人間は、この世界の中(うち)で一番やさしいものだと聞いている。
そして可哀そうな者や頼りない者は決していじめたり、苦しめたりすることはないと聞いている。

一旦(いったん)手附けたなら、決して、それを捨てないとも聞いている。



妬け野原



高い天井に跳ね返る様な、陶器の断末魔が響いた。
はっ、として階段を駆け上がれば、砕け散った花鳥風月の破片が絨毯を彩っていた。
「何してるんだ…」
『ごっめーん!ちょっとホコリが気になる所あって、あっ、でもでも、コレ多分そんな高くないよヤシロ様』
値段では無い、一点モノの可能性を俺は云っているのだ。
それなのにこのモー・ショボーときたら、反省よりも叱咤される事に眼を輝かせているではないか。
塵を入れた袋に入れるにもいかず、仕方無いので腰帯の下を探った。
アンコ代わりに詰めてあった手拭いを広げて、破片をその上に集める。
『わぁ、綺麗な柄!牡丹かなあ』
真上に飛んできたモー・ショボーが、呑気に手拭いに関心を示し始める。
「違う、輪違いと福寿草」
『花弁が濃い色してるから牡丹かと思ったのにい』
「ライドウが止血に使ったんだ、あの野郎…血は洗濯じゃ落ちないってのに」
『でもヤシロ様もゴミ包んでるよ?』
「君が今ゴミにしたんだろ、他人事みたく云うなよ」
多少粗雑に扱っても、指の腹が僅かに赤く痕を残すだけだ。
勿論、薄皮を傷付けた程度なら、擬態していようとも瞬く間に治癒する。
包み終えると、四隅を掴んで交差させて結ぶ。携えたまま立ち上がれば、中から静かな波の音がした。
「掃除しに来たのに、いつもこうやって増やすのか」
『でもツボのひとつくらい、ライドウのお給料で何とかなるでしょー?」
「叱られないのか?」
『此処のじゃあくフロストのせいにすれば万事解決、ってね!』
えへっ、と頬に手袋の両手を添えてにっこり笑うモー・ショボー。
呆れて溜息を吐くと、更にニコニコする。性質が悪い、おまけに子供の姿なのが拍車をかける。
アリスといいこの悪魔といい、童女姿の悪魔は俺を玩具にしたがる。
「もう余計な事はしなくて良い、上の廊下も俺が掃除するから…」
『ええーっ、ヤシロ様ザン系使えないでしょ?まっさか箒と塵取りで頑張ってた訳ぇ?』
「悪かったな、人間の掃除方法で」
『えええーっ、いじらしいーっ!』
「煩い…」
うんざりしながらも、下階に置き去りの掃除道具を取りに階段へと向かう。
先回りしたモー・ショボーは、ロビーの中央で旋回して俺を待つ。
「フラフラしないでくれ!シャンデリアが落ちてきたら困るんだ」
『流石にコレはじゃあくフロストのせいに出来ないわね、ちょっと高過ぎ』
「だから値段の問題じゃないだろ」
『ううん、位置よイチ!この高さじゃショボーがやったってモロバレでしょ?ライドウ鋭いもーん』
無視して箒の柄を掴む、と、はらはらと何かが舞い降りてくる。屋内、しかも真冬でも無いのに。
その汚い雪に、思わず咽る。
「っ、おい……折角一階、掃除済んだのに、何揺らしてんだ、っ、げふぉっ」
『だってえ、こーゆう所に長年の汚れが蓄積するんでしょ?シャンデリアぶらんこしてるのよ』
「揺らし過ぎだ!」
まさか其処まで要求されないだろうと、シャンデリア上は放置していた。
しかし、組まされた悪魔の手順や掃除方法を知らないせいで酷く手間取る。
ザンで廊下を洗っていては備品を落としても仕方無い話だ、馬鹿じゃないのか。
