「産後だから緩いね」
「なら…挿れんな…っ…」
「折角君の為に里帰り出産させてやっているというに」
「あんたの…エゴだろ」
「この身体の君を味わえるのは、この期間だけだし?」
「変態野郎…っあ、あ」
「ほら、僕を生んだ時の様に、もっと力んでくれよ、フフ…」
頬が紅潮する。元彼と別れてから、既に渇ききった砂漠のタエちゃんにはキッツイわよ。おまけに、片方は聞き覚えのある声。眼を凝らすと、灯篭に揺れる影が二つ。
(うわ、やっぱり紺野さん)
妖艶な笑みで、はだけた着物から見える肌が白い。少し解けた前髪が、云い様の無い色香を漂わせている。つまり、相手は奥さんという事だろうか。
好奇心で、その組み敷かれる側を見た。
(…えっ?)
その相貌は、ともすれば少年の様で、更に私を驚愕させたのは…その肌を渡る、黒いラインだった。仄暗い中、深海生物みたく、幽(かす)かに光を脈動させて。その指先が、紺野の首を絞める様に、絡んだ。
「あ、っ…いい加減に、しろ…」
「くびり殺す?ククッ」
「はぁ、っ…ぁ…あ!奥に、やめっ」
「先刻まで身篭っていた肉体に抉られるって、どんな気分だい?」
「き……鬼畜っ…」
「魂とすぐに馴染んでくれるのは、君が僕を欲しがっているからか?フフ」
「ぁ、ぁあ!っ、ざ、けんなっ」
「男で身体を嬲られるのと、女で尊厳を嬲られるの、どちらが好き?」
「どっちも反吐が出るっう、あぁあ…ん」
「ああ、どちらも甘美?それは結構…フ、アハハッ」
絡めた指は、絞めている様な、求めている様な。零れた胸元を見れば膨らんでいた、つまりは紛う事無き女性である。彼女の、睨みつける金眼が眩しい。その視線の先、酷い物云いで嬲りつける紺野の瞳。それもまた、ゆらりと金に輝いていた。
(あ、悪…魔?)
悪魔の瞳というのは…猛き悪魔ほど、純粋な金色に輝くと草子で読んだ。では、組み敷かれるあの女性は…悪魔?確かに、あの身体の紋様…一瞬そういう民族を思い出したりもしたが…しかし、彼等の全身刺青の魔除けは発光しない。
(何か、思い当たるのが…)
考え込むと手元の携帯が怒る様に光った。
《早くしろ》
《此処まで介入したのだ 覚悟はあるのだろう?》
その、脅しに近い文体に冷や汗が出てきた。
《奴等に見つかればお前は殺されるかもしれないぞ?》
《さあ早く懲罰房の封を解け》
《すれば 中より放たれし主がお前を護ろう》
(何、つまりそれしか道は残ってないよ〜って云いたい訳?)
窓からゆっくりと離れ、庵の影にひっそりと佇むその倉に寄った。扉は一見何も施されていない。試しに、掌を扉の肌に当ててみた。すると、携帯からその掌まで、一気に何かが駆け上がる感触。
「ッ…?」
携帯の液晶から、ぐらりと何かが立ち昇る。見えない、けど圧を感じる。そこに…何かが居る。
『御苦労、後は此方で解呪しよう』
声が聞こえる、それにぞわぞわと栗立つ。かしゃん、と内部からの音が響いて、懲罰房なる倉の扉がゆっくりと開く。慌てて、その見えない何かに向かって小声で叫ぶ。
「ち、ちょっと!バレちゃうじゃない!こんなバタバタしたら!」
『私はシトリ様を解放出来ればそれで良い、お前の処遇など知らぬわ!』
そのあんまりな返答に、見えない相手とはいえ怒りが込み上げる。開かれた扉から、轟々と風が吹き抜ける。
『おお!シトリ様!永きに渡る幽閉!今救わんと参った所存ですぞ!』
声が感極まって、叫び始めた。もう此処に居るのは危険。そう感じて、震える脚を踏み出そうとする。
「おい!何してくれてんだぁ?姉さんよぉ?」
来た道を戻ろうと踵を返した視線の先、入口付近で見かけた青年が居た。
「ありゃあ旦那の大事なお客さサンだからさ、特等室に入れてやってんだよ」
