流石は決勝戦のサーキット。かなり早い時刻だが、観客席は既に人の熱気で溢れている。
「人気の無い処で涼んでから戻る」
徐に立ち上がるが、隣の夜は座ったまま。
追求の声を警戒していると、嫌らしく哂って見上げてきた。
「この程度の暑さに屈する程、君は敏感だったかね」
「気持ちの問題だ」
「お望み通り軽い服になったというのに、フフ」
裾を引っ張られると、足元がスースーして心許ない。
袴より数倍軽やかだが、不安や気恥ずかしさが有る。
タクシーで待つ俺に、真っ白いワンピースなんて買ってきやがったのだ、この男は。
「もっとマシなの見繕って来いよ、どうしてこんなスカートもの……」
「どのブティックが良いか、君に選ばせたろう」
「だってあそこがディスプレイ見る限りでは、一番デザインが落ち着いてたから……俺はてっきり……シャツに七分丈のパンツなんかを買って来ると」
ホテルの部屋でそれを広げた時に、自分も店に入れば良かったと後悔した。
安物とは云わないがぴらっぴらで、風が吹けば簡単に翻りそうで怖い。
「ZARAなんて日本にも有るのに、安価なものを選ぶ必要性は無いのだよ?」
「そんな問題じゃない! ……おい、試合開始までには戻るから、心配するなよ」
「お手洗いなら西側が近いよ」
「要らないの知ってるだろ馬鹿」
追求してこないのも不気味だが、されてもやはり困る。
袴でなくとも簡単に捜し出せるのだと、楽観視していて欲しい。
◇◇◇
『本来私、擬態術は専門では無いのですがねえ。“バスク語を喋れ”とかでないのは、助かりますけどねえ……』
「出来る出来ない、どっちですか」
『い、いや出来るって、出来ますとも。しかし、貴方の頭に直接会話を送る事は難しいですねえ、隣接でもしていなければねえ……』
「話をつけたら、俺の事は知人として説明すれば良いです。仕事仲間だとか、そんな具合で」
『ふふん、なるほど……』
言語に強い悪魔と取引をする為、昨晩は必死に部屋でネット検索した。
その結果、今目の前にしているカイムという悪魔と邂逅している。
すべての言語に精通し、草木とさえも話せるのだという……そんな眉唾モノの能力を持っているらしい。
『こんなヒトの様な者が来るとは、私も予測しておりませんでしたけどねえ』
「貴方も人間の形をしてますけど、俺から見れば」
『ビジネスマナーですよ。顧客の環境に合わせるというですねえ、これ常識ですねえ……あっ、遅ばせながらコレ』
ふふんと得意気な中年男性は、あご髭を指でつるりと撫でた後に、一枚の名刺を渡してきた。
カリグラフィーで綴られた文面は読めないが、傍に日本語も添えられている。
《翻訳ガイド致シマス》
《-鶇-》
恐らく……鳥の名前が書いてある、確かネットで見た時はカイムと有ったのに。
「あの、これ名前ですか」
『日本の者にはそれで昔から名乗っておりましてねえ、おや、読めませんか? 可哀想に学が無いのですねえ』
お前の知識は悪魔の能力であって、反則技だろ。
いちいち苛々させてくる、何がビジネスマナーだ。
「……色んな言語に精通してるなら、漢字ってやたらと種類有る事、御存知ですよね」
『私、普段はトリの姿をしておりまして――』
「別に貴方の名前を呼ぶ気は有りませんから。それとすいませんけど、すぐに擬態して貰います。これ、例の物です」
夜の髪の毛を渡し、木陰の方に誘導した。
カイムはひとつ唸って、樹の幹を一周し始める。
隠れた姿が反対から見えた頃には背格好も変わり、俺を切れ長な眼で見下ろしていた。