「ライドウはどういう躾してるんだ」
絨毯が吸い込む前に、積もる埃をさりさりと箒で掃いた。
そもそも、何故俺がこんな屋敷の掃除をしなければ…いや、云い出せばキリが無い。
ギイ、ギイ、と不安な音で揺れるシャンデリアの影を、臙脂色の地面に確認する。
『ショボーはヤシロ様とお掃除楽しいよっ』
「俺は楽しくない」
『ねえねえー地下はもう掃除した?』
「地下…?」
『あれれ、知らないのーヤシロ様っ!?ショボーが教えてあげようかあ?』
「掃除箇所が増えるだけなら、遠慮する」
『えっとねえ、こっちこっち!』
ブランコに飽きたのか、ぱたぱたと俺の頭上を通過していく悪魔。軽く触れていく風が、髪を戦いだ。
否応無しに先導されるので、一旦道具を端に置く。
扉を開いて床板の廊下に出れば、陽の光が無い。使用人が主に居座る空間だろうか…かなり質素な作りだ。
狭い通路なので、モー・ショボーの羽先が頭に掠って煙たい。
「意外と続くな…こっちは明日に回した方が良いかもしれない」
『実は実はぁ、まだ奥が在るのよヤシロ様っ』
とある一室に入ると、暗がりの中に更なる暗がり。
明らかに岩肌と思われる面が見えている、流石にこれ以上は眼が利かないと思う。
本棚の傍で立ち止まる俺に、急かすモー・ショボー。
『ショボーがロウソク探してきてあげよっか?』
「こんな所まで…掃除も何も、洞窟じゃないのかこれ。勝手に入って良いのか?」
『いいのよぉ!だってこの屋敷の留守を任されてるのはライドウだもん!』
「あいつには「屋敷を清掃しろ」としか云われてない」
『偵察開始っ!』
聞く耳持たず、部屋から颯爽と出て行った悪魔。
このまま放置して帰ってしまおうか思案し始めた瞬間に、舞い戻って来る。
『有ったよヤシロ様あ!』
「こういう時ばっかり早いな」
『今舌打ちしたでしょ』
差し出された燭台には、長い蝋燭が差されている。あのメノラーよりも簡素な造形で、肌に吸い付く感触も無い。
何の変哲も無いその蝋燭の先、ふっ、と吹き掛けた。
焔の吐息に点る灯が、ゆらゆらと独特の揺らめきで影絵を踊らせる。
『わあ、よく見えなかったけどここの本棚、絵本も有ったんだあ』
「おい、もう行くぞ。屋敷の物勝手に弄るなよ」
『赤い蝋燭と人魚が有るー!』
勝手にはしゃぐ悪魔を置き去りにして、奥へと進む。風と水を感じる…これは外に通じている空気だ。
肝試しじみていたが、ボルテクスで随分慣れた。イケブクロ坑道の暗闇よりは遥かにマシ。
小さな悪魔が見え隠れしたが、気にする程の種類じゃない。下手すれば一般家庭に潜む程度の奴等。
『待ってちょうだいよお矢代様ぁ!』
甲高い声が接近して来ると、俺の隣に並んだ。そのはためきで蝋燭の灯が扇がれる。
「消すなよ」
『また点ければいいのよ』
「俺の魔力を消耗させないでくれ」
『あー!ショボーね!ここら辺でライドウと出逢ったのよっ!』
誰もそんな事訊いてない、と返すつもりだったが…少し意外だった。
何かの事情で使役している程度と思ったが、こんな場所で遭遇していたとは…スカウトなのだろうか?
『あー信じてない、そのカオ』
「悪魔の話は半分で聞いてる、元々信用していない」
『まだ十四代目になって間もない頃のライドウでねっ、ねえねえ聞きたい?』
「別に」
『ぶー』
足を運びながら、脳内は若いライドウの想像を無意識にしていた。
まだ青二才だったから、モー・ショボー程度しか交渉出来なかったのか?
