寝苦しい宵、幾度目かの寝返りを打ちつつ耳を澄ます。
感覚は既に半分程度、覚醒をしていた。
『如何されましたか?夜様』
タム・リンが月光を頼りに、窓辺で読書をしている。
悪魔なのでさほど光を要しない筈だが、無いよりは有った方が楽なのだろう。
僕はゆっくりと上体を起こし、前髪を脇に撫で付け耳に引っ掻けた。
「……聴こえんに」
『いっかがされましたか!よるさま!』
「違う馬鹿!お前の声じゃないわ、遅いのに大声出すな」
『おやこれは失礼を、して何が聴こえないのですか?』
「蟇蛙の声」
会話してしまった為か、すっかり頭が回転を始めていた。
夏も幕開けとなり早一ヵ月、あんなにも煩かった蛙達の声が、今宵はぱったりと止んでいる。
これ程とは思わなかったので、放置しようと思っていた件に出掛ける事にした。
『この様な夜更けにお散歩ですか』
「少し目が冴えてしまったわ……すぐ戻る」
『あっ、お待ちを!』
寝間着代わりにしている麻着物の裾から、ちらちらと見え隠れする湿布と包帯。
玄関口にタム・リンが差し出した履物を見て、そういえば片脚を怪我していたのだったな…と、他人事の様に思い出す。
『診療室で借りた下駄じゃあ、大きさが合っていなかったでしょう?ぱっかぱっかと、逆に踵を鳴らされておりましたもんねぇ』
「用意が早いな」
『あはは、まぁ私が作ったんですけどね』
その言葉に、両手を上げて喜ぶ僕な訳が無い。
揃えられた下駄は、一見普通だが……耐久の程はどうだろうか、出先で大破されても困るのだが。
鼻緒を見ると、何処かで見た紐の柄をしている。
薄蘇芳と中青の配色をした、植物柄だ。
『夜様の着られなくなった着物をですねえ、こう…よりよりと…紐にしまして。いやー我ながら粋ですね』
「おい、裏側から括り紐がはみ出てるに。もっと綺麗にすげてから自慢し」
『竜胆の重ね色ですよ、ん〜〜ちょっと夏の初めには早かったですかね』
「まぁいい、履いてから文句云うに」
突っ掛けてみると想像よりもしっくりくる履き心地で、更に悪態を吐こうと思っていた口が塞がれた心地だ。
黙って両足に下駄を纏い、着物を正す僕にうずうずとした声音で問い掛け来る悪魔。
『云わぬので?』
「……煩いな、他は特に問題無かったって事だで、それとも粗探しして欲しいのかお前!?」
『嫌ですねぇ夜様「いってきます」の挨拶ですよ〜云わないんですか〜?』
けらけらと笑いつつ、手にした書物を旗の様に振ってきた。
(そうされて挨拶を返す奴が何処に居るか)
護身用に短刀のみを携帯した。刃渡りからして心の臓には届かぬ物だ。
悪魔ならともかく、里の者に使えばすぐに知れ渡る。
各々に支給された物は、少しずつ刃の形状が違っている。刺せばすぐに判明するのだ、不用意に使えはしない。
(風は涼しい、だが空気は湿っている、纏わりつく暑さが有る……これだから夏は)
先刻、手旗代わりにされていたのは上司小剣の「小ひさき窓より」だった。
あの中の「夏の姿」という話を思い出す。
――樹も草も青々と皆葉を附けてゐる美しい大背景の前に
派手に清らかな装ひをした美しい人たちの立つのは、夏でならなければならぬ。
夏の青空は喉が灼けそうな錯覚を抱かせる、これは僕だけだろうか?
