暦の上では春だというのに、道中の真っ赤な絨毯に眼を奪われました。
山間から吹き抜ける風が、その赤をさらさらと細波の様に揺らがせて。
「季節感の狂いぶりが恐ろしいか」と、黒い外套の書生さんが私を見下ろしてほくそ笑みました。
その時は恐怖というよりも、私はただただ鮮烈な色に驚いて沈黙していたのです。
ただ、無反応もいけない事かもと思い、小さく首を左右に振りました。
すると書生さんは「蚕室に季節も何も無かったね」と、立ち襟の影で唇を歪ませて、可笑しそうにしていました。
どちらかと云えば、景観よりもこの書生さんが恐ろしく見えました。
ただし、共通して云える事があったのです。それはどちらも、酷く美しかったという事。

その悪魔の里で、幼い私は一時を過ごしたのです。

…まあ、こんな話をしても、妻や息子達は笑って躱すのですが。
もう少しだけ聴いてはくれませんか。どうせこの先、同じ様な景色ばかりが続くでしょう?
しかもこのゆったりした揺れ、眠気を誘う路なのは相変わらずですね。
寝物語にでも宜しいので、相席のよしみと思って聴いてやって下さい。



玉繭の化石



確か、七つの誕生日前。私は母に熱湯を浴びせられ、庭に放置されていた。
当時は母の無体に、何故そんな事をするのかと嘆くばかりの日々で。
今なら、あのヒステリックが何処から来ていたものなのか、少しだけ推測出来る。
私の家は代々続く養蚕家であり。蚕と共に年がら年中、四六時中在った。
そのような家だと承知の上で嫁いだ母だろうが、それでも予測と現実は違うというもの。
家族で何処かに出掛けたり、団欒の暇も無く。まるで蚕の世話係だった。
(熱い…)
春とはいえ、山の頭を残雪が染めていた。
寒い筈なのに、浴びせられた煮え湯が身体を火傷させている。
同時に飛び散った繭が、私の着物に幾つか引っ掛かって揺れた。
養蚕家は糸を紡ぐ為に、中の蚕ごと繭を、煮えたぎった鍋に投じるのだ。
それは当時、私の心を酷く抉った。
あんなに大事に手塩にかけて育てた蚕を殺す、その事実は幼い心に矛盾を生み出して、仕方が無かった。
「そんな所で寝てると、風邪をひくよ?」
この時間帯、蚕室に籠っている父の筈は無い。籠る以外の時間、あの人は遠方まで出掛けていた。
思い当たりの無い声色に、咄嗟に起き上がる。途端、着物からぼたぼたと繭が零れて地を打った。
「紡ぎもせずに纏うとは、随分と気が早いものだ」
黒い立ち襟の外套の影で、クスリと哂ったその人。
見覚えは無い、卸先の人間とは思えない。そのいでたちは、書生そのものだったから。
「養蚕なんて手伝わされると、勉強の暇が無くなっちゃうけどいいの」
まさかこの家に下宿するのかと勘繰って、私は大変に慌てた。
するとその書生さんは、生垣の隙間からするりと庭に入って来るではないか。
「書生では無いよ、既に修学したから此れは普段着の様な物さ」
「だったら、何しに来たのお兄さんは」
「君の家から糸を仕入れていたのだがね、そろそろ必要無くなる為、話をしに来たのさ」
随分とあっさり云ってくれるので、乾いた笑いが口から零れた。
はたして、どっちの糸だろうか。
私の家が扱う糸は、大きく分けて二種類存在していた。
「君はこの家の生業を継ぐのかい」
「……まだ小さいから、分からない」
「君が決める事では無いだろう?既に親から云われている癖に」
書生さんは初対面の割にかなりずけずけとした物言いで、怒りよりも先に驚愕してしまう。
だが、口と裏腹に私の肩には黒い外套が掛けられた。
しっとりと重く、香の匂いがふわりと漂う外套。
少し覚えのある質感。これは、私の家の繭から作られているに違いない。
「どうして此処の糸、要らなくなったの?」
「自分で作る事に成功したからさ」
「お兄さん一人で?」
「まさか、大勢召喚するのだよ」
はたして、どっちの意図だろうか。
私の家の顧客は、悪魔召喚師という特殊な技能を持った人間が半分。