先刻まではスモックにポンチョを羽織った様な、なんとも仮装じみた姿だった訳だが。
ベレーに長マントという、そこそこ近いシルエットになってくれた。
髪の毛一本でどうしておおよその再現がされるのか、未だに謎だ。
『ほほう何やら、変化してもカラスが如き真黒な着衣……ふむ、顔は見えませんけど多分これ美青年ですねえ』
「誰なのかとか、気にしなくて結構です」
声や顔は同じなのに、言動は全く違う。
カイムは軽く己の背面を振り返り、片方の爪先を地面にトントンと叩きつけて笑った。
『はは……なぁに大丈夫ですよ、私こう見えても人の顔が憶えられなくてですねえ』
「その姿で間抜けな事云わないでくれますか」
『やれやれ、ともかく醜男よりも好印象ですから、人間の懐柔には非常に役立つと思いますねえ』
さあ、この姿で交渉させに行こうという算段だ、予選トップのアンヘルの下へ。
ただし、他チームのスポンサーとして接触しては、現在夜が支援しているチームと折り合いがつかなくなる。
全く別の方面から……いっそ単刀直入に訊いてしまえば良い。
「良いですか、適当に理由つけて“昨日着用していた指輪”に関して聞き出すんです」
『うーーむ、一番違和感が無いのは、そのブランドの販売元と偽り「貴方の此度の勝利を記念して、コラボレーションとして新作を出してみないか」と持ちかけてはどうですかねえ……』
「うわ、悪魔のくせによく尤もらしい内容思いつきますね。それでいって下さい」
『即決とは恐れ入りますねえ、もう少し危惧されては……』
「良いんです、さっさとして下さい! チームがスタンバイ始める前じゃないと、話すら聞いて貰えない筈ですから」
夜に変化したカイムの背を押して、遠目に見える関係者の通用口へと促した。
常識的に考えて、あっさり通して貰えるとは思っていない。
カイムのマントの内側は、武器の類が無かった。とりあえず危険物はクリアか。
あとは、この界隈で夜の顔がどれだけ利くのか、という所が頼みの綱だ。
(兼業で色々やってるんだ……どんな会社の代表やってたって、おかしくないだろ……大丈夫)
◇◇◇
影が濃くなってきた、太陽の位置が高くなっていく感覚。
待ちぼうけの俺は、観客席から離れた芝生の上にしゃがんでいた。
真っ白いワンピースを汚したくも無いので、尻餅を着かない様に膝を抱えて。
「Quiere una cerveza?」
どうなったろうか、ガードマンが昨日と同じなら話は早いだろう。
さあどう出る、あの指輪は非売品なのだから、アンヘルに出自が説明出来る筈が無い。
シラを切るだろうか? 拾ったと云って返してくれるか? それとも話に応じないか?
応じない事は無いだろう、だってあの指輪は……
「Quiere una cerveza?」
何度か同じ言葉を繰り返され、ようやく俺に話しかけているのだと気付き上を向く。
目の覚める様な赤いポロを着て、サンバイザーをした販売員の女性が微笑んだ。
抱えたクーラーボックスから察するに、飲料の歩き売りだ。
「いや、俺は要りませんから」
日本語は通じていないだろう、それでも無視が出来なかった。
この角度は不味い、販売員のミニスカートの内側が見えてしまう。
慌てて立ち上がりつつも一歩下がれば、同じだけぐいぐい押して来られた。
色の薄いブロンドのポニーテールが揺れ、俺の頬を掠めてくすぐったい。
『パンツが丸見えだった』
ああ、そうですね――……
と脳内で返したが、いや待て……俺は今、一体誰の言葉に同意した?
