「今日も雨」
「湿気で髪ヤられっちゃう〜もぉ」
隣の席の会話、それは何時の間にかコッチに振られる。
「ねえ、リリは今日バイト?」
バイトと称した都合は、大抵飼い慣らしたオッサンと密室でどーこーする用件。
「いや…今日は無い」
「マックかスタバ、この後行くって話なんだけど、どぉ?」
「遠慮しとく、ちょっと別の用」
机から覗く教科書を指先で小突いて仕舞う。
置き勉なだけで、別にアタシは勉学を放置してる訳じゃない。
今日はしっかり傘を持ってきた。ビニールだけど、蔦柄のプリンティング。
白い雨空に向かって開くと、ぱたぱた蔦の影に水滴が踊った。
(くっそ、こんな時に限って)
身体が気だるい。
湿気にヤられそうなのは、髪の毛だけじゃない。
“ごめんねリリ、海外出張で俺、明日から――”
一番の蔓が、日本に居ない。
おまけに先日の古物商は手を切ったので、もう頼れない。
他の奴はどうだ?いや、もう枯渇寸前だ。破滅に追いやるのは気分が悪い。
誰彼構わず吸うなんざ、アタシのポリシーに反する。
この身体を、ただ求めた男と、ただ酌み交わす財。
肉、金、精。
この存在を、ただ維持したいアタシの、勝手な罪。
雨雲に隠れ身した満月を呪う。
満月なら、人間だって無意識にエネルギーを撒き散らしているのに。
夜の街を歩くだけで、そのお零れが舐めれるのに。
車窓に流れる都会をぼんやりと眺めて、指先を毛先に運ぶ。
安物のピンキーリングに自慢のセミロングが絡め取られて、やっぱり止めた。
(おかーさん…)
ずっと、学校には居れない。
一所には、留まれない。
今更、曝して生きれない。
(何処に帰れば良いんだよ)
降りて数分、駅から近いアタシの住処。
家賃は使役するパトロンが勝手に出すから、気にして無い。
アタシには、食事は必要無いから、他にも金はかからない。
ずっと、帰る処を探して、生きてるだけ。
通路を歩くと、ワンルーム世帯らしい、気配の無さ。
挨拶を交わす機会に恵まれない最適な環境を掻い潜り、アタシの住処へ。
冷えたドアノブに指を引っ掛けると、ガチャガチャと音が響いた。
(ン?鍵?)
施錠の記憶が無かったので、ぎょっとして指を離せば…
勝手に動いて、開く扉。
「あ…すいません、俺、施錠癖ついてて…人の家だってのに、勝手でしたね」
「…いや、勝手して良いつったの、アタシだから」
そうだよ、今、独りじゃなかったっけ。
「…おかえりなさい、学校しっかり行く方だったんですね、意外だ」
さらりと述べて、奥に引っ込んでいく。
ああ、やっぱ、変だ、あの子は。
「…あ、あぁ」
おかーさんとの親子ごっこを思い出して、廊下を俯いて歩いた。
放置してあった空き箱やら何やらは、姿を消している。
「別に、居候だからって家事しろたぁ云わないけど?」
「俺が居心地悪いんで」
「けっ、悪かったな、汚部屋でよ」
灰皿しか置いてない小さな折り畳みのデスクに、何か見える。
たった今置かれていった、缶。
「疲れてるみたいでしたから」
多分、近所の自販機だ、一軒家の手前にある種類。
そのスポーツ飲料を見て、しばらく黙ってしまったアタシ。
「あの、お嫌いでした?こういうの」
「金は?」
「これ買う程度には有って、家に戻る程には無かっただけです」
「へぇ、で、アタシに?」
コイツ、やっぱ意味不明。
「台所に調理器具は無いし、冷蔵庫にも何も無かった…」
そりゃそうだ、アタシは食う必要が無いし、冷蔵庫は食い物貰った時にしか活躍しない。
そのまま捨てるのは性に合わないから。
「しっかり食べてるんですか?貴女」
「そりゃアンタに云いたいよ、功刀ちゃん」
茶化せば、また不満そうな顔。
「あんがとね」
プルトップを開けようと思ったが、ネイルアートが剥げそうで一瞬止まる。
じろ、と見兼ねた功刀が、アタシから掻っ攫って、指先ですんなり開けた。
「再びあんがと」
「そんな爪してるからです」
「へいへい、赤い花柄っすよ〜お気に入りっすよ〜」
爪先、指。其処の御洒落は、結構好きだから、こりゃもう仕方ない。
受け取って、ぐいぐいと味の薄いそれを嚥下する。
アタシの身体が求めているのは、食物でも、金でも無いんだけどね。
でも、呑んでやるよ。
物云わぬ魔晶の代わりに、迎えの挨拶が在って。
アタシは内心、浮き足立っていたから。
赤い…
赤い、揺れる花?焔?