この書生さんの召喚対象が、人間なのか悪魔なのか…それを妄想していた。
「仕事を減らして申し訳無いね」
「ううん」
全く悪びれもせずに哂う書生さんに、体面だけ取り繕う。
幼いながらに、家の事情を理解していたつもりだったから。
「買うより安く済むなら、そうして下さい」
「君の家が仕事を失くしてしまうかもしれぬよ?」
「普通の蚕も扱ってるから平気」
「クク…どちらにせよ、潰れて欲しい癖に」
その哂いに、この肩に掛けられた外套が途端、重みを増した心地だった。
悪魔召喚師は、人の心が読めたろうか?いや、悪魔に命じれば容易いのかもしれない…
畏怖と同時に、私は酷く情けなくなった。
「少し歩いて暇から潰そうか?裾を乾かしてからでないと、家に上がれぬだろう?」



薄く月が照らし始めていた、何も無い田舎道を二人で歩いた。
本当に何も無い土地で、私の家が生きる術は養蚕しか無いのだ。
「継がなかったら、ここじゃ生きていけないよ」
「君の母親は、家業の何割を知った上で嫁いだのだろうね?」
「怖くて訊けない」
きっと、半分程度。もしくは普通の養蚕しか知らなかったのだろうと思う。
私の母は、顧客に悪魔召喚師が居る事を知らなかったのだ。
「でもね、君の家の糸は悪く無いよ。魔除けを施しても滑らかな質感を保ってくれる、上質な絹糸さ」
それが要らなくなった、という事はつまり。もっと良い糸を作る蚕を手に入れた、という事だろうか。
その様な考えが頭を過り、ふと襟元を覗く。外套の裏地は紫紺の落ち着いた色調で、この書生さんには多分似合っていた。
視線をそのまま上げて、隣を歩く彼の横顔を見つめた。
不思議な人だった。冷たい気配の中、ふっと哂う唇に眼を吸い寄せられる。
優しげな笑みとは云い難いが、惹きつける妙な引力が有った。
「ほら、早速寄ってきた」
と、その唇が愉しそうに紡いだ。
ゆらゆらと、黒い影がいつの間にか書生さんの周囲を舞っている。
チッチッチッ、と雀の様な鳴き声。輪唱しながら空に渦巻いて。
これが視えるという事は、やはり悪魔召喚師で間違い無いのだろうと、その時確信した。
「外套を羽織る君には寄れぬのだろう、僕の方にばかり集る」
「本当だ」
ひらひらと舞う黒い影は、書生さんの詰襟の傍に留まってまた鳴く。
彼等は、私の家が飼っている袂雀(たもとすずめ)という生き物で、霊感の鋭い人間にしか視えない蛾だ。
雀とは名ばかりで、その姿は蛾であり、魔術を塗り籠めやすい繭を生み出す。
彼等大群を行商の行き交う野辺に放っておき、暫くしたら召還して蛹にさせるのだ。
「上等の着物を嗅ぎつけ、この様に人様の懐に潜り込み繊維を記憶するのだろう?だから効果だけでなく、質感も一級品の繭が出来上がる……君の家は半分デビルサマナーの様なものさ」
「おれはまだ成ってないよ」
「知ってるよ、フフ……気味悪いのだろう?人で非ざるものを使役するのが」
答えに躓いた。気持ち悪い…といえば、そうなのかもしれない。だが、わたしの家でもある。
すべてを否定する事は、私の何かを殺すに等しい。
恐らく意地悪で云っていたのだ、書生さんは。
「この袂雀達も、気味悪い?」
「鍋の中で茹でられてるのが怖い」
だが、その問いには正直に返した。私は袂雀という妖怪がおぞましいのでは無い。
散々に利用して、挙句に煮てしまう身内の姿を受け入れられなかっただけで。
「それはねえ、「家畜なら屠殺して良いのか?」という、何とも堂々巡りな疑問に耽る青春期の病気の一種さ」
その時書生さんの云った事が、当時は理解出来なかった。
そう、当時は。
「それよりも君は、家業の所為で家族ごっこが出来ない現状に不満を抱いている。それを袂雀に転嫁させて恨むで無いよ」
家族ごっこ…とは云われたが、はたして何をしていれば家族なのだろうか。
母のヒステリーに暴力を振るわれる…アレが無ければ家族らしいのだろうか?