『このお屋敷でラブロマンスがあったのよ』
「勝手に云ってろ、ライドウの君に対する扱いは知ってる」
『えー違う違うぅ、ショボーは追っかけしてるだ・け』
またこの悪魔が、自身の勝手な夢物語を唱えているだけと思ったのだが、どうやら無関係らしい。
『ここの令嬢とお、ライドウが』
「…令嬢?」
『ぉおっ、喰いついたぁ』
調子付くモー・ショボーが勝手に語り出す、俺は先を訊こうとなんかしていないのに。
『ちょっと“色々”有ってね!ここの御令嬢の恩人なのよライドウは』
そのイントネーションの違いが、きっとウキなのだ。
水面下の魚を狙う眼をしている、この凶鳥。
『綺麗な人だったよお』
「俺はこの屋敷にどんな人間が住んでいたかなんて知らない」
『海老茶のセーラー服の、ひるがえるプリーツがあ』
「…女学生かよ」
『でもでも、刀でドンパチした時はショボー達仲魔一同もヒヤヒヤしたのよっ?意外とライドウと渡り合ってた』
「は…刀?」
『最後には、ライドウにこのお屋敷を託して去って行ったのよ……ううっ、吊り橋現象な気もするけど、ロマンスよっ』
絶対脚色が有るだろうと構えつつも、女学生という事は間違い無さそうだ。
海老茶のセーラーは町中でもよく眼にする、確か桜爛女学院だったか。
「あいつは帝都護る一環として、その人と関わってたんだろ。別にロマンスも糞も無い」
『あーヤシロ様怒ってるう』
「怒ってない!」
叫ぶと、想像以上に響き渡った。遠くで漂っていたライジュウがバチバチと音を立てて遠くに逃げていく。
雄叫びのつもりは皆無だったのだが、もしかすると発散されていたかもしれない。
何処か気まずくて、キシシと笑うモー・ショボーの顔を出来るだけ見ない様に歩みを速めた。
『持ってたロウソクの火がすっごい揺れたよ!動揺よドウヨウ!』
ウソ発見器かよ。そりゃ騒がしい悪魔のせいで気分が昂ぶれば、火だって圧するに決まっている。
冷たい洞内と裏腹に、内心カッカとしていた。
今回此処に来ている理由は、清掃だ。別の依頼調査に赴いているライドウから云いつけられた用事。
定期的にこの屋敷を清掃している事を、先日初めて聞いた。
働かざる者食うべからずという言葉くらい知っている、でも、俺が食うのは…
(主に、あの野郎のMAGだけど)
駄目だ、余計に苛々してしまった。せめて銀楼閣に居座る人間と、同じ釜の飯が食えていれば良かったものを。
使役下だと思い知らされる。本当に俺の場合、働かなくてはありつけないのだ。
「…もう、何の異常も無さそうだろ、帰って良いか」
吐き出す声が苦々しく響く、酸素が薄い訳じゃない。
『えーっ、ショボーもっと遊びたいよおヤシロ様ぁ!』
「遊びじゃないだろ、ライドウに云いつけられているのは清掃だ。そもそも普段通りに管の面子だけで来させれば良かったんだ」
『ええーやだよお!ツチグモのおじちゃん掃除に夢中になってお尻から糸出してるの気付かないんだもん!』
「ボケてるんじゃないのか、もっとマトモな面子選べよ、あの野郎…」
『でもでもお!糸で張ったトランポリンはロビーの吹き抜けじゃないと作れないの!』
「おい、確信犯」
じゃあくフロストのせいにしたり、ツチグモのせいにしたり、本当に狡い悪魔だ。
しかし当人は至って平然とし、きゃっきゃと笑っては許しを得ている。
勿論、許してくれているのは冤罪の悪魔達であって、ライドウでは無いのだが。
『今回はおじちゃんがライドウの胸に居座ってるから、ヤシロ様が選ばれたのよ』
「へえ、俺は戦力外通知か…はたまた子守か…どちらにせよ、反吐が出る」
『お掃除ならマトモに出来るだろうって、ライドウの判断でしょ。テキザイテキショ!やっだーショボー難しい言葉使っちゃった!』
