睡狂



 暗い洞が二つ、俺をじっと睨んでいた。
 赤黒い雫をだらだら垂れ流す獣、いくらか呻き、呼応して蔵が軋む。
「早く……」
 俺は抉り抜いた目玉を地面に打ち捨て、脇に蹴飛ばした。
 シトリの眉間を鷲掴み、豹の形の耳に吠える。
「早く俺を女にしろっ」
 妙にもたつく悪魔め、何故今日に限って食い下がる。俺の焦りを見て〝これは好都合〟と、弄んでいるのか。命を掌握される分際で、俺の人生を狂わせた分際で、悪魔の分際で。
『グ、グフフッ……気分ジャナイナア』
 のたまい、金属を鳴らす獣。空っぽの両目が俺を馬鹿にしている様に見え、更に血が沸騰した。
「貴方の気分は関係無い」
 拘束具の干渉で爛れた皮膚を、爪先で踏みつける。体液で固まった体毛ごと、表皮がずるりと剥けた、と同時に咆哮するシトリ。抉れた肉は、粘着質な輝きを放っている。悪魔の顕在要素であるMAGが反応して、どんな暗闇でも傷口だけは鮮明に視える。そして、俺の脚を迸る斑紋も……嫌に明滅している。
『モットMAGヲ寄越セ』
「普段以上の要求は呑めません」
『魔術ハ精神集中ガ要。気乗リセン時ニ実行サセルハ、相応ノ対価ガ欲シイトコロダ』
 何を粘ってやがるこいつ。貯蔵してあるMAG含有の酒は、既に大量に与えた。最後の何瓶かは脳天に叩きつけて、雨の様に浴びせてやったのに。まだ何か欲しいのか、十分潤った筈だろう。
 ああ、こんな時……あいつならどうしたんだ。聞き分けの悪い悪魔に対し、どうしたらさっさと服従させられるのか。
(聞き分けの悪い?)
 寧ろ、俺があいつによく云われてた気がする。思い返せばむしゃくしゃしてきた、今の状況と相俟って納得いかない。
『ソウダナァ、貴様ノMAGヲ舐メサセロ、人修羅』
 追い打ちの様に、シトリの提示が俺を煽った。
「誰が……下賤な悪魔に」
『デハ、俺ノ気分ガ乗ルマデ……何時間、何日、何年デモ、待チ惚ケテイルガ良イ』
 万がいち死なせても、蘇生させる事は可能だった筈。だが、そんな悠長な事はしてられない、事情が控えている。一発ぶち殺してやりたい気持ちを抑えつつ、俺はシトリの鼻先に屈み込んだ。
「さっさと済ませて下さい」
 俺の言葉を押し退ける牙が、気遣いも無く食い込んで。まだ衿も下ろしていなかったのに、おかげで着物に穴が開いてしまった、このケダモノめ。
「……っグ、ぅ」
 前脚が胸を圧迫してくる、太い爪が肌を掻いて赤線を残す。吸われるに任せれば、背中に地面が触れた。埃っぽい土の臭いと、悪魔の吐息が煙たい。
『フッフッ、ガフッ……フゥッ』
 首筋を這う舌は、まるで紙ヤスリの様だ。ヒリつく其処を重ね重ね舐られ、堪らず喘いだ。
 俺は眼を閉じて終わりを待つ。獣に圧し掛かられることは耐え難い、未だに鮮明に蘇る記憶のせいだ。
『美味イ、美味イナ、極上ダ!』
「黙って済ませてくれませんか」
『グフフ……人間モドキノ貴様ニ、御誂エ向キノ姿デ、ヤッテヤロウカ?』
 身体にかかる重心が変動し、食い込む爪が引っ込んだ感触。シトリの不穏な言葉に釣られ、思わず瞼を上げた。
「なっ」
 反射的に肘で後ずさると、肩を抱き寄せられた。そう、人の腕で。
 ああそうだ、この悪魔はヒトの姿で現れ、人間を誑かすとか聞いた事がある。確かに今、目の前に居るのは宗教画にでも出てきそうな青年だ。背中に鷹の翼が残ったままで、シルエットだけなら天使じみている。
『痛イダケデハ苦シカロウ、フッフ……』
 獣の時と同じ声で、顔を近付けてきた。体毛と同じ赤茶のブロンドが、頬をかすめる。
「や、やめろっ!」
 唇が触れる寸前、殴り飛ばして事なきを得た。人の顔をしているから、手加減してしまった……いや、丁度良かったかもしれない、そうでもなければ頭を砕いていた。
 体躯に応じて締める拘束具が、シトリを繋ぎ留めていた。奴はよろよろと上体を起こすと、裸の筋肉と翼を震わせ……笑ってやがった。俯き垂れる髪の隙間から、ぽっかりと空いた洞が俺を見ている。