哀しいかな、私は当時学校へ通う事も無く、自覚も困難であった。
「お兄さんは、家族居るの」
「家族かどうかは知らぬが、妻が居るねえ」
彼が妻帯者という事実に、あまり驚きもしなかった。この人なら、もう何があっても不思議では無い気がしてきていた。
見目が書生というだけで、正体不明なのだ。
「互いに喧嘩したら、叩いたりしない?」
「叩く?そんなもんじゃあないよ君。灼熱を吐かれるので、僕もその喉笛に刀を突き立てるのさ」
「大人って嘘ばっか」
不思議は無いと思った瞬間にこれだから、飄々として本当によく解からない人だった。
呼吸の様に途方も無い事を述べるので、一瞬全て信じてしまう。
「しかし、そろそろ喧しいね。その外套程には魔除けを施して無いのだよ、この学ランは」
「そうなんだ」
「何でも防げる様な魔除けでは効力が弱くなるからね。己の弱点を補う類の防御を、強く塗り籠めておくのさ」
軽く哂って流し、袂雀を軽く掃った書生さんのその指先が唇に運ばれる。
組み合わされる指に何らかの意味合いが有ったのかもしれないが、私は専門的な事を知る由も無い。
「“峠を通れど神の子でなけりゃ通らんぞよ、あとへ榊を立てておくぞよ、アビラウンケンソワカ”」
唱えた瞬間、わあっと黒い影が空に散って行った。
魔除けの呪文だろうか?飼っている家の人間である私が知らないというのに。
「ほら、君の家の方角に帰ってゆく」
彼方を見上げる書生さんが、私の肩からすっと外套を掬い上げた。
それがすっかり着物の湿気を吸ってくれたのか、私の纏う着衣は軽かった。
「君は帰らぬのかい?」
呪文に急かされて帰る蛾達を見て、私が帰還する必要性を脳内に問うていた。
本当に要されているのは、家を今支えている彼等であって…
家業を忌み嫌う、わたしでは無い気がしたのだ。



見知らぬ人に付いて行く等、幼い私でも善くない事とは知っていた。
しかし、気付けば足は家路では無く、書生さんのすらりとした足取りを追っていて。
「降りてからも、少し歩くよ」
目の前で駅員さんに運賃を渡し、切符を購入する書生さん。
私は構内で一歩踏み止まったが、その切符が大人と子供との二枚組だったのを目視して安堵した憶えが有る。
とてもローカルな線で、ゆらゆら穏やかに揺られて少し眠かった。
私の住む村が、丘の上、そしてやがて地平へと見えてきて。遠くに感じる事に、些かの不安も感じていたのは確かだ。
隣席の書生さんは懐から取り出した本を読み、じっと過ごしていた。
最初は薄暗闇に気付かなかったが、外套隙間から覗く下はこれまた謎な装備をしていて。
もしかすれば、軍人の悪魔召喚師だったのかもしれない。まさか、帯刀しているとは思わなかったのだ。
胸元に光る金属の管も、その時は何に使う物やらさっぱり分からなかった。
「さっきから眼が落ち着かぬけど、袂雀でも見つけたのかい」
「……父ちゃんが居るかもしれないから」
「この電車に?」
「最近、暇を見つけて遠くに行ってるから。もしかしたら乗ってるかも」
「へえ、養蚕業は暇無しでは無かったのかい?」
「新しいお蚕様を探してるんだって、見つけたらお願いして分けてもらうんだって」
「お願いというのはね君、それは“交渉”であって、何かしら裏で動いているものなのだよ」
父の普段云う蚕が普通の蚕なのか、それとも妖怪の類なのかは深く考えなかった。
どちらでも違いは無かった。父が蚕に憑りつかれており、私も母もその家業に悩まされている事実は変わらないのだから。
「父ちゃんに見つかったら、お兄さん人さらいって云われるよ?」
「怒られる恐怖と同時に、我が子を目敏く見付けて救い出す父親というものを君は渇望している」
「なにそれ」
「おっと失敬、思わず朗読しただけさ」
哂って本の頁を捲る書生さんはこの時、絶対嘘吐きだった。
脇目からちらちと垣間見た本の挿絵は、明らかに春画のそれで。あんな一文ある筈が無い。
しかし顔色一つ変えずに読めているこの人は大人だ、と、幼心に妙な納得もした。



