無い憑座



「身許も知れぬ小僧に襲名なぞして、お次は小娘ときた。葛葉四天王は学童保護でも始めたのかねえ」
 一瞬何を云われているのか分からず、インプットに時間がかかりました。優しげに見える老齢の首長は、穏やかな微笑みのままに我々を侮辱したのです。先輩は特に動じる様子も無く、いつもの哂いを浮かべているだけ。
 ゴウト童子が〝実力は確かだ、外野が口を出す事ではあるまい〟と一蹴し、ひとまずお開きとなりました。首長の家から出ると、数名の村人達が待ち構えておりました。が、蜘蛛の子を散らす様にして一気に数は減り、最後にぽつんと一人だけ。
「自分が案内を……」
 小柄な女性、ちょうど私達の親くらいの年齢でしょうか。やや綻びた着物は水仙柄、履物は草履。後ろで束にした黒髪は、赤い細リボンで括ってあります。ついつい顔より先に、こういう所から憶えてしまいます、召しものが変われば判らなくなるというのに。
「宜しく願います」
 先輩が応答したので、私は少し後ろから会釈をします。先程の話からして、このまま向かうは〝悪魔に憑依された人間〟の住む家だと思います。夏も近付き草も青々と茂る時期ですが、村の中は随分ひっそりとしていて、なんだか以前の槻賀多村を彷彿とさせます。
「此処です」
 あっという間の到着でした。目の前の建造物は家屋とは違って見えます、倉かと思いましたが出入口は横開きのタイプで、其処に棒が突っ掛けてあります。密閉性に乏しいのであれば、倉では無いのでしょう。ちょっとした離れの様なものでしょうか、それにしては縁側も無く、どこか殺風景です。
「入っても?」
「ええ……縛ってあるんで大丈夫と思うけど、お気をつけて」
「捕縛可能な程度ではある、と」
 呟きつつ、自然な動作でイヌガミを召喚する先輩。その瞬間、案内人の女性が目を泳がせました。ゴウト童子の声が聴こえていた首長同様、この方もサマナーの素養が有るのでしょう。
『油断するなよライドウ』
「たった今、番犬も付けましたでしょう、さあ御免」
 突っ掛け棒を持ち上げ、女性に渡す先輩。がらがらと音を立て扉が開かれると、隙間からは土間が見えました。もう少し寄って見ると、内部は仕切りの壁や障子も無く、板の間だけが広がっていました。窓が壁面にいくつか有るものの、屋外から何か被せてあるのか、陽射しが入る隙は無いです。
「こ、子供ですか?」
 思わず声に出してしまいました、ぐるぐると芋虫の様に縛られ転がっていたのは、小さな体躯の人間だったのですから。物音に反応してか、それまでくったりしていた子はびたんびたんと跳ね始め、野山の獣が如く鳴き出しました。その金切り声とも唸り声ともつかぬ音からは、少年か少女かの判断もつきません。その乱れに乱れた着物は白く、寝間着にしては鮮明過ぎる色です。布端から飛び出た手足は幼さを纏いか細く、暴れた事による創傷でしょうか、赤い擦り傷が大変痛々しいです。
「簀巻きにされた人間をよく見る羽目になる」
 ひとつ哂った先輩が子供に近付くと、背後から「あまり呼びかけん方がええですわよ、憑かれちまいます」と女性の声が。しかし先輩は気にも留めず屈みこみ、質感でも確かめる様に、するすると縄を指先で撫ぞっているのです。
 一方の子供は鉄板の上の油か、はたまた干潟の魚、縦横無尽に跳ね回ります。というのに先輩が弾かれる様子は無いので、まるであの指先に操られている様にも見えます。
「確認は終えた、明日改めて」
 すっくと立ち上がる先輩は、土間で立ち竦んだままの女性に語り掛けます。今此処で、出来る限りの聴取をするものと思っていたのですが、黒い外套は颯爽と表に出てゆきました。私は一度だけ振り返って、しかし再びまともに見る事も出来ず、その場を後にしました。
 
 
