吊るされた写真。
角隠しに隠れる、咎める様な視線の花嫁。
狐の面の影で、哂いを忘れて見つめる花婿。
見えぬ筈なのに絡み合う視線は、彼等の様に不器用で。
それでいて強く求め合っていた。
何も生み出さないこの関係が
狂おしく、甘美で、幸せなのだと、予感させるセピアの写真。
訪れぬ夜明け
「ええっ、こんなに有休取って、何処行く気?」
上司の声には、微妙に不満が混じっている。それもそうか、私の行動はかなり、突拍子も無いから。
「ええ、ちょっと聖地巡礼に行こうかと」
「はぁ?宗教やってたっけ朝倉さん」
「いいえぇ、そういうの好きですけど、属してはいないですよ?」
承諾の声を聞かないままに、お気に入りのショルダーバッグを提げる。
「お先!」
まだデスクに齧りついている同僚達に挨拶して、椅子の乱立する通路を縫う。傍を通ると首で振り返って、返事なり文句なりを云ってくる。
「葵鳥(きちょう)さん!ずっこいっすよ!」
部下にあたる若造の、その呼び方が気に喰わなくて。オフィスの出入り口から一喝してやった。
「下の名なら、タエって呼べと云っているでしょッ!?もう…!!」
祖母は尊敬しているけれど、こんな名前を付けられる身にもなって欲しい。
男性にも舐められない…って、そんな問題じゃないでしょ。今の時代、名前は飾りよ、実力勝負―…って、名前に文句云ってる時点で矛盾してるぞ私。
とにもかくにも、朝倉葵鳥なんて本名は隠すに限る。
私の名刺は《朝倉タエ》と、誇らしげに名乗っているのだから。少なくとも仕事のフィールドでは、私はタエで居られる。
「ふひ〜…きっつ…」
緩やかな傾斜も、長々続くと拷問だと思う訳よ。無人駅から結構歩いたのに、なかなか見えない人里。ボストンバッグを草むらに降ろして、その上に腰掛けた。
ジップ下の仕切りから、携帯を取り出す。
(う〜ん、一応電波は有る、か)
開いた画面の三本線は、行ったり来たりして、おぼつかない。ぱたりと折りたたみ、元の位置に突っ込んだ。
深呼吸して、空を仰ぐ。やや白んだ空が、秋の訪れを思わせる。
「並ぶ山の重なりし、導くかのよに段に咲く曼珠沙華…」
周囲を見渡すと、確かに点在している、赤い帯。僅かだが、緑の隙間で揺れていた。
(お、当たってんじゃないの、タエちゃん!?)
飽くほどに読んで、暗記した文脈を思い出して立ち上がる。
(ゼンリンの地図でもかなりあやふやなのよね〜…この辺)
一応無人駅は在るのに、変な話だ。陽射しは熱いのに、山の陰に入ると一気に冷える。砂漠みたいな環境に、額の汗を拭った。
記者仲間の数人は、この先の里を知っている。そう、この辺は道も無い辺鄙な土地だが、しっかり人の気配が在る。偶に業者の出入りが有ると聞いたくらいだ。流石に方向音痴な私でも辿り着けるでしょ。
やがてぽつり、ぽつりと見えてきた家。棚田と曼珠沙華に囲まれた、集落。
(あった…!!烏の里!)
一見、只の山間集落に過ぎない。でも一部の人間達の間ではそう呼ばれている…。
物云わぬ里、忘れ去られている事実。巡礼には必須のスポットなのだ。仕事柄疼いて足早になり、ジーンズが内股で擦れる。
特に門戸の無い其処は、さりげなく侵入するには適していた。軒先で会話する人。小さな畑を行き来する人。押し車に自重を預ける老人。
(まあ、普通の辺境集落よね、ぱっと見)
首を捻る。どう考えても此処なのだけど、仲間内でも此処でストップする人続出。
あの草子、暗号でもあるのかしら。換字式暗号?転置式暗号?
