脆い鞭


 泡が、舌上でぱちぱちと嗤う。サマナー客の会話、グラスとマドラーの接触、卓上に撒かれる金銭、鉱物、管の音……そんな喧噪をモノともせずに、僕の中でぱちぱちと。
 純粋なソォダ水は久々だった。酒と違い、後追いに昇る熱が無い。それでも炭酸が多少は仕事をしてくれた、もっと不味い記憶をしていたが、それは僕が〝気の抜けたもの〟ばかり飲んでいた所為と思い出す。そう、ルイが頼んでおきながら一切口にしない時に、決まって僕が飲み干していたのだ。風味だけはぼんやり甘く、しかも温い。その後味の悪さにかこつけて、口直しさせろと小突いた帰り道──
 
 泡もすべて爆ぜ、味気無い回顧から離れた頃。右隣の男に〝独りか〟と訊ねられた。英語だ、それも英国訛りの。カウンター席に座れば珍しくも無い出来事、意図が見えぬ奴は適当にあしらえば良い。
「As you can see(御覧の通り)」
 すればお次は〝ゴウト童子は居ないのか〟ときた。なるほど話が早い、此方の事は知っている様だ。ちなみに僕が童子を邪険にしたのではない、彼の方から『しばらく依頼を断て』と云われ、銀楼閣を出てきたのだ。確かに、ここ最近は休む事無く動いていた、あの猫も畜生ながらに疲れたのだろう。なにせ監視に同行せねばならぬ、僕に仕事を増やされているも同然という事だ。
 それからひとつふたつ、いかにもサマナーらしい話題を横から投げられた。あの悪魔は何処に居るかだの、希少価値の高い名刺を買い取るだの……我々にとって、つまらなくは無いが、ありきたりな内容だ。これを長時間続けるのであれば話術が求められる、しかし隣の異国人から其のスキルは感じ取れぬ。いよいよ欲しい悪魔は居ないのかだの、捜し物や尋ね人は無いか、などと釣り糸を垂らし始めた為、僕は喉で哂ってしまった。
 お隣さんはサイドの波打った山高帽にスーツ、フロックコートは薄手のウールか、鶯色で統一されている。シャンデリアに照らされ時折輝くうなじ、横目に其れを見て〝タイプの違う金髪だな〟と頭の片隅に思う。
「You wanna do it?(したい訳?)」
 単刀直入に訊いてやれば、隣のサマナーよりも早く、周辺一部の客が静止した。そして何も聴かなかった振りで、各々の時間に戻ってゆく。
 今まで通り、不良書生のガワを纏った猥雑サマナーと認識されていれば良い。新世界がアウトローのサロンだろうが、僕ほど外れた奴もそう居らぬだろう、何も変わる事は無い。
 金の毛並みを猫じゃらしが如く追う僕こそが、もはや黒猫の様であった。 
 
 
 銀座でタクシーを拾い、僕をエスコートするサマナー。先程の挑発に対して意外と前のめりにならず、程々に紳士的である。行き先を記したであろうメモ、渡された運転士が読み上げ、彼はイエスと頷く。何の因果か、其処は以前ルイと泊まったホテルだ。車窓を徐に、ぽつりぽつりと雨粒が飾り始める。携帯していた蝙蝠傘のハンドルを、それとなく握る、悪天候は察していた。紳士に〝冷えるのか〟と問われたが、そうでは無いとだけ返す。一瞬、刀の柄を握りしめたと勘違いされたのだろう……心配よりも緊張が伝わってきた。心配無用、車内で得物を抜刀する事は大変難しい。

 ホテルのフロントは、先日と違う従業員だった。しかし、このいでたちで宿泊する僕は記憶に残り易いであろう。どの様に噂されるかな、西洋人を食い散らかす書生だろうか。僕が葛葉ライドウと知る者であれば、ただ納得するに終わるだけか。
〝Is it possible for one more person to stay in the room that I have booked?〟
 紳士が伺うと、従業員は快諾し料金を説明し始めた。こうして勝手に追加された僕は、今宵予約してあるという部屋に連れられた。先日宿泊した階の、ひとつ上だった。部屋の間取りは同一で、調度品の趣にやや差異が有る。カーテンの隙間からは暗闇が零れ、海は見えそうにない。