朧気な記憶の、向こう側に視えるのは…黒い、外套の影。
“出て往き給え”
崩れ落ちる、おかーさん。
“烏の里にその身を置く事は、赦さぬ”
影の放った、冷酷な声。
「ハ…ッ!」
ぜえぜえと、夢は途絶えて唸りと化す。
乱れた呼吸を整えて、上体を起こせば、暗い部屋。
いつのまにか外は夜明けで、アタシはPCのモニターに照らされていた。
突っ伏して、適当に彷徨っていた電子の異界から眼を離す。
「功刀…」
振り返れば、ソファベッドに転がって、体を抱く様に寝ている姿。
まだ暗く蒼い空に照らされている、その寝顔を少し、覗き込む。
綺麗な顔だった。硬質でもなく、柔らかでもなく。
どこか、薫るのは…雨の匂いか。
でも、今、眼の前から…な気がする。
(ああ、勘違いしてた)
功刀と遇った日から、ずっと雨だから、雨の匂いだと感じていた。
そうではない。
芳醇な、それでいて清廉な、脳髄を刺激する香。
「…なぁ、アンタ、本当に何者よ?」
身体の抑制がぐらついて、ふらりと立ち上がる。
見下ろすその相貌に、少し光が奔った様に見えたけど、多分気のせい。
多分…
「なぁ、本当に、さ…」
赤い、曼珠沙華の着物に感じた郷愁。
金色の瞳。
その薫りは、薄く開いて呼吸を繰り返す其処から、色濃く漂う。
「ちょっとばかし、くれよ…」
最近、距離の遠い中年男性からしか吸って無かったから、舌も麻痺してるだろう。
ふらりと此処に迷い込んだアンタなら、赦される、と思いたい。
ゆっくりと上下する薄い胸。その僅かな膨らみに背徳を感じる。
上から、両腕をその相貌を挟む様にしてついて、覆い被さる。
本能が突き動かす、衝動の接吻。
呼気を自分の唇に感じて、熱が奔る。
「ぅ…」
アタシの髪が、その白い頬をそわりとくすぐっていたのか、ぐずつく功刀。
びくりとして、咄嗟に離れる。
動悸が止まないアタシの胸が、功刀のまな板胸にくたりと押し付けられていたままではマズイ。
(何、しちゃってんだよ)
見境無いのはポリシーに反すると、警鐘が脳内にこだまする。
落ち着かせようと、PCで時間を見た。
(ああ、駄目だ、抑えられないコレ)
同じ空間に居るのすら拷問的で、カーディガンを脱ぎ捨てて着替え始めたアタシ。
デスクトップに開いたメモ帳に書置きして、荷物を肩に引っ掛ける。
“着物、雨染みになるからクリーニング出してくる。金は前払いしとく、別に請求しないから。”
その画面のまま放置しておく。
たたまれた着物を引っ掴み、逃げ出す様に住処を後にする。
唇が、まるで香辛料でも口内に含んだ時のそれみたく、熱を孕んでいた。
この姿を保っていると如実に現れる肉体の現象。
(あの子、どういう生体エナジィ持ってんの)
強い酒みたいな、その呼気を啜っただけでガツンと脳髄に響いた。
そこいらの人間が束になっても敵わない程の、強いソレ。
あのまま同じ空間に居たら、無防備なままの功刀を眼にしていたら。
置いてやっている、という事実への見返りを求めてしまいそうだ。
スキンシップ…ましてや女性同士となれば、あの酷く潔癖そうな顔は歪むだろうな。
(見てみたい気もすっけどね)
暗い妄想に取り付かれては、それを振り払う。
肌寒い霧が、まだ帳を幕引きさせない空。厚い雲の切れ目から射す月光。
それでも、まだ降りそうだ。