『全く、敵意剥き出しだな』
 用意された部屋と理解しながらもでしょう、ゴウト童子ははっきりと憤りを口にしました。黒猫の下の座布団はぺしゃんこで、見るからに湿気ています。どうやら長い間重ねて収納されていた様で、四隅の房に変なクセが付いたままです。
「あの、ゴウト様。私達は指名されたのですよね? 何故歓迎のムードが皆無なのでしょう……あっ、いえ歓迎しろという意味ではなく!」
『此処の連中は、ヤタガラスを毛嫌いしているのだ。呼ぶのであれば本来別筋である葛葉がマシ、といった所だろう』
「しかし私と先輩、二名もですよ。此処は管轄からもやや外れておりますし、その、拒否権は無かったのでしょうか。憑き物祓いだって専門では無いのに、これは非常に不可解なプロセスでは?」
『それは……』
 歯切れの悪くなった童子が、おもむろに座布団へと爪を立てました。追及したら良いのか、爪を立てては不味いですと注意すべきなのか。散々悩みましたが、私が口を開くより早く、向こうの障子がすうっと開きました。
「何を口ごもる必要が有るのです、童子」
 案の定、現れたのはライドウ先輩。暗くなる前に周辺を確認してくると云っておりましたが、やはり何をするにも手早いです。それにしても、一体どの辺りから聴いていたのか不思議です……気配を感じませんでした。
『十八代目の志気が下がるだろうて』
「今更、清々しい組織のおつもりで? それに人修羅が居らぬ今回、彼女のテンションは元々低いですよ」
 何か指摘された気もしますが、ノーコメントです。
 外套の襟ボタンを外し、首回りをくつろげた先輩。畳に直接腰を下ろし、あぐらの姿勢を取っています。一応旅館よろしく、ローテーブルと人数分の座布団、そして寝具も用意されているのですが。
「先輩、お疲れ様です」
「早朝発つ、僕が見張りにつくので君は仮眠を取り給え」
「そんな、せめて交代で休憩しましょう」
「長居したい処でもないのでね、明日の夕には帝都に戻るから、そのつもりで」
 云いながら先輩は、おもむろに外套の内から何かを取り出しました。傍のテーブルにカツンと置かれたそれは、漆塗りのお椀でした。小ぶりでどこか愛らしく、朱色に窪んだ曲面は、電灯の光を水面が如く反射しています。
「それ、一体どうされたのですか?」
「近くの滝壺で拾った」
「拾った?」
「食器の類は一揃い、水底に有った」
「素潜りしたのですか!?」
「まさか、そういう時こそ悪魔を使うのがサマナーだろう」
 フッと哂った先輩の吐息は、苦みのある白い霧。端正なお顔から指先にかけて見つめれば、火のついた煙草を持っています。もう片手はマッチ箱を懐に仕舞い終えたところでした。
「一部の者は〝視える〟様子だが、現在の住人達はサマナーとは云えぬ。悪魔、しいては神とする存在から遠くなり、祀り畏れている。水神に対し椀を返しているのだから、随分と前から《一般人》なのだろうね」
「ヤタガラスとの確執は何故……」
「この村里から能力を奪ったのが、紛れもなくヤタガラスだからさ」
「奪う……サマナーのヘッドハンティングでもしたのでしょうか?」
「その通り、優秀な人材の引き抜きをする事で、此処を無力化したのだよ。それはヤタガラスが他の勢力を認めぬ組織が故、非公認の召喚師の大体をダークサマナーと称しているのも、其処に起因する」
「でも、それだけで恨むものでしょうか。実際引き抜かれてしまったという事は、理不尽が其処に有るとも思えないのですが」
「本来の形態が途絶えようと、恨みだけは滾々と絶えぬものさ。形骸化した義憤、其れを即ち呪いという……フフッ」