 紳士はCallum(鳩)と名乗った、恐らく真名ではあるまい。背は此方より頭一つ高く、ポンパドールの様にして短髪を固めていた。暗黙の了解で、まずは互いの身体検査から。上着を一枚脱げば装備が露わとなる。向こうはシンプルに銃とナイフ、サスペンダーに管を複数。シャツまで剥いた時点で鳩胸と判る為、視線で指しつつ「A pigeon, for sure(確かに鳩だ)」と唱えれば、軽やかに笑っていた。
 
 恐ろしいくらいに嫌味の無い、性質とプレイ。そんな行為(というより相手)は珍しく、沿う様に押し引きすれば、僕は只の水と為る。身体の反射も呻きも、掻き乱した際の泡沫。浸食され、緊満した其処をつつけば爆ぜるだけ。僕の垂らす体液に、MAGを求めるにせよそうでないにせよ、ひたすら舐め回す姿は滑稽に映る。
 最初は僕の背面を見るなり声を上げた彼だが、現在痛む傷は無いと伝えれば、それからは気にしていない様子。サマナーに生傷はつきものだが、これが悪魔から与えられたものでは無い事くらいは察したのだろう。
「May I smoke?(吸っても?)」
 余韻に耽りムスコ共々ぐったりしている鳩紳士に問えば〝もちろん〟と返す彼。薄暗闇の中で、金髪は仄白く見える。僕の黒髪は夜の空気に溶け込むと、以前云われた事を、声を思い出す。
(やたら思い出して、我ながら莫迦げている)
 カーテンを開き、窓を開放した。雨は真っ直ぐ降り落ちて、風も無い。雲は薄いが、月は隠され鬱血が如く滲んでいる。
 月光も無し、照明はベッドサイドのみ、しかも四階だ、軍人が見張り歩いていたとして、何も気にする事は無い。僕は全裸のままでテーブルに乗り上げ、窓の縁に片脚を下ろした。灰皿とセットで置かれたマッチを擦り、潮に雑じる赤燐の匂いを吸った、続いて煙草を咥える。
 燻される毒を味わいながら、外を眺めた。水平線も判らぬ黒い海……確かルイを見送ったあの時も、こんな具合の小雨だった。湿気のせいか記憶のせいか、背中が引き攣る。鳩紳士には平気だと云いながら、日の浅い傷がいくつか有った。あの日、見送り、里に行き、打たれた、予測通り。
 単に〝すっぽかした〟だけならば、嫌味か軽い暴力で終わったろう。僕は明らかに、異国へ逃亡すると疑われていた。面妖な西洋人と何かを企んでいるのではないかと、吐けと打たれ詰られ……半ば拷問の様な仕置きであった。痛いといえば痛いが、ただそれだけ。犯され喘ぐ事や、畜生の様に鳴く事は、まだ演じられる。しかし痛みに啼く事だけは、気が許さない。打たれ、情けなく悲鳴するなぞ、そんな堪え難い事は──
「……」
 唇の放した煙草を、咄嗟に指で引き戻す。雨濡れに乱反射する石畳の上、人影がぽつんと居る事に気付いてはいたが。徐々に顕わになるシルエットに、この身が粟立つ。互いに顔を識別出来る距離では無い、それでも感じた、あれは……あの男は、ルイ・サイファであると。
 
 何故此処に、日本に居る? 渡航日数から計算すれば帰国出来る筈もない。気の迷いが見せる幻覚か、それとも何者かが差し向けた贋者か。様々な可能性が巡っては、結局ひとつに拠れてゆく。あの男なら……何があっても、おかしくは無いからだ。
 灰皿に煙草を叩きつけると、転がり落ちる様にして窓辺から離れた。僕の咄嗟の動きに対し、寝台の鳩紳士も上体を起こしつつ〝何かあったのか〟と潜め声で云った。当然、詳細を教えるつもりは無い。
「Sorry but I’m gonna bail(悪いが、帰りたい)」
 そう返せば、彼は分かり易い落胆の仕草を見せた。逆上し襲ってくる事もしないのだから、僕を抱いてきた面子においては、だいぶ理性的な方である。
 鳩紳士はよろりと寝台から降り、ガウンだけを着込む。そして自身の荷物に近付くと、管を選別し始めた。