『アア、女体ガ好ミダッタカ?』
「……これ以上ふざけた真似をすれば、用の無い時も四六時中、生かさず殺さず、貴方を拷問します」
『コレハコレハ恐ロシイ』
 おどけつつも観念したのか、首を鳴らしてひとつ唸ると、みるみるうちに獣に戻ったシトリ。術の準備か、呼吸を正している。
 俺は着物の砂埃を掃い、ゆっくり立ち上がる。ぼうっとシトリを見下ろしつつ、先刻の景色を思い出して、軽く身震いした。見知らぬ野郎に抱かれるなんざ反吐が出る……俺に対して〝ヒトの形であれば何でも良い〟と思っているのなら、コイツはとんだ勘違い野郎だ。
 
 
「おいおいおい、ちぃと待てッ」
 こっちは急いでいるのに、義経に水路の橋を遮られた。髪は相変わらず後ろで束ね、甚平袖を捲り上げている。多分、水路の緑を整えていたのだろう、蛍の為にと甲斐甲斐しい悪魔だから。
「退け九郎」
「お前さん、なんつう恰好してんだよ……ちょい、こっち来いって、何か羽織るモン──」
「放せっ」
 揉み合いつつ橋を渡れば、向こうから歩いてくるアルラウネが「あらっ」と声を上げた。
「やーね九郎さん、人妻に手を出しちゃって」
「違わいっ! こいつ、こんな恰好でほっつき歩いてて……一体何かと、俺様は心配してだなぁ」
「ほんと、随分大胆なスタイルね」
 派手なピンクのワンピースを纏うアルラウネ、彼女の視線が俺の胸元を、いばらの棘みたいに刺す。
 自らを見下ろせば……ズタズタになった着物はまるで絽のよう、衿は肩からずり落ちていた。女性体になったというのに、大して膨らんでもいない胸も露わで。視覚いっぱいにそれらが納まった途端、ぞわぞわと羞恥が襲ってきた。云い訳しようにも説明が出てこない、余計な世話を焼かれたくない、不安を口にしたくない、あいつの名前を出したくない。
 と、アルラウネがおもむろにストールをくるりと剥いで、俺の肩にさらりと置いた。衿ごとざっくり、整えられる。
「それ、貸してあげる」
「……どうも」
「お返し楽しみにしてるわ、ンフフ」
 肌に触れる感覚で判る、このストールは魔具だ……おそらく擬態補助の役割を担っている。目の前のアルラウネが、袖から裾から薔薇の花を咲かせ始めたので確信した。中途半端に術の解けた姿は、歩く花壇の様だ。
「潔癖の筈なのにおかしいわねえ、この里だからって油断してた? 九郎みたいなのが居るから、目の毒は作っちゃダメよ」
「だぁから、そんなつもりじゃねえ! おい、本当に大丈夫か矢代サマ? 何かあったら呼べよ、今は旦那も居ねえし」
 義経の言葉に、一瞬だけ精神が揺らぐ。今この場に、イヌガミが居なくて良かった。
 脳裏に浮かぶのは〝意識の中の幕〟だ。悟られたくない部分だけ、隙間風に煽られ、めくれ易い。読心術の得意な奴は、その衣擦れさえも聴き分け、癖でついつい読んでしまうらしい。
「云われなくても、面倒事が有れば呼ぶ」
「おう、頼りにしてくれ。それとな、もっとゆっくり歩いてけよ、転けて突っ伏したら更にまな板になっちまう」
 心配と揶揄を同時にぶちまける義経を横目に、アルラウネが乾いた笑いを浮かべている。
 俺は一歩二歩後退し、踵を返す。悪魔の気配も、せせらぎも遠のいていく。畦道に点々と曼殊沙華が現れ、次第に増し、溢れかえる。獣道の様に割れた紅い路、其処を辿って庭に入った。いつものあいつを棚に上げて、縁側に上がって。爪先で放った下駄が、背後で乾いた音を立てた。渡り廊下に影を落とす柳が、床板に模様を描く。薄暗い離れの中、障子を幾度か開いては閉め、開いては閉め。
『人修羅殿』
 ひとつ手前にネビロスが居た、フードをすっぽり被って相変わらず表情が見えない。表に居ない事もあってか、擬態もしていない。
「容態は」
『今、戦うのは難しいかと。治癒するまでは、かなりかかります。ま……正直〝替えた〟方が早いでしょう』
 簡単に云ってのける悪魔、人間には不可能なソレを。