掃除なら、という箇所に引き攣りつつも、風の音が大きく唸りだすのを感じた。
外に通じる場所が近いらしい、蝋燭の火が大きく揺れている。
この地下の本来の様子も知らない俺だが、余計な手を入れる必要も感じなかった。
軽く振り返ると、モー・ショボーが俺に伴って空に停滞する。
「帰る。ロビーの清掃道具と、君の割ったツボが入った手拭いを回収する」
『もう終わりなのぉ』
「この地下、清掃する様な場所が何処にも無いじゃないか。俺を余計に歩かせたかっただけだな?」
『だってだってえ、ヤシロ様と二人き・り・だもーん!隅々まで巡ったら、素敵なイベント発生するかもしれないでしょ!?』
ライドウがしょっちゅう「マセガキ」と詰っている気持ちが、少しだけ理解出来る。
このまま暗い空間に同席しては、適当な穴から嘴を挿されそうだ。
俺の脳髄を想い、涎を垂らしながら夢見る乙女のポーズを取るモー・ショボー。
残念ながら素敵なイベントなど起こり得ない。
俺には、悪魔への情が無い。吸わせる気も吸われる気も、無い。
『ああっ、待って待ってヤシロ様ぁ〜!』
踵を返して、来た路を戻る。風向きの関係で、方向は掴み易かった。
『待って待って〜!』
苛立ちから、モー・ショボーの声に引かれる事も無く足早になる俺。
接近を感じれば、更に強く踏み出す足。掃除の為に穿いた野袴が、掠れて鳴る。
『待って待ってえええ』
泣きが入りそうな童女の声に、心臓がじくじくする。子供の泣き声は神経を削ぐ…だから子供の形をした悪魔は苦手なんだ。
『ま゛っでええええええ!!!!』
「…っ、分かった!待つから静かにしてく――」
止まると同時に背後を振り返る、と…
闇に光る眼が、ずらずらと並んでいる。
『追って来るよおおおヤシロ様あああ!』
瞬時に数える事が出来なかったが、軽く十以上の眼の光が激しく蠢いている。
モー・ショボーが必死の形相で此方に向かって来る。その向こう側から威圧感を感じて、項がビリビリと痺れた。
明らかなのは、対象から殺意が発せられている事。
「退けろモー・ショボー!」
助けてやろう、ではなく。焼け死にたくなかったら退け、という意味で怒鳴る。
構える時間が惜しい、咄嗟に叫ぶ口のまま喉奥をひゅうっと鳴らす。
胎内から這い上がる灼熱が一気に洞内を照らすと、俺の焔を避けたモー・ショボーが足元に転がり込んで来た。
『びえええ羽ちょっと焦げたぁ!あーん』
ぐすぐすと俺の片脚に抱き着くソレを無視して、息継ぎをする。
てっきり発火するか炭化すると思っていた相手は、そのどちらでも無く蠢いている。
(火炎が効かない?)
そう思ったが、少し違う。やたらと霧が舞っている事に、違和感を覚えた。
『あっついよー、サウナみたい…』
へろへろと舌を出して、コートの裾をばたばたさせるモー・ショボー。
「油断しない方がいい、まだ始末出来てない」
『何かね、沢山眼が光ってたよね?大勢居るのかなあ』
首を傾げるモー・ショボーに、手元の燭台を押し付ける。
光源が少し離れるが、今は相手に集中したい。
『あっ』
傍でモー・ショボーが声を上げた瞬間、俺も身構える。
吹き荒ぶ冷気が、足元から肌を刺してくる。蝋燭に照らされる地に、白い風が吹き抜けるのを見た。
『ブフ系だ!まだ強くなるよヤシロ様!』
暗闇に浮かぶ複数の眼が、一斉に動きを止めた。一気に周囲の温度が落ちるのを感じる。
マグマ・アクシスの為に広げた手先から凍る。末端から冷えるのは摂理だし、脆い事も把握している。
一歩出遅れた事に舌打ちして、再び灼熱を吐いた。
先刻よりも酷い蒸気が渦巻き、身に纏う着物が肌にへばりつく。
向こうから来ているのはブフダインか、此方のファイアブレスが圧倒出来ない。
