孤独しか無かったこの世界に、ようやく安息がもたらされた。
ゆっくりと、陽の光が翳ってくる。
里に山の陰が、落ちてくる。
俺を覆う闇が、酷く心地好い。
戻れない、けれど、それは孤独から永遠に俺を護る。
帳下りて社に夜
薄い月の光。天井の梁がぼんやりと視界を横断している。何処なのか、ようやく脳内が認識を始めて、俺は上半身を起こす。
「ぃっ…痛…」
首の後ろに掌を当てた。意識を飛ばした原因は、どうやら項をバッサリやられたのが原因らしい。まだ治りきらないのか、痛みに首を捻り、その流れで隣に眼が向く。
少し乱れた布団。ずれた枕。誰かが其処に居たという証拠が、俺の脳内に警告の電気を流す。
(今夜は居る…あの男)
なら、何処だ?今、何処に居る?ちら、と周囲を確認する。金色の眼が、きっと闇にぽっかりと浮かんでいると思う。
何かの隙間から、月光とは違う光が漏れている。揺れるその光源に、人工的なものを感じ…ゆっくり、這って近付き、襖を指で滑らせた。
息を潜ませる事に意味はあるのか。きっと俺の気配なんか、既に奴は察知している。
灯篭が揺らめく傍、ライドウが机に向かっていた。寝着の浴衣に、防寒として外套を羽織っている。あの姿勢、書き物をしている…
(平然としやがって、俺の気も知らずに)
とっとと、お前の使役するシトリで俺を戻せよ。こんな下らない夫婦漫才、誰も笑いやしない。誰も祝福…しないのだから。
俺は立ち上がり、その背中に向かって冷たい畳を歩いて往く。襦袢一枚の肌が、この部屋の底冷えした空気に震える。
「おい」
俺をさっさと戻しやがれ。
「あんたさ…」
振り返らずに、黙って聞いているライドウ。俺は、問い詰める。
「その話…死んだら、続きは誰が書くんだよ」
何を聞いているんだ、俺。
ライドウの腕の下、見える原稿は依頼の報告書では無い。執筆の停滞した悪魔草子。
「あんたが死んだら、その話の狐の化身も、死ぬのか」
どうしてそんな問いが、唇を割って、込み上げる。
「娶られた修羅はどうすんだよ」
今聞くべき事は、そんな事じゃないだろ…!
「…堕天使やらなんやら、まだまだ伏線を回収していないのでね」
呟いたライドウが、指先を動かす。管を操る様に、万年筆が躍った。
「未だ、逝く訳にはいかぬ」
云い切ったが、次の瞬間にはその筆先が啼いた。用紙を引っ掻くその行為に、悲鳴みたく音が上がる。それに俺は竦みあがって、問いを呑み込んだ。
「…ねえ、功刀君……殺し合えば、続きが書けるかい?」
意味を持たない筆跡が、絡まりあって、墨が穴を開けていく。
「どこまで君を使ってやろうか、君をどうしてくれようか」
酷くはっきりと、宵闇を縫って俺に投げかけられる声音。
「都合良く娶った君の処遇など、僕が皇となってから考えれば良いと思っていた」
「…だ、ろうな……はッ…」
以前から、そう云っていたではないか。ライドウの非道な物言いは、俺の失笑しか生み出さない。
「君が僕に刃向かうのなら、ただ斬り捨てれば良いと」
黒くなった原稿用紙を、ぐしゃりと掴む音がする。
「だが!僕は人間だ!!」
びくりとして、俺は笑いを止めた。ライドウの張られた声は、俺の心を畏怖させる。
この男が声を荒げるなんて、何の前触れだ。
「狐と云われようが…所詮人間…先日あの雌烏の云った通りに、ね」
