白い壁がぐにゃりと迫ってくる。
かと思えば突き放した様に、抉れていたり。
「どうだい? 明治十五年着工とは思えぬ作りだろう?」
傍で黒いコートの男が哂った。俺の少し後ろを歩きつつ見上げてきて。
それに押される形で、仕方なくブーツを段に乗せて上がる。
ぐるりと渦巻く螺旋階段は、妙に丸みを帯びて、蝸牛の殻の様だった。
「気味悪い」
「歪曲したモノというのは、造形困難なのだよ功刀君?」
「ハッキリしなくて、苛々する建物だ」
「おや、鑑賞し甲斐の無い……フフ」
上りきると、鐘の麓。どうやら上らされていたのは鐘楼だった様だ。
「双曲放物線、双曲線面、螺旋面、すべてここから生まれたのさ」
晴れが似合わないのか、この男と海外に来ると確実に晴天は拝めない。
語る声音が吹き抜ける、少し空間が開けた。
小窓の様な外壁の穴、その額縁に彩られるバルセロナ。
現代の建物が並ぶ中、古い建造物が点在しているのに、妙な統一感。
「ほら、云ったろう? この教会は早過ぎたのだ、とね」
かつての十四代目葛葉ライドウが、くつくつと哂う。
確かに、当時から云ってたっけ……
“認められて施工がまともに進むのは、どうせ遠い未来だろう”
とか何とか。
入る際に貰った小さなパンフレットをちらりと見た。
「大聖堂……“カテドラル”だろ…あんまり気分良くない」
「違うね、この県でカテドラルと云えば、サンタ・エウラリアの方だ」
「どっちも天使ばっかだろ」
「クク、君もいよいよ天使の白い羽根が目障りになってきたかい?」
「天使も悪魔も嫌いだ」
パンフレットを広げようとすれば、背後から伸びた指先にぴしゃりと制された。
「要らぬ、前回から施工はそう進んでおるまい。僕の説明で事足りるだろう?」
「俺はあんたの口に一々説明されたいと思わないんでな」
「へえ、ではその文面が君に読めるのかい?」
云われ、視線を手元に落とせば……確かに、日本語では無い訳で。
「うっさいな、写真見ようとしただけだ」
「その写真の実物に、こうして上っているのに?」
「煩いつってんだろ」
ニタリと哂う十四代目を睨んで、今度は風情もへったくれも無い昇降機に乗る。
他にも観光客が数名、アジアの人間は俺達だけだった。
ツアーガイドが何かを喋っているが、俺には呪文の様に聴こえる。
「あんた、何度目なんだよ此処」
ぼそりと問い質してみれば、奴は黒い襟を指先で立てる。
「三回目かな」
「一回目は」
「昭和の始めだったかな……?」
圧が変わる、どうやら下階に着いた様子。
真っ先には降りない男を後目に、俺はブーツの爪先を踏み出した。
ちらちらと視線が刺さる、国外では針のムシロだ。
囁かれる声に、疎まし気に視線を一瞬投げれば……
「キモノ、ゲイシャガール、だと」
嘲笑に近い声で、俺の横に並んだ。明らかな身長差で。
「良いではないか、あれは賞賛だったよ?」
「良くない」
「袴はどちらの性別でも通用する」
「そんな問題じゃねえよ!」
ああ、どうして俺は逆らえないんだ。
もっと普通の格好で歩きたいのに。ワークパンツにブルゾンとかで。
それだってのに……
揺れる小袖は花に隠れた蜥蜴の柄。捌く袴は薄い織りが入っている。
なんでこんな柄にしたのか聞けば、この男。
“観光予定のグエル公園の噴水が蜥蜴だから”とか抜かしやがったのだ。
白地に臙脂色の蜥蜴が、葉陰で潜めく袖……里でだってこんなの着ないぞ。
「悪く無いだろう?」
回廊を歩く際に、改めて聞いてくるので、投げやりに返す。
「海外で着物は嫌なんだよ」