鮮明な日本語、というよりは人間の声音では無い。
その意味を持つ悪魔の言葉が、脳に直接響いてくるこの感覚。
目の前には……販売員の女性しか居ない。
「な、なっ!?」
『こんな所で無防備に座るからです。女性の器に慣れていないのですか、単にガサツなだけですか』
「誰だ……」
『カイム様より命を受けております、自分について来て下さい』
「信用して良いのか? 手下が居るとは聞いていないですけど」
『自分も貴方を信用してはおりません、人間は対価を払おうとしない輩が多い』
「っ、俺は人間じゃ――」
咄嗟の言葉が自身を切り裂く、喉笛を掻き切る。
何十年も自問自答したというのに、いざとなれば否定する。
(人間じゃない、けど……れっきとした悪魔でも無い、くせに……)
微笑んだままの女性は、黙りこくる俺を覗き込み小首を傾げた。
適当な販売員の身体を乗っ取ったのだろう……そう頭では理解しているが、そのかわいこぶった仕草にイラっと来た。
「確かに、俺は悪魔が嫌いですけどね。約束を違えたら人も悪魔も関係無く、そいつが不誠実ってだけです」
『つまり貴方は誠実であると』
「金なら有りますよ、魔貨だって宝石だって……MAGだって」
夜の口座に、家の金庫に、俺の身体に。
「悪魔相手に交渉してるんだ、当然……昨晩のやり取りで説明してあります」
怖気づいてられるか、虚仮にされて堪るか。
ボルテクスで散々な目に遭ったのだから、人間社会を食い物にする悪魔にはそれなりの振る舞いをしなくては。
『貴方が良い取引相手である事を願うのみです』
眼前で揺れる髪の尻尾を見つめつつ「それはこっちの台詞だ」と、内心毒づいた。
◇◇◇
「そういう事だそうですよレディ功刀。アンヘル殿は今回の優勝賞金をそっくりそのままくれるそうですから、指輪はこのまま所有したいと」
夜の姿のままのカイムが発する呼称に、酷い違和感を覚える。
現在女性の身体ではあるが、そんな扱いをされたくは無い。
いや……そんな事はどうでも良い。
目の前のアンヘルから目を放さぬまま、俺は静かに指示した。
「まだ優勝してないじゃないですか、この人」
「出来なかったらそれはそれで。指輪に効力が無かったと認知して頂けますので、お返し頂く事が叶う筈ですよ」
「……貴方はとりあえず、元の姿に戻って下さい」
「おや宜しいのですか、にんげ……アンヘル殿が居りますが」
「構いません、俺が落ち着かないんだ……その姿だと」
「了解致しました、それでは――」
唱えれば、カイムがゆるゆると景色に溶け込み……やがて、元の中年男性に体積を増した。
あご髭と、毛先の鋭利な黒いボブが再び存在感を放つ。
そのカイムを見た途端びくりと震えたアンヘルは、そばかすだらけの頬を掌で撫でまくっていた。
癖のある茶髪を後ろに撫でつけてあり、項の刈り上げを見ると生え際だけ金色。
俯きしきりに何か呟いているが、俺には分らない。
開かれたレーシングスーツの胸元には、懐かしい光が煌めいている。
ああ、モニター越しでも間違えてはいなかった……俺はひとまずそれに安堵した。
この選手が提げていたのは、やはり俺の指輪だ。
『さて、どうしますかねえ? 引き下がるか交渉を続けるか……』
通された先の部屋は完全な個室で、選手に与えられる本来は静かな空間なのだろう。
白い壁に適度な装飾、照明は間接的な物ばかりだ。
スタンバイの為、というよりは心を落ち着ける為の休憩室なのか。
「……とりあえず、改めて俺の意見をこの人に伝えてくれませんか」
『良いですよ、んまぁこの様子じゃあ多分アンヘルも折れませんがねえ』
「余計な口、叩かないで結構です」
『してどの様な?』
「いくら金を積まれてもそれは渡さない、その指輪は本来こちらの所有品だと主張して下さい」
『それは先程もお伝えしましたがねえ』
「俺は金には困っていない、唯一無二の物は譲れない」
『アンヘルはすっかり指輪に魅入られているのですねえ、昨日の勝ちが相当ハートに効いちゃったんですかねえ』
魅入られる、とか……此方にしてみれば迷惑な話だ。
確かにその指輪には魔力が籠められている、それでも人間の力を引き出すだとか、願いを叶える力は無い筈。
アンヘルの指には小さ過ぎたのか、チェーンに通されたままの指輪。
薄っすらとした色素の胸毛に絡まれているのが、どうしようもなくやるせない。
さっさと返してくれ、どうしてその拾った指輪が勝利を呼び寄せたと思い込むんだ。