紙袋なぞゴミを漁ればあるだろう、と思えば、そういえば功刀が清掃した事に気付き。
着物を直接携えたアタシは、ほんの偶に遭遇する通行人にじろじろと視線を頂いた。
不釣り合いだろ?きっとパクったとか思われてんな、コレは。
ふらりと入る、クリーニングの集荷をしてるコンビニ。店員は一人。
こんな時間帯なので、やっぱ客なんてガラガラで、商品も並ぶ少し手前の時間だ。
カウンターに置かず、着物を見せる。
「すいません…これクリーニングで」
眠そうなパーマのおばさんが、折角手渡ししたそれを、不躾にカウンターに滑らせる。
おいおい、汚れたらどうすんだ。金の行き交う汚い所にゴシゴシ設置させんなってば…
こりゃコンビニの商品じゃないんだって。
「この手のは一律で一万五千円となります」
「ふぅん、やっぱそれなりなんすねー…」
金だったら有るので、鞄から長財布を取り出し、開いた其処から札束を確認し…
「地直し、刺繍直し、ヤケ直しも本来願いたいのだがねぇ」
と、突如第三者の声。カウンターの店員を見れば、その視線は一直線にアタシの横へ。
「一般的な店に出すと、却って高くつく…か、そのまま返却される」
透き通る様で、鼓膜に妙に余韻する声。
「其れは僕が預かりましょう、良い店を知っているのでね」
黒い影。見上げると、確かに女なら釘付けになりそうな面してる。
「おにーさん、コレは知らねぇ人に任せらんないよ。第一アタシのじゃないし」
財布を一旦閉じつつそう呟けば、その男はクスリと哂って着物に指を伸ばす。
「僕も、知らぬ人に自分のモノを任せておくのは御免だからね」
財布を閉じていた指先が一瞬止まった。
何かを含むその台詞に、唇が妙に震えた気がする。
「フフ、申し訳ありません、御婦人」
「い、ぃいいえいいえ!」
キョドる店員に微笑で声かけ、そのまま着物を掻っ攫うその男。
「ちょ、待てって、おい!」
後を追って、自動ドアを同時に潜る。
黒いコートに鮮やかに映える、白地に赤の曼珠沙華。
「それ、アンタの…って事?」
「僕の物の物だからそうだね」
「何ソレ、どーゆうジャイアニズムよ」
鼻で笑って、少し手前に躍り出てやる。
ジロ、とやや上睨みになるアタシを、不敵に微笑んで見下ろしてくる高身長。
頭の天辺から、爪先まで真っ黒。
この着物の持ち主らしいし、着用してるのだって…確かに高そうだ。金持ちっぽい。
軍帽くさいそれは、レザーのフィッシャーマンキャップ。
立て襟のコートは、ロングケープのトレンチ。すごく細身。
着られてない、しっかり着てる。
「君の処に、僕の身内がお世話になっている、という事で良いのかな?」
切れ長な黒い眼は、孔雀みたいに整然と揃う睫毛で飾られてる。
(コイツ、絶対モテるな)
「でもさ、帰りたくない、っぽかったよ?何、痴話喧嘩?」
「そういう事になるかな」
けぶる霧、薄暗い藍がしとしと影を融かして、アタシ達も紛れてしまう。
点いては消える街灯の光が、歩く男の外套を照らせば、浮かび上がる。
前方からする物音に意識を向ければ、都会ではよくある光景。
定時外に出されたゴミを漁る、カラスと犬。
雨の臭いと排他物の臭いが混じりあって、アタシは眉を顰めて傍を通る。
同じ様に、颯爽と流れる動作の長い脚。
「フフ、夫婦喧嘩なぞ犬も喰わぬ」
呟いて哂うこの男に、唸り始める犬達。
首だけですぃ、とソコを振り返ったと思えば、この黒コート。