(くそ、長いんだよ)
もう息切れしそうで、自らの焔に軽く手先を通してから呼吸を戻す。
『わああヤシロ様!肺活量ダメじゃん!!それじゃ風船も膨らまないよ!』
慌てふためくモー・ショボーに、咽ながら吠えた。
「扇げ、っ」
はっ、とする凶鳥。まだ残る炎を羽ばたきで扇ぐ。
鞴になった翼が洞内を釜に変え、息を吹き返した焔が相手を覆った。
『あはっ、殺ったぁ!』
焦げた羽をぱたぱたとはしゃがせ、笑うモー・ショボー。
だが、燃え盛るその悪魔は重い足音を響かせ、まだにじり寄って来る。
その燻りで見えたのは、複数の首を持つ竜の様な影。面識は無かったが、一日本人として知っている。
「…ヤマタノオロチ…か?」
『がーん、なんでこんな所に居るのー!?』
再び首を擡げているのを見て、先刻炙って解れた指先を伸ばした。
マグマ・アクシスの準備は出来ているが、それよりも問題が有る。
構えの為に開く足元、びちゃびちゃと水音が響く。地下足袋の側面から、湿り気を帯び始めている。
この狭さ、先に蒸気でやられてしまう。此方は相手の様な強靭な表皮を持っていないのだ。
ライドウならば仲魔に銀氷の壁を張らせて、一瞬で片付く事なのだろうが…
「上に逃げる」
『ええっ!上って…お屋敷滅茶苦茶になっちゃうよお!』
「ロビーくらいの広さが無いと、何をするにせよ不利だ」
もっと奥に行けばそこそこ広い空間が在るのかもしれないが、ヤマタノオロチを通り越す事は難しい。
予測に反し、狭い通路続きのまま行き止まりだったなら、目も当てられない。
踵を返して駆け出すと、背中から冷気が追いかけて来る。
角の先端が氷点下に灼けつく、脳髄からギリギリと酷い頭痛の様な痛みが奔る。
『ヤシロ様ってばあ!待ってよお!』
燭台の光源が徐々に離れていくのを感じて、少しだけ駆ける速度を落とす。
咄嗟にモー・ショボーの首根っこを掴むと、脇に抱えて速度を上げた。
『きたあああラブロマンス!!』
「黙ってろ!」
悪魔は緊張感に欠ける奴が多い事は知っているが、ライドウの仲魔は特に酷い。
モー・ショボーの黄色い声に苛々しながら、物置部屋の光を捉える。
躍り出た室内、本棚を蹴倒して洞内への入り口を塞ぐ。
『わあっ、ダイタン!』
「貸せっ」
手袋の小さな手が掴んでいた燭台を、本棚の背に叩きつける。
引火した程度では遅いかと、指先から更に焔の滴を垂らした。
『でもこれだけじゃきっと破られちゃうよ』
「少し足止め出来れば良い」
轟々と燃える本棚のバリケードを一瞥して、廊下に出た。
床板をギシギシ鳴かせながら駆け抜ける途中、既にあの部屋からメキメキと破壊の音がしていた。
『廊下通れるのかなアイツ』
「壊して来るだろ…っ」
ロビーに出て、息を吐く。咄嗟に閉めた背後の扉が小刻みに振動を始める。
温度差による気圧で啼いているのだろうか、考えると同時に階段の手摺に飛び乗った。
俺が離れた瞬間に、先刻まで背にしていた扉が吹き飛んだ。
『さっむ』
今度はコートの裾を足ですぼめて、身震いするモー・ショボー。
ちらりと覗く床板だった筈の廊下は、銀世界になっている。一足早い冬の到来に、絨毯も白く化粧した。
『マガタマ替えないの?』
「替える必要は無い。火炎を弾いている様子も、無効化されている様子も無かった」
『そうじゃなくってえ――』
モー・ショボーの言葉をも飲み込む雄叫びが、シャンデリアを大きく振り子させた。
八重奏という事だろう、あの首の数では。
ぞわぞわと身の竦む感覚に、隣の悪魔と眼が合う。
『弱っちゃったよね、今ので防御』
「デクンダ出来ただろ君、ライドウが使わせてた」
『こっちの世界に戻ってきてから忘れちゃったあ』