 身体の対価は悪魔払い、という条件で承諾したので、今から引き渡しにかかるのだろう。管と管の触れ合う、硬質で澄んだ囁きが部屋に響く。管というのは、触れれば宿る悪魔がサマナーには判る(少なくとも主人であれば)つまり、あの指先の彷徨いは……何を提示するか迷っているという、優柔不断の表れだ。この際、頂戴する悪魔は何でも良い、とにかく早くして欲しい、しかしサマナーとしては理解出来る。
 無言のまま待てば、次第に雨音が目立ち始めた。ふと窓を見やれば、カーテンも忙しなく踊っている。僕は間合いを詰める様にして、再び窓へと近付く。見下ろせば案の定……此方を見上げる姿が有った。ジャケットとハンチング帽が、雨に打たれて沈んだ色をしている。黒革の手袋をひらりと上げ、いつもの淡白な笑顔で手を振る西洋人。その唇が〝ライドウ〟と紡いだ後に〝ヨル〟と塗り替えてきた。
 締める時間も惜しいので、素肌にスラックスを穿き込んだ。シャツの上から外套で覆い隠し、乱れた髪を帽子に収めて。鳩紳士には「窓から私物を落としたので、拾いに行く」と適当を云い、蝙蝠傘を掴み部屋を出る。フロント従業員の一瞥を流しつつ、表へ抜ければ強い雨脚。ガス灯の光が引き裂かれた様に、暗闇に揺らめいていた。
「ルイ」
 一帯を目視確認する、気配を探る、見当たらぬ。
「ルイ!」
 声を大きくしたが、やはり反応は無い。忽然と消えてしまったというのに、内心どこかで納得をしていた。
 寧ろ僕だ、何故直接来てしまった、窓から此の傘を投げれば渡せたではないか。そう……借り物を返せば〝用事は済んだ〟と、それこそ奴が完全消失する予感が有ったからだ。しかし現実はこの通り、どうやらルイは持ち物に未練が無いらしい。
 先程と同じ従業員が「お帰りなさいませ」と律儀に挨拶し、傘の水滴を拭ってくれる。厚い対応に薄い礼を述べた僕は、無心のまま元の部屋へ向かう。譲渡する悪魔も、いい加減決まった頃だろう。部屋番号を確認、軽くノックし数秒待てば、ドアノブが傾いた。僕は咄嗟に一歩引き、半身のまま構えて睨む。隙間から覗くは鳩紳士にあらず、ルイだった。
「おかえりライドウ」
 いつ擦れ違った、いや他のルートから入ったのか。そもそも本物なのか、鳩紳士の悪戯か、ルイの要素を入手せねば擬態出来ぬ筈、ではこいつは何者だ。
「部屋に居た男性は」
「訪ねた時には居なかったな」
 ルイを押し退ける様に侵入すると、まず荷物を確認した。やはり残っている……スーツもコートも帽子も武器も。そしてソファ前のテーブル上に、放置された管達も。これら一式を置いて何処へ往けるというのだ、ガウン一枚ではフロントで止められるだろう。ではホテル内を放浪しているのか、いや理由が無い。
「もしやルイ、君が化けていたのか」
「何に?」
「……新世界で、僕を口説いた男にだよ」
「へえ、口説かれて一緒に泊まってたのかい、ライドウ」
 再会早々、一体何の話をしているのだ。
「其処は僕の勝手だろう。君が真にルイ・サイファという人物なのか、先ずは証明してくれ給え」
 背後に自身の荷物が来るよう、移動しながら要求した。思えば外に飛び出した際、武器すら携帯しなかった、愚かしい……この状況も、すべて。


-----◇-----

 証明せよとは、また難しい事を云う。ぼくは人間としての証明物品を持っていない。正体を知らぬ君に対し、魔王の証を出すわけにもいかない。大体、人間は何を基準に判別されているのだ、例えば目の前の……
「ねえライドウ、君がライドウである証明をしてみせて」
「何だと」
「ああそうだ、君は葛葉ライドウの十四代目である前に紺野夜だった。では、夜である証明をしてよ。この国だと〝戸籍〟と云うのだったかね、それこそ以前、君がもののついでに教えてくれた」
「僕に有る訳無いだろう、出自不明の孤児だぞ」