あの炎天下、綿帽子の雲の下に駆ける気が知れない。
うだる熱気の中だろうが、年がら年中この里で行われるは修練のみなのだから季節感も堪能出来たものでは無い。
兎に角、夏と相性が悪いのだ。
――アイスクリームを調へる家なぞも多いし、カフエエに入つて見ても夏は一體にサツパリとして四邊の空氣も輕い。
(アイス、食べてみたい)
そんな物、当然此処には無い。
塩で保たせた果物の皮だとか、大學芋とは名ばかりの砂糖を使い渋った物だとか、そんなのばかりだ。
(帝都に出れば、気軽に食べられるのけ)
何を考えているのだ、子供じみている馬鹿馬鹿しい。そんな事が目的で、ライドウになりたい訳では無い。
畦道を暫く歩き続けると、湿気に身体が慣れて今度は冷えてくる。
「あっ、フー!おこんばんは!」
「…こんばんはに“お”は要らぬよ」
「どうしたの!? フーってお散歩が趣味だっけ!? 」
「察しはついている癖に」
既に姿は遠目より確認していたので、唐突な呼び声にも驚く事は無かった。
僕を狐(フー)と呼ぶ候補生の一人で、酷いマザーコンプレックス持ちの狸(リー)だ。
思った通り、着物裾を土に汚しつつ穴を掘っている。
「馬鹿だね、あんな奴の云う事なぞ無視してしまえ」
「だってぇ……一応ガマってさ、薬とかも卸してるでしょ?ぼくの家と被るんだよねえ生業、下手に刺激出来ないよお」
「それで君は、あいつの気紛れに殺した蟇蛙の墓でも作るってのかい、とんだお人好しだね」
「夏だよ?ちょっと離れてはいるけどさあ、もう臭ってるし……嗅ぐ?」
「二つ前の橋から判ってたからいいよ」
「えぇ、そんな方まで?そっち風下だからかなあ、それともぼくの鼻が麻痺しちゃった?」
畑から拝借したのか、鍬でざりざりと湿った土を掘っているリー。
脇に避けてある袋の中には、確認せずとも蟇蛙の死体が大量に入っている事が判る。
「ガマってば酷いよねー!蝦蟇の油を採取する為に殺すならまだしもさー!」
「あいつは蛙から油を採ってる訳では無いよ。ガマの油売りの様な口上をするから、あの仇名がついたのだろう?」
「えっ、そうなの?知らなかったやあ」
「煩いからと殺していたろう、面白半分の殺生だ。商品ならばあそこまで粗雑には処分しない」
「踏んだりナイフで裂いたり、んもー好き放題だもんねえ。これって蛙さん達は浮かばれるのかなあ〜?怪しいね」
ガマと呼ばれるあの男も、候補生の一人だ…だが、有力株では無い。
当人も自覚が有るのか修練はほどほどにしており、既に人脈を作る事に専念している。
そして、評価の高い僕とリーを甚振って遊んでいる。
「あっ」
「いいから、そのくらいにしておき給えよ」
「もうちょっと深くした方が良いんじゃないの?野犬が掘り起こしちゃうよ。そしたらあっちこっちに蟇蛙の死体が…里の空気も濁っちゃう」
鍬を持つ腕を横から捕え、袖ごと引っ張り穴から離した。
訝しんでいるのだろうが、リーの顔は結局いつも通り安穏として見え、やはり僕は苛々する。
「死体片しておけって…ガマが云ってたじゃない。やっとかなきゃ……またしばかれちゃうよ」
そのリーの視線を追えば、僕の着物の裾……脚を見ていた。
この怪我は「自分で殺したんだ、死体も自分で始末しろよ」と、僕が云い返した結果だった。
ガマの持つ護身の短刀と、ぴたりと一致するであろう傷跡。
まるで鍵と鍵穴の様に、加虐と被虐は合致するのだ。
「このまま続けば、蟇蛙の次は僕達かもねえ?爬虫類も人間も、これだけ殺せば似た様な物……邪魔で煩いと思えば扱いは同じだろうよ」
「そんなぁ〜ぼくはともかく、親も後ろ盾も無いし生意気なフーなんて真っ先に殺されちゃうじゃない!まずいよお!」
「君の馬鹿正直な所も、充分に生意気と思うけどね」
それよりも、と、僕はリーの耳元に囁く。
「オオバコの葉を集めておいでよ」
「何それ、どゆこと?」
「オオバコの葉だよ、知らぬのかい」
「知ってるよお、でも何するの?オオバコ相撲?」
「どうして此処で君とそんな事しなきゃいけないんだ、もっと愉しい事だよ」
大量の蟇蛙の死体を、穴に放った。
その上からオオバコの葉で覆い、落とし穴を下手に隠した様な光景が出来上がった。
管が無くても使役出来るの?とリーは首を傾げていたが、僕は「物は試しだ」と呪文を続けた。
次第に、臭いが変わる……単なる死臭から、霊的な死臭とでも云うべきか……
腐乱の甘酸っぱいそれとは、また違う傾向の臭いに移り始めた。
「うわっ!」
リーが驚き、数歩後ずさる。オオバコの葉を頭にくっつけたままの蟇蛙が、穴から跳び出て来たからだ。
それも、次々と。身体の半分千切れたモノから、時間が経過して肥大化したモノまで。
青黒くテラテラと脂ぎった、蟇蛙の死霊。
群れをなして、飛び出た目玉でぎょろぎょろと僕等を見上げた。
「フ、フー…」
「リー!下手に眼を逸らすな!刷り込みさせるんだ……僕等が使役者…サマナーだと認識させるんだよ」
読み漁った叢書の通りだ。小さな生き物ではあるものの、本当に甦った。