結局、私達は最終の駅に到着し、誰にも声を掛けられる事無く降り立った。
もう空は真っ暗で、この闇夜をどうやって歩くのかと書生さんを見た。
すると彼は、まるで夜目の利く獣の様にすたすたと野を往くのだ。
置いて行かれては堪らないので、なびく外套を咄嗟に掴んで私も歩いた。
あの長い脚なら、もっと速く歩けたろうに。恐らく彼は私の歩調に、ほんの少し合わせてくれていたのだ。
「ねえ、どうして刀提げてるの?この辺、野犬とか多い?」
「野犬ならマシな方だねえ」
「もっと怖いのが居る?」
「悪魔の里を、噂に聴いた事が無いのかい」
風の噂では無く、数日前に家の中で聴いた。
父が養蚕家仲間の親族と、蚕室の中で作業しながらそれを話していたのだ。
悪魔だけで暮らす里には、それはそれは上等な物が行き交っていて。
人間の知識と資材では補えぬ結晶とも云えるべき代物が存在するとか、しないとか。
袂雀の繭より素晴らしい繊維質を生む生き物でも居れば、確かに養蚕家としては放っておけないだろう。
「でも悪魔だけで暮らすなんて無理だよ」
「おや、何故そう思うのだい」
「だって、ヤタガラスってお客さんが一気に居なくなって。それでウチ困っちゃったんだし」
そう、あの頃に顧客が激減して、父は躍起になっていた。
ヤタガラスというのは悪魔召喚師の集団で、我が家の好い商売相手だったのだ。
それが組織解体でもされたのか、めっきり姿を見せなくなった。
高額で売れていた魔の糸の需要が減り、残る顧客も質には煩くなる一方で。
父は生き残りと誇りをかけて、色々模索していたのだろうと、今なら思える。
天秤にかけられ、跳ね上げられたのは家族の自由なのだ。
「ヤタガラスが消えて、何故悪魔が住めぬと?」
「よく分からないけど…でも、悪魔を管理してたのってヤタガラスなんでしょ?多分悪魔って人間が居ないと暮らせないんだよ」
「成程、人間が居ないと生きられぬ蚕の様に?」
云い得て妙だった。その通りで、蚕というのは完全に家畜化された生き物なのだ。
人間の手が入らなければ死んでしまう。単独で外界へと出れば、あっという間に餌となるほど弱いのだ。
だから、人間は大事に蚕を扱う。蚕も人間の手に甘えて寄り、桑の葉を貪って大きくなる。
そうしていつか、ぐらぐらと沸かされた鍋に投じられるのだ。
「あっ、でも悪魔は蚕ほど弱く無いかもしれないから、やっぱり悪魔だけでも暮らせるかな…?」
「フフ、どうだろうねえ?サマナーは悪魔を利用するし、悪魔も人間の欲望と精を喰らって生きているからね」
「お兄さんはデビルサマナーなの?」
「さあ?」
「だって、視えてるでしょう?多分、おれより視えてるもの」
「それでも最近は弱くてねえ…葉を貰えずに痩せ細った蚕の様さ」
「どうして?お腹空いてるの?」
共感めいて、思わず声が大きくなる。私は母に昼食を抜きにされていたから、随分腹が減っていたのだ。
余裕に見えた書生さんでもやっぱり弱ったりするのか、と、実に単純に解釈して。
「奥さん居るんでしょう?御飯作ってくれないの?」
「御飯は一応くれるさ、でもね、最近あちらの相手をしてくれなくてねぇ」
「あちら?あちらってどちら?」
「お陰で生まれ直しも出来ぬのだよ、もう四年近くこの器だというのに」
「ねえねえ、はぐらかさないでよ、大人って皆そうだ」
「喧嘩の途中という事だよ」
云うと、少し意地悪そうに哂って私を見下ろす。
その瞬間的な哂いは、子供の私よりも子供に感じた。
「そうだね君…僕の里に着いたら、僕の事は「お父さん」とでも呼び給えよ」
「ええ、どうして?」
「だって、その方が面白いだろうから」
火に油を注ぐという言葉が、私の頭を過った。
どういう事が夫婦喧嘩を招くのか、その程度は理解出来る。
蚕を余所の女性に置き換えれば、私の両親での想像も容易い。妻は夫婦仲が冷えていても、嫉妬はする生き物だ。
「ほら、云ってる間に到着したからね」
時間でも調整したのかというタイミングで、路が見えてきた。