黒い挑発を後ろの高い位置で束ねた、少々ヤンキーな口調の彼。崩して着た甚平が、祭りのヤンキーそのものである。
『邪魔させぬ』
あの携帯から出てきた声が、どうやらヤンキーに噛み付いたらしい。
「けっ、シトリの野郎、正座のし過ぎで脚痺れてんじゃあねえのかい?」
『ほざけ!』
「まぁだ房から出てこれねぇでやんの〜ひひっ」
腹を抱えて笑う青年が、私をジロと見て通り過ぎていく。
「アンタの処分は旦那が決めるこった、俺はこいつ等を戻すのが役割なんでね」
ビビって声の出ない私に背を向けたまま、怖い台詞。そのまま彼は束ねた髪をばさりと解いた。長い黒髪が舞ったと思った瞬間、その姿が消えてしまった。
『あ〜あ、久々の鎧とかタリぃわ〜重!』
あの声だけが響くその空間。肉声が、ぼやけたそれに変わった。
『十四代目のヨシツネか!!貴様』
『旦那につられて悪名高くなったヨシツネたぁ、確かに俺様のこった』
私は走り出す。背後から衝撃がきて、それに背を押されても、とにかく走った。
「はっ、はぁ、はぁ」
息が簡単に上がるとは、典型的な運動不足。こんな時に人間は後悔するんだろうな、とか思った。
パァン
突然の乾いた音に、反射的に振り返る。庵の、あの窓の位置から…突き出た腕、それが握るのは…まさかの銃。
『旦那、さっすが〜!』
遠方からでもしっかりそう聞き取れた。あの青年の敵を、つまり私を導いた不可視の存在を銃撃したのだと思う。日本では滅多に聞かない発砲音に、全身が震え上がる。
(紺野さん…!!)
絶対撃ったのは、彼だ。転げそうになりつつも、もう背後は振り返らずに走った。
霧をつん裂いて、宵闇を駆け抜けていく、赤い海に波立てる。
(殺される)
悪魔だ、きっとそう、悪魔なんだ。確かに、此処はヤタガラスの里なんだろう。
でも、悪魔しかいない。歩いていた彼等も、紺野も、皆、悪魔なんだ!
(追いつかれたら、殺される!!)
見えてきた里の門に、一瞬の安堵。だが、その門下の中央にあの犬が居た。まさか、と思い動悸が跳ね上がる。
『待テ、ライドウニ、突キ出ス』
人語が脳内に垂れ込んできた。片言な感じだが、きっとその犬。眼の前で、黒い頭がぐわぁんと上がってきた。いや、胴体が、ろくろ首が如く伸びたのだ。
その瞬間に見えなくなり、立ち止まった私のカーディガンがぐいぐいと引かれる。
「きゃぁああああッ!!」
暴れて、腕から捲れ脱げるカーディガン。それが巻きつく様にして、私から見えない犬に移った。
『ムグ、ク…』
引く力が和らいだ隙に、カーディガンを置き土産にして走り去る。小川を飛び越え、草を掻き分けて、霧の向こうにぼやける社を目指す。
(あと!あとひと息!!)
ああ神様、もう私はずっと葵鳥と呼ばれても構いませんからお助け下さい。具体的に思った訳では無いが、本当にどうでも良い事で逃れようとしている。
無神論者が祈る瞬間なんてそんな時しか無いと、普段せせら笑っていた私。
社に一歩、踏み入れる。白檀の薫りも、濃い霧も、鮮明な月の光も背後に吸い込まれていく。踏みしめる草が、板の音と感触に変わっていく。
「ぜぇっ……は〜っ…は〜っ…」
暗い拝殿内。息の上がりきった私の、情けない呼吸が響き渡る。膝に手をつき、逆さになった背後の視界を股の間から見た。向こうの闇からは、何も追ってくる気配は無かった。
(助かった……生還ルートよ、これ、タエちゃん…!)
カーディガンも無く肌寒いが、何事も無かったかの様に布団に潜り込もう。そうすればきっと、朝が来たらきっと…!
「お嬢さん、何しに此処へ入っただね?」
前方からの声、それは人間の肉声。頭を上げて、しっかりと立つ…いや、立ち竦む。
拝殿の入り口に、いつの間にか数名、ぞろぞろと。この人影達…もしかしたら、里の人間全員ではないか?