 煙草を口から離し、おもむろに椀へと伸ばした先輩。綺麗な朱色の曲面に、ぐりぐりと灰を擦りつけているではありませんか。火が消えた事を確認すると、そのまま煙草を置き去りに、白い指だけ離れてゆきます。灰皿ならば、この屋敷の人に相談すれば貸してくれたのでは……と云いかけて、止めました。自分が喫煙者であったとしても、そうする気にはなれませんでした。この屋敷は首長の家なのですから、日中の侮辱を思い出すと……借りを作るのは、正直嫌です。
『おい十八代目』
 まだ薄っすらと漂う煙を避け、ゴウト童子が座布団から降りました。
『あまり真に受けるなよ。こやつの物云いは三割がた憶測だ』
「まあっ、七割は童子の信頼を得ているのですね」
『…………フンッ』
 何故かそっぽを向いた童子、そのまま障子の方へと進まれるので、私は慌てて立ち上がり其処をスライドさせました。
『一周して来る』
「偵察なら先輩がさっき」
『人間と猫であれば、一般人はどちらを警戒するのだ? ヤニの煙が流れた頃にでも戻って来る、構うな』
 肉球で柔らかな足音をつくりながら、板張りの廊下を往ってしまいました。猫一名分の隙間が出来た障子をゆるゆると閉じて、気配を確認して……それから私は先輩の隣にすっと着座します。
「先輩は日中の、あの子供の状態を何と捉えますか」
「憑座の成れの果て」
「ヨリマシ?」
「雑に説明すると依り代の人間版という事だ、子供が多い」
「では、やはり何者かに憑かれているのですか」
「さあね」
 先輩にしては濁すので、逆に気になります。まだ不確定な部分が多いのでしょうか? 今回は一応、バディとして自分が選ばれたので、教えてくれても良いのに……そう、もうひとつ気になる事が有りました、このままついでに訊いてしまいます。
「先輩は、親の無い事を云われて……憤りを感じたりはしませんか」
「首長に云われた事を気にしているのかい、君は」
「それが……これがダメージなのか判らないのです。師匠が見てくださったお陰か、ああして直接罵倒された事も今まで有りませんでした。親の無いという事実が、この世の中ではマイナスポイントになるのでしょうか、不幸というレッテルなのでしょうか? 先輩は動じている様子も無かったので、意見を仰ぎたく思い……」
「先代ゲイリンを親とは思わなかったかね」
「親の様に……と、云って良いのか、それもよく分からないのです。私に親の記憶は一切無いので、知らないものを引き合いに出せません」
「実親と縁の無いまま生きらば親の像など情報、または空想でしかない。そして〝親が居る〟事による不遇も此の世には存在する。つまり親の不在だけでは、マイナスに働く要素としては薄いね」
「……ですよね」
「非血縁者を親の様に思う、のは勝手にしたら良いさ。産みの親をも素通りし、思慕の向かう先が〝己の望む親の像〟という事ならば、言葉としても間違いは無い。僕とて、師範であった悪魔を──」
 饒舌であった先輩が、ぴたりと口を閉ざしました。気分では無いのか、話すつもりも無い辺りまで触れてしまったのか、定かではありませんが……ひとつ瞬きする先輩の、睫毛の長さに思わず目が行きます。
「早朝と云うのは空の白む頃だからね、寝なくて平気なのかい」
「先輩は大丈夫なのですか?」
「イヌガミにも張らせている、半覚醒程度に留め休憩するが横にはならぬ。ああ、それとも僕が寝込みを襲うかを心配している?」
「んえっ」
 そんな失礼な事は一ミリも考えていなかったので、即座に否定すべきです。しかし私はどうした事か、変な声を上げた後に、イメージの入り乱れた問いを投げてしまったのです。