「袴の織りはね、アール・ヌーボーの蔓草柄だよ」
「知らない」
「ガウディに肖った取り合わせだろう?」
「俺で遊ぶな!」
愉しそうな、くすりと哂う声が癪に障って、俺は少し駆け出した。
まだ施工途中の天井が一部、ステンドグラスの光を遮っている。
一瞬その彩りに見とれてしまい、目測を誤った。
「ぅわ、っ」
少しヒールのある、編み上げのアンクルブーツ。袴には確かにピッタリだ。
が、俺はこんな物は履き慣れてない。
観光客のど真ん中、地べたに突っ伏しそうになる直前。
「Ya me lo imaginaba……」
袴帯を後ろからぐい、と引かれ、抱かかえられる。
よく分からない言葉で哂う、黒いコート。
大正二十年から、殆ど変わらない相貌。
垢抜けた、それでいて冷たい……先を往く造形美。
「は、なせっ」
「そんなに慌てると、また転んでしまうよ」
「こんな物用意するあんたの責任だ!」
周囲に笑われながら、聖堂をもつれつつ出る。
睨んだと同時に見上げた先、生きているかと見紛う彫刻の外壁。
「“生誕のファサード”だ」
長い睫を数回またたかせ、傍で男が哂う。
見れば確かに、それらしい造形だった。宗教画の様なその姿。
「気味悪い」
それを背にして、俺は広場に逃げ出した。
この巨大な教会は、どこか怖ろしかったから。
「何故? 綺麗だろう、まるで生きているかの如きディティールで」
「それが怖いんだよ」
「生きたままの人間や動物から石膏を取ったからね」
「もはや狂気だろそれ…何だか骨みたいな色してて、ゾっとする」
吐き捨て、テラコッタタイルの地面を踏み締める。
路行く人々は、巨大な影を作るこの教会の上に…
本当に、そういう存在が居る事を、解っているのか?
上と、下で、永きに争うその中間で…
俺達が足掻いてるのを、知っているのか?
「塔は全部で十八……十二使徒、福音記者、聖母マリア、イエス・キリスト」
「……そんなに在ったか?」
「まだ十は出来てないね」
「なんだよそれ、いつになったら完成すんだよ此処」
「僕も大昔は……まさか生きている内に、この段階まで拝めるとは思わなかったよ」
その台詞にはっとして、振り返れば。
斜にかかった黒髪の下、朧月の様に金色が一瞬光った。
俺と揃いの、眼。
「完成まで拝めそうで何より」
「……嬉しい事かよ」
半分に悪魔を受け入れる魂を、呪わないのか、あんたは。
産み落とす度、再び邂逅した妙な喜びと……
幾度繰るのか、人間から離れ往く業罪の深さに怯えているのに、俺は。
「折角だから、天の塔の行く末を見守ろうかと思ってね」
唇を吊り上げて哂う男。
こいつこそが、俺のサマナーという支配者であり……
伴侶であり子であり、その子の父という、とてもえげつない存在なのだ。
「ねえ? 功刀君も今度また来るかい?」
「別に、俺は此処が目的じゃないし。あんな骨みたいな教会……嫌だ」
「骨、っクク、それはそれは……確かに、有機的歪曲線だ、純白でも無いな」
黒い襟の影で、歪ませた唇。愉しげに哂うその姿は開放的。
葛葉をヤタガラスごと自ら再構築して、既に半世紀近いのか。
さぞかし気分も良いだろうな。
「さ、君が駄々捏ねてまで観たがっていたショウを観に往こうか」
ぼんやり考えていれば、そんな云い方をされて頭に血が昇った。
「捏ねてねぇよ、クソ野郎」
汚い暴言を吐いても、冷たい笑みのまま。
「此処の言葉ではVete a la mierda, cabro'n.」
「誰も聞いてない」
「cabro'n は“寝取られた駄目亭主”という意味だ」