(ううん、頭良いあの作者ならやっているかも…)
きょろきょろしながら、それらしい名残を探してみる。しかし、悪魔的な物は、何処にも感じない。住民に聞いても、ヤタガラスという単語に笑われてしまう。
「そら、お嬢さん、いつの時代の話だいね?」
朗らかに流され、こちらとしても苦笑いで返すしか無い。数軒当たって、どの家でも笑われてしまった。お茶でも飲んでいくかね?という誘いに、笑顔で遠慮し、引き返す。
お狐様の社を横切り、溜息を吐いた。
(らしい感じはしてんのに…誰か一人くらい、知らないのかな)
もう、血脈が途絶えたとか?そんな事を考えながら、ちょっとした広間のベンチに腰掛けた。やや間が有って、ふと気付いたが…此処は子供の広間だろうか。木造の遊具が見られる。
(一応、子供居るんだ……過疎地の義務教育ってどうなってんだろ)
学校に生徒が一人、というのも無い話では無い。教員の資格を持つ村の大人が、授業する。そんな身内の世界。
視線を向こう側に運べば、木造の…しかし、しっかりした造りの建造物が。
翳ってきた空模様に、窓硝子の反射が消える。
(学校…?)
いくつかの人影は、やや幼い。並ぶシルエットが、座る。自然に対面する側へと、視線をずらしていく。
「あ」
思わず立ち上がり、一歩、二歩と脚が動く。私の視力は低くない、しかし、もう少し…もう少し近くで確認したい。硝子窓が、開け放たれている箇所、その傍まで歩み寄り…蔦の這うその壁に寄り添う。
角度を変えて、内部からこちらが見え難い様にして…黒板側を見た。
(似てる)
そっくりだ、あの切れ長な眼といい、妙に鋭いモミアゲといい。
何より、遠目に確認しても判る、綺麗な面立ち。祖母に見せてもらった、古い写真の中の召喚師。小さい頃からの、私の王子様。
(って、ちょっと待ってよ、生きてる筈無いでしょうが)
しかし、あまりにピンポイントな出来事に、動悸が止まらない。
「先生、どうして管の方が良いの?」
「では君は、どうして機器型のCOMP(コンプ)が良いのかな?」
「だって、まずかっけえし…管ってちょっとアナログ過ぎん?」
「管はね、直接封じておけるのだから、実に精確(せいかく)な媒体だ…」
生徒と教師の会話にしては、偏っている。こんな辺境で、おまけに大学でも無いのに悪魔学?
「自身のMAGを操作出来ぬ癖がつく、あまりにCOMP頼りではね…」
黒板に白いチョークで描かれていく図式は、反牧歌的である。
「筆記し給え」
教師の言葉と同時に、机側から紙を擦り、黒鉛の削れていく音がし始めた。学生時代を思い出す。
「Handheld(ハンドヘルド) Computer(コンピューター)…は、悪魔召喚におけるプログラムをインストールする事で、対象との交渉が可能になる訳だが…」
箇条書きされていく、いくつかの要点。
「あくまでターミナルだ…接続が途絶えると、干渉不可能に陥る」
すらすらと黒板に紡がれていく文字は、酷く流麗で、迷いが無い。
(そういや、昔にはDSのCOMPとか、流行ったのだっけ?)
他には携帯電話とか、PSPとかそんな端末機器に無理矢理悪魔召喚プログラムをぶち込んで…とか何とか。自分は詳しく無いから、事情はよく知らないのだけど…
その時は暴走やら、仲魔の迷子が頻発して社会現象になったとからしい。
あれからサマナーの取り締まりが強化されたんだっけ?まあ、今の時代、純粋なサマナーなんて皆無に等しいのだけど…
「おや、もう時間だね……では今日はお開きにしよう」
チョークは止まり、教科書すら持たぬ教師が、少ない生徒達に向き直る。
「悪いが、本日で僕の授業は終わる、そのつもりで」
「ええええ!急じゃん先生!たった一ヶ月?」
「明日からは普段通り、里長に頼んである」
「ねえ、紺野先生って講師してる時以外って何してんの〜?」
「諸国漫遊だよ」
「偶にしか働いてないの?ずっけえの〜」
「フフ、婚姻休暇をずっと頂いているのでね」
ドキリとした。少々ショックというか、納得というか。
(え!あの人結婚してんの!?)