「あ、あのっ、すいません、勝手に入ってしまって!その」
説明しようが無いけれど、一応謝罪から入る。
「何故上の里に行ったんだ?」
昼に見た里の人間が、一斉に糾弾してくる。
「折角寝床も提供したのに、仇で返すのか」
「手先かもしれん…」
「この時期狙って来たなら、姑息としか」
口々に呟かれるその台詞、覚えの無い事に恐怖しか這い上がってこない。
「待って!私、別に迷惑を掛けたくて来た訳じゃ―…」
「朝倉さん、我々の存在意義は、貴方みたいな不穏な者を除ける事なんですよ」
「な、何それ…除けるって」
「下の里はフェイク、そういう事です」
縁側で朗らかに会話していた人、社の管理人、農作業の中年夫婦…皆、私を射る様に、見据えている。
「あ…あ、あの……」
後ずさる、でも背後は怖い。《とおりゃんせ》が脳内でエンドレスリピートしている私。いきはよいよい、かえりは…
「十四代目の邪魔はさせぬ!」
荷車を押していたあの老婆が、片手でその荷を板の間に叩き付けた。その反動で、開いた荷の蓋から飛び散ったのは、実物は初めて見る召喚器。
(管!?)
散ったそれのどれが己の物か、まるで知っているかの様に…一同が床に指を伸ばす。体格はバラバラながらも、陣形を取った。
「ちぇ〜管かよ、お古だし」
交ざる子供が文句を垂れると、里長と云われていた初老の男性が叱咤した。
「ゲーム機にばかり頼らんで、管で鍛えんか!此処の力を落とす気か全く…」
「だってえ…」
管をペン回しする少年がしょげる。
「お前達も、丁度良い機会だから、責務をしっかと見ておき」
母親の様な女性が、その子の背を押す。一見暖かい光景、でも、間違いなくその管から召喚されるのは悪魔で…その悪魔達が攻撃する対象は、私、だ。
「上で何してきたか知らんが…昼にあんな探ってたもんな」
「い、いや…違う、違うの!ねえ、ちょっと!」
管を翳し、不思議な光を纏い始める彼等。老若男女、皆が管を振り翳す。デビルサマナー。もう、この時代には絶滅危惧種だと思っていた存在。
「かかれっ!」
里長が叫ぶと、ぐわっ、と凄まじい圧が向かって来る。でも見えない。
眼を瞑って、頭を抱えて庇う。丸腰の私には、もうそれ位しか出来ない。傍に稲妻が落ちたかの様な轟音が、腕に塞がれた鼓膜にまで伝わってきた。
…でも、痛くは無い。パラパラと砂埃が跳ねる音や、軋んだ天井からの音。ハッ、として瞼を開けた。誰かの脚が、落とした視界の先に在る。
「武力行使ってのは、昔から相変わらずなんですね、貴方達」
裸足に渡る黒いライン。それを辿る様にして、上へと昇っていく。白に赤い曼珠沙華の刺繍が艶やかな着物。それを適当に羽織っただけの、あの悪魔の少女が立っていた。その涼やかな項には、角の様なものが生えている。
「おお!修羅様!!」
絶叫する里の人間。管を取り落としている者も見えた。
「悪魔、さっさとしまって下さい」
ぼそりと呟く少女は、片手をぶらぶらと払った。向かいを見れば、柱から梁…天井までを奔る裂傷。
(この子がやったの…?)