着物の衣文抜きをぐい、と掴まれ、胸元が締まる。
普段より苦しい其処に、そういえば、今女体だった事を思い出した。
「君は僕を駄目亭主と呼ぶのかい?」
「おぃ、放せ、っ」
「スペイン男に寝取られてみる?」
「誰が!」
高笑いで、俺の拳は軽く避けられる。
つんのめった俺は、また抱きかかえられて、舌打ちした。
「夜でも無いのに、躓き過ぎだろう?」
その揶揄が俺の脳を揺さぶる。
「……夜じゃ、ねぇかよ」
呟いて、衿の乱れに指を通す。
もう着物の扱いにも慣れてしまった。
ようやく悪魔に成る以前の、本来生きた時代に巡ってきたというのに……
今となっては、古い物の方が馴染み深いという、妙な感覚。
「フフ……確かに、夜だよ」
哂った夜に、もう一度舌打ちしてやった。


◇◇◇


「凄い、凄い凄い……!」
一瞬のぐらつきに、途端マシンはコースアウトする。
わっ、と上がる周囲の喧騒の中、排気音が一際高くこだまして。
背後から追い上げていた数台が、一気に差を広げた。
「あの赤いの、追い越しそうだが」
「いいや抜けない」
「何故判る?」
「先頭のコース取りが最高だから」
「素人の君に判るのかい?」
「うっ! さい! な! 静かに観させろ!!」
怒鳴って、すぐにサーキットに視線を戻せば、戦況はまた変わっていた。
「ほら! あんたが要らない事ほざいてる内にっ!」
文句しながら先頭を眼で追う。
ラストスパートは、マシントラブルが無い事を祈るだけだ。
「好きだね君も……フリープラクティスだろう?」
「いきなり本番なんて味気無い」
「性急? まあ、確かにね」
「跨ってるならウォームアップの仕方も気になる」
「デジタルカメラさえ上手く扱えぬのに?」
先刻、夢中で夜から奪い取ったデジカメ。
いつだったか、蒼鳥さんが置いていった物だ。
いや、正確には……この男がすげ替えたのだが、セコハンカメラと。
「己の指を撮っている様では、とても現代人とは云えぬ」
「好きな物の知識さえ有れば良いだろ、放っとけ」
横の夜は、こういう時にかなり目線の高さが羨ましい。
男性にあるまじき高さのヒールブーツが、更にその高さを助長させている。
葛葉ライドウの十四代目を真面目にやっていた頃は、もっと優しい高さだった筈。
(少し位興奮したって良いじゃねえかよ)
折角のカタルーニャサーキットだ。GPが観れるなら、観るに決まってる。
「衛星回線繋いであるだろう? 里からも観られる」
「生が良いに決まってるだろ、震動とか音とかが直でクるんだから」
「へぇ、生が」
「そうそう、生が……」
と、はっと傍を見れば、肩を少し震わせて、組んだ片腕の先。
上がった口角を指先の隙間から見せる夜。
その眼があまりに邪悪に哂っていて、頬が熱くなった。
「何、云わせてやがる……っ」
「Ni puta.」
「はぁ!?」
「A ver..... pues, no se'.」
「こういう時ばっかり……日本語で詰れよ手前!」
いよいよ沸騰してけしかければ、外された指先から、またまたニタリと唇が覗く。
「二輪はご無沙汰だろう? 最近では僕の上に跨る方が――」
「下衆野郎!!!!」
俺の叫びを掻き消す歓声。
どうやら大事な瞬間を見逃した様で、更に地団駄を踏む。
「僕が用事有るのは、明日の本番だからねえ」
「くっそ、もう明日は別行動だ」
「現地語どころか英語すら話せないのに?」
「……こ、此処でだけの話だ!」
くやしいが、本当に俺は国外では無知そのものであって。
怖ろしく知識の深いこいつに頼るしか無いのが実状だ。