「その程度、ヤタガラスが用意するものでは」
「ククッ……されておらぬよ、その方が都合好いそうだからね。葛葉となりし狐、その価値だけが僕に仮初の権利をもたらす」
 目の前の君は、ぼくを睨むまま。全身で警戒しているのが分かる、しかしその強張りは自制の様にも感じる。こちらに飛び掛かるのを抑えているのかな、何の為に掛かって来るのか知れないが。
「戸籍同様、名刺を出したところで只の紙、そんな物は幾らでも偽装可能だ。姿形は、擬態術で誤魔化せる。何であれば納得するのか、提示してくれ給え」
「そのままお返しするよライドウ。君の方こそ、ぼくが何を示せば納得するのか、ヒントくらいは欲しいな」
「……僕の貸した本」
 ぽつりと呟かれた言葉で、ぼくも綺麗に思い当たる。鞄の留金を開き、暗闇を漁った。するりと抜き出したファウストを差し出せば、一瞬で氷解したMAGを感じる。
「ところで、読んだのかい」
「勿論、紐の挟まれていたページを諳んじてみせようか」
「いいや結構。君、文を憶えているだけで内容は解っていないだろうから」
 本を受け取るライドウは、換わりに傘を寄越してきた。そうそう、こんな物も預けてあったな。人間はずうっと濡れている訳にいかず、防御せねば風邪をひくとの事だったから、このなりきり道具にもお世話になったものだ。
「再会を祝したい所ではあるが、男の行方が知れないときた」
 外套を脱ぎつつ云うライドウだが、ぼくはノーコメント。だって、その男がどのようにして〝出て行った〟かを、知っているから。
「その人が戻って来るまで、ぼくは此処に居ても?」
「……構わぬかと」
「そう、ではゆっくりさせていただくよ」
 傘は壁のフックに掛け、雨露に湿ったジャケットを脱いでソファの背に放る。二つ並んだベッドのうち一つに寄り、眺めていた。白い水面を掻いた跡が、記憶の手癖と一致する。
「隣の方をお薦めするよ」
「何故」
「そちらは使用済み」
「二人で寝たの?」
「百を知るまで質問責めする癖に、どうしていちいち一ずつ訊くのかね君は」
「ライドウの洒落を聴くのも久々だな」
「新世界で口説かれた、僕は誘いに乗った、その寝台でセックスした、これで満足かい」
 口早に経緯を語るライドウ、内容に嘘は無い、けれど肝心な部分は欠落している。
 先刻、窓を見上げたぼくと眼を合わせたよね、あの瞬間、君は珍しく隙だらけだった。意図せずぼくは吸い込み、君は溢れさせてしまった。流れ落ちた君の意識は、ヒトに標準を合わせたぼくにとって、分かりやすい絵画と化す。
 描かれる光景には、ぼくの器だらけ。ソォダ水を飲んでいたり、銀座の道路に飛び出したところを君の腕が引き戻したり、何度擦ってもマッチに点火出来なかったり、断崖で海を眺めていたり。風に煽がれたぼくの髪は、沈みゆく太陽を透かし黄金に輝いていた、そこへ君の指が絡み、いやぼくの髪に絡めとられた君の腕が、落ち着く場所を求め彷徨い、やがて戸惑いがちに縋る──
「君はぼくを求めていた、違うの」
 率直な結論だが、返事は無い。ライドウは畳み置いた外套の上にポンと本を放ると、此方に背を向けたままじっとしていた。断りもなく、ぼくは背後に立つ。
「金髪の人間であれば良いのかな」
 振り向きざまに頬を打たれ、ハンチング帽がほろりと絨毯に落ちた。痛みは微塵も無く、ジンとした鳴動は瞬く間に消える。ぼくを攻撃した君は、どんな表情をしているのだろう、予測がつかないのでライドウを真正面から堂々見据えた。しかし俯かれ、あまり見えなかった。
「……………………ごめん」
 消え入りそうな声だが、鮮明に聴こえた。これまで謝罪めいた相槌は幾度か貰ってきた、だが今の言葉は初めてだ。確かこの国の謝罪文に違いない筈、ならば猶更わからない。
「何に対して?」
「ルイが不快に思ったかもしれないと」
「ああ、叩いた事に対する謝罪とは違うのか」