授業の終わった様子に、自身も息を吐いて、遠くの山を見た。
夕日の少し前の色、やや眩しくて、眼を細める。
「で、如何でした?」
その声が間近からのものと最初気付かなかった私は、普通に背後を振り返ってしまった。
「わ、あッ!!」
弾かれた様に脚がもんどりうって、花の無い花壇に尻餅を着く。見上げれば、窓に肘を掛けて哂っている教師。
「まさか子供以外にも御静聴頂けるとは思わなかったですよ」
クスクス哂って身を乗り出し、手を差し伸べてきた。なんだか色々恥ずかしくて、顔を熱くしながらその手を受ける。
「あ、ってか色々すいません、私勝手に…」
「構いませんよ、葵鳥さん」
その呼び名に、ジーンズから砂を掃う手が止まった。ゆっくりと教師を見て、問う。
「ちょ…っと待って!何故その名前を…?」
(私、そんなに有名になってたかしら!?)
訝(いぶか)しんで見ると、窓から肘を退いた彼が云った。
「古い知人に似ていたのでね、失礼」
その哂いのまま、教室の奥へと消えていく。
「あっ!ちょっと待って…」
窓に齧りついて、内に向かって声を張り上げる。
「貴方こそ十四代目にそっくりとか!云われませんっ!?」
歩みを止めて、少し振り返る教師。教室の中の翳りがさせるのか、眼が薄っすらと光っている様な錯覚すら抱く。
「何の十四代目です?」
まるで、試すかの様な、その哂い。何故だかびくびくしながら、答える。
「ヤタガラスの、最後の代の葛葉ライドウ」
云い終わると、教師は一呼吸置いてから、突然笑い出した。
「クッ…アハハ…!」
そのまま行ってしまい、置いてけぼりの私は呆然としていた。空になった教室を黙って見ていると。
「葵鳥さん」
背後から声。
(えっ、い、いつの間に?)
振り返ると、逆光に包まれたあの十四代目もどき、もとい教師。
先刻の白シャツに、スラックスと合わせたベスト姿。ほぼ黒尽くめ。
「何をしに、本日はこちらの里へ?」
その上から、さらりと黒い外套を羽織った。
(うわ、そうするとますますライドウなんだってば)
胸の高鳴りを潜ませて、落ち着いて返答する。
「昔、民俗学とか専攻してまして」
「土俗学ですか」
「まあ、そ、そうです…で!結構参考文献としてお世話になったのが悪魔草子で」
「ククッ…あの教育に悪い?」
外套を秋風になびかせ、教師はせせら哂う。
「先生も読まれた事あるんですか!?」
「紺野で良いですよ」
歩き始める彼に、追従して、たたみ掛ける様に問う。
「古い本だから周りに知ってる子がなかなか居なくて!嬉しいなぁ…!」
自分の事の様に誇らしくなって、読者の存在に口が綻ぶ。
「だから、読み解く限りでは此処がヤタガラスの里だと思ったんですよね、私」
「成る程」
「偶に台詞に出る訛りとか、里の描写の感じだとこの地方っぽいんですよ」
「確かにね」
「悪魔学は専門外なので、そっちからはアプローチ出来ないのが難点でしたけど」
「まあ、大凡(おおよそ)当たりなのでは?」
紺野はクスリと哂って、道を往く。道中の老人達も、笑顔で会釈している。まるで紺野が目上の様な扱い。
「紺野さん、此処ってヤタガラスの里で間違いないですかね!?どうですっ!?」
折を見て、再度確認してみる。
「フフ、そもそも十四代目が自らヤタガラスを潰したのでしょう?」