「……」
通路を破壊しながら這いずり出て来るヤマタノオロチ。
其処へ目掛け、俺は階段から身を乗り出すと、牙を剥き出す勢いで咆哮を上げた。
八つの首が一瞬がくんと震えて、それから俺を睨む。これで魔法以外の問題は軽減された。
着物袖を捲り上げ、黒い斑紋を晒す。焔の袖が新しくたなびいて、俺の周囲を熱くさせる。
「今ので並んだ。殴り合いで一方的に殺られる可能性は減った筈」
『ビックリしたあ!でもヤシロ様の雄叫びなら、鼓膜の処女あ・げ・ちゃ・う』
「女の子がそんな単語使うな!」
ちゅ、と投げキッスのモーションをするモー・ショボー。ライドウの躾の足りなさに呆れて、こっちの頬まで熱くなった。
『わーい!ヤシロ様がショボーの事オンナノコだってえ!』
「邪魔だけはしないでくれ」
また首根っこを掴むと、軽く二階の廊下に投げ放つ。
羽ばたきクルリと受け身を取ったモー・ショボーを視界の端に捉えつつ、すぐ傍まで来ていた吹雪を焔で弾いた。
ブレスでない打ち合いなら、まだ続けられる。それでも、もう一押しの火力が欲しい。
『がんばれヤシロ様ぁ』
凍傷に固まっていた背中が、じわりと温くなる。恐らくモー・ショボーのディアだ。
それでも悪魔、しかも自分の仲魔ですらないんだ、礼を述べる必要は無い。
俺は攻撃に専念すれば良い。
『アイツ、首が…じわじわ再生してる!』
モー・ショボーの声に、あの八つ首を一気に弱らせないと無理なのだと悟る。
吹雪を押し退けて辿りつく焔では、潰せてもせいぜい半分。
もう残りを始末しようとやり合っている最中に、焼け爛れた首がじゅくじゅくと再生するのが見える。
『キリ無いよお。どうしよヤシロ様、逃げちゃおっか?』
「だって、掃除しろって云われてたろ」
『んーと、お屋敷がこのままだとぉ…』
「あの悪魔放置したら帝都が危ないだろ」
口早に返し、タイミングを見計らって手摺を踏み台に跳んだ。
目測に視線を配して、モー・ショボーに命じる。
「打ち上げろ!」
失速する前に、モーショボーのMAG混じりの風が俺の身体を浮上させた。
この空間で一番高い位置にぶら下がり、脚を振って反動で上に乗る。
シャンデリアの隙間から、此方を睨み上げてくる十六の眼。
野良が住み着いたのか…此処の守り神なんて事は無いだろう、それなら流石にモー・ショボーが云う筈。
どちらにせよ、攻撃を仕掛けてきたんだ。応戦して何が悪い、相手は悪魔だ。
ぐるりと手で己を囲む様に円を描き、シャンデリアに灯を点す。ライトでは無い、本当の火だ。
下からの氷の渦は、燃え盛るシャンデリアを大きく揺らすだけ。
まだ壊れないでくれ、ほんの少しで良い。
「っ、げえ…ッ」
イヨマンテを吐き出し、ゲヘナを掌に呼ぶ。
舌を差し出して、それを包む様に呑み込む、すぐ胎の奥からぞわぞわと駆け抜けてくる、焔の脈動。
マガタマが指先の血管のひとつひとつを支配する感覚に、舌先まで熱く痺れる。
燃したくて堪らない指先が痙攣するのを、もう片手で抑え込む。
「潰れろ」
ブチリ、とシャンデリアの鎖を引き千切る。
「この、でかいゴミッ!」
落下する足場を更に燃して、真下に居るヤマタノオロチ目掛けてぶつかる。
半分熔解している鉄輪が、首を雁字搦めに捕える。足場は焔の海だったが、ゲヘナを呑んでいる俺にはソーマ風呂の様に感じる。
肩口に噛み付いてくる首、血が噴き出して頬を濡らす。その自らの返り血にさえ、マグマの様な錯覚を抱く。
噛まれた腕を、そのまま厭わず喉奥まで突っ込んでやる。
ばぐっ、と爆ぜる音と同時に、肉塊が飛び散った。それでもひとつの首だけだ。
もっと奥から燃やせると思ったのに、と思ってその根本を見れば、焼け付く痕が無い。
