1
「カップルプラン御予約の紺野様でいらっしゃいますか?」
男性従業員の視線が、俺の顔から胸までを一瞬で舐める。どうせ男か女か判らないんだろう、しかも着物袴に羽織姿で骨格も見えづらい。帯位置で察しもつくのではと思ったが、此処で巻物を脱ぐのもわざとらしい。
「家内です」
隣であっさり云ってのけるライドウに、何故か俺の身が竦んだ。
既に仲居の女性へと案内は引き継がれ、離れの部屋まで先導をされている。
ライドウはいつも通り、手荷物を預けない。奪われた所で痛手になるような物は無い、管にしたって鞄と懐と二分してあるだろうし、武器も〝有れば早い〟という程度だ。単独でも充分強い男だが、戦術の根柢にはデビルサマナーとしての姿勢が見える。場に悪魔が居る事を、当然とした物の考え方をするんだ、こいつは。
「大きな改修工事は二回ほどしましたが、あそこの梁なんかは大正当時からそのままなんですよ」
仲居が指し示す先、吹き抜けを横断する黒い影、確かに立派な梁が有る。俺は見上げるだけで、大したコメントも浮かばなかった。古物に抱く感覚が、明らかに昔と違う。
「へえ、つまり百年近くあそこに健在していると」
「くたびれた感じもなく、様になっていると評判です」
「建材だけに?」
気の利いた返しを自ら台無しにするライドウ、相手が一瞬困惑するのを愉しんでいる。昔からこの手の癖は有ったが、ここ数十年で悪化している。
「……旦那様、クールに見えて随分と茶目っ気が有るんですね」
はにかむ仲居、その反応に取り繕いは感じられない。恐らく本当に面白かったのだ、駄洒落の方ではなく、ライドウの事が。
作り物じみた美形が、今みたく幅を見せたら〝人間味〟というやつを感じて、同じ種族なんだと妙な安心を覚える、こんな光景を隣で何度か見てきた。
思えば人間味ってどういう意味だ、いちいち考えず見聞きしていたし、自分でも使った事がある気もする。親近感を籠めて人間味と称するなら、今の俺達には使えない言葉じゃないのか──
「どうせ泊まるなら、もっと違う趣の所にしろよ」
客室で二人きりになった途端、口をついて出た。
仲居の解説通り、部屋の調度品もアンティーク揃え。いわゆる古民家風の旅館だが、照明の眩さは鋭角なLED。隅々を見る程、ノスタルジーというよりは〝最近〟らしさを覚える。
「おや、お気に召さなかった?」
「落ち着くけど、こんなの自宅と変わらないだろ」
「ならば君、どの様なホテルを希望するのかね」
「えっ」
いざ問われると、出てこない。それっぽい部屋のイメージは浮かぶものの、インテリアデザインの用語だとか、よく知らない。
「なんか……旅行雑誌とかで、ラグジュアリーだなんだって文言で載ってるような……いや、でも派手なのは趣味じゃないから、もっとシンプルな……なんだ、ミニマルとかそういう?」
「少々狭いが、カプセルホテルは如何」
「絶対嫌だ」
真剣に考えてないだろこいつ。
ライドウは哂いながらトレンチコートをハンガーに掛け、手袋を外すとコートポケットにグイと突っ込んだ。
「あれも眠るには充分な空間と思うがね。意識を閉じ休息する為にだけ在る、そう捉えれば管も似た様なものだ」
「そう聞いたらますます入りたくない。それに皆が皆、すんなり入眠出来るわけじゃない。閉所恐怖の気が有れば、逆に目が冴えるんじゃないのか」
「産まれる以前はもっと狭い寝床に居る癖に、ククッ」
「あのなあ──」
意識と連動した感覚なんて、具わるのは胎から出た後、たぶん物心つく辺りからだ。それともまさか、ライドウは憶えてたりするのだろうか。胎内記憶なんて眉唾だと思っていたが、こいつの場合ワケが違うし──いいや、事情を利用した冗談、俺を揶揄う為の含みかもしれない。
「昔、アリスが云っていたよ、棺桶の狭さが落ち着くとね」
逡巡する俺をよそに、ライドウが呟く懐かしい名前。装備を脱ぐ後ろ姿にまとわりつく幼女の幻は、記憶の隅に一瞬で戻っていった。
「あの子を基準に考えるなよ、少数派だ」
「よく強請られたものさ、屍体を用意してやる事は少々難儀な為、花で勘弁頂いてね……そうそう功刀君、夕食の席に飾る花、君が選んでくれ給え」
「引っ張るな」
衿を抜かれ、冷えた空気がうなじを撫でる。もはや擬態も慣れたものだが、思わぬタイミングで干渉されると一瞬不安になる。今みたいな拍子に、するっと悪魔の証が伸びてしまわないか。
「大丈夫さ功刀君、ツノが飛び出ても僕がすぐに帽子を被せてやろう」
「俺で遊ぶな」
今度は脱いだ帽子でトントンと襟足を叩いてくるものだから、軽く蹴飛ばそうとしたが避けられた。
諦めの溜息と共に、俺はソファに着席した。空いている場所に入れば、自然と隣になる。
「流石に香りの強い花は無いようだね」
ローテーブルに置かれていた布張りファイルを、ライドウは平置きにして眺めていた。それを横から覗き見れば、確かに花の名前が並んでいる。