可笑しそうに哂う紺野に、ますます興奮する。
「わぁ、知ってます!?そうそう!そうなの!凄いと思わない!?だって当時の日本における国家機関なのよ!?」
思わず地の出た口調に、ハッとして止まる。
「お構いなく、造詣深い話に熱が篭るのは当然だ」
「ん、お言葉に甘えて…」
ボストンバッグを持ち直し、改めて口を開く。
「日本の悪魔って、殆ど彼に従属していたんでしょう?」
「さあ?流石に全てとは思いませんがね」
「一般にも悪魔が馴染み出てしまったけど、十四代目のお陰で崩壊しないで済んでるし、この国」
「へぇ…どういった考察で?」
「悪魔ってよく解らない…でも思うのは、十四代目が大正で、零(ゼロ)に戻したって事」
「零に?」
「そう!悪魔でも勢力?派閥的なのがあったらしいじゃない?」
「ガイアとメシアなんかは未だ根付いてますがね」
「えっ、でもそれは人間の、でしょ?」
「悪魔も人間も同じですよ」
向かいからすれ違う初老の男性に気付き、紺野が話ながら会釈する。
「紺野先生!」
駆け寄ってきた男性が、一瞬私を見たけど、まあ気にしない。
「明日発つのですか?」
「ああ、そのつもりだ…暫く空けるので宜しく」
「先刻集会所に向かったら、子供達から質問攻めですよ」
「フフ、申し訳無いね……まぁ、君は一番出来が良かったから、指導に不安は無い」
その紺野の台詞に、やや違和感を覚えた。
(出来が良かった?)
逆の見目なら解るが…これではまるで紺野が、男性の師みたいだ。
「では、無事に帰る事を祈っております」
「次に君が存命ならね…ククッ」
「そんなに空けます?」
「さあ?出先の様子によるので、何ともね」
飄々と返し、一瞥して通過する。そんな紺野に、何処か浮世離れな空気を感じる。
「で、零の説明は?」
「あ!そうそうそれでね!十四代目はそういう垣根関係無く、戦い、使役したのね」
「ふぅん」
「で、白黒分かれていた勢力が混濁して、変な争いとか、小競り合いが減ったのよ」
「…」
「白のトップも黒のトップも、争ってる場合じゃないって、雲隠れしたんだって」
「何処の情報?」
「悪魔専攻してたサマナーかぶれの元(モト)彼(カレ)」
あっけらかんと云い過ぎたか、紺野は失笑した。
「大方、貴女が十四代目の話ばかりして怒らせたのだろう?」
すい、と、綺麗な指で耳に黒髪を撫ぜつける姿。なんだか、そんな一挙一動にも惚れ惚れしてしまう。
「当ったり〜…」
「まあ、まだ若いのだから、もう数人いけるでしょう?」
「ちょ、紺野先生だって若いでしょ!おまけに結婚されてるそうじゃない!」
あはは、と笑って見つめれば、その双眸にじっと見つめられる。オレンジの夕日の反射じゃない、映り込んだ光でもない。
独りでに光る、冷たい瞳。
「若くないよ、僕は」
ニタリと哂って、続けた。
「十四代目はね…白と黒の頂点に君臨する悪魔を、敵に回した…」
「人間なのに、そんな相手出来たのかしら…」
「勿論、簡単では無い…だから手始めに、偏る事を止め、混濁した悪魔を率いた…」
「あ、そうなの!零ってのは私、そう云いたかった訳!」
「分かるよ、葵鳥さん…確かに、この国の悪魔の大半は…大正から無所属さ」
「十四代目は黒でも白でも無い悪魔達を率いて…何が目的だったのかな?」