ヤタガラスの里を離れる際には……必ず必要なんだ。
(外は、悪魔も天使も入り乱れてる)
外がどうなっているのか、仲介を通して見てきた半世紀。
この男がライドウで無くなった瞬間から。
いつしか名前で呼んでいた……普通に。
いいや、それでも声に出すのは癪だが。


◇◇◇


「最近出資してるチームから連絡が入ってね」
「は? 何時の間に……あんた、まだ金貸しみたいな事してたのかよ」
ああ……だから今回、観戦に誘ってきたのか。
自身が操縦するならともかく、他人の試合にそこまで興味の無い男だから妙だと思っていた。
とはいえ、サーキットで夜が観戦していたのは、年甲斐も無くはしゃいでしまった俺だったろうけれど。
「金貸し? フフ……確かに、まだあの時のメルコムを使ってはいるな」
血の色をした葡萄酒、するりと赤い舌が舐め取った。
グラスで歪曲する視線が、俺をじとりと見つめ上げる。
「あの時の、って」
「買ったろう? 君の初夜」
さらりと云う夜に、思わず肉を切っていたナイフが滑った。
皿を引っ掻いて、不快な音が部屋に響く。
「黒板を絶妙な角度で掻いたチョークの音だ」
教師じみた発言で、哂うままにグラスを煽っている奴。
俺よりも味わえる、その舌が羨ましい。
「俺の知らない所で……相変わらず金遣い荒いんだな」
「おや、君を困窮させた憶えは無いがね」
「この部屋だって、一体一泊幾らだよ。俺はもっと質素で良い」
今宵の宿と知って、腰を抜かしそうになった。
里の庵なんかは、風情がありつつも控えめだったのに。
スイートルームって奴か? 新婚旅行でもあるまい。
「君の初夜より安いと云ったら?」
底意地の悪い声音。
「もうその話はいい、飯が不味くなる」
「君の舌でも鮮明に感じる程に?」
思わずガタリと立ち上がる、つられて椅子が床に倒れた。
「あの頃の話は止めろ!」
見上げてくる視線は、馬鹿にするでもなく、同情するでもなく。
ただ、俺を見ている。
「俺は……別に、今の……今の立場を、完全に受け入れてる訳じゃ」
置かれたグラス、揺れた赤い水面が上の照明を反射した。
そのグラスの脚から指を放し、皿に置いたナイフを手にした夜。
指先にそれを遊ばせ、ピタリと、投げの構えになる。
「別に、構わぬが……ね!」
「っ」
弧を描いたその切っ先が、俺に向けられるかと竦んだが。
風切り音、耳のすぐ傍を通過して往く。
直後、何かに刺さる音がした。
「フン……矢張り、持ってきたねぇ、君」
「な、に」
「さては、サーキットで興奮し過ぎて……怠ったろう? 人のフリ」
あ、と振り返れば、豪奢な装飾の柱時計……その盤面に、煌くナイフ。
じり、とその先端が、ビイビイと啼く小さい悪魔を磔にしていた。
「君にくっついて来て、適当な媒体に潜んでいた様子だ」
「小鬼……悪魔か」
「グレムリン、機械の中なら居心地が良いのだろうよ」
呆気に取られ、その打ち据えられたままの悪魔を見た。
完全に実体化している。
「いつ気付いたんだあんた」
「時計、先刻辺りから狂い始めたろう? 奴は機械が好きだからねえ」
「狂ってた?……チッ、そのグレムリンで盤面が見えない」
「君が此処に入り、時計の傍を通過した瞬間だ、針が躍り始めたよ」
巾で綺麗に唇を拭っても、葡萄酒の赤をそっくり移し込んだ様な唇。
それが、俺を責め始める。
「外に居る時くらいは、しっかり擬態し給え」
「いつもは出来てる」
「大勢の中、それも興奮状態で簡単に漲らせるその程度で?」
斑紋が出た訳じゃない、魔力を滲ませただけだろ?