立ち上がったライドウの、掌から黒い紙屑が落ちていく。黒い外套も、その足下に。
烏の羽の様に、散華の様に、ライドウの足下に。
「中途半端に妖なら…いっそ本当に狐の化身であれば、全て都合良くあったものを」
振り返り、俺を見つめるその闇色の眼も、口元の哂いもいつもと同じだ。
「君と殺し合う前に!脆弱な肉体の僕は…死に絶えるのだよ!!」
どこかが、違う。
「っ…ぐ」
「功刀君!解っているのか!?君が忘れているやもしれぬ、衰えや傷痕…」
衿元に掴みかかられ、咄嗟に出た脚は乱取りみたく組みかわされて。
「僕にはそれ等が普通に有る!」
受け流される俺の力は、ライドウの身体で分散していく。
「人に非ず、その身体を以ってして、人の世に生きるなぞ、失笑ものだ…」
間近に射られる、その深い眼の暗闇が…俺を蝕む。
「く…ッ……だ、から…っ!俺は、人間の身体に…っ」
俺の言い分は、止まった。頬を横から叩かれた、静かな宵に、小気味良く響いた。
「何年かけて?」
「…」
「何年かけて、それを成就させるのだ?」
「ぁ…」
「堕天使を今貶(おとし)めずして、どうする?僕が君の道に絡めるのは、あと数年だが?」
俺は、何を恐れていたのか、ようやく気付いた。独りでは、きっと挫ける。
最後に倒すべき対象が、眼の前で哂う。
「お、れひとりでも、殺れる…っ…やれる…」
自分に云い聞かせる様にして発声される声音は、あまりにも弱い。
「あんたが途中でリタイアしたってな!俺だけでも…」
そこまで云って、もう、あまりに虚勢が過ぎて…だらり、と、身体が脱力した。
「独りになったって…」
そう、独りだろう、きっと。もし…もし俺がルシファーを倒せたとしても…この男の様に、上手く段取り出来る筈も無い。強い意志を持って仲魔を駆れない。指揮も取れない。長い戦いの末、孤軍奮闘した先に待っているのは…知る人間が誰も存在しない…そんな世界……
「独りに……」
どうしてしまったんだ、俺は。
とりあえず、男に戻してもらえ、そこから考えろ。何故女々しく泣くんだ、本当に…どうして、どうしてこんな弱い…弱いんだ、俺は。
打たれた頬が、ジンとした。それに触発された熱が、拳に力を与える。
「あんたの所為だろッ…ライドウッ!」
襦袢の袖が翻る、灯篭に照らされて鮮やかに舞った。久々に、肉を穿つ感触。
ライドウの頬に思い切り殴りつけた俺は、泣きながら…笑っていた。
「あんたがさ…俺を…ボルテクスで拾ったりしたからっ」
横に項垂れ、視線だけを俺に寄越すライドウ。乱れた前髪が睫をかすめて影を落としている。
「使役悪魔なのにっ、滅茶苦茶な理由こじつけて弄びやがってっ!」
その衿を掴む、叫びながら、もう一発、手の甲で逆から薙ぎ叩く。反対に向いたライドウを、そのまま恫喝する俺。
「半殺しにしといて!ギリギリで生かして!」
衿を捻る、そのまま畳に遠慮無しで叩き伏せた。
「俺を嬲るくせに!そのくせ俺を狙う奴は八つ裂きにする残虐サマナーで!」
その身体に馬乗りになって、どこか遠い視線のライドウに、吼えた。
「終いには娶っておきながら置き去りかよ!戦線離脱かよ!?おい!!」
揺さ振る、返事が、今すぐ、欲しくて。
「今更こんな化け物……お前以外に…誰が構ってくれるんだよぉ……っ」