眼の前の、貧相な身体つきの少女に畏怖する。
「だから烏も悪魔も、嫌いなんですよ…!」
「しかし修羅様!十四代目も今宵は大事な日では…」
「もう終わりましたから…ピンピンしてますよ、あの変態野郎」
苦虫を噛み潰す様な表情で、裾の砂埃を掃う彼女。修羅と呼ばれる、その姿…悪魔草子の陰徳篇を思い出す。まさか、混沌の…
「誰が変態だって?功刀君」
その声に、里の人間が膝を着いた。次の言葉を待っているのか、皆、無言のままで平伏す。背後から、私と彼女の間に現れた黒い影。
「皆、御苦労…」
黒い外套の紺野が、その里人の視線の中央に立った。
「朝倉さんは寧ろ被害者だ、丁重に扱い給え」
そう云いつつ外套の隙間から、す、と差し出されたそれを見て、思わず叫んだ。
「私の携帯っ!!」
いつの間に落としたのだろうか。確かにポケットに感触は無い。その携帯をパチリと片手で開いた紺野は、哂って語り出す。
「悪魔召喚プログラムがインストールされていた…彼女の寝ている隙に、だろうね」
あの昼の授業で聞いた単語が、まさかここで出るなんて。
「シトリの残党が、最近此処をうろついていた様子だ…彼女を媒介に利用した、という訳さ…」
パチンと閉じてニタリとした。
「ね?だから管が精確なのだよ、勉強になったかい?」
皆の中に紛れている、授業でCOMPを推奨していた少年がピクリとした。それを確認してフフ、と哂った紺野。私に顔を向け、携帯を投げて寄越してきた。
「わ!と、とっ」
鈍い私の反射でも受け取れる位の、親切なコントロールだ。
「葵…タエさん、今宵はすまなかったね、怖い思いをさせて」
しっかり名前を云い直した紺野に、功刀と呼ばれた彼女が突っ掛かる。
「何が怖い思い、だよ……あんたが一番凶悪だって」
云いつつ、紺野の脚下を爪先でつついた彼女。
「早く殺してやれよ、こいつ」
その言葉に違和感を覚え、よくよく見ると…紺野の脚は、何かを踏んでいるのか、浮いていた。私には見えていない存在、つまり悪魔か。
「人間を使って侵入してくる等と…意外な盲点を突かれ少々癪だったのでね」
クスッ、と哂った紺野は、外套を揺らした。連続して響く発砲音、液体の飛び散る音。あのCOMP少年と、私だけが身体をビクリと跳ねさせた。
外套の内側で銃を扱っていたのか…紺野の足下に、どす黒い水溜りが広がっていく。
「あんたも大概外道だよな」
「おや、シトリに逃げられて困るのは君だろう?」
「あんたもだろ」
「この身体なら当分持ちそうだからね…もう馴染んでるよ、ほら!」
蹴り上げる紺野、その先の壁にべちゃりと、何かが潰れて付着した。可笑しそうに哂う彼に、私は開いたままの口が塞がらなかった。
「ああ、弱いな…本当……」
十四代目と呼ばれる紺野、その眼が金色に輝いている。
「こんなでは終着点が近くなってしまう」
「近くて良いだろ」
「まだまだ遊び足りないからね」
「…云ってろ」
項垂れる悪魔の彼女に寄り添う様に、紺野は歩み寄っていった。返り血に濡れた彼のスラックスが、その身体に絡む。彼女の着物の裾に、違う赤の花が滲んだ。
「この世すべからく混沌なり」
哂って、苦い顔をしている彼女に接吻する。その、返り血が、眼元に朱を入れたかの如き彼の横顔。
狐の化身を連想して。その彼に向かい合う彼女は、修羅で。
悪魔草子を思い返しながら、私の意識は暗転していった。


「お早う御座います、タエさん」
「お早う紺野さん!」
流石に辺境の朝は清々しい。朝日が山に隠され、まだ青い朝。霧が涼しくて、身体を震わせた。
(おっかしいな〜カーディガンが見当たらないのよね)
お陰で結構寒い、しかし空元気で誤魔化せる範囲だ。
「駅までご一緒しますよ」
黒い外套に、トランクを提げる姿は既に旅人だ。そんな彼の背後に、見慣れない影が居る。
「ああ、これは僕の従兄弟ですよ、フフ」
哂って云う紺野は、すい、と身を引く。現れた少年は、癖のある黒髪が艶やかな、紺野よりやや幼い雰囲気の子だ。
「はじめまして朝倉さん、功刀です」
「はじめまし……て?」
私の差し出した手に、軽く握手した彼が怪訝な顔をした。
「あの、俺の顔になにか」
「う、う〜ん……いや、そのね、顔に何か…」
(何かが足り無い気がする)
おまけに、初対面だっけか?
