいつをそう呼ぶ。
「十四代目ぇ、ありゃあ凄い酒ですよ、使い所は限られますけどね」
「それはどうも」
「ウチの霊水がねぇ…へへ、ああも化けるとは思わなかったですわ。いやー普通に飲むだけだと、あんまり取り柄も無い水だったのに」
横にちらりと視線を寄越せば、案の定男の眼は欲を孕んでいた。
ヤタガラスのサマナーの多くが私利私欲を以てして動いている、僕も例外では無い。
「乗せて欲しいなら乗せようか?何割だ」
「いいやいいや十四代目、私ぁ稼ぎならまま、有るもんでして。そこじゃあ無いんですわ」
恐らく金では無いだろうと踏んでいたが、すぐに話を持って行く事をしないであろうこの男。
外堀をさっさと此方で埋めて、本題を促す。
「つくよみのねえ…蔵元をね、紹介して欲しいんですよぉ」
「……フフ。断った場合、今後の僕への物資提供はどうなりますかね」
「いやいやいや、売りませんだなんて事ぁ云いませんよ!ただね、蔵元に直接ウチの霊水を運んだ方が早いでしょ?」
「先刻申された通り、使い勝手の幅は狭い酒だ、大して益も無し。それならば僕に言い値で霊水だけ売り捌く方が、貴方の家も潤うと思いますがね」
「しかしあの酒は類を見ない……十四代目、アレは大発見つっても過言じゃないですわ。ねえ蔵元、紹介頼みますよお」
やはり商売欲では無し、名誉欲か。
家や財力に恵まれていても、当人の力量や才に確実な恩恵がもたらされる約束は無い。
親しいつもりはさらさら無いが、ライドウの候補生として数年間を共にしたのだ。何が足りていないかは、透けて見えた。
「僕はあれを世に広めるつもりは無い、今回の品評会にも提出しておらぬ。貴方には素材の提供者という関係上、個人的に完成品を渡しているだけですよ」
「いやはや勿体無いでしょう、素晴らしい酒なら皆で愉しまねば!」
足下でゴウト童子が、尾をぱたんぱたんと上下させていた。
黒い毛に覆われた尾は、床板を微かに啼かせる。
この上司が動じておらぬは、これが僕の日常茶飯事と理解している所為だ。
じゃれ合っている様には、流石に見えぬだろう。
「勿体無い…?フフ…それは貴方の勝手な思想による結論でしょうに。僕は己の悪魔を“調整”する為に《つくよみ》を作らせた、酒道楽の為に非ず」
「ヤタガラスの一羽なら、組織の為に献上するのが筋じゃあ無いんですかねー?」
「霊水は何も世界にひとつでは無い。アムリタや甘露が各地に存在する様に、幾らでも入手経路は有る」
「ハァ〜乳海撹拌でもやるって?そりゃ気の遠くなる話だ!馬鹿馬鹿しい!」
「クク…失敬。貴方の仲魔や交渉術を見るに、ヴィシュヌ等には縁が無かったかな?」
「……ま、まぁ霊水が駄目なら、こちとら薬も売ってるんでね!それこそ、爺共に掘られたケツの孔に効く軟膏とかぁ?…へへ」
せせら笑う相手の表情を見ても、憤る気分にすらならなかった。
ヤタガラスにこの手の侮辱を受ける事は、最早慣れきっている。
いい加減、こういった罵声で僕が怯まぬ事を学習すべきである。
「傷めた孔ならアレに舐めて貰っているのでね、お気遣い無用」
「は…?アレってのぁ」
くい、と顎で示してやった。酒の刺激に眉を顰めているであろう人修羅の方向を。
すると案の定、ガマは怒りに頬をヒクヒクと痙攣させた。
痙攣するガマだなんて、道中に撃った蟇蛙の様では無いか。
「こっ…こぉの淫売が!ヒトが下手に出りゃあ舐めやがってェ……十四代目継いだってな、あんましオイタしてっと降ろされるぞ」
「フフッ、舐めるのが好きなのは、果たして誰だったかな」
「……へ、へへっ…いいんだぞ紺野…おれはなぁ“十四代目の若造”に手玉に取られたつもりは無え。後ろ盾も無いお前がな…いつまでも其処に立って居られる訳が無ぇんだ」
「家の事を考える必要も無い、僕はこの上なく愉快だがね」