「それも兼ねよう」
「叩いたという事は、怒りを感じたのだろうライドウ、何故?」
「……そんな事まで曝さねばならぬのか、君の鈍感には呆れる」
 謝罪の次には嘲弄するライドウ、その方が見慣れた姿と感じる。でもどうしてか、一瞬見せた先刻の面を、ぼくはもう一度見たい。
「だってライドウ、ぼくが不快に思う事など、何処にある? 君が何をしようと、君の生なのだから勝手にすると良い。誰と遊ぼうが、ぼくの代わりを探そうが自由だろう。それとも、ぼくが不快を感じる事こそが、望みだったか?」
「そんな意図、有る筈が──」
「怒りも悲しみも無いよライドウ。ぼくの事、やはり何も知らないのだね」
 いい加減見えない顔を、こめかみに両手をあてがい上向かす。血色が良い、というよりは紅潮していた。悪酔いも、まぐわいもしていないのに。そして、震えている。表情は……ぼくには判断出来なかった、とりあえず歓びは無いと思う。
「いいよ夜、望みをあげる」
 額に口付け、学帽を落としてやった。強張る君の腕を引き、拒絶を無視して〝使用済み〟の水面に押し倒す。以前にも感じたが、押せば逃げるのだね君は。一定の満ち引きを繰る波とは違う、いかにも人間的。
「抱けとは一言も云ってない」
「本当だ、ぼくとは別の金髪が落ちてる」
「せめて隣にし給え」
「君は指摘して欲しい、詰って欲しい、そうなのだろう夜」
「莫迦を云え、何故僕が……」
 首筋に舌を這わせば、息をひきつらせた君。啄ばみつつシャツを開き、顕わになった胸元を今度は吸う。声を殺せば、心音が目立つのに。
「ね、この辺り、しつこく舐められた?」
「は……っ」
「別の人間の味がする」
「どうでも良いのなら、何故抱く」
「夜こそ何故、どうでも良い人間達に抱かれる。ぼく以外に身体を許さぬと、そんな事が出来るのかい」
「散々話してきただろうが、僕の生まれと立場と」
「それらと引き換えにする程の価値や信用が、ぼくには無い、そういう事だよ。だから見送りに来てはくれたが、国を離れる決意は無かった、これまでの己が崩れてしまうからだ。既に葛葉ライドウと君は一体化している、最早切り離す事は出来ない」
 上体を起こせば、ライドウの腹をくすぐるぼくの髪。微かな身じろぎと、悦楽の滲む溜息を聞いた。
「日常的には《ライドウ》が抱かれるのであり、本来の己が望むものではないと云っていたね君。そもそも性交は侵略行為だと。では今回、誘いに乗ったのはどういう事だろう。機関の人間だった? 恩を売っておきたい相手だった?」
 馬乗りのままスラックスを解いてやれば、下穿きが無かった。今問い詰めるべき事情では無い気がして、そのままずるりと剥ぐ。
「……立場も機関も関係ない、恐らく相手もそのつもりで僕を誘っていた」
「一目惚れ?」
「違う」
「セックスがしたかった?」
「違う」
「違わないよ、承諾したのだろう?」
「それが目的な訳無いだろう! 僕は──」
 他者の臭いが残るシーツに押し付けたまま、囁く。
「ぼくを求めていたと云いなさい、夜」
 窘め、貶め、耳を舐め、呪いの様に。
「過剰な愛欲も、性交も畏れる君にとって、ぼくはとっておきの遊び相手だろう。しかしぼくは留まらない、再び日本に戻って来たのも気紛れ。ではぼくを縛るかね、それも出来ない。君が焦がれるは自由や強さ、その前者をぼくに見出したのだから」
「ルイ……」
「支配するより、される方が易いと思っていたのだろう。残念だったね、ぼくに執着が無くて」
 会話しながら準備出来るとは、ぼくもある意味で君に調教されたと見える。
「っあ……はっ、ぁ」
「油は必要? 要らないかな、拡げると垂れてくる、何回出してもらったの?」
「教える義理は無い……」
「背中を見せて」
「人の話を聞いてるのか」
「そうだな、傷の増えた分だけ、ぼくも打ってあげる」