私の率直な疑問に、外套を翻して紺野が颯爽と往きつつ答える。
「さあね…混沌が好きだからでは?」
その答えに、悪魔草子のストーリーが脳裏を駆け巡った。私は、両掌をパンと合わせ鳴らし、思わず発した。
「ああ!混沌の修羅ってモチーフ!らしいと思う!!」
思い出し、躍る心がお気に入りの台詞を口走らせる。
「―すべて下らない戯事よ、この世すべからく―…」
「―陰陽に分かれるのみ―」
途中から声を揃えて発した紺野に、はしゃいで訴える。
「十四代目って変わってるよね〜!ま、そこが好きなんだけど、うふっ」
「大正の、おまけに翳りの故人を何故そこまで?」
「悪魔草子もだけど、小さい頃に見せて貰った写真が決め手なの」
「あれの写真なぞ、そうそう有りはしない…」
「祖母が帝都新報の記者でね、お陰で葵鳥なんて古めかしい名前付けられちゃって」
「で、貴女も同じく記者に?」
「あれ?云いましたっけ?」
「いいえ、しかしそれらしいですからね、アポ無しな所とか」
意地悪く哂った紺野は、木々が影を落とす境内に入っていく。
「んもう〜からかわないでよ紺野さん!」
「フ…失敬……では何と呼べば良いのかな?」
「朝倉かタエでよろしく!」
そう云うと、紺野は肩を揺らして哂った。
「妙な感じだな、逆だと…クス」
そう呟いて、狐と狐の間を通る。外套姿の彼。どうにも時代錯誤な光景で、私は惚けてそれを見つめていた。
(この人、年齢不詳だな〜…)
そんな雑念に囚われている私を振り返り、紺野は延べる。
「タエさん、今から山を下るのは危ないと思うよ」
「ああ、まあ確かに…でも宿泊施設なんて無いわよね?此処」
「僕から話を通しておきましょう…今宵は此処の一室を借りていくと良い」
一体誰が里長なのよ?と突っ込みたい衝動に駆られながら、竹箒で石畳を撫ぜる袴の人間に紺野は何やら話している。いくつかうなずいて、袴の人間が私を見た。
「朝倉様、我々が休憩に使う場で宜しければ、なんなりと」
そう云われ、慌ててボストンバッグを掴み直して駆け寄った。
促されるまま、石畳から外れてちょっとした建物にその足が向かされる。
先刻聞かされた通り、きっとこの社を管理する際の休憩施設だ。
「ではタエさん、僕は明日発つので、もうお別れかもね」
少し遠くから、調子を崩さぬ笑みで発する紺野。それに少しがっかりしながら、礼を云う。
「もっと色々お話したかったわ、紺野先生、とても博識でいらっしゃるから!」
「フフ、したいようにしているだけさ…ではね、御休み」
すると、どこからともなく黒い影が現れ、彼の脚下にととっ、と寄った。夕刻の薄闇に、翡翠の眼がキラリと輝いた。
(黒猫!)
ますますライドウっぽくて、感嘆の溜息を吐いた。
「朝倉様」
「あっ、は〜い!今行きます!」
袴姿の管理人に呼ばれて、私は向きを直す。
ちらり、と振り返った時には、紺野と黒猫は姿を消していた。
『お前、秘密を知りたいのだろう』
(何よ…流石に疲れてんだから、ちょっと、寝かせてよ…)
『今宵は特別なり』
(煩いなあ)
『ヤタガラスの里へ向かうが良い、人間の女』
「ヤタガラスっ!?」
がばり、と布団を跳ね除けた。ひんやりとした板の間に、私しかいなかった。
脳内に響く声は、何だったのだろうか。まさか、心霊現象?