最後には、殺し合う。そんな事、互いに知っている。ならどうして、こんなにまでふざけあったのだろう。
どうして身体を重ねたのだろう。どうして婚姻の契りを交わしたのだろう。
「…何につけても…理由は、有ったさ…」
俺の下で、ライドウが呟く。反撃すらしないで、言葉だけで返事してくる。
「全て…僕の手駒だと、人修羅…お前の力を掌握すれば、手懐ければ…とね」
「……」
「急くのは、人間の己が身の為だった…葛葉といえども、ガタがきている」
薄っすら哂って、畳に放られた指先を曲げたライドウ。
「この身、動く内に…召喚(しょうかん)皇(おう)に成らんと…」
ゆっくり持ち上げられていく指先の行方は、見たくない。
「しかし…どうした事だろうかね…」
微かに、頬に触れる、指先。
「カァカァ煩い烏を黙らせる為に、君を娶った訳だが………」
俺の涙を拭っていった。
「使役して、傍で戦わせていた頃よりも……何故か…君が近い」
もう、この身体から、この男から退くべきだ、離れるべきだ。これ以上知って、どうする、どうなってしまうんだ、俺は。
「ねえ、矢代…君が他に殺される位なら、僕に殺させてよ…!」
「はっ、ぁ、ぐ…ッ!」
視界が流れ、背中と角が畳を打つ。歯を食い縛って見上げれば、哂うライドウ。
「可笑しかろう?君なんざ駒だと、愛玩動物だと、玩具だと思っていたのに」
俺に跨って、襦袢の肌理でも確かめるかの様に指を滑らせていく。
「手元から離れた途端、苛々して、張り裂けそうになって!!」
合わせが開かれて、外気に胸が晒された。両腕を振るおうとすれば、直ぐにライドウに手首を掴まれる。口だけでもと開いたが、俺は言葉も発せずに…見つめた。
「この焦燥感は何なのだ!?得体の知れぬこの…震えは…っ…」
「ぅ…ぁ、あ」
「フ、フフッ…矢代……馬鹿な奴と…いつもいつも、そう思って見ていたよ」
俺の胸の膨らみに、そっと頬を寄せたライドウ、吐息と囁く。
「孤独を埋めて欲しくて…常に浅ましく、いじらしく求めている、その姿」
「…っ!うるさ」
「僕を見ている様で、眼が離せなかった」
何、云っているんだ、この男。何を…何を…
「歩む道が血塗りだろうが…覇道だろうが…傷を舐め合う心地好さが…その甘美さが、僕に呼びかけるのだよ」
胸から頬を遠ざけて、耳元で、悪魔の囁き。
「墜ちるまで共に歩んでおくれ、人修羅…功刀矢代」
もう、脳内が真っ白になった。耳に、その後追従して、舌が這わされる。湿った音が鼓膜を直撃して、否応無しに身体が跳ねた。
「ま、て、待てよ…おいっ」
「あの粛清、僕から申し出た…三本松に」
「え、っ?な」
「あんな奴等に揮う刀なぞ無いと思っていたのに、君の頭を覗き視た瞬間、全て赤く塗り潰してやりたくなった」
「ちょっと待…っあ、あっ」
頭に回された手で、項を剥き出しにさせられ、其処を舌で撫ぜられる。
「僕の人修羅を…他に玩具にされる程、腹立たしい事は無い」
「んあぅ!」
根元をちう、と吸われ、思わず息が上がる。
「抜け殻とはいえ、この胎に僕以外の種が発芽する事実が、赦せない」
裾が膝で割られ、帯が弛んだ。
「ねえ、君の胎にさぁ…」
するりと解かれていく帯、止める事の出来ない奔流に揉まれている俺。どうして、憎いサマナーが…葛葉ライドウが、またもや俺を抱いている?