(眼が…)
向こう側を見やるその一瞬、金色に光る。
途端、一緒に残飯を漁っていたカラスの群れが、その野良犬に飛び掛った。
まるで、コイツが使役してるかの如き動き。
ぞわりとして、思わず吐き捨ててみる。
「“カラス”って、やっぱ汚ぇ」
アタシの侮蔑に、視線を寄越す男がニタリとした。
「そうだね、さて…君の家を濡れ羽で汚す訳にもいかぬ」
その視線が、更に流れて向こう側の景観に落ちる。
「少しお茶でもしようか?」
「何、ナンパ?今日び流行んねーよ」
「色々聞きたいからね、立ち話もどうかと思い、ね」
アタシだって、聞き出してやるつもりだ。
あの瞬間、立ち昇った強い生体エネルギーが…気になって。
着物を返して貰う以前に、探ってやりたくなったんだ。
功刀も、アンタも、同族か、を。
喫煙席を指定して、座るファミレスの硬い椅子。
客はアタシ等だけだった。
「食べるかい?お代は此方で持とう」
「いらね、むしろおにーさんこそ、喰うの?」
「呑む程度には嗜もうかな、何も払わぬのは拙いだろう?」
探り合っている。
「ふーん…一応喰う事はしてんのかぁ」
「味覚はしっかりと具わっているのでね」
「だんだんメンドくならね?食物摂取」
「無駄こそ生涯謳歌の秘訣と思うが?」
「ケッ、ゆとり無きゃんな事云えねーよ」
帽子とコートを脱ぎ、椅子に掛けている。
インは、これまたビックリなループタイとベスト。
赤い華が幽かに揺れる、魔晶の輝きにも似た留め金。
紐タイの先は、フリンジかと思えば…黒い羽だった、まるでカラスの。
「御洒落じゃん、おにーさん」
「君も、指先の赤い華、綺麗に咲き誇っているではないか」
「ぁあ、コレ?どうよ、アタシって案外器用だかっさ」
運ばれてくる珈琲。相槌してから、話の波が押し戻される。
「イイじゃん、曼珠沙華」
「フ…毒花だが?」
膝上で綺麗に着物を畳む姿、綺麗な指先は迷いが無い。
それを見て、改めてアタシも、鞄を横に置いた。
くたりと自重が出来ないそれは、自らの重みで椅子から滑り落ちそうになって。
トランクに着物をちゃっかり仕舞い始めた男が、見かねて哂った。
「その学生鞄には物が入ってないのかい?」
「置き勉してんの、だから大して入っちゃないよ」
「へぇ、つまりは勉学を放棄している訳では無いのか」
「馬鹿にしてる?」
「自立しない学生鞄の持ち主は、自立しないイメージなのでね」
「けっ、だれうま……どういった統計?」
「これでも指導する立場の者なのだよ、僕」
「マジで?ハンサムな先生ですこと」
背凭れに指で呼び戻した鞄の口を開き、その空間に手首まで突っ込む。
着物が空間から完全に消えたのを確認して、潰れた箱を引きずり出した。
「おや、奇遇」
その声に向かいを見上げれば、ほぼ同時に取り出す同じ形のブツ。
そっくりそのまま色を替えただけのパッケージに、唖然とした。
「アタシも…この種類吸ってる奴初めてみたわ」
「最近はこれの甘い煙を喰らっているね」
その爪先まで整った指で、黒い煙草を弄んでいる。
「先生は何て呼ばれてんの?」
「紺野先生、かな」
葛葉、じゃ、ないのか。
「そっか、じゃ紺野センセ、質問でーす」
互いに、ライターもマッチも取り出さず。
煙草を指先に、視線で詰り合う。
「云ってみ給え…名乗りを」
「百合の花の百合」