遠くの山の影から、光が薄く差し始める。朝の光とは云い難い、蒼い光だ。
それに照らし出されて、戦ぐ風が草葉を揺らす。獣道の様な足元を目で追えば、その先に小さな門が見えた。
大きな集落では無い、限界集落に近いのではないだろうか。
だが、電車から降りて暫く歩けば来れる。路さえ把握すれば、来れない場所では無いらしい。
門を共にくぐれば、先に広がるのは本当に普通の山村だった。
鳥の囀りと、水車の音。せせらぐ小川を跨げば、小さな魚が泳いでいる。
道中の会話から、悪魔の里に連れて行かれるのではと勘繰った私だが、その光景を見てすっかり勘は形を潜めてしまった。
しかし違和感は有った、人が居ないのだ。早朝の散歩が好きな老人の、一人や二人居そうな処なのに。
「誰も居ないね…」
と書生さんに訊けば、掴んでいた外套が唐突に大きく揺れた。私はつられて小走りになる。
無言で走る大人は少し怖いので、押し黙って追従して行くと先の方に神社が見えた。
その境内にようやく人影が確認出来たので、てっきり書生さんは声を掛けるのかと思ったが…
「僕が良しと云うまで、一言も発さぬ様」
耳元で囁かれ、吐息に項がぞわりとした。次の瞬間、がっしりと脇を掴まれ、鳥居近くの樹木に身を寄せられる。
すぐ傍の書生さんが睨む先を、私も見る他無かった。
社の手前に、数名と…向かい合って数名が云い合っている。険悪な空気が朝靄に滲んでいた。
「だから、お引き取り下さい。何度云えば済むんですか……この辺鄙な里にそんな特殊な物は無いですから」
袴の人が呆れ声で云った。やや高いその声から女性なのかと判断したが、いまいち確信が持てなかった。
黒髪の短髪だから、やはり男性かもしれない。
その袴の人の脇にも、控える様に男性が一人居て腕組みをしていた。睨みを利かせ、まるで臨戦態勢。
「此処に沢山今まで卸していたんですから、ちょっとくらい分けてくれても良いんじゃありません?」
彼等と向かい合っている男性が喋った途端、その背に私は思わず叫びそうになった。
いいや、殆ど唇は叫んでいた。しかし、書生さんの指に圧迫された声帯がそれを発する事は無かった。
里の人と向かい合っているあそこの男性は、私の父親だ。その取り巻きは、おそらく養蚕の仲間だったのだろう。
この里に何の用事だろうか…と、考えるまでも無かった。
「なんでしたら好きに回って御覧になって下さい。蚕室も勝手に入って良いですから」
「違うんですよ、ああいった普通の蚕ではなくてですね…糸そのものに妖の力が籠っている、そういう糸を精製する蟲を飼い慣らしている筈なんです!ほらっ、その着物だってそうじゃありませんか」
よくよく見れば父の懐から放たれた袂雀が、袴の人の胸元に留まり始めている。
「そんな大した服じゃないです…普通の蚕の繭から紡いだ、正絹ですよ」
「ほら、私等の袂雀が吸い寄せられてる」
「何を云ってるか…意味が解かりません」
「嗅いだ事の無い絹なのかもしれない、ねえ良かったらその着物だけでも呉れはしないでしょうかね」
我が父ながらその図々しさに、私の頬が熱くなった。
見れば更にわらわらと、袂雀は話し相手の衿にまで群がっている。
視えていないのか無視しているのか、それとも普段から不機嫌そうな顔をしているのか。
袴の人は項を撫でて溜息し、この寒空の下、その衿に手を掛けた。
「二度と来ないなら、こんな着物程度…お渡ししても構いませんよ」
大胆に上を脱ぎ始めるその人の隣で、大男が驚愕の面持ちになった。
「おいおい…!あんまし感情的になんなって」
「良いだろ、俺の勝手にさせやがれ。それにもうコレは着ていたくない」
「せめてよぉ、旦那が帰って来るまで待ってりゃいいのに。こんな始末の付け方したって、多分またガン首揃えて来るぜ連中」
「あんな野郎の帰りなんて待ってられるか」
ぶつぶつと応酬が繰り返された後、袴に薄い襦袢のみとなった人が片手に揺らす布。
まだ袂雀の群がるそれを、大男の脇からずいっと父達に差し出した。