と、張りつめたガマの面が次第に緩み始めた。
カンカン帽の下で、下卑た笑みを浮かべ鼻息も荒く僕に問い掛ける。
「お前の事だから、今日品評される酒も本当は下調べしてあるんだろうなぁ?じゃなけりゃあ人修羅をおいそれと寄越さんだろ?」
「……何か混ぜたのか」
「アレッ、そういやぁおれ、受け取ったつくよみをこの辺に置き忘れた様な気がぁ…?もっしかしたら、あの品評酒ん中に間違えて並んでるかもねぇ?」
ゴウト同時がひと鳴きし、床を叩いていた尾を引っ込めた。
僕に踏まれそうになったからだ。
わらわらと集う悪魔達を掻い潜り、一番頼りないシルエットを見つけ足を速める。
此方に割って入る様に、黒装束が立ちはだかった。
「どうした十四代目」
「一寸失礼、自分の仲魔を少々預かりたい」
「おい少し待て、今最後の酒を含んだところ――」
「人修羅!蓮の香りの酒は飲み込むな!」
振り向いた彼の喉が、驚いた表情のまま嚥下に蠢く。
僕は黒装束を躱し、茫然とする人修羅の角を掴んだ。
「ひ、っ、げえっ…!げほッ!」
そのまま鳩尾に膝を入れたが、それとなく咽るのみで吐き出さない。
突如仲魔を蹴り始めた僕を、黒装束達が唖然として眺めていた。
きっと気違いだと思っているのだろう、いいや、それは元々思われている。
『ヒエェ、葛葉ライドウん十四代目、まーた仲魔ボコしてる…おっかねえぇ』
『そういえばあのお酒だけ飲んでないや』
『あんなの有ったっけカ?そういえばヒトシュラだけ全部試飲させられてたヨネ』
『ソレガ死因トナッタ…ナンツッテー!』
周囲の悪魔達の囁きも、遠のく波の様に消えて行った。
各々の管に戻されたのだろう。人修羅が目覚めた時に錯乱する可能性を危惧されたのかもしれない。
当の人修羅は、先程から変わらずぐったりとしている。僕の腕の中だというに、嫌な顔も…抵抗すら見せない。
普段からアルコホルを口に含んだだけで酔う様な奴だ。数種類も利き酒すれば意識が浮つく事は予測されたが…これは明らかに異常だった。
「う、うぅっ、ぐ」
「人修羅…人修羅。おい…功刀君」
立膝をつき、片腕で肢体を抱え込む。
人修羅は、呼ぼうが頬を叩こうが呻くばかり。
叩いた頬すら熱く、半魔の体温とは思えぬ感触だった。
僕は思わず、ヒリつく己の掌を見つめた。指の隙間から見上げてきた金色が、潤んでいる。
それはまるで幼子の様に頼りない、縋る様な……
『おいライドウ!此れは…錯覚か?人修羅の身体が…』
「……承知しております故、騒がれずとも結構」
傍らに来たゴウト童子が、翡翠の眼を見開いている。
周囲からの視線が、人修羅を貫いている事が判る。流れ弾の様に、僕も被弾しているから。
「あーあぁ、ここまで若返っちゃうのか。半分人間だからですかねえ〜十四代目?」
背後でぼそりと呟いたガマの声音に、僕の腕が戦慄いた。
人修羅の着衣を掴もうとした手が、一瞬帯刀した柄に伸びそうになる……が、留める。
ゆっくりと、もたつく着物と袴を手繰り…“二回りは小さくなった”人修羅を肩に担いだ。
「こ、これは……人修羅が小さく…?」
「十四代目、一体何が…酒の効能か?人修羅の都合なのか?」
問い詰め来る黒装束達への説明を、頭の中で練り上げた。
《つくよみ》という酒の話を何処までするのか、本来発表する予定は無かった事を云うのか、人修羅は元に戻るのか否か。
どの様に動けば、僕の首が絞まらずに人修羅を奪われぬか。
「うっ……ひっく…」
肩に不規則な振動が生まれ、ちらりと目をやれば。幼くなった人修羅がぐずって、僕の外套を湿らせていた。
すぐには戻せぬであろう事が計算され、僕は微かな溜息が出てしまった。
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