「もういいだろ、あんなにごった返した人混みの中なら簡単にバレや――」
ばん、と大きな音がした。夜が腕を振りかぶって……
一瞬ちゃぶ台返しでもする要領で、テーブルをひっくり返したかと思ったが。
真っ白なクロスを、食器だけ残して引き抜いていた。芸人かお前は。
ひらりと眼に痛い純白がなびき、それが俺の視界を覆った。
それこそ頭が真っ白になって、呼吸が乱れてしまう。
「ひぎ、っ!」
床かと身構えれば、一応柔らかい感触。
寝台に叩きつけられたか、白い波を掻き分ける。
が……もがけばもがく程、白い海に呑みこまれる。
「君は何年経とうが愚図だね」
「っ、お、い、悪ふざけすんな、っ、苦し」
「もし人間達の中で、悪魔になって御覧? 僕が何の為に、此処まで確立させてきたか……」
白で見えない表情。
哂っているのか、不安が過ぎる。
「あんなにも過ごし易い牢獄を用意してやっているだろう?」
「無理矢理娶ったくせに! 俺を、俺を勝手な都合で女にしたくせに……」
滲み出る、あの日の恐怖。
力任せに引き裂けば、白い裂け目から見下ろしてくる双眸。
黒水晶の深い闇が……
「ほら、また擬態、解けてるよ」
云われれば、確かに項が痛い。角がマットを押し返していた。
「興奮してるのかい?」
「退け、降りやがれ」
「今回は“来たい”という君の意見を尊重してやったのだが」
「の割に、俺を着せ替え人形にしてるのはあんただろ、っ」
「袴? フフ、歩き難いだろう?」
取り払われたクロスで、気付けば両の腕は雁字搦め。
袴帯の先が、しゅるしゅると啼いた。
腰への締め付けが緩くなると、もう思考回路はソッチに飛ぶ。
「いきなり本番なんて性急?」
「ばっ、てめ」
「フリーが必要かい? クク」
日中の会話を匂わせるその揶揄が、頬を熱くさせた。
腰周りの緩んだ帯が、白い海に散って、俺の脚はもがく。
「困るのだよね、忘れてもらっては」
「何の話だ」
「君の主人は誰だったかね?」
嗤う声と見下すその眼に、脳内まで沸騰する。
「そんなの名義上でしか」
「書類を役所に通した憶えは無いね」
「当たり前だっ、そもそも俺とあんたは住む世界が――」
自分で発しておきながら、その言葉に走馬灯を流された心地。
葛葉ライドウは大正の帝都に生き、俺は平成の東京に住んでいた。
今、こうして身を置くは同じく平成だが……俺のかつて居た世界とも、少し違う。
何故こんな結果になっているんだ……ボルテクスでの出逢いが、悲劇を約束したのか。
「つまらぬ事を考えているね」
「んぐ」
首に手を回され、項をぎゅうっと掴まれた。
喰い込んできそうな爪先が、俺の神経を逆撫でる。
「ソコ、やめろ……」
「最早ヒトでは無いのだから、世界や時間なぞいちいち気にする事かい?」
「擬態が解ける」
「鍵はかけたよ」
「そういう問題じゃない」
爪が立っていた傍から、指の腹がやんわり宥める。
軽い痛みによる痺れと、接触による熱が交互に。
俺の中に……脳髄に、マガタマに響くから、項はやめろ。
「悪魔の姿を見られたとしても、其方の窓から飛び降りれば済む事さ。前金なので無賃宿泊とはならぬ。またこの国に来たければ、半世紀先にでもすれば良い。奇怪な噂として、刺青人間の話がホテルマンから聴けるだろうよ」
「あんた、さっきはしっかり擬態しろって云ってたじゃないかよ」
「群衆の中では面倒が多く、美味くも無い悪魔を引き寄せるだけだからねえ……」
「あっ、と、解ける」
「だから、施錠済みと云ったろう」
夜の声に急かされる様にして、冷たい気配が四肢に巡る。
シーツを燃せば逃れられる、そんな事は承知だ。
長年俺を使役してきたこのデビルサマナーも、俺の能力くらい把握している筈。
本気で刃向わない姿勢を、行為の度に見下ろされている訳で……
殆ど視姦に等しい。