『安静時期に此処を襲撃されては、下里の者達へ指令を出すのも危うい。人修羅殿、貴方も前線に立たなくなり暫く、不要な戦闘は避けるべきだ』
「……出来れば外で見張っててください、暫く俺とあいつだけになりたい」
 何か云いかけ止めたネビロス、数時間前と俺の身体が違っている事に言及したいのだろう。それを無視して、俺は最後の障子を開けた。
 
 
 しんと冷え切った空気、一気に雑音や気配が減る。正方形の部屋、四隅の行燈が薄く照らすだけの寝台。息をひそめて近付き、横たわる男を見下ろす。真白い掛け布に一瞬ぞわりとするが、それが顔まで被さっていないので安堵した。長い睫毛を伏せ大人しくしているこいつは、文句無しに綺麗な顔をしている、もう何十年も変わらず。
「夜」
 起こさぬ様に、それでいて気付かれる程度に、名を囁いた。ゆっくりと浮かび上がる、遠くに見える細い月の様な、金色。俺の眼が映り込んでいるのかと錯覚した、これは夜の眼だ。
「聴こえている」
「身体、マトモに動くのか?」
「問題無いが、動かすほどに回復は遅れるだろうね。まったく、君よりも自己再生能力に乏しい事が分かってしまったよ」
 自嘲気味な夜、あまり視線を合わせてこない。再生云々よりも、手負いとなった事が悔しいのだろう。他の連中に悟られない様に、ひっそり帰宅したくらいだ、この見栄っ張りめ。
 ネビロスとパールヴァティは詳細を聴いたそうだが、どうして伴侶である俺には教えてくれない。
「云えよ、何処の悪魔にやられた」
「フフ……秘密」
「今後の警戒の為にも、俺は知る権利が有るだろ」
「功刀君、ひとまず殺気を消してくれ給え、中てられると治癒に響くのだよ」
 納得出来ないが、指摘も最もだ。くそ、これだから俺には明かすなという事だろう、この男を傷付けた悪魔を想像するだけで……息苦しくなる、全身の斑紋がヒリつき肌を締め、唸り声が零れそうになる。一瞬で焼いて堪るか、後悔の色を見せるまで炭化させないでやる。
「全然消えてないよ君」
「おいっ……今からヤるぞ」
「は?」
「あんたの新しい身体をさっさと作るって云ってんだよ!」
 掛けられた布を引き剥がすと、白い単を纏う肢体が露わになった。警戒によじる片脚は、更に布が巻かれていた。おそらく欠損している、他にも数か所、大胆な縫い痕が見え隠れする。
「僕が動けるまで、待ても出来ないのかね君は」
「俺が欲求不満みたいな云い方してんじゃねえよ、寧ろあんたの尻拭いだ」
「ああそうだねえ、まだ少し不自由だし、君に尻穴まで拭いてもらおうかね」
「下品、人が気遣ってやればヘラヘラしやがって……」
 意を決して俺から示したのに、最低だなこいつ。まあでも、これがいつもの調子というか、この男のノリだから……俺もその方が、安定して居られる。そうだ、そうに違いない。
「帰ってから補充してないだろ。足りてないだろうから……少しだけ分けてやる」
 寝台の横から屈み込み、夜の唇を開こうとした。先に理由を述べた事で、少しだけ恥じらいは払拭出来る。他から奪うのが下手な俺が、わざわざ譲渡してやるのだから、これこそ感謝して欲しい。
「いっ、ぅぐ」
 MAGを流し込むより先に、喉が絞まった。揺れる視界で確認出来た夜、目が据わっている。俺の喉にかけられた片手、指の傷も治りきっていないのに……
「臭いな君」
「……んだ、と」
「何とじゃれ合ったのかね」
 ぐいと放され、自らのMAGを舌上で転がしながら咽た。
「っ、は、はあっ、はあ……シ、シトリ……に」
「対価は貯蔵してあった筈だが」
「散々くれてやった……それでも云う事聞かなかったんだ」
「だからと君は、己を吸わせたのかい、短絡的だね、ちゃんと交渉したの?」
 あんたの為、とでも云えば良いのか、それこそ火に油を注ぎそうだ。自分が原因で俺が弄ばれただなんて、色んな意味でプライドが許さないだろう。じゃあ俺は、このまま黙って責められるべきなのか?