「先輩は功刀さんとの場合も、出先でお布団並べて寝るとかは絶対無い、というセオリー!?」
 プライベートの旅だろうと横になる事は滅多に無いのか、必ず見張りを買って出るのか、功刀さんとバディの時はどの様な役割分担なのか、そもそも寝込みを襲った事が有るのかまでをも一瞬かすめて考えてしまい、それら全てが混合された結果でした。
 いっそ怪訝な顔でもして、軽くあしらってくれたら良かったのですが。先輩はぞっとする(色んな意味で)哂いを浮かべ、怪談話の始まりの様なトーンで云うのです。
「……知りたい?」
 実際どうなのかを想像する事も出来ず、むしろ吹き飛び。私は「お、おやすみなさいっ」とだけ返事をして、適当に引っ張り広げた布団にスライディングしました。これまで任務で先輩と寝所と共にしても何も思わなかったのに、シチュエーションの中に功刀さんが入って来るだけで、ときめきか動悸か悪寒か、これまた判らない状態に陥るのでした。
 
 
 云われていた通り、本当に早朝でした。朝靄漂う村の中、早起きの御老人が一人二人は散歩でもしているのではと思ったのですが、見事に誰も歩いていないです。空を横切る電線をいくつかくぐり、キジバトの声が遠くなってゆきます。
『眠りが浅かったか、十八代目?』
「えっ、私どこかおかしいでしょうか」
『やつれた様に見える』
 ゴウト童子の指摘どおりです。私はあれから妙に頭が冴えてしまい、しかしお喋りを続けては迷惑だろうとも思い。暗い部屋に浮かび上がった障子の白い升目を、親の仇の様に睨んでおりました、親は居ないのに。
 ぐんぐんと歩みを進める先輩、その足取りに重さは感じられません。やはり基礎体力からして、私とは段違いという事でしょうか……不埒な妄想で疲弊した自分が、何とも情けなくなります。
「あの、先輩。例の御宅を通過しましたが、どの様なプロセスで?」
「渓谷の滝壺に向かう、それほど距離は無い」
「昨晩仰っていた処ですか」
「例の憑座に読心した際、言葉では無く映像で流れてきた。下見の結果、同一の場と判明している」
「憑座って、あの子供の事ですよね? いつの間に読心を……」
 私に歩行速度を合わせてくれていた童子が、フーッと小さく唸りました。
『気付いておらなんだか、イヌガミにさせておったろう』
「子供の叫びに圧倒されてしまい……申し訳ありません」
『まあ、こやつの犬は気取られぬよう躾されているからな、手品師か詐欺師の様に自然なものだ。場数を踏んでおらんお主には、少々察し辛いかもしれん』
 云われてみれば、警護の為だけに召喚されるイヌガミではありません、捜査への貢献度が非常に高いのです。私がイヌガミを従えていても、ペットと勘違いされそうな気がしてきました。
「あっ!!」
 視界が激しく揺れました。受け身を取ったつもりが、衝撃は有りません。目の前に広がる蔓草と、樹木と、じっとりした霧と……それ等がゆっくりと流れるにつれ、肩を支えられる感覚が鮮明になってきたのです。
「天斗樹林で歩き慣れているものと思ったが」
「すっ、すいません! 想像以上にぬかるんでいたのか、その」
 前を歩いていた筈の先輩に助けていただくとは、なんとも情けない。ブーツの先でそろそろと、安全そうな足場を確認します。葉がミルフィーユの様に重なる箇所は、大変危険なのです。それを知っていたというのに、この有様。
「……先輩?」
 自重のバランスを整え、両足でまっすぐ立とうとするのですが、何故か……私の双肩を支える先輩の手が、支えるというよりも〝固定〟している気がします。続いて、ぞわりと駆け上がる何か。電気とも熱とも判らないそれは、私の肌から浸透して、鼓動を速めます。駄目です、何か発しなければ、口にしなくては、開いた唇から逃さなくては。