「では、百合君」
「はい、功刀はなんで家出したんですか」
「僕があまりに家を空けていたから、かな?フフ」
「はい、どうしてそんなに曼珠沙華が好きなんですか」
「郷愁を誘うからさ」
「はい、アタシが功刀を拾ったって、どうやって嗅ぎ付けたんですか」
「功刀君があの体で行動出来る範囲は限られているからね」
「はい、最近失くした持ち物とかありませんか」
そこまで進むと、唇の端をゆるりと吊り上げた紺野。
「君は、何故僕が失せ物をしたと思うのかな?」
「質問に質問で返すのって、指導者としてどーよ」
「おや、流石にすんなりといかぬか。普段相手している対象の方が幼いから、どうにもね」
「んじゃ、最後にもひとつ」
煙草を片手に携えたまま、珈琲を優雅に啜る紺野。
了承も得ずに、アタシはぶっつける。
「紺野センセ達って、人間?」
カップをソーサーに置くと、薄っすらと赤い唇を舌で拭った。
その仕草と同時に向けられた眼が、アタシの眼に…
背筋に、冷たい緊張が奔る。
「その疑問を抱く君こそが、怪しいというものさ…」
動けない、なんだよこれ。
「火、頼むよ」
命令が、脳髄に直接響き渡る。
「どうせ従業員の視界には入らぬ、普段している通りで良いよ?」
クスクスと哂って、アタシがライターを持ち歩かない事を見抜く声を発する。
功刀の視線が、求めてきたものと、また違う。
冷徹な圧力が。
「ァ…」
なんでアタシがこんな、でも、駄目だ、唱えてしまう。
紺野の指先が、眼前に差し出された瞬間、予定調和の如く。
自らの意思に背いて、喉奥から引き摺りだされる。
「-アギ-」
着火の合図。
同時に、立ち上がったアタシは鞄を引っ掴んでテーブルから逃げる。
外された視線はわざとなのか、でも今しかチャンスも無いだろうし。
ブレザーをしっかり身に被せて、出入り口の風除室ももどかしく躍り出た。
相変わらず暗い外、ビルの窓鏡が空の暗さを何処までも広げて。
巨大な闇夜に覆われる自分を、酷く小さく感じてしまう。
(疼く)
功刀の力を啜った所為なのか、術を唱えた直後だからか。
ずりゅ、と背の羽が、ブレザーを押し退け始める。
「ぁ、ぁぐ……くそ…ッ」
擬態が剥がれ落ちてく、アタシの、トウキョウに居る姿が…
隙間を、隙間を探して、とりあえず身を隠さないと。
「何故逃げたのだい?」
その声に弾かれて、思わず羽ばたいた。
正確には、羽の浮力じゃなくて、魔的な力で。
「アタシに近付くな!」
叫んで、ビルの鏡面みたいな窓を蹴る。
跳ね返って、紺野の頭上を過ぎる際、何かが鞄から落ちた。
金属の鈍い反射で理解して、鼓動が跳ねた。
紺野は、それを片手でキャッチして、流れる動作で虚空に梳かせた。
溢れる光は、完全な蛍光色。毒々しい緑の帯がたなびく。
『ヒホッ?あれれ?ライドウ?なんでだホー?』
粒子が一挙に形を成して、悪魔を喚び出した。
間違いの無い、召喚術。
そして今、なんて呼ばれた?あの男。
「おや、やはり…僕の管では無かったようだね」
『学校じゃないホ、ココどこだホー?』
ジャックフロストと会話してる、フツーに。
つまりは…コッチの人間。デビルサマナー。
アタシは、飛び移った外壁の刻みに爪先を引っ掛けて、方向転換を臨みつつ吼えた。
「ライドウッ!アンタがやっぱりそうなのかよ」