「ざっ……けんなよてめえ!」
 そんな訳あるか。
「誰が何の為に、即行で女になって来たと思ってんだ! 喧嘩に負け帰ってきた伴侶の尻拭いの為だっつってんだろうが!」
 怒鳴りつつ寝台に乗り上げ、馬乗りになってやった。流石に痛いのか、一瞬だけ顔をしかめた夜、もうお構いなしだ。
「悪魔の血が入ったからって調子乗り過ぎなんだよ! なんでもかんでも再生するとか思ってんじゃねえだろうな、だから俺に滅茶苦茶な事してたんじゃないのかおい、云ってみやがれ!」
「……ククッ、その通りだねえ。流石は僕より先輩の化物」
 返事の真意は定かでない、不敵な笑みに苛立ちが含まれていようと、こいつはやはり冷静だ。熱源に冷水がぶちまけられる様に、濛々と俺は煽られる。頭では理解している、こんな応酬、何度も繰り返してきたのに。
「……あんたはその化物に生かされてるんだ、感謝しやがれ」
 否定はせず、そのまま鏡写しにした。どっちが先に相手の命綱になったのか、もう憶えていない、ボルテクスの頃から既に不明瞭だった気がする。
 夜はじっと俺を見据えていたが、やがてぽつりと零した。
「僕の身体を清めるにあたり用意された薬湯がそのままだ、軽く浴びてき給え。その獣臭さは堪え難い、気が散る」
 命令に高圧的なものは無く、どちらかといえば懇願にも感じた。ダメージで弱っているこいつを見て、俺が勝手に錯覚しているのかもしれない。一瞬頭が冷えた途端、吐き気が込み上げてきた。意識すれば、確かに獣臭い。
「…………分かった」
 今度は出来るだけ負荷をかけないように、ゆっくり降りた。さっと部屋を抜け、渡り廊下まで行けばネビロスと目が合う。
『何か』
「薬湯ってまだ流してませんよね」
『ええ多分。あの傷では浸かる事もさせぬでしょうし、湯は濁りもない筈、お入り頂けますかと……パールを呼びますか?』
 抱えた憤りを、ぶちまけてしまいたい気持ちに駆られた。パールヴァティは比較的話し易い、穏やかに聴いてくれる割に、辛辣な意見を出す彼女が丁度良い。俺も加熱し過ぎないし、多少は留飲も下がる。
「いえ、結構です……」
 でも断った、あれから臭いが気になってしょうがない。女性体の時は背中を流してもらう事も厭わないが、今はやっぱり駄目だ。義経とアルラウネも気付いていたのだろうか、じゃあ目の前に居るネビロスは?