それが霊なのか悪魔なのか、判断すらつかずに震えた。流石に、社の傍だけあって…まあ、いない事も無いと思う。
「うへ…ちょっと待ってよぉ」
恐怖を誤魔化す様にひとりごちて、ボストンバッグから携帯を引き抜く。開けば画面のバックライトが周囲を薄く照らす。今何時なの…と、画面の端を見つめる。
《社の中から里に入れ》
メール画面に切り替わって、ただ一文、ぽっかりと表示されていた。いつの間にメールの項目なんて、選択したのよ、私。
《ヤタガラスの里は奥に有らんや》
《秘密を知る事がお前は出来よう》
《人間の気配に 人間なら乗じる事が出来よう》
《お前しか知る事の無い世界が すぐ其処にあるのだぞ》
流れていく文章。ぼうっと見つめる私。電波状況、ゼロ。
《さあ 立て その手でこじ開けよ 秘密の園を》
携帯を持つ手が、じんわりと熱を帯びてくる。
(ああ、私、何しに此処に来たのよ)
ハンガーに掛けておいたカーディガンをもそりと肩に羽織る。携帯をポケットに放って、腕を通しつつ出口に向かう。足取りが妙に軽い。
(ヤタガラスの里を探しにきたんじゃないの…)
そう、そうだった、このまま帰るのはどうなのよ。そうよ、私、有休取って来てるんだし、結果出さなきゃ。
山歩きに買った、新品のスニーカーに素足を突っ込む。無用心に施錠すら無かった扉をガラガラ、と横に開く。薄く、霧がけぶる、月光に照らされてそれがぼやける。
脚が先刻のメッセージを思い出し、社へとふらふら進む。拝殿の奥から、違う空気を感じる…
格子に指が伸びる。勝手に?いえ、私の望み通り?普通に、其処は開いた。
やんわりと内部から吹き抜ける風は、生暖かい様な、冷たい様な。
(なんで屋内から風が吹いてるのよ…)
そんな事はどうでも良いでしょ、と脳から送られる電気信号は思考回路よりも脚の動きを優先する。
ギィ、ギィ、と、背後で格子が揺れる音がする。暗い拝殿内を、板を啼かせて進んでいく。ふわり、と、赤い光が周囲にチラつき始める。
(夢かな)
ぼんやりとする視界の中に、段々と色を増して、鮮明になってくる。
(曼珠沙華…?こんなに沢山咲いてる)
さざめく赤い海、いえ、そもそも此処は拝殿内だったのでは?違う所に繋がっていたのだろうか…朦朧と歩いてきたので、位置関係も把握出来ていない。
振り返ると、同じ様に社がある。でも、先刻いた里ではない。もっと赤い、もっと鮮やかだった。首を捻って、向き直る。そのままぼんやりと歩き出す。踏みしめる草原が、本物かすら分からなかった。
(ああ、里がある)
古めかしい木の門。そこに辿り着くまでに、小さなせせらぎを渡る。音も無く流れる水は、空の色を含んで、薄暗い。月光が照らし出す、その全景を見て…身体に震えが奔った。
ああ…こっちが本物だ…ヤタガラスの里だ、直感で思った。その門を潜って、私はやや興奮気味に見渡す。
「旦那も相変わらず人使い荒ぇっての」
「悪魔使いでなくて?」
遠方からの声に、思わず近くの小屋の影に身を潜めた。声は段々近くなる。会話だから最低二人は居るのだろう。
「もうこのカッコに慣れすぎて、今じゃバリバリの人間サマよ」
「あらあら、しかし貴方、元々人間ですものね」
「九郎って呼ばれるのも、正直悪かねぇわな」
「随分チャラい九郎ですわね」
「っせぇな真珠婦人!」
通過していく会話達、愉しげに消えていった。ドキドキしている胸を押さえ、深く息を吐く。そりゃそうよ、里なんだから人は居るってば。何故隠れた?そんなの、ぼやけた思考回路でも解る。招かれざる客なのだ、私は恐らく。
遠くなる若そうな男女二人を視線で追い、霧に消えるまで確認した。
(皆、召喚師…デビルサマナーだったりするのかしら)
警戒しつつ、それでいてずけずけと歩みを進める。