「好きに調べて下さいよ、後は勝手に研究でも何でもして下さい」
その華奢な体躯にほんのりと胸の膨らみが見られて、思わず私は眼を逸らした。
あの気性から男性かと思ったが、どうやら女性だったらしい。
着物を受け取った父は、満面の笑みで礼を述べていた…が、あっという間に次に移る。
「いやしかしですね、私はこの里が…あの噂に聴く“悪魔の里”だと思っていたのですが」
「もう見たでしょう?人間も普通、養蚕に飼ってる蚕も普通です」
「デビルサマナーくらいは居るでしょうに?悪魔に等しい蟲だとか…使役してるんではないです?」
「里長がサマナーですけど、今は外出してます。居残ってる俺等は悪魔とかよく解かりませんから。…本当に、さっさと帰って下さい」
もう止めて欲しかった。この里の人に迷惑をかけているのだ、私の父親が。
今ここで、私が割って間に入れば止まるかもしれないと思った。
子供の前で我欲を優先する大人であっては、欲しくなかった。
「この襦袢もよく見れば…マグネタイトを抑制する為の織物ですか?悪魔から身を隠すならいざ知らず…」
「ちょ、っと……失礼じゃないですか、放して下さい」
「何の糸を使ってるんです!?ねえ!」
いいや、絶望的だった。私が躍り出た所で、何も変化は無いと悟る。
まさか女人の襦袢を掴むだなんて、そして理由が蚕だなどと。
「おいおっさん、もうそれくらいにしときな」
そんなどうしようもない私の父を、控えていた大男がいよいよ牽制した。
半笑いでぴしゃりと軽く、父の手の甲を叩いて振り払う。
「そうはいかないんですよ、我々のお株を奪われて困窮必死なのです。下請けでも良い、製法を教えて下さい!」
「だからって女の肌着奪うんかい?いくらちんちくりんだからって、女は女なんだからよぉ」
その大男の言葉に、袴の女性が眉を顰めた。
「誰がちんちくりんだと…手前」
「だって脱がねぇと、今どっちなのか正直判らねえしよ」
束ねた長髪を揺らして笑う大男、その尻尾の様な髪の毛を女性が掴んで引っ張った。
おどけて痛がる大男だが、再び伸びていた父の腕が見えていない訳では無かった。
だが、今度はそれを払い除けずにはっしと掴み引き寄せる。
次の瞬間、私の鼓膜は慣れない振動に悲鳴した。
「ほら、だーからさっきので止めにしとけって、云ったろ俺?」
羽交い絞めに遭う父が先刻まで居た向こう側、社の柱に何かがめり込んでいる。
少し遠いのではっきりは見えなかったが、すぐ傍から火薬の臭いがして把握した。
首を捻って書生さんを見上げれば、形の綺麗な手で銃を構えていた。
「旦那!今の当たってたら人殺しじゃねえの?」
「おや?正当防衛では無いのかい。それに急所は外してあった、お前が余計に動かさずとも死にはしない」
「正当防衛ってのぁ当人がやってナンボだろうよ」
発砲した人間に皆が一斉に振り向く訳だが、私にも当然視線は注がれた。
とうちゃん、と叫ぼうと思った。だが、項から背骨を一直線に伝う指に、喉奥が引き攣った。
頬を撫でる様にして、書生さんが私に語りかける。
「僕はまだ“良し”と云っていないよ」
言葉が出なかった。あれが術だったのか定かでは無いが。私は道中の口約束に、唇を閉ざされてしまったのだ。
そして肝心の父はというと、私を見てやや気まずそうに眼を逸らした。
取り巻きの養蚕家連中は、首を傾げて私を眺めた後、書生さんに詰め寄った。
「どうしてあいつんトコのせがれを連れてんだ、お前さん」
「不在にしており申し訳無かったですね。しかし僕も貴方がたの村へ降りたが、家長が不在だと追い返されてしまった」
「そのせがれに、わし等の居所でも訊いたんか?」
「いいえ、この子は放っておくと死にそうでしたので、連れ帰ってみたのですよ」
「死にそう…?」
「ええ、本来世話すべき人物から暴力を受けていたのです」
父は、銃撃されたというのに憤怒もせず、私が連れられてるというのに取り返そうともしなかった。
他の養蚕家の男性陣の方が、煩く喚き立てている。