『近い効力をもたらす悪魔を与えては如何でしょうか』
ふと呟いたのは、カイムの手下。未だに名も聞いていないが、知る必要も無いだろう。
まだ女性の体を借りたままで、ちゃっかりと室内に同席している始末。
「貴方も元に戻ったらどうです。もうアンヘルさんも、悪魔見たって驚きもしてないし」
『この人間に間借りしている時間分のビールは、既に売りました故』
「…………で、さっき云ってたの、どういう意味ですか」
『勝負に勝たせる悪魔をこの人間に憑ければ良い、という事を云いました』
抑揚も無く、あくまでも事務的に述べられた。
つまり、この悪魔には……アンヘルの感情が理解出来ないのだろう、と直感する。
俺も他者の感情を深く酌める方では無いが、人間が霊的な物に縋る所は幾度も見てきた、だから分かる。
「だったら、例えばどういう連中が居るんですか……勝利術を持ってる悪魔って」
『本来の能力を引き出す、もしくは助長させる者は大勢存在します』
「……勝てない試合に勝たせてくれる奴は?」
『結果的にそう片付けてくれそうな者なら』
「は……結果的に、ですか」
その表現が小奇麗で、思わず鼻で哂ってしまった。
願いを叶えてくれる悪魔、なんて存在しないに等しい。
他の選手を妨害したり、契約者の身体を限界以上にまで高める、そんなリスクの有る方法を取るのだろう。
『お客様、これはもういっそ貸しちゃったらどうですかねえ』
「は?」
手下とは打って変わって、どこかひょうきんな声音で横槍を入れてくるのはカイムだ。
髭を指先でピン、と弾いてからニンマリと口を歪曲させる。
『この後が決勝なのでしょ? とりあえずこのGPだけ優勝すれば、精神的に一瞬落ち着く。更なる高みを与えるアイテムとして、違う指輪を与え……今貸している方を返して頂く、と。そんなシナリオはどうですかねえ?』
「俺、明日には帰国するんですが。それまでに代用品とか、用意出来ません」
『はは……それこそ観客席を巡れば、わざわざくすねずとも、指輪の落し物のひとつくらい有るでしょうねえ』
流石は悪魔、考える事がせこい。
俺はカイムの案を否定せずに、視線をその手下へと流した。
手下悪魔はポニーテールを片手で払い、ゆっくりと瞬きをして唱える。
『料金は割増です』
「構いません」
『ではケース内のビールが売り切れるまで、ひとまず巡回して参ります』
俺に料金確認をするや否や、カイムへと一礼し、ボックスを抱えたまま扉を開けて退室するそいつ。
閉まろうとするその隙間から、満面のサービススマイルがちらりと覗き……
流石は悪魔だ、と幾度目かの溜息が出た。
『にしても回りくどいですねえ』
「何が」
『拾った物を返さないと云っておるのですよこの人間、シメちゃっても良いと思いませんかねえ?』
「俺は人間に手を上げたくないんです」
いくら当人が理解出来ない言語で喋っているとはいえ、あまりにも堂々と云ってのけるカイム。
そういえば、この悪魔に貰った名刺……しまう場所も無くて、未だに指に携えたままだ。
こういう事が有るから、ポケットのあるパンツを買って欲しかったんだ、ワークパンツみたいなのを。
『物理ダメージを避けて、一時的にダウンさせる事も可能ですけどねえ』
「こんな理由でGPを中断させたくない」
『ははあ〜確かに、勝負事に水を差す事を嫌う悪魔も居ますけどねえ』
……違う。
本当は、大事にしたくないだけだ。
この瞬間バレるよりも、なんとか奪回してからバレた方がマシというもの。
元はと云えば、落としてしまった俺の落ち度なのだと……貶される事は分かっている。
『そうそう、アンヘル殿ですけどね、今期はどうしても勝ちたいそうですよ。家族に申し訳が立たないんですとねえ』
「誰だってプレッシャー背負って勝負してるんですから、贔屓は出来ません」
『クヌギ様が来られるまで、身の上話をフル回転でされましてねえ、同情を引いてでも勝ちたいのでしょうねえ』
「別に喋らなくていい」
『身内を見返してやりたくて、どうやら頑張って契約選手になったみたいでしてねえ。なんでも弟さんに怪我をさせてしまったとかで? バイクのタンデム中に……』
「だから、しなくて良いって云ってるでしょう」
『いやいや、後々で“聴いていない”と云われては困りますのでねえ』
片手を腰に当て、頷くカイム。余計なお世話という訳でもなく、自己防衛の為だと主張された。
悪魔に人情など求めてはいないが、これはこれで厄介だと感じる。