「待って!こらっ、待ちなさいってば!」
駆け寄ってくる声と、動物の息遣い。ビクリとして隠れる場所を咄嗟に探す。
しかし、そうこうしている内に声の主達が姿を現す。霧を縫って出てきたのは、帽子をした少女と犬だった。
「ワウッ」
その犬が、立ち竦む私の脚の先で止まる。不思議な犬、首から上だけ毛色が黒だ。
「しょぼたんの命令では止まんないくせに!この駄犬っ!」
駆け寄って来た少女が犬に一喝して、すぐに私を見上げて云う。
「おね〜さん、新入り?」
その問いの意味が解らなくて、私は口魚みたくぱくぱくさせた。
「あ、その」
「あ〜いい、いいって事よ!分かんない事があったら、このショボーにまかせて」
胸を張る少女、跳ねた髪が愛らしいが、何処か浮いている…
「しっかしライド…夜もい〜かげんココを空けすぎだっつうの!ねぇ?」
同意を求められ、答えれる筈も無いのに…
「ライドウ?」
引っ掛かった単語を鸚鵡返しする。
「あぁう、昔の癖でやっぱそう呼んじゃうんだって、しゃんないでしょ…!」
頬を両手でむにゅ、と挟んで、苦い顔をした少女。傍の犬は私をジッと見つめて、どうも詮索されている心地になる。
「って!こんな立ち止まってる場合じゃ無いでしょイヌガミ!」
イヌガミと呼んだその犬の尻尾をぐい、と掴む少女。
「アオンッ!」
「え?そりゃヤシロ様を久々に御拝顔するために決まってんでしょ〜がっ!」
薔薇色に染め上げた頬と、綻ばせた口元。満面の笑みで少女は尻尾を引っ張った。
「ギャウン!」
「はぁ?うっさいわね〜!ホラ準備!明日にはまた行っちゃうんだからっ」
じゃあね!とまだ冬には早いのに、薄手の手袋の片手を上げて挨拶する彼女。
もの云いたげな犬が、私を幾度か顧みて、引っ張られていった。
(び、びっくりした…!)
よく分からないが、勝手に解釈してくれたようだった。なんだろうか…こう、おかしい感じがする。
人は居るのに、人の気配がしない、そんな感じ。
(やっぱり夢?)
しばらく歩き続ける。薔薇園で悠然と微笑む美女やら、軒先で人形の糸を付け替えているフードの人物。まるで…
(悪魔草子の劇中みたいよ、これ)
大丈夫?私。好き過ぎて夢に創っちゃった?それだったら是非、狐の化身も見たいんだけどな。そんな煩悩に囚われたまま、奥へ、奥へと進む。
「っわ!?」
唐突に、ポケットからじわりと熱が流れ込んできた。それがきっかけで、携帯を持ってきていた事を思い出す。取り出し開けば、またあの文字。
《主は懲罰房に在り》
懲罰房とは、これまた物騒ね。霧が少し濃い中を、手探りで進む。ふわり、と、穏やかに薫ってくる、白檀の香。赤い光がたゆたう、開けた空間に出た。
(庵(いおり)…)
広い空間に、ぽつりと庵が在った。曼珠沙華に囲まれて、その庵の傍には赤い紅葉の樹が垂れている。上に浮かぶ月が、その全てを照らしていた。
《目的の場は、すぐ奥に》
手元の携帯が、そう文字を打った。もう一度見上げると、確かに…庵の奥に倉みたいなのが見える。……行けっての?
もう、こうなったらとことん行ってやるわよ。記者魂を有休中にも発揮してしまう、そんな私に拍手と溜息を贈りたい。ざくざくと、赤を掻き分けて、その朧気な庵に近付いていく。落ちる影の揺らめきに、ふと脚を止めた。
光源は、上に鎮座する月だけでは無い。庵の丸い、洒落た窓を横切ろうとする私。その窓から漏れる仄光りが、人の気配を匂わせる。
(覗き見なんて、昼もしたけど、悪趣味よ…タエちゃん!)
でも、気になる。正直、向こうの懲罰房より、この瞬間、気になるのだ。耳を澄まして、そっと視線を投げ入れる…
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