そう、あの人は蚕の事なら我を顧みぬ暴挙に出れるというのに、それが無関係となると一気に興味を失くすのだ。
「だからこの子は、うちの子にしようかと思いましてねえ」
哂って述べた書生さんの唇が、続いて私に向かって号令した。
空気を振動させず、「良し」と形で紡ぐ。
それを確認した私は、背を向けている父にもはっきりと聴こえる様にして唱えた。
「父ちゃん」
片手に銃を携えたままの書生さんの腰に、抱き縋った。
呆気に取られる周囲だが、一拍置いてから「脅迫されてるんだ」等と憶測でまた煩くなる外野。
違う、あの時私は自分の意志で他人を父と呼称したのだ。
繭のままあの家で煮殺されてしまう前に、他の飼い主の所に逃げるか…
それか、気付いて欲しかったのだ。本当の父に。
「おい、誰が面倒見るんだよ」
乱れた襦袢を整えながら、書生さんに歩み寄る女性。
近くで見ると、やはり女性と云うには少し丸みが足りない気がする。
並べば、書生さんより明らかに身長は低く、睨むその視線も上目使いだ。
「産まずして子育て経験が出来て、良かったではないか。仲魔を育てるより気楽だろう?」
「誰も子供欲しいなんて云ってない、もっと厄介なのが既に目の前に居る」
「この身体も老いさらばえて幾年…先程の照準を合わせるのも手が震えてしまってねえ」
「嘘吐けよ、あんなに大量にはべらせてやがった癖に」
「仕事さ」
「どうだかな」
やり取りをぼうっと聴いていて、この二人が夫婦なのではないかと気付いた。
思わずじろじろと見上げてしまい、ふと此方を見た女性が止まる。
「君に怒ってるんじゃないよ、ごめん」
淡々と云われて、私が怯えているのだと誤解されたと知った。
勿論、世話になる事は迷惑を掛けると同義である、とは理解していたが。
私はこの二人に、少なくとも嫌悪は無かった。
得体の知れぬ気配と、不明瞭な背景に、多少の畏怖は有ったかもしれないが…
私の家よりも、その時は彼等の下に居たいと感じたのだ。
「……確かに、面倒を見てやれていないのは事実です」
遠くで父がぽつりと零して、私はその続きをじっと待った。
周囲も、阻む事はせずに私と父を交互に見やる。
「今は必死な時期だから、其方様の云う通り…余所様の世話になるのが良いかもしれない」
私を腰に抱き着かせるまま、書生さんはそれに返した。
「僕はですね、仕事の情けを感じて息子さんを引き取ろうとしている訳では無いのですよ、御仁」
「いや…知っておりましたよ、自分が家業に感けてて、妻がその子に苛立ちをぶつけている事も。これは良い機会かもしれません」
「そうですか、では息子さんの件に関してだけ接触を許可致しましょう。毎度こう不躾に里に入られては堪らないのでね」
着物を返そうとする父に、目配せで制する書生さん。
帽子の下で流し目をする、それだけで冷たい水の中に投じられる心地になる。
「それは差し上げます、袂雀が集り過ぎて鱗粉が付着しているのでね」
「繊維質は真似出来ても、魔力の質は上げられないのです。本当に何の糸を使えば……」
「もう養蚕の件にはお答えしないと、申し上げたばかりですよ?」
「…ですね、ではすいませんが息子に一時の別れの挨拶をさせてくれませんか」
私は、父がそれを望んだという事実だけで浮かれた。
私が居ないと、やはり何処か寂しい部分が有ったのだろう。私は父の中に存在していたのだという、揺るぎ無い証拠だと感じた。
軽く背を押され、書生さんに促されるまま父の前に躍り出る。
このまま父の方に帰っても良かったが、それでは話を持ちかけてくれた書生さんに悪い気がして。
それに父も今回の愚行に対し少し反省すべきだと、子供の癖に偉そうに考えた。
灸をすえるつもりで、私は父から離れて暫くこの里に暮らすのだ、と。
「もっと顔をよく見せなさい」
屈みこんだ父は、私の耳元で別れの挨拶をした。

「お利口にして気に入られなさい。率先して方々の手伝いをなさい。そうして我が家に帰ったら…何を飼っていたのかを、しっかり父さんに教えるんだぞ」