用意されたソファに座るまま、俺は更に項垂れて耳を塞いだ。
『後遺症の残った弟さんだけらしいですよ、応援してくれてるの。いやあ態とじゃないだろうに、人間の絆ってのも面倒ですねえ、親御さん等も冷たいものですねえ』
「子供が傷付いたら、原因が身内でも許せない事も有る」
ああ、やってしまった。自分で聴かまいとしておきながら、思わず口を挟んでしまった。
だって仕方がないだろう、加害者も被害者も我が子なら。
このアンヘルだって、親に責められようが勝負事へと発散出来ている事態に、まだ救いが有る。
他の家の事情に、他人が憶測で貶して良いとは思えない。
『ははあ成程、クヌギ様は愛されて育てられたのですねえ』
「その母親殺したのは俺ですけど」
『これはたまげた、そういえば今回落とされたのは結婚指輪とか? 子を持つ親の気持ちが分かるーという事ですかねえ?』
「毎回死産ですけど」
弄り過ぎたのか、カイムの髭先はほつれ始めている。
『――ええと、アンヘル殿の話に戻りますけれど。子供の頃は、よくグエル公園で蜥蜴の頭を撫でたんだとか。仲が宜しい御兄弟で、常に対等でありたいのだとか……』
「はあ……」
『そうそう蜥蜴好きが高じて、二人してペットとして買っているんですと。 好きなワインもSALA・Salam――』
「……あの、もしかして人間の世間話が好きなんですか貴方」
『へっ?』
「交渉を持ちかける際にも、提案する事例が妙にリアリティ有ったし……」
『ま、まあ顧客の半分は人間ですからねえ? 職業柄ってやつですねえ』
その割に人の顔は憶えられないのか、と突っ込みを入れそうになったが。ワンピースの膝を握って、何とか耐えた。
『カイム様、お待たせを致しました』
扉が開くより先に、あの悪魔の声が脳内に響き渡った。
一寸遅れる形で、女性の姿のままの手下が部屋につかつかと侵入する。
『ふむふむ御苦労ですねえ』
『あまり長く放置すると、貴方様の口が止みませんので』
『だーいじょうぶ大丈夫、余計な事は何も囀っていないですよ』
もう手遅れだ、鳥に鳴くのを止めろというに等しいだろう。
手下悪魔に同情するものか、と。俺は頑なに座ったままで居た。
すると、その悪魔の方から握り拳を差し出されたので、警戒に四肢がぎゅうっと強張った。
『指輪、入手しました』
「……は、随分と早かったですね」
上向きになった拳が、花の様に開かれる。
女性の華奢な掌の上で、室内灯に煌めく金属の輪達。
『あまり安物過ぎても信憑性に欠けると思い、そこそこの物を複数回収してから戻りました故』
ルビーやエメラルドが填まったもの、輪の素材は金、銀、プラチナ……複雑な細工の真鍮も有る。
その中で一際異彩を放つ輪を、俺は摘まみ上げた。
「これは」
『やはりそれを選びますか、呪力を感じますね』
「何処で拾った」
『他は拾い物ですが、それだけは所有者から直接頂いた物です』
「どういう経緯で」
『……? ビール一缶と交換してくれ、と――』
「あの野郎ッ!!」
立ち上がり吠える俺に、一同が静止した。
そこへ張りつめた空気を引き裂く様にして、勢い良く扉が開かれる。
チームのスタッフだろう。アンヘルのスーツのメインカラーと同じ、黒を強調したシャツを着ている。
不審気に俺を見た後、カイムの手下……もとい、販売員の女性を眺めた。
しかし、この面子の中では一番怪しい形をしたカイムが、スタッフにはスルーされているのを感じる。
隠し身でもしているのだろうか。
もはや今の俺には“視えない様にする”事が難しいから、普通の人間の視点は推測しか出来ない。
『吃驚したあ、クヌギ様、どうされたのですかねえ』
「ちょっと、この指輪の持ち主の所に行きます」
スタッフは此方を気にしながらも、アンヘルが招き入れた事は承知しているので、敢えて触れては来ない様子だ。
俺もカイムと話してはいるが、会話相手が空気に見えては不味いので、人の形である販売員へと身体を向けて誤魔化した。
『はあ? 持ち主の見当がついているのですかねえ?』
「ついてます」
『……ちょっと待って下さい、今アンヘル殿のお仲間が…………ふむ、どうやらそろそろ準備に入る様子ですよ』
「俺は観客席に戻りますから、とりあえずこの試合が終わってからアンヘルと話はつけましょう」
『代用に提示する指輪は……』
「貴方の手下が持ってきた他のやつから、適当に突き出せば良いです。とにかくこの指輪だけは、絶対駄目ですから」