「フフ……股の狭間からするすると黒が伸びると、まるで墨汁を漏らしている様だ」
「はぁ……っ、何も……出ねえよ」
「嘘吐きだね、MAGは出る癖に」
「はっ、あ」
本当に性急だ、まだシャワーさえも浴びていない。
日中あんなに歩き回って、熱狂的な観衆に揉まれ、外人特有の体臭に異国を感じた程だというのに。
この身体になってからというもの、酷く汗ばむ事はない。
それでも気が気では無い、そんな蒸れる箇所に……躊躇いも無く舌を這わせるだとか。
「……ぁ、う、ぅ……」
項からとっくに離れた指が、肉襞の入口にするりと挿入される。
あまりに呆気無く入る瞬間、そういえば……と、現在の性別を顧みる。
痛みを緩和させる構造を実感する度、合致するのはやはり異性同士の肉体なのだと、どこか遠くで思う。
「ほら、漏れてきた」
「…………黙って、やれ……っ」
俺とこいつは、男同士で、既に人間からも遠いけれど。
不適切の度を越えていて、もはや誰も糾弾出来ないだろう。
「いっ」
どこか冷めた指とは別の、温度として冷たい何かが擦れた。
指の動きと連動しているので、すぐに察した。
「あんた、指輪外せよ……いつもは、外してるじゃないか」
「僕はどちらでも構わぬけど」
「俺が嫌なんだよ、異物挿入とか勘弁してくれ」
「へえ、では僕の指は異物とは違うのかい」
言葉の端に見え隠れする、嬉々としたその感情。
俺の狼狽を煽っているんだな、解っている、それくらい。
だったら、どう返せば良いんだ?
「うっるさいな…… そういう行為なんだから、互いの身体は異物じゃないだろ! あんたのパーツを誰も特別視なんてしてない!」
やはり喧嘩腰に返してしまい、夜の口角をぐいぐいと吊り上げてしまう。
「では、コレも異物では無いと?」
更に返ってきたのは、言葉ではなく感触。
素足に擦りつけられた……弾力のある……
「ばっ」
「フフ……もう少し後にしてあげるよ、マシンもオイルが乾いていると誤作動が多いだろう?」
「オイルって、おま――」
半身を起こそうとした俺の脇目、ベッドのサイドテーブルに指輪を放った夜。
その扱いの粗雑さに文句しようと息を吸った、が。
(……あれ)
テーブルクロスが未だ絡む腕の先、左指を順に波打たせた。
肌を嬲る感触が無い、吸い付く様で、それでいて喰い込んでくるあの……
(無い、無い無い)
たった今、すぐ傍に放られた指輪と揃いのアレが。

俺の結婚指輪が無い。

「何、いきなり締め付けてきて……お強請りのつもり?」
ちげえよ馬鹿、びびってんだよ。今はそんな場合じゃない、貞操よりも命の危険だ。
あの指輪は、わざわざ知人の悪魔に作らせた特注品で。
ペアルックとか絶対拒絶しそうなこの男が、唯一身に着けていた装飾品で。
石に詳しくないけど、ダイヤだったと思う。そんなにゴツゴツしていないけど、光に翳すと水面の様に輝く……
「そ、そう思うなら、さっさと挿れろ」
悟られてはまずい、この行為を手早く終わらせて指輪を捜さないと。
その為にはこいつを消耗させて……
「相変わらずそういうスキルは伸びないね、少しくらいヨシツネにAV借りたら如何」
「あ、あああんたがそういうのスキなら! 一回くらいはそれっぽくしてやっても良いけど! すぐに終わらせろよ!」
「それっぽく? フフ……何、君に女優の真似事が出来るのかい?」
食い付いてきた、良し、これで一通りヤらせれば就寝コースだろう。
そうしたらこいつのピロートークの最中、俺は日中の行動を思い返して……
指輪の在処を推測して……それからいつ、どうやって回収しに行くかを考えれば良い。
「そうだねえ、ではまず手で扱いてよ」
いきなり急所を狙われたかの様な要求をされ、息が詰まった。
右手でやれば大丈夫か? いや、妙に左手を隠しても引きずり出されそうだ。
俺が指輪を外すタイミングを、こいつはきっと把握している。