「今となっては、葛葉という名に意味なぞ無いがね」
「アタシには有るっ」
完全な悪魔からズレたアタシは、鏡に薄っすら映り込む。
隠し身なんて知らないから、学生服が迷彩服。
「アタシ達を追い出しやがって!十四代目ぇええええ」
脚の刻みから血潮が滲む。あまりに久々な攻撃に、身体が軋んでる。
おまけに、さっき功刀から啜った僅かな力しか無い。
「フフ…修学旅行の下見だと云ったら?」
『ヒホ、本当だホ!?学校のみんなと来れるホ?』
「東京タワーでも見学しようか」
アタシの放ったアギ・ラティを、談話しつつジャックの吹雪で掻き消す。
一層濃くなった蒸発の霧に、やがて紛れて互いの視界を遮った。
「はぁっ…はぁ……ちッ…くしょ」
指先の赤い華が熱に融けだして、血染めの様になってる。
闇雲な攻撃なんて無意味だと、解ってるのに、止められない。
見えない相手に向かって、やり場の無い憎悪が湧き上がり、口から吐き散らした。
「くっそ!十四代目!!」
「呼んだかな?」
が、アタシの咆哮に続いて、即座の返答。
(嘘だろ!?此処は上空)
霧裂いて黒コートを羽ばたかせた紺野が、アタシの額を鷲掴みにした。
「話なら聞くよ?」
云いつつ、唇を吊り上げた奴。
瞬間、視界が反転する。
「…っぎ!!」
アスファルトに叩き付けられて、ようやく理解した。アタシは地階に落とされたって事。
慣れない痛みが全身に広がって、唇を噛んだのか、鉄っぽい風味がする。
『痛そうだホー…』
ひょこひょこ寄って来たジャックフロストにお情けを貰う位、アタシは駄目っぽいのか。
ま、確かに…羽もへし折れて、尻尾だってひくひくと痙攣してる。
しゃあない、だって闘いなんか、慣れない。
此処に連れて来られてから、ずっと適当な喧嘩しか。
「怒りに塗れた焔なれば、功刀の方が上かな」
紺野の声が、一気に近くなる。ああ、上から今度は飛び降りてきたのか。
「やっぱ、十四代目ってのは悪魔なん?」
へらりと笑って横目に見つつ、地に手を着いた。
「昔からそう云われて、既に云十年さ」
「マジで……結構オッサンじゃん…」
「そうさ、若作りの術を会得しているのでね」
甘い薫り…MAGと呼ばれるソレなのか、紺野の銜える煙草の薫りか。
霧で湿って不味くならないのかよ。
「この管、残念ながら僕のでは無いよ…最近教え子の管が流出してね、それさ」
『ヒホッ!?つまりオイラは迷子みたいなものだったホ!?ガーン』
ショックを受けるままのジャックフロストは、するりと管にしまわれてった。
ようやく立ち上がったアタシを見るまま、紺野がその管をコートにしのばせる。
「リリムか……クク、成る程、名前の通り」
「…悪ぃかよ……」
「いいや、此処によく融けこんでいて、なかなかではないか」
真正面から捉えられる、するとやっぱ身体は怯える。
これが、ヤタガラスを統括した奴の力量、か…
尖ったモミアゲを見りゃ、そういえばそういう奴だった記憶が有った。
「君を使役していたサマナーは?」
「…いねーよ」
「何故擬態しているのだい、悪魔なら悪魔の空間に居る方が楽――」
「かーさんが!!」
黒い立ち襟に、崩れたネイルで掴みかかる。
間近に見れば、金色の眼、悪魔の色。
人間を捨てた、デビルサマナーの眼。
「かーさんが……里を、追放されてからはずっと……」
「母……リリス?」