「待って……ください、ストップ、ストーップ!」
 ようやく声の出せた私は、よろよろと先輩から離れました。向き直れば、するんと外套の内側に隠れたイヌガミ。一方の主は涼し気に目を細め、口角をきゅっと上げました。
「流石、十八代目を襲名しただけはある、施錠は早い様だ」
「もしかして、これもテストの一環ですか? 先日の槻賀多村の一件といい……抜き打ちがセオリーという、それがヤタガラスの方針?」
「いいや、今の読心は僕の勝手だ」
「私の頭を覗いても、きっと大したギャップも無いです」
「そうだね、直接訊いても良かったな」
 呆気に取られているゴウト童子を素通りして、先輩はさくさくと歩みを再開しました。私は今度こそ滑らないよう、注意しながら追います。黒く踊る裾からチラチラと、白いイヌガミの尻尾が見え隠れ。
「あのっ、一体何が知りたいのですか? 先輩に不都合が無ければ、それこそ直接訊いてくだされば良いのに」
「おっと凪君、その件は後回し」
 先輩の見据える先を、私もつられて眺めました。人の作った獣道は此処で途絶え、一気に空間が開けました。水色は淡く翠に輝き、しぶきが霧を濃密にしています。滝というのは轟音を響かせるモノだと、そんなイメージを抱いていたのですが、目の前のそれは意外と穏やかなものでした。白んだ空の向こうには、薄墨で描いた様な山の影。
「此処が例の滝壺?」
「そう、このまま淵に接近し、聴き込みを開始する」
 水辺ではありますが、さっきの路より却って分かり易いです。ごつごつとした岩は、苔のメリハリが有ります、その緑色を踏まぬ様に一歩進んでは確認、一歩進んでは確認……と、鈍間ではありますが堅実に進行出来るのです。
『おい十八代目、前を往くライドウの足場を確認すれば早いぞ』
「はっ、はい!」
 私の要領の悪さを素早く見抜く、流石はゴウト童子。そういえば、師匠はいつも後から忠告をくれましたね。私はそそっかしいので、真っ最中に云われると完全に気が移ってしまうのです。最近はこれでも、ややマシになりましたが。
「見えるかね、凪君」
 滝のしぶきが髪をしっとりさせる位置、立ち止まった先輩が私に視線を寄越します。目の前には水の束と、波打つ水面と、つまり普通の滝壺が広がっています。
「あのお椀はどの辺りに沈んでいたのですか?」
「それは拾って来た当人に訊かねば分からぬ」
 私の問いに返しつつ、肩を軽く揺らす先輩。すると瞬間、足元の岩が眩く照らされ、外套から滝の様にMAGが溢れました。それはドレープを描く水面と一体化し、次第に影を持ち始めます。私にも分かる悪魔……あれはアズミです。
『あらぁ~今回も水辺じゃない、有難いわあ。毎度こーゆう所で呼んでやあライドウちゃん、おばちゃんお肌潤っちゃうから』
「人の世界では、あれから数刻しか経っておらぬよ」
『あれっ、また何か拾ってこいって? 前に渡したお椀くらいやったで、コレになりそ~なのは』
 水掻きで繋がった指を、輪っかにするアズミ。あれも分かります、マネーのジェスチャーです。
「下の住民を連れてき給え、聴き込みがしたい」
『あぁはいはい、ええよ。でも向こうさんが機嫌悪かったらどうしようねえ?』
「おや、お前の美貌で釣れるだろうに」
『んまぁ~~随分と上げるねぇ、そういうの冗談めかさずさらっと云うと、たまに真に受けちゃうから注意しや』
「へえ、冗談にして欲しいのかい」
『いけず、もっと褒めたってぇ!』