「僕を注がせておくれよ…ク、ククククッ…ねぇ…ねぇねえ!!」
ぐ、っと脚が開かされる。咄嗟に閉じようとしたが、更に折りこまれて、頭の傍に接地させられる。下着の白布が丸見えで、羞恥に震えが奔る。
「あんた…っ、抜け殻を生むだけだって云ってたじゃないか!!」
混乱しつつも糾弾すれば、下を寛げたライドウが哂った。
「駄目なのかい?」
「は…っ?」
「君に僕を孕ませたいのだよ」
何を云っているのか、理解したくもない。
「君の胎に僕の抜け殻が宿って、君を夜毎(よごと)汗ばませる…」
口の端が、吊り上がっていく。
「僕が内から圧迫して、止まる経血が悪阻(つわり)を引き起こさせ、君を嘔吐させる…」
ライドウの眼が、うっとりと、俺を見下ろす。股の間に、熱い何かがあてがわれた。
「君を内側からも支配出来れば、僕はずっと君の主人で居られる……ク、ククッ」
ああ、狂っている。
「ひっ…ぎ、ぃいぃいッ!!」
前戯も無しに突っ込まれたソレは、初夜のと違って滑らない。俺がそんな余裕も無い、そんなつもりも無い―……が、ただひとつ、解る事がある。
「はぁ、っは、っぁはははっ、好い…好いよ矢代っ、気持ち好い…!!」
ライドウが、俺を求めている。ただ、ひたすらに。先の野望や今のしがらみを捨て置いて。しなやかな獣の様に、純粋な子供の様に。
「ざ、け、んなッ、あ、あああああッ、あ」
渇いた涙の痕を、新しい涙で溶かす。喘ぐ口端から零れた唾液を、ライドウにちゅ、と啜られる。抉るライドウのアレが、俺の女性の坩堝を掻き回す。分離していた感情が、ぐじゅぐじゅと解されて、とろとろになる。
「あ、ははっ、ねえ、憎い?僕をまだ憎い?矢代!」
上擦った声で、はしゃぐ少年みたいに尋ねつつ、腰を打つライドウ。俺は中の壁を擦られ、その度に液が溢れる、声が溢れる。淫靡な臭いが鼻を衝く。
「ぁあっ、あっ、あぐッ、こ、殺、す…ッ…ん、んあっ、ああんっ」
嬌声に交えた憎しみに、ライドウは一瞬安堵した様な表情を浮かべた。
ああ、俺達、やっぱ、おかしい。
こんな関係も。憎しみが表面化していなければ認められない、歪みも。
だから、俺はあんたの手を取ったのか。だから、あんたは俺に手を差し伸べたのか。孤独な己を知っていたから。
イカレた頭のデビルサマナーと、意気地の無い人修羅の俺は、赦しあう必要の無い最高の伴侶だと本能で気付いたのか。
「ずっとっ、ずっとずっと…っ、誰の支配下かっ、思い知らせてやるよ…」
ぐずぐずと潮が垂れ落ちる俺の脚を掴んで、肩に乗せたライドウ。濡れ羽色の髪から、雫が滴る、いつも涼しげなこの男が発する、灼熱。
「ぅっ、あ、ああっぐ、ら、ライド…ッ、や」
肩からずり落ちない様に、腕で寄せられ、その指先は俺の両乳房を揉んでいる。
可笑しい、馬鹿だろ、俺、男、だったよな。どうして、こんなに。
「もっと聞かせておくれよ…その声!僕をもっと蔑み求め給え…!」
狂喜にたわんだその両眼に、苦悶だけでない表情の俺が映り込む。
「ぁ…」
波が遠のいていく感覚。ライドウが動きを止めて、ズルリと首まで抜いていく。
「は…っ…はぁ……っ…お、い…っ」
「ック…ククッ…ねぇ矢代っ……あの時の様に…っ…選ばせてあげよう…君に」
乱れた息のまま、ライドウが愉しげに俺に問う。
「僕の支配下に降るのならっ…名を紡ぎ給え…っ…」
ああ、あの時の、ボルテクスが、フラッシュバックしてくる。赤い世界で、ライドウに囁かれた、共犯の誘い。残酷な…蜘蛛の糸。掴む為の誓いの呪文。
「ぅ……ぅ、ぅううああっ、あああ」
肉欲なのか、孤独への拒絶なのか、何が俺を過ちへと導くのか。
「よ…る」
もう、脳内の熱が、伝わってくるMAGが俺を自白させるんだ。ライドウの汗の香りが身体を疼かせる。戦いの時と、淫靡な戯れの時の香り。
「夜ッ!欲し、い!…夜が欲しい…!」
呼吸困難の俺は、霞む視界の中、ライドウの首に腕を回していた。
ああ、どうしてだ?これは夢だと思う、きっとそうだ。でも、それに口を吊り上げて、俺を見つめてくるライドウの顔が鮮明で。これが夢なら、現実は何処に在る?