『それが一番上等なのに勿体無いですねえ、あっ、ちょっと――』
(駄目だ、駄目だ駄目だ)
取り上げた指輪を、咄嗟に左手の薬指に填めた。
部屋を出て、慌ただしくなってきた通路を掻い潜り、ピットクルーが怪訝な眼で見てこようとお構いなしだ。
関係者には見えぬであろう風貌の俺は、最短距離である路上を横切って観客席の最前列へと向かう。
試合開始より少し早いとはいえ、観客の視線はそこそこコースに向いている。
つまり、異物である俺が目に付き易いだろう。
すぐ目の前の男女が、何かを発してきた。翻訳も居ないし、意味は分からない。
「Guau!」
「Que te pasa?」
既に視野には入っている、有象無象にしか見えない人間達の隙間から、真っ黒な闇の色が。
フェンスに手を掛け、一瞬で駆け上った。頂点に達したのを見計らい、ブーツの先で蹴り発つ。
一気に最後列へと跳んだので、俺が消えた様に見えたらしい。
少しざわついた最前列の客達が、辺りを見渡しては首を傾げているのが見えた。
白いワンピースが太陽の陽を反射して、眩しかったろう。
海外の幽霊は鮮明に視えるそうだから、勘違いされたかもしれない。
そんな戯言で自ら白けてみたかったが、沸騰した頭はなかなか冷めそうにない。
「おい」
中央辺りの席……真黒い影に背面から声を掛けつつ、空けられたままの隣に座る。
「おかえり」
「美味そうな物、持ってるじゃないか」
「飲むかい、まだ開けてはないが冷えているよ」
夜の手にする缶ビールを、左手で鷲掴みに奪い取る。
数本の指がめり込む感触の後、追う様にして冷たい液が手首まで伝い始めた。
「斬新な開け方をするねえ、飲み辛そうだが」
「左手見せろ」
「どうしたのだい功刀君……フフ……眼が金色だよ」
「いいから左手を出せって云ってるんだ」
「そのまま切り落としそうな血気だね」
「してやろうか」
「良いねえ、《栄光の手》は入手困難だから、高く売れるのだよ」
平然とした横っ面を、ぶん殴りたくなる。
その衝動を右手に籠めて、夜の左手を掴み引き寄せた。
薬指を凝視する、やはり無い。
それはそうだ、俺が今持ってきた指輪こそが……
「あんた、指輪を手放したろ」
「そうだねえ」
「どういう事だよ」
「さて、どうしてかね……ふっと手放しても良いかな、と思えたのだよ」
様々な想いが込み上げてくるが、どれを吐き出すのが最善なのか分らない。
これは戸惑い、だ。
今、俺のビール塗れの左指に光る指輪は……恐らく夜の物だ。
ついさっき売りとばした物を、俺が身に着けているとは……思わないだろう。
そうだ、錯覚してくれ、勘違いしてくれ。
この左手の薬指に輝くのは“俺の結婚指輪”だ。
「結婚の証とか、そういうつもりで渡してきたんじゃないのか? おい」
「そうだね、僕にしては珍しい《愛情の象徴》みたいな贈り物をしてしまったと、今なら云えるよ」
「……後悔、してるのか」
「黒歴史ってやつかね」
「な、っんだよ何だよそれふざけんなよ一昨日だって指に填めたままヤってるし乱雑に放るし扱いが普段から雑っていうかあんた俺を無理矢理娶っておいて結婚指輪だけが黒歴史とか何ほざいてやがるそれなら百合さんにわざわざ作らせるとか「玩具の様な物さ」って指に填めてきてサプライズプレゼントとかくっそ気障ったらしい事しておきながら今更……今更、黒歴史だと!?」
どれを吐き出せば良いか分らなかった反面、濁流の様に溢れた罵倒。
自分でも耳が熱くなる様な、酷く感情的な内容。
どれを切り取っても、行動の真意を問う様なものでは無い。
「そろそろ始まるけれど、観て行かないのかい。それとも他所で喧嘩する? 此処でするのはねえ、ククッ……人間を巻き込みたい君では無いだろう?」
床に垂れたビールを避けて、溜息しつつ席へと着座した。
左の缶から指を抜き、ぐしゃりと握り潰して、更に拳の中で圧縮した。
各チームのピットが賑やかになり、選手達がスタート位置に整列を始めた。
開始音と同時に各々の愛車へと駆け、跨り発進する。
アンヘルの黒いマシンが先陣を切って躍り出るのを見て、拳の中の缶がビー玉の様に小さくなっていった。
返却しない彼が悪なのか、落とした俺が悪なのか、気紛れに売った夜が悪なのか。
発生した事象が多過ぎて、処理し切れない。
俺はただただ、色とりどりのマシンがサーキットを周回する様を眺めていた。
(これで優勝したら、俺の指輪を手放す気は失せそうだな)
(優勝出来なかったら、返して貰えるのか?)