私は、父達が踵を返すまで棒立ちのまま。大男に肩を叩かれて、初めてそれに気付いた。
あの瞬間は、時間が止まってしまったかの様に…音も振動も、何も感じなかった。
「おい、行くぞ小僧っ子。お前さんの親父はしばらくの間、あの旦那だかんな」
ひょい、と肩車されるまま運ばれる。ぶつからぬ様に、大男は思い切り屈んで拝殿を潜る。
目の前には黒い外套と袴の二人が、喋りながら歩いていた。
不思議な構造の拝殿で、奥にはまた大きな扉が有るのだ。
だが私はその時、そんな不可思議さに気付く余裕も無かった。 
思い出せば、あれは普通の社とは違う。異界への門みたいな物だったのだろう。
「ちゃんとお別れしたのか?」
「うん」
間の抜けた声で大男に相槌すれば、「そうかい」とだけ返された。
私の腿に軽く当たっているその白い耳が、少し尖っているのを感じて…本当は聴こえていたのだな、と、ぼんやり思った。
「お前の背では小童には高過ぎやしないのかい?ヨシツネ」
扉を抜けて下った先、赤い絨毯の中で立ち止まり此方を向く書生さん。
大量の曼珠沙華が狂い咲いている。先刻の里の風景と打って変わり、まるで彼岸かという土地だった。
「んなら旦那が運んでやれよ、その靴の踵がちっとばかし危なっかしいけど」
「嫌だよ。生憎、今の身体ではすぐ疲れてしまってね」
「云う程かぁ?早く人修羅の機嫌直しゃ良いのに」
「まるで僕の所為みたいに云うで無いよ」
「ジョロウグモとアルケニーつったって、女は女だぜ?あんな大勢持ち帰って…そら奥方の気分も、好か無ぇだろ?」
「此処の産業発展の為、つまりはそれも仕事さ」
「んでもって今度はガキ持ち帰って……アイツに土産のひとつでも買って帰ってやったらどうよ?」
「だから、お前が今肩に担いでいるだろう?」
「おいおい、人間サマだろコイツは」
「子供でも持ち帰れば人の情に感化され、少しは子作りする気になるかと思ってねえ?」
くす、と不敵に哂う書生さんと眼が合う。私はどうやら土産だったらしい。
こうして悪びれもせずに目の前で云うこの人に、虚しい気持ちが少し紛れた。
「なる訳無いだろ、スケコマシ野郎が」
「功刀君、里の人間を家に引っ込ませたのは、君にしては英断だったかな」
「話逸らすんじゃねえよ」
「ま、あれ以上強く押してくるようならば住人も駆り出すのが吉か。その程度には鍛錬させてある、副業サマナーには負けぬよ」
書生さんの隣で、怒りながら袴の裾を捌く女性。
妻というにはあまりに少年らしいこの人は、つまり私の仮の母というだ。
「君も、家出にしたってこんな奴について行く事無いだろ、判断ミスも良いとこだ」
「旦那にのこのこついて行っちまったのは何処の誰…」
「九郎」
「んっとすまねえ、口が滑っちまったわな」
「燃やされたいのか、あんた」
「いやいやいや、この甚平は擬態中の一張羅だから勘弁してくれよ」
この連中は喧嘩ばかりだが、押し黙って裏で暴力にして吐き出す実母より、余程健全だった。
「ねえ…」
この先どうするか遠くの日の事は考えず、とりあえず自己紹介をすべきかと口を開いた…
が、空腹の腹が悲鳴して主張するものだから、一同が静まり返ってしまった。
「とりあえず帰ったら飯にしようか。君、何か食べたいのある?」
「そろそろ芽キャベツが収穫出来る頃だ、それと壺に大学芋の蜜も残っていた」
「あんたには訊いてない」
「人間は腹が減るのが早いからねえ、君もしばらく調理のやり甲斐が有るというものだろう?この土産に感謝し給え」
間に挟まれる様にして歩くと、その応酬が右の耳から左の耳へと。
「やれやれだぜ、お前さんも早く慣れるこったな。慣れりゃそうそう悪くも無いもんよ」
ヨシツネとか九郎とか呼ばれていた大男が、私の脛をぱん、と叩いて笑った。
つられて、私もはにかんだ。私の実の両親は喧嘩にすら発展しないので、とにかく新鮮で。
袂雀の一匹も居ない野辺は、とても爽快だった。



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