「フ、フフッ…僕、も…っ…半人半魔では…人修羅ではない…君が、今欲しいっ」
結合部から、ぐぷ、と音と愛液が溢れて響く。ずぶずぶと埋め込まれていく。
「あ、ぁああああ〜ッ!!」
先刻より俺が締まったのか、こいつのが大きく膨れたのか、もうどっちでも良い。
ああ、もう駄目だ。
「どちらかが果てるまで、一緒にいよう…矢代」
気持ちいい、気持ち良過ぎる…!!言葉も肉も!何もかもが!
「夜ぅッ!お、俺ッ…い、嫌っ…イヤだぁッ!イ、クッ、いくぅうううっ!」
爪先まで、電流が奔る、斑紋が脈動する。痙攣する俺の中、食い縛ったライドウが息を深く吐いて、中にも吐いた。膣の奥で、ライドウのを、喉を鳴らして呑んでいる。
男の、こいつの種を呑んでいる。最奥で。俺も男なのに、半分悪魔なのに、ライドウが憎いのに。
中から蝕んでいく、このデビルサマナーの熱に、充たされていた。
一瞬の熱量のMAGでは無い、この男の本物の種。仮初めの情ではない、紛う事なき…あの感情。それが歪んでいても、依存でも執着でも、嗜虐めいていても…
その区分は、等しくあの感情だ、と思った。恐らく、本質は聡明なライドウが未だに答えを出せない、あの……
それとも、孤独に狂った俺の思い違いだろうか。でも、ボルテクスから感じていた孤独は、確かに紺野夜と居て薄らいでいたんだ。
どんなに血を流しても…どんなにそれが不毛でも…
最期に待つのが、殺し合いでも。
薄い陽の光。天井の梁がぼんやりと視界を横断している。何処なのか、ようやく脳内が認識を始めて、俺は上半身を起こす。
「ぃっ…痛ぅ…」
腰が酷く重い。それに思い出させられ、頬を一瞬熱くした。
(くそ、どんな顔しときゃ良いんだ)
情けない。結局寂しさと欲に負けて、受け入れた俺が虚しい。おまけに、今になって思えば…この胎に、奴の鼓動が在るのだ。
(俺もあいつも最低だな…)
抜け殻しか生み落とさないと知っていながら、罪を犯した。そのまま種が身に生る、と云っていた。きっと、あの男そっくりそのままの赤子が出てくる。魂魄の無い、抜け殻として…
それを考えると、背徳感と、妙な快感が背筋を駆け昇った。孤独を埋めあう証が、胎に宿るのかと思うと…ライドウからの酷い執着に、憎いだけでない何かを感じて…
「く、く…はは…あははっ…ははっ……」
俺はいつの間にか、小さく笑っていた。なんだ、あの男、馬鹿じゃないのか?
俺を拾ってやった、とか抜かしておいて…実は俺に依存してるだろ?傑作じゃないか、それ。
そう、だ、そうだ、何を畏まるんだ。俺の主人であり、共犯者であり、敵なんだ。昨夜の言葉だって、俺を翻弄する為の冗談かもしれないし。何を警戒しているんだ…俺。まだまだ、ルシファーという難題が残っているし、共謀は大事だ。
(そうだ、それにさっさと男に戻れば身篭らないかもしれない)
脳内から陰徳の霞を払って、寝室から出る為に襖を開ける。まず開口一番「シトリを今すぐ召喚しろ」と云ってやる。ライドウが機嫌悪くしたら、奴の管ごと奪ってやれば…離さなかったなら、指ごと奪ってやれば…
「おい、ライド…」
机に射しこむ太陽の光。その空間には、誰も居ない。無音の空間。俺の呼吸だけが、鼓動の音だけが煩くなってくる。昨夜ライドウが座っていた場所に立つ。
万年筆と、原稿用紙。綺麗な字で、物語では無い文章が綴られている。
《急用入った為、暫く空ける》
《生み落とした仔は、決して烏に渡さぬ様》
《では、功刀ならびに仲魔諸君、然らば》
なんだ、これ。なあ…なんだよ、これ、夜(ライドウ)。
『矢代様!息を吐いて!』