「違うっ、アタシの…アタシの、サマナー…」
項垂れてみれば、零れる爪先の赤が鮮明に視界を奪う。
そう、燃える様な曼珠沙華。
「お門違いって事ぁ解ってんだ!んな事!!」
首元をがくがくと揺らせば、一緒に紫煙も揺れる。
滲んだ紺野の哂いに、アタシの心も私怨に揺れる。
「でも、赦したら、救われない、かーさん…が…あの人が」
「怨みなぞ、大正の頃より買い続けて、どれを指しているのか不明瞭だ」
「アンタに心を奪われた奴が!どれだけ居るか知ってんのか!?」
それだけ叫べば、それとなく思い当たる事例を思い起こしたのか…
アタシの掴みかかる片腕を、すらりと掴み返す。
「里の規律を乱す者は置けぬ」
「なら、ずっと若いままで夢みせんな…っ」
「使役されていた君がどれ程認識しているのか知らぬが、僕は誘惑した覚えは無い」
くい、と顎を掴まれ、その吊り上がった唇が…
(何、してんだコイツ)
アタシの口を吸う、吸われる、生体エネルギー。
「っふ、ん」
空いた手を振るえば、ぱしりと受け止められる。
襟を掴む手を弛ませ、その腕で撥ねようか、脚で蹴ろうか。
でも、思考時間は口から奪われ枯渇した。
「やはり、吸ったのだね?」
「は…っ…何の話だ、いきなり性急じゃねーのか…それ、誘惑じゃないの?」
「微かに感じた、君の唇から…」
頤に指を回すまま、親指で濡れたソコを拭った紺野。
「僕の矢代の薫り」
妖しく微笑んで、金色の眼の輝きが高揚している。
アタシは…それに腰が抜ける程の衝撃を喰らった。
馬鹿だろ、こんなの、墜ちない筈ない。
馬鹿だろ、かーさんも、こんな化け物に、本気で惚れるなんて。
「僕のをやったから、アレのは頂いて往くよ、構わぬね?」
色んな意味でフラついたアタシを、少し引き離す。
まさに、ソレだけが目的と云わんばかりの冷たい腕。
でも、注がれた分は、度数の強い酒にも似てる。
「待て、待ちやがれ…十四代目!」
颯爽と離れてく黒いコートに、せめて一発見舞ってやりたくて、駆け出す体勢を取る。
羽がビキビキと悲鳴を上げるのを無視して。
ああ、せめて一発。
一介のサマナーの、勝手な想いを籠めて、ああ、殴らせろ。
迫る、すれば振り返って、アタシを見据えるライドウの十四代目。
管を取る事もせずに、指先を虚空に翳した。
何かの合図か?隠し身をさせた悪魔でも放つのか?
鼓動が息を詰まらせる。
その、不敵に微笑む唇が紡いだ。
「-A G I-」
アタシと違う、唱え方と焔。黒いコートの裾が舞う。
その術がアタシを包むかと思い、一瞬眼を瞑ったら…腕先に熱が。
「…な」
ハッとして見れば、煙草の先端が赤く燃えていた。
そこでようやくアタシは、片手に煙草を携えていた事を知った。
あのファミレスから、ずっと、か。うわ、馬鹿か。
「しかし、歩き煙草は止し給えよ?」
クスリ、とひと哂いして、置いてあったトランクを掴み上げる紺野。
何時の間にか、奴の指先の煙草は灰になって空に散っていた。
甘ったるい薫りがする、けど、今度はあの男の煙草ではなくって、アタシの。
湿ったアスファルトの景色、蒼いシルエットに、仇は消えた。
(何も出来なかったじゃん)
乾いた笑いしか出てきやしない。
ああ、何もかも、一瞬だった。
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