今の流れで装着していないのは不自然だ、失くしたとバレる。
「ま、てよ……待てっ」
腹筋の様にくわりと上体を起こし、すかさず夜の股座に顔をうずめた。
熱いソレがひくりと頬をくすぐるのが判る。つられて興奮しても良さそうなものだが、羞恥と緊張感が勝る。
「腕、こんな状態だから……口だけで、してやる」
「解いてあげようか?」
下りてくる提案に心配の色は無い、こいつ、絶対わざとだ。
もういい、二輪GPで浮かれていると思われて結構だ、というより思ってくれ。
「要らねえよ、あんた拘束系の動画観た事無いのか?」
相手の望むままに拒否をして、そそり勃つ物を咥え込んだ。
視線は間違っても合わさない。俺から奉仕する事なんてまず無いから、既に恥ずかしさで焔を吐きそうだ。
「へえ……功刀君は、そういうのを観るのかい」
「ん……ぐっ、ふ」
人がしゃぶっている時に、項の突起を撫でさするのは、昔からの癖か。
どっちがアレを扱いているのか、判らなくなる。
夜の指がツノの溝を行き来する度、無い一物がヒクつきそうで。
代わりに割れ目からほんのりと覗く芽が、ジンジンと熱を蓄えて煩い。
シーツに付着する湿り気が、それを冷ますかの様に拡がっていく。
「……っ、は、はぁっ、はぁ、み、観ないッ」
「だよね、観る必要性が無いね、僕がしてあげてるし」
「んんっ、んごっ」
髪を掴まれ引き上げられ、息継ぎさせされて、また溺れさせされる。
今度は容赦なく喉奥を突いてくるので、堪らずに眼を見開いた。
薄暗い中だと、俺の斑紋がケバい事は慣れっこだが……
未だに夜の眼が金色に光っていると、一瞬戸惑う。
(でもこいつに斑紋は無いんだよな)
マガタマも呑まずに、悪魔の血を得ている。
恨めしく感じる反面、今更人間に戻られたらどうしよう、とも考える。
(指輪失くしたって知られたら、失望されるのか)
いいや、こいつはそれをネタに俺を甚振るだけで、落胆や怒りは抱かない気はする。
傷め付けられるのが面倒だから、俺も避けたいだけだ。
喉元過ぎれば……という、アクシデントでしかない。
それなら何故、こんなにも俺は焦る?
伴侶の証を失くした事が、怖いのか?
「んっ、んんッ!」
苦しいという意思表示とは別のニュアンスで、首を左右に振る。
「……は……何……そろそろ、出そうと思っていたのだけど、ねえ」
目敏い夜はすぐに気付き、掴んでいた髪を梳くだけに留めた。
「寸止めして遊んだのなら、蹴飛ばしてやろうか……フフ」
「ぷはっ、あ、っ……はっ……はっ……な……中に……」
「何」
「胎ん中に、出せよ……」
唐突な俺の要求に、夜も興奮出来ないらしい。失笑気味に俺を見下ろしている。
おかしいな……これって煽りじゃないのか? 積極的な女性のエロ動画なんて、殆ど観ないから分からない。
とりあえず跨ってしまえば良い、出そうと思っていたと云う事は、終わりが近いのだろう。
「功刀君」
「動くな、挿れづらい……」
「……矢代」
「いっ」
「聴覚は機能していると思ったがね?」
くっ、と両耳を摘まれて、金色の眼に間近から睨まれた。
若い悪魔らしい、瑞々しく覇気の有る眼をしている。
「僕の肉体は、まだ老朽化しておらぬ」
「そうだな、こんな下品におっ勃ててるし」
「先日産んだばかりなのに、もう孕みたいのかい?」
「……違う」
違うんだ、あんたに見せておきたいだけだ。
はしたない女優の真似事と偽って、繋がりを誇示したいだけだ。
万が一、失くし物の事が露見したとしても……少しでも免罪符になればと。
「折角、女の身体なんだから……な、中に出してぇ……夜」
反応を見るのが恥ずかしくて、そのまま唇に噛み付いた。


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