パールヴァティの声が、自分の荒い呼吸に負けている。酷い痛みは、刀や銃の傷よりも、内部から俺を苛む。悪魔の身体でこんなに汗を滲ませた事なんか、今まで無かった。代謝の結露というよりも、これはマガツヒなのではないか…
『そうです、そのまま…』
胎から抜け落ちる感触。産声なんか無い。だって、抜け殻だから。
『ああ…ああ、確かに、面影が御座いますわ』
装束を立ち入らせる事なく、ライドウの仲魔のみで俺を囲んでいた。ライドウが消えた日からずっと、そうだった。
「……もう、済みました…?」
俺の声は、自覚出来る程に酷く素っ気無かった。
生み落としたソレを見ない様に、開いた下を気にしつつ起き上がる。赤く滑る其処を見て、うぐ、と吐き気すら込み上げた。本来、女性ならこういうのに強いのだろうけど…俺は男…なんだから、無理だ、こんな光景。
『ほら、矢代様、腕を』
赤く染まった身を、柔らかい白で包んだ女神。やんわりと、どこか寂しげな笑顔で俺にソレを寄越そうとする。俺は汗ばむ掌で押し返して、食い縛り過ぎて疲れた口を咄嗟に開いた。
「結構です…!どうせ生きてなんか無い、モノに過ぎない!」
『でも、御覧下さいな』
「本当にい―…」
顧みたパールヴァティの腕の中の、ソレと眼が合う。いや、瞼は開いていない、今後も開かないのだから当然だ。
「…ぅ」
鼓動が速くなる、脳裏を駆け巡る記憶が煩い。
『たとえ魂魄が無くとも、我々はこの御身の護身を命じられております』
女神の真摯な声音に、追い立てられるようにして受け取った。冷たい身体…
(……これが…あんたとの、証かよ)
きっと成長するのなら、あのふざけたデビルサマナーと瓜二つだろう。
それはそうだ、俺を媒体にしてはいるが、あいつの種が身を成しただけなんだし。
「………っ、んだよ…なんだよこの身体」
悪魔でも無く、人でも無く、女体のくせに命すら宿せない。震える俺は、試しに抱き締めてみた。熱を与えたら、産声が上がるかもしれないと、思った。
が…そんな稚拙な発想は、当たり前の様に跳ね除けられた。
『ライドウ様が帰るまで、大事に大事に致しましょう』
女神は俺からソレをふわりと抱き取り、他の悪魔と話を進めている。ヤタガラスを干渉させない為だ。ライドウの残した命を、残った悪魔が必死に護っている。
俺は、ヤタガラスという人間から…悪魔によって、護られている。酷い…事実…
(ああ、もう、なんだ、なんなんだよ俺は)
何故今生きているんだっけか?そういえば、人間に戻りたいからだった気がする。
何故戻りたい?元の生活に帰りたいから?あの堕天使に復讐したいから?
憎きデビルサマナーを、最後に討って…自由を勝ち取りたいから?
(自由?)
全ての先にあるのは…本当の俺なのか?俺を知る人は…其処に居るのか?
(俺を…今の俺の全てを知る人は……)
先刻、生み落としたモノの、父親だ。あの男しか…俺を、本当の俺を知らない。
「うっ…う…ぅぅううっ、ぅぁあああああああ」
ああ、もう早く帰ってきてくれ、狂いそうだ。早く、その刀で俺を虐めてくれ、いつもみたくムカツク哂いでさ。俺を道具みたく扱って、無理難題を押し付けて
それでいて、時折寂しい眼で昔話して、何故か逆切れして。無理矢理犯しながら、耳元で囁いてくれよ、俺の名前を。
「葛葉ライドウッ!俺を使役してんだろ!?早く帰れよ馬鹿野郎ぉおっ!!」
嗚咽混じりの俺の雄叫びは、ボルテクスの時みたく、誰にも聞き取られずに消えていった。
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