 じゃれつくように引っ繰り返し、シャツを完全に取り払う。相変わらず君の背中は砂嵐のようだが、最後に見た記憶と照らし合わせれば、どの傷が新しいものかすぐ判る。
「四十近く打たれた?」
「既に数えるのも飽いたよ」
「此処、一番治りが遅い」
 右肩近くの傷を舌でなぞると、シーツに爪を立てる君。きっと、鞭の時は轡など噛まされているだろうね、歯を割ってしまうから。それとも、もう奥歯は砕けてたりするのだろうか。散々これまで舌で蹂躙したのに、憶えていない。
「どんなに酷く打たれようが、君は泣き叫ばないのだろう。だからね、ぼくはこっちで打ってあげる」
 君に丁度良く誂えた、いつも通りの〝形と硬さ〟で、引き締まった臀部をひたりと撫でた。懐かしさの震えか、ただの反射か、それとも恐怖か。ライドウは額をシーツに擦り付け、ぼくから目を背けた。その脇腹に手を差し入れて、ぐいと腰を持ち上げる。
「……っ……ぐぅッ」
 呻くライドウに構わず、行き止まりまで挿入した。情交の忘れ形見が、滑りを好くしてくれている。その事実はライドウにとって恥なのか快感なのか、この反応では判らない。
「四十までに君は悲鳴してしまうだろうな、ふふ……」
 ゆっくり、ゆっくりと、犯してゆく。十ほど穿った頃に手袋を外し、素手で直に触れ回る。肌の上を、皮の下を、脈の中を……MAGが踊り狂っていた。薄暗い部屋に淡く散る、儚い光。窓から吹き込む風と雷光に、掻き消されてはまた浮かぶ。グラス越しに君を見つめた時を、記憶から引き出しては思い描く。炭酸の泡は水面で消えるが、ループしたかの如く底面から生まれる。ただしいつかは枯渇する、中の〝気〟は有限なのだ、生体のMAGと同様。
「十……十二……十三……十四……十五……」
 第三者の体液が、ぼくの男性器(に形作った凸)にまとわりつく。でも、それだけではないね、君の匂いが立ち昇って来たから。確認がてら前を触ってあげようか思考し、やめた。
「は……はぁァ……はッ…………っぐ……」
「三十九……四十…………おやおや、本当に鳴かずに終わった、偉いね夜」
 宣告通りの回数までライドウは、喘ぎになりきらぬ呻きを洩らすのみだった。ずるんと抜いてから、肩を掴んで仰向けにさせる。ライドウのモノは本人と連動せず、ただただ不随意に呼吸して、まるで〝しゃっくり〟の様だ。達したか否か定かで無いが、先端が潤んでいる。乱れ崩れた黒髪の隙間、ぼくを射る眼光がぱちり、ぱちりと明滅した。
「別の人間と遊んだ君に不快を感じ、仕置きした。これでいい?」
 傍らに寄り添い、前髪を梳いてあげる。顕わになった面立ちは、どこか青白い。
「今のが仕置きというのか」
「だって君、自分が主導でないセックスは暴力と感じるのだろう」
「以前、僕をひたすら嬲った……あれも仕置きだというのか」
 どれの事を指しているのか、やや考えた。ぼくが一方的に嬲ったといえば、夜がいよいよ涙した日の事かな。
「あれは違うよ。あの時はね、ライドウではない君が気になって、引きずり出してしまったのだよ」
「其れの方がましだった」
「変だね、今回は夜の云う事を聞いてあげたのに」
 ゆっくりと首を傾け、目いっぱい近い距離からぼくを睨むライドウ。雷鳴が轟けば、闇色の眼が紫紺に輝く。あまり長々と眼を合わせては、互いの為にならないよ。ぼくは本来の色を隠しているし、君は眼から侵入されまいと心を必死に閉ざしているし。
 そんな事を思いながらも、暫く見つめ合った。そして徐にライドウが口を開いた、その声に抑揚は無く、まるで独り言の様だ。
「ルイ、いっそお前が悪魔なら良かった。悪魔であれば契約も条件もMAGの取り交しも、何もかもが白黒ついた。僕がサマナーであり、お前が悪魔という、不変の関係で居られた。支配するもされるも、立場がさせるだけと思えたろうに……」
 なんて事を云うのだろう、この人間は。