「記念日でも無いのに、妙に飾った席にしなくても……そもそも、何だよカップルプランって」
「通常オプションとは異なるサービスが増え、ケーキも付く」
「食い物に釣られてんじゃねえよ! そんなの専門店で買えば済む話だろ、いちいち受付で疑いの目を向けられる俺の身にもなれ!」
「疑われているのかい」
「じゃああんた、今の俺がどっちに見えるんだよ」
「元を知る僕に訊くのは君、精確性に欠けるね」
「はぐらかしがやって」
さっさと選ばないと、こういうのは準備時間が必要なんだ。確認に来られた際、慌てて適当に決める事は避けたい。
改めて花の一覧を見た。まず赤い花は除外、目に刺さる。以前、アネモネを飾った時に実感した。中央の黒くこぞんだカラーリングが目玉の様で、目と目が合う感覚に陥る。あの花に罪は無いが、デザインにメリハリの有るものはそれが主役の場にこそ相応しい、そんな気がした。
それに、アネモネがリストに有ったとして、選ぶ気もしない。あの花にはひとつ、記憶が灼きついてしまったから、それを上書きしたくない。
主張の強くない白い花ならどうかと思い、色でアタリを付けた。トルコ桔梗、カラー、デルフィニウム──まあどれも悪くない。しかし横並びに記載された花言葉が、俺の思惑を捩じろうとする。
「トルコ桔梗」
どれを選んだところで、何か突っ込まれるのだろう。ライドウからの茶々を予測しながら、花の名前を挙げた。
「異論は無い、其れで構わぬ」
「……で、俺は何して暇潰せば良いんだ」
「温泉の下見かね」
「この部屋、確か風呂付きだろ、しかも源泉かけ流しの半露天。わざわざ大風呂行く必要無い」
「では明日の目的地に関し、情報収集でもすれば。ロビーに開放されたパソコンが有ったろう」
「気が向いたら」
「今回オボログルマを使いたくないと、駄々こねた事をお忘れなく、功刀君」
「うるさいな、俺が責任持って運転するんだから、とやかく云わないでくれ」
「ガソリンも要らぬ、オートパイロットも有る、僕の愛車は相当便利と思うがね」
「代わりにMAG消耗するし、オートとかいうのもアイツの判断に過ぎない。前だってそうだ、路が無いのに進みやがって」
最近のオートパイロットは路面感知して、制動や回避をするらしいのに。自我が有る筈のオボログルマは、半端な指示だと〝それにただ従う〟のみだ。目の前が悪路だろうと、アイツにとって走行可能であれば、そのまま突っ込んでしまう。
「あれは哂った、下手な雑魚と戦った時より損傷していたよ、あの車」
「笑い話に出来るかよ馬鹿、っていうか車より俺達だろ! 人間だったら良くて重体……連絡手段無ければ、そのまま発見されず身動きも取れず、死亡事故のレベルだ」
崩落していた路をオボログルマは駆け下り、そして崖下でクラッシュした。予測以上に加速したとの云い訳を憶えている、恐らく中身の俺達を計算に入れてなかったんだ。普段は此方で「待て」を唱えるから、あんな悪路、それも急斜面を走らない。そもそも際どい場面はいつも、ライドウが操舵を取る。
あの時は二人して気を抜いていた。
ライドウは窓から見えたというヤマワロに気を取られ、俺は悪魔に興味が無いから、それを気にせずぼうっと反対側を眺めていた、つまり両者共に前方不注意。
「ククッ……僕の下半身が無事で良かったね」
「冗談じゃない。実際あんただけ潰れてたら、どうすりゃいいんだよ」
「以前も云ったろう、精子だけ採取出来るよ」
「そんな精密なこと出来る道具を持ち歩いてないし、俺に技術は無いし、問題は其処かよ」
何故か哂われているが、無事と云うには難のある有様だった。そこらじゅうの骨が折れ砕け、身体の軸は歪み、舌を噛んだライドウは血をだらだら吐きながら大爆笑をして。
俺はしばらく呆然とした後、背凭れに食い込んだツノを引き抜き、半ばキレながらシートベルトを引きちぎった。反射的に擬態を解いていた事実も、神経を逆撫でた。
その後、ほぼ垂直の車内で金丹をガリガリ齧り、表面的な処置は仲魔のディアに任せ、回復した身でオボログルマにMAGを注ぎ、蛮力属も使い車体を直した。
「そうだね……回復手段も無く、僕が自力で起きられもせぬ状態であれば、君は僕に跨る必要が有る」
「俺はカーセックスは趣味じゃない。二度とあんな状況作るなよ、オボログルマがちゃんとしてれば防げた話だ」
「成程、ベッドで致すのが趣味?」
「だからっ……問題は其処じゃないだろ」
駄目だ、俺だけ妙に熱くなっている。昔話をこいつは哂い、俺は憤る。話せば話す程、口が悪くなっていく気がして。俺は一旦立ち上がり、巻物と羽織を脱いでハンガーに掛け吊るす。
ちらりと見下ろせばライドウはすっかり寛いでいて、俺へのおちょくりも片手間だった事が窺えた。いつの間に取り出したのか、眼鏡をかけて本を読んでいる。持ち込んだと思わしきそれは装丁も酷く色褪