「あの、双子とか、いる?姉か妹って」
そう問えば、一瞬眼を見開いた功刀。傍で哂う紺野。
「もしかしたら昨日、女の子と思われ、すれ違っていたのかもねぇ?」
そんな紺野に、功刀がキッとなって背負った鞄をブン、と振り叩き付けた。
「うるさいよ、あんた」
すれすれで避ける紺野が、相変わらずの哂いで帽子を取り出しかぶる。そのシルエットに、思わず口走る。
「やっぱ紺野さんって葛葉ライドウみたい」
「凄い変人でサド野郎って所は似てますけどね」
付随してきた功刀は、紺野と眼を合わせずにマウンテンパーカを着込む。それを見て、やっぱ寒いかな、と肌を震わせた。
「ヤタガラスの里、やっぱり血は絶えちゃってたみたい、結局分からなかったわ」
「それは残念でしたね…」
「ま、っぽさは満点だったからばっちり撮っておいたけどね!」
シャッターを押す素振りをして、笑いかければ紺野がニタリとして一瞬眼を逸らした気がする。
「ところで、お二人は何処に旅立つの?ってか従兄弟と旅行?」
「本当は新婚旅行の予定だったのですがね、家内が行けなくなってね」
「あら、お気の毒に!」
こんな十四代目似のイケメンと旅行だなんて、やはり神様は贔屓を許さなかったのね。意地悪な私の心は、密かにその奥さんが行けなくなった事実を笑っていた。
だって、ずるいんだもん。
「俺だってこんな奴と行きたくな―…ッ」
傍の功刀が云い切らぬ内に、紺野がその彼の臀部を強かに蹴り上げて述べる。
「次は倫敦に行こうかと思いましてね」
「わぁ!ロンドン!?良いなあ〜」
「悪魔学的に見てもメッカですから、好きでね、数回行ってますよ…フフ」
きっとその外套が風景に似合うのだろうな、と思い妄想してしまった。
「ブリティッシュスーパーバイク選手権あるから…それだけは好き」
臀部をさすり、不満気な表情のまま言葉を追従させる功刀。
「あら、なんか意外だわ、モータースポーツ好きなの功刀君って?」
あらあら、大人しい雰囲気だけど、やっぱオトコノコねぇ。
「ええ、ワイン・ガードナーが優勝した時が一番興奮し―…」
その瞬間、何故か彼の臀部にもう一発、紺野の蹴りが炸裂した。
「ってええな!!何だよあんた!?」
「興奮して時期も忘れたか?少しは意識し給え」
そのやり取りで、ハッとした功刀は口を紡いだ。きょとんとしていると、レールを踏む音が遠くから響いてきた。山間を縫うようにして残響が輪唱している。
「あ、じゃあお二人共、良い旅行を!」
片手を上げ別れの合図とし、ボストンバッグを掴む。
「タエさんも、気をつけて御帰り下さいな…フフ」
哂う紺野は、最後まで私の王子様と似たシルエットだった。
「もう少しマトモな所に観光した方が良いですよ、朝倉さん」
何故か失笑気味の功刀君、此処をマトモと見ていないのだろうか?赤い華も綺麗な山里なのに。ヤタガラスの里…っぽい、し。
乗り込んだ列車、誰も居ない車内の適当な場所に座る。遠くなっていく彼等は、霧の中を歩き出していく。
(まさかこの山、徒歩で下りるの?)