黒いマシンを見つめる、クラッシュしろと何処かで願う自分が居る。
せめぎ合う男達、メットの中の視線は透視でもしなければ読めない。
誰かの勝利は誰かの敗北で、誰かの不安は誰かの安堵で。
(死なない程度に、転けてしまえば――)
先にはキツいカーブ、早めの減速を始めなければいけない地点。
まさにこのエリアを過ぎる瞬間、集中しなければならない。
「あっ」
軌道のずれた一台が、イエローフラッグの傍を突き抜けて往く。
弾丸の様に突っ込んだ黒いマシンは、運転手をぽぉんと放り出して独りでに滑走していった。
(俺が願ったから? まさか、偶然だろ――)
恐らくハイサイドだ、あれが起こると最早制御は難しい。
「見事に吹っ飛んだね、ちゃんと生きてるのかな?」
さほど心配そうでもない夜の声が、俺の不安を煽った。
人形の様に力無く転がっているアンヘルは、幸いな事に路上から外れた地点に居た。
ひとまず後続車に轢かれる事は無い、打ち所が悪ければ命に関わるが……
「いや、生きてる……生きてるだろ」
「何故君がそんなに怯えているのだい」
「ほ、ほら見ろ、動いてるし」
もぞりと四肢を動かし始めたアンヘルに、周囲の観客も胸を撫で下ろしている。
さあどうだ、これで指輪に効力が無い事は証明されただろう。
大人しく俺に返すんだ、トップを掴みたければ自分でなんとかしてくれ――……
(何してるんだ、あの男、何を探って)
胸を掻き毟るアンヘルの動作に、遠目に見ている者達はまだ不安を拭い切れない。
俺はそれ以上に、嫌な予感を抱いていた。
スーツの首を寛がせ、何かを引き出すその仕草。どう考えてもチェーンを掴もうとしている。
(この期に及んで、指輪に縋るのか?)
分厚いグローブではもどかしいのか、それを放り素の指先で指輪を引っ張り出していた。
チェーンの輪を開け、其処から指輪を外すアンヘル。
あと少しでレスキューの担架がお前の下に辿り着くんだ、余計な事はしないでくれ、頼む。
その指輪は幸運のアイテムじゃない、邪道に近付くだけだ、やめろ。
他の人間に明け渡した事が無いんだ……俺にもどうなるか分らないのに!
祈りながら填めれば、時が停まって悪魔と契約出来るとでも思ったのだろうか。
凝視すれば、サイズの合わないそれを無理矢理小指に填めた瞬間が見えた。
途端に悲鳴を上げ、再度倒れ込みのたうつアンヘル。
魔的な焔が轟々と彼を包んでいる、それは不可視の火。
肉体を焦がす熱は無いが、魂を蝕む気配が判る。
「それを外せえぇッ!」
殆どの者は理解していないであろう日本語で、俺は雄叫びを上げていた。
観客に紛れていた野次馬悪魔達が、怒号に萎縮する。
普通の人には視えぬ焔は、アンヘルが指輪を弾く様に指から抜き取ると、ようやく鎮火した。
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