 す、凄い……アズミのテンションは、みるみる上がってゆきます。先輩は、決して優しげとは云えぬ笑みを浮かべつつ〝宜しく〟と唱えます。すると、それが出発の合図となり、トプンと音を立てアズミは水底へと消えました。
「先輩、この滝壺……それほど深く見えませんが」
「人の意識、君の先刻と同じさ。施錠も無しに、門を全開放しておくものかね」
「更に奥が在ると?」
「……念の為、武器と管の再確認をし給え」
 声量を落とした先輩の言葉に、私は強張りました。水面の透明度は失せ、瞬間的に天を映しました。その鏡を砕く様に、影が二体ばしゃりと跳ね上がります。
『ライドウちゃんおまた~』
 水を滴らせるアズミが宙でウインクしました、その隣には見慣れぬ悪魔が。アズミと同程度の体格でぬるりとした表皮、水掻きも有るため水妖と思われますが、頭は坊主、そして鼻は天狗の様に長い。
「御苦労」
『あっ、でも美貌だけじゃ釣れんかったんだわ。悪いけど何かあげたって、羽振りが良いサマナーって説明しちゃったでね』
「ケチと紹介されるより望ましい」
『あっはっはは、ほらみい云ったでしょ、この人とお喋りしてチップまで貰えるなんて、その辺のお嬢さんらに恨まれるでぇ~アンタ!』
 先輩と会話の最中、アズミはケラケラ笑いながら、正体不明の悪魔の背をバシンと叩きました。私は一瞬ひやりとしたのですが、当の水妖は平然としています。水の上をひたひたと歩き、近くの大きな岩に腰を下ろす仕草、案外リラックスしているみたいです。
『ヴォジャノーイだ』
 背後からゴウト童子の声がしました、きっと私が〝知らない〟事を察したのです。勉強不足が大変恥ずかしいところですが、目の前で生態を講義されるのもヴォジャノーイにとって気分が悪いでしょう、教わるのは帰路の折に。
『サマナーと聞いたが、其処の村のモンじゃないな?』
「ええ、帝都の葛葉ライドウと申します」
『ははあ……葛葉……ところで何代目?』
「十四」
『や、訊いても意味無かった、なんせ葛葉一門とは面識もねえ。ところで何しに来なさった、人間にとって楽しいものが有るのは帝都の方だろ?』
「此の滝で、水垢離をしていた人間の子供に覚えは無いかと」
『あーあー、居たな、最近見ないけど』
「話した事は」
『他所は知らんけどね。人間連れ帰る酔狂な真似はせんよ、此処の魔者は』
「よく眺めていた筈だ」
 まるで見てきたかの如き論調の先輩。対するヴォジャノーイはゆっくり首を傾いで、やがて双眸を瞑り、再び口を開きました。
『びしょ濡れだから涙は見えんかったけど、毎日泣いてたなアレ。肩ぁひっくひっく弾ませて、滝から抜けても目ん玉ぐしぐし擦ってたからなァ……』
「もう一度訊くが、話した事は」
『だって会話になりゃせん。村の人間も劣化した、こっちの声も聴こえとらんしな。別にお椀くれとかは、一言も云っちゃいねえのに、おっかしいのなあ』
「実はですね、此処で禊をしていた村の子供、憑き物にやられ軟禁状態にあるのですよ」
 先輩が其処まで話した時、唐突にヴォジャノーイが目を見開き、小さく叫びました。
『なんだぁそりゃ……知らんぞ、オレ達じゃねえ!』
「水垢離から戻ってきた時には既に」
『此処の所為つってんのか、村の連中』
「そして此度、償還された召喚師が我々という事です」
『おいおい勘弁してくれ、んな馬鹿な……有ったとしても道中の、陸の奴が憑いたんじゃないのか』
「水辺の者は無関係、と云う事で?」
 他人事といった素振りから一転、ヴォジャノーイは何処か焦燥した物云いで〝ああ〟とだけ返事をしました。先輩もそれ以上詮索する事はせず、御礼の宝石を片手たっぷり、それこそお椀一杯分は渡し、そうして聴き込みは終了となりました。