そうそう高く無い位置だが、しかしどうなのだ。一緒に乗れたなら、もっと沢山興味深い話が聞けたかもしれないのに。そう思いつつ、明日からの仕事を思い脱力するのだった。


「ちょ、葵鳥さん冗談きついって〜!!」
ドッと沸く一同に囲まれ、私はそれでも懸命に説明する。
「だから!本当にすり替わってたんだってば!」
「なんで盗られるだけならともかく、置き替えられてるワケ〜?」
「私が聞きたいわよっ!」
帰宅後、開けたボストンバッグの中。愛用のメタルピンクの五百万画素デジカメ…が、無くなっていた。そして何故か入っていたのは、年代物のセコハンカメラ。
(ちょっと〜高かったのよあのデジカメ)
やけにバッグの中でスペースを取っているなぁ、とか思っていたら…
それはそうだ、デジカメより二周り近く大きいのだから。しかも重い。
「良い有休だったようで」
「もぉ!勘弁してよっ」
外国帰りの同僚が、皆のデスクにお土産を置いて回っている。当然お土産なんて私は用意出来ていない。
「はい、葵鳥さんの分よ」
「…」
「はいはい、タエちゃんの分」
「ありがとぉーうう」
受け取れば、ハロッズの銘が入った紅茶葉のセット。
「え!ロンドン!?」
「そうなのよ、夫と楽しんできました〜」
にっこりする同僚に、微妙な気分で詮索する。
「あーそうですかそうですか、で、何か面白いの見れた?」
「それがねぇ、一部の区域が入れなくって…なんでもね、悪魔出たらしいわよ」
「はぁ!?悪魔!?」
周囲もぎょっとして、作業の手を止めた。
「枢機(すうき)卿(きょう)とかまで動いて、どーやら教会関係者はざわついてる様ね」
「そんじゃ、今ロンドン観光しても微妙って事かな?」
「そうねぇ、ハロッズで買い物して終了って感じ」
「なんだぁ、タエちゃんと似た様なもんじゃあないの!」
ゲラゲラと賑やかに沸く職場、私は少し胸がざわついて、席を立つ。
「ちょっと用事有るから、お先に」
貰ったお土産をショルダーバッグに入れ、つかつかと離れていく。
「今度はハネムーンで行けるといいね!タエちゃん!」
背後からの野次に「うっさい」と一言返しつつ、オフィスから出た。
(ロンドンで、悪魔…)
もやもやとした思いのまま、帰宅する。携帯を開くと、いきなり文章。
何故かドキリとしたが、どうやら受信したのを丁度開いてしまったらしい。
《暗室準備完了》
そんな一文だけなのが、相変わらずで思わずクスリと微笑んで返信する。
《では作業しに参ります!》
適当な黒いストールに、ぐるぐると包んだセコハンカメラそれをショルダーバッグに突っ込み、再度家を出た。


相変わらずな元彼氏の家。オカルトマニアで写真オタク、なんと好都合なのだ。
「きっちゃんさぁ、まぁだ追っかけしてるの?十四代目のさぁ〜…」
「うるさいわね〜もうこれは私の人生の華よ!」
「どうせまだ独り身なんでしょ?」
「貴方だって!いい加減バフォメットの置物片しなさいよ!不気味ね!!」
「良いじゃん!バフォメット!!」
「連れ込んだ女の子逃げるに決まってんでしょ!!バカね〜本当!」
「嫉妬されないって!バフォ様は両性具有だし!」
「違ぁうッ!!」
道具は暗室に用意されている。なのでセコハンだけ持って暗室に篭る。扉の向こうからなよなよした呼び声がするが、無視して遮光カーテンを更に引く。全く、どうして同じ悪魔好きでも十四代目とああ違うのかしら。ガッカリしながらセーフライトの赤っぽい光を見つめる。
(しかし、私までどうして覚えちゃってんのよ、焼き付け)
無音の空間で、セコハンから出てきたネガフィルムを甦らせる。まさか、入っているとは思わなかった。保存状態によっては何も浮かび上がってこないよ、との元彼の葉。思い出したソレを振り払って、自分でやるんだから良いでしょ、と作業続行する。
(え、なんとなく見える様な、見えない様な…)
微かに浮かび上がる景色に、首を捻りながら手を動かす。水洗いし、ぼやけたそれをクリップで挟み吊るす。浮かび上がる、影。
「あ…」
先日の里が、脳裏を駆け巡る。記憶の水底に沈殿した彼等を、撹拌して舞い散らせた、風花の様に。睦まじく戯れる、狐の化身と修羅が視えた。
「そっか」
その、くすんだ色の写真を見て…全てに納得した。
「なぁんだ、ちゃんと続いてたんだ、悪魔草子」
暗い部屋で、もう点けても良い筈の灯りも点けず、私は椅子に座って、吊るされたその写真達を眺めていた。
「きっちゃん!出来た!?出来ないなら手伝おうかぁ!?」
「出来たけど、ちょっと独りにさせて!後で悪魔大全一緒に見てあげるから!」
扉越しの声に溜息を吐きつつも、そう云い返して吊るされる物語を読んだ。
私しか知る事のない、あの草子の続きを、心躍らせて。


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