「す、すごぉい…頭が吹っ飛んだ奴まで蘇生してるよ!」
「完全な蘇生では無いし、完全な使役ですら無い。路頭に迷う死霊にしてやれるのは、先導だけだ…だろう?」
僕は興奮し、嗾けた。
お前達を殺した男は、向こうの里に居るぞ、と――……
霊酒つくよみ・中編
「ライドウ、ねてたでしょ」
ふと瞼を開けば、小さな指が耳元で騒がしい。
僕のもみあげを撫で上げては、反応を窺う様に首を傾げている。
「寝てない」
「うそ、だってスウスウしてたもん」
「感覚だけは残して仮眠していた、それだけだ」
「ねえ、あんまりひといないね、でんしゃガラガラ」
車窓から景色を見れば、意識を飛ばしていたのはほんのひと時だ。
それにしては鮮明な夢を見た、久々に蟇蛙の話を掘り起こしたせいだろうか。
しかも今回はガマが絡んでいる、記憶が炙り出されても仕方の無い事だ。
「ねえねえ、なんでココこんなにとがってるの?しゃきーんてしてる」
「僕が意識的にそう生やしている訳では無い」
「いたっ!」
まさかと思いちらりと横目に見れば、もみあげから指を退けた人修羅が、えくぼを作って肩を弾ませた。
当然だが指先に傷は無い、あってたまるか。
「あのね、うそ!」
「分かってるよ」
「だってライドウもうそついたもん……」
「少し気を引き締め給え。あの紋様を出したら君、大変な事になるからね」
「はーい」
擬態をさせる事に手間取った、僕にはその能力が無いので説明のしようも無かったから。
とにかく、他人の居る場所では身体の紋を消せ、とだけ訴えた。
やり方などは、当人の感覚に任せる他は無い。
「紋様が有る限り電車はおあずけだ」と云えば……人修羅はぐずりつつも、するすると紋様を溶かしていった。
ある意味扱いは楽かもしれない、御褒美をちらつかせてやれば素直なものである。
「降りる、下駄を履き給え」
「まってまって、ライドウまってー」
床に揃え置いた下駄に、指先をするりと通す人修羅。
既に立ち上がった僕の後を、ぱこりぱかりと踵を鳴らしてついて来る。
車掌のパスで僕は改札を抜け、人修羅は子供切符をごそごそと取り出…………てくる様子が無い。
「ない」
「は?」
「おとしちゃった……」
これが普段の人修羅なら、嫌味のひとつでも飛ばせたろうに。
幼い体躯のこいつにそれをする事は…僕の、ある種の自尊心が赦さなかった。
ぐずる背中を押し、衣嚢から小人運賃分の小銭を出す。
『それらしい物は見なかったぞ』
「童子の視点からも見えぬとなれば、やはりあの場で捜す事は避けて正解でしたね」
『失せ物は捜そうとすれば見えぬでな、いつもの人修羅もやや抜けているが……童ならば尚更、管理を任せるべきでないだろう』
「あの短時間で紛失ですか、やれやれそういうのは果たして“躾”で如何にかなるものなのでしょかね?」
ゴウトと話す僕の顔色を、道中チラチラと窺う人修羅。どうやら反省はしているらしい。
そういった辺りは普段の彼よりも幾分、可愛気が有る。燻る苛立ちと妙な違和感も、やや払拭はされる。
あくまでも幼子の愛嬌であり、良い歳でそれをされた所で…微笑み返しに済ませてやる僕では無いが。
「あっ」
今度は何だろうか、周囲の気配を確認し人修羅を振り返った。
突然擬態を解除されようが対処は出来る、子供に踊らされる訳も無い。
「きっぷあったー!」
くるりと此方に背を剥け、靡く兵児帯をくいっと突き上げた。
やや前屈みになり足の踵を浮かせた人修羅の…下駄側に残るは小さな紙切れ。
『ほほう、これは見つかりもせん筈だなライドウ』
鼻で笑った童子が、踵と下駄に挟まれひしゃげたソレをすっと咥え取った。
踵が柔らかだったのか、それほど擦れてはいない様子だ。
「何故今更気付くんだい、踵に違和感は感じなかったのか」
「ごめんなさい……」
椅子から降り、下駄を履いた時点で気付けたろうに。
それほど鈍いのか?悪魔の感覚は鋭敏では無いのか?本当に君は愚鈍、愚図だ。
「……別に謝罪が欲しいのでは無いよ、次はしっかりと切符を握っていれば良い。解決策を考える事が反省だ……いいかい功刀君」
「そうする!」
潤んでいた眼が細まり、僕を見上げて微笑んでくる。
それに僕の汚い言葉はやり場を失わされ跳ね返り、この心臓を貫く思いだ。
幼児相手の苛立ちなのか、ガマにしてやられた憎しみか、僕の中が時化ている。
ゴウトに渡された切符を指先に携える、幼い踵に圧迫されたそれが湿気ている。
「履物屋に寄る」
「はきものや?だいがくいもは?」
「寝過ごしたから降り損ねた、三河屋は今回無しだ」
「やっぱりねてたんだライドウ!」
うくく、と肩を竦ませ笑う人修羅に、やや目許が引き攣った気がする。
折角下駄を新調してやろうというのに、出資元を煽って如何する。
歩く度にぱこりぱかりと煩いから、僕の耳に悪いから、そうするだけだ。
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