 何やらいたたまれなくなり、脱兎の如く脱衣所へ向かった。琺瑯の洗面台で胃液を吐いてから、何度も口を濯いで、落ち着くまで深呼吸を繰り返す。
(そうだ、ストール)
 レース編みで施された幾何学文様は、まじないの一部だろう。持ち主を象徴するかの様に、端の処理は薔薇モチーフだ。これだけは汚してはいけない、借り物だから。
 肩から外して軽く畳み、小物用の籠に入れた。手洗いして返そう、そういえば〝お返し〟とやらを期待してたな……別でくれてやる必要が有るって事か。いっそMAGで良くないかと思った矢先、夜の言葉が甦った。
「誰が短絡的だ!」
 ボロボロになった着物を脱ぎ捨て、脱衣籠へ突っ込んだ。体形変化のせいで部分的に緩んでいた下着も、丸めて投げつける。硝子扉をスライドさせ、浴室へ入る。
『それは勿論、矢代様ですわー』
 両掌を頬に添えたパールヴァティを見た瞬間、中途半端に濡れた床板で滑った。思い切り臀部を強打して、食い縛った奥歯を砕きそうになる。
「どうして此処に居るんですか!」
『お清めの為に、常に新しい薬湯を維持しなくてはならないでしょう? 薬草の種類ごと、量が均等になるよう、此処で処理しておりました』
 女神は開放されたテラス窓の向こうへ行くと、籐の椅子に腰かけた。ウッドデッキに草花の山を作り、それを指差しでヒョイヒョイと飛ばして、複数置かれた麻袋の上に寄り分けている。
『一週間だって、一年だって、十年分だって用意しましてよ、ふふ』
「あの、そんなに長い療養必要無いですよ、あいつ」
『帰着された際、ディアラマを幾度かに分け施しました。血を流して拭う際も、悲鳴ひとつ上げないんですのよ』
「内部はかなり再生してるみたいでしたよ。なんだかんだ、表面が一番くっつきづらい……固まった様に見えて、内側とくっついていない事が多い」
 シャワーを頭から思い切り浴び、ささっと石鹸で洗髪、続けて首から肩まで念入りに撫でた。やんわり膨れた胸は、どれだけ経っても違和感が有る。
『お背中流しましょうか?』
「……ああ、頼みます」
 女神の声に促され、檜の椅子に腰かけた。柔らかなブラシが、背をのんびりと往復する。泡が肌の端に留まって時折はじける感触、まろんだ空気。この状況でいつも、遠い記憶の母親を思い出す。そう、本当に遠くなってしまった……
『十四代目の下肢が無事で、なによりですね』
 悪気も無いパールヴァティに、思わず鼻で笑った。
「目測誤って死なれても困ります」
『魔物に成ってからの経験は、矢代様より浅いですもの。何処まで無理が利くのか、未だ判らないのかもしれませんわ』
「そんなの……最初から無茶するなって話です」
『あの御方、昔から〝頑張り過ぎ〟なきらいは有りましたが……やっぱり、夫婦は似通ってくると云いうだけありますわ』
「はい?」
 思わず振り向けば、ざあっとシャワーで流された。
『今はちょうど、湯冷めしない温度ですわ、さあどうぞ』
「あいつ、一体何処の誰にやられたんです」
『私とネビロスしか知らぬ事を、簡単に洩らしてしまえと? 矢代様も人が悪いですわ……ふふっ』
 人じゃないし、と一ミリだけ思い自己嫌悪した。それにしても、この蚊帳の外っぷりは、いつぞやを思い出して気分が悪い。ふらりと消える直前まで、俺に黙ってたもんなあの男。
 檜の浴槽に脚をひと差し、薬草の香りを感じながら身を沈めた。近場の源泉から引っ張ってきた温泉に加水している拘りようで、イッポンダタラの技が冴える。テラス窓は閉め切っていても庭園が見えるので閉塞感も無く、天井近くのはめ殺し窓はステンドグラス、最早ちょっとした旅館レベルだ。
『落ち着きました?』
 湯上りの俺に問い掛ける女神、いいなりの様に身体を拭いてもらう。自分で洗濯したバスタオルは、やはり抜群の肌あたりだ。
「この後、また苛々しそうで気が重い」
『流石の十四代目も、手負いの今は激しくないでしょう?』
「手が出ない分、口が出ると思いますよ」
 既に用意された浴衣から香の匂いがする、白檀だ……これなら文句無いだろ、むしろ何のアピールだ。考え始めたらこの後、顔を合わせづらい。
「もう行きます」
『あらっ、矢代様──』
 女神の声にも立ち止まらず、帯を雑に結びながら廊下に出た。先刻ネビロスの居た場所は、代わりに人形が鎮座している、今は別の場所を見ているのだろう。