『ヤッテクレタナ、小童ガ』
泥の様な体液に塗れた牙で、ぎゃあぎゃあと叫ぶ首。あれは、ヤマタノオロチの体液だ…
恐らく焔が駆け抜けて本体に流れ込む前に、入口となる首を刈り取ったのだ。
『此処ニ乙女ガ居ルト聞イテ、来テミレバ蛻ノ殻』
『マァ良イワ、オ前ノMAGノ薫リノ、何ト芳醇ナ事!』
鱗がべろりと剥がれて、生肌が露出している首達。かなり体力が削れているのは、見目でも判る。
しかし、ギチギチとシャンデリアの輪に絡まる首は、動きを制限されてはいるものの俺の手足に喰らいつく。
「っ、ぐ…あぁッ」
四肢の肉をまばらに持って行かれる、ビリビリという音が着物なのか肉体細胞なのか、どちらが引き裂かれる音なのか判断出来ない。
それでも悲鳴を上げる事は極力抑える、相手を調子付かせるから。
『喰エル箇所ハ少ナイナ』
『ソレニシテモ、熱イ、灼熱地獄ダ』
ニヤつく複数の眼に、逆に煽られる。弱点で無い事なんか知っている、それでも燃やし尽くしてやる。
どうせこの位置からは動けないのだ、俺と一緒に火達磨になれ。
『コ、コイツ』
『早ク喰イ殺セ!』
『氷デ固メテシマエ!』
いよいよ喚きだす首の幾つかが、俺の焔の隙間を狙って噛み付いてくる。
それを払い除ける様に、緩んだ腰紐に手を掛ける。
着物が燃えても、俺は焦げない。寧ろ胎のマガタマが歓喜して、身体の治癒を促す。
『噛ミ砕イテヤルワ』
ぬ、と眼の前に躍り出た首が、俺の頭を呑み込む様に口を開く。
その歯が噛みあう前に、此方から思い切り頭を突っ込んで、焔を吐き出した。
びくびくと震えるヤマタノオロチ、足場の揺れとなって頭蓋を上下から揺さぶる。
「っ、げほっ、げえぇっ」
反射でがぱりと再び開く口から、悪魔の唾液に塗れた自らの頭をずるりと引っこ抜く。
異様な臭いに、堪らず血混じりの唾を吐いた。
『乙女デモ無イ上ニ、ココマデ無礼トハ!』
「乙女乙女、さっきから煩い…そんなに評判だったのかよ…っ」
怒鳴り返して、残りの首に拳を撃ち込む。
殴った相手の肉が、ぐずりと崩れる。こいつの先は永くないと指先が感じ取り、無意識にほくそ笑む唇。
そう、掃除だろう、これは。
凄く、熱気で大気が揺らいでいる、焦げる臭いが鼻を衝く、燃える屋敷、解っている筈なのに。
マガタマを替える時間があったのなら、他の属性だって放てるのに。
『大道寺ノ家ノ女ハ何処ダ!?』
煩い、サラウンドで囲んで問うな。
『サテハ、匿ッテイルナ?』
『モシクハ帝都ノサマナーカ?アノ噂ノ十四代目ト逃ゲタノカ!?』
かあっ、と眼の奥が熱を孕む。
顔も見た事の無い海老茶のセーラー服、あの非道サマナーと互角にやり合うなんて、きっとロクな人間じゃない。
その女学生を、戦いの後には手を差し伸べ導く。そんな有り得ないライドウの姿が脳裏に浮かんで、瞬時に消えた。
「揃いも揃って、女の趣味悪いんだよ!」
殴る、相手の肉と一緒くたに此方の拳も崩れた。
焔の治癒はディアのそれと違い、遅いのだ。そのままごりゅごりゅと剥き出しの骨で、引っ掻く様に薙いだ。
殺り切れなかったその首の、眼を狙って突き刺す。嘶きの様な悲鳴を上げる首。
『愚カ者オォオオッ』
「見る目無いなら要らないだろ!こんな目玉ァ!」
突き出た骨は鋭利な凶器になり、眼を刳り貫いた。ジャガイモの芽の様に容易かった、大差無い。
組織が繋がりつつもぼろんと零れたそれを、掌に包んで握り潰す。
陽炎うねる中、俺を睨む眼の光。それ等をひとつひとつ消してやる事だけに集中しなければ、掃除しなければ。
そう、掃除…

「もう出来上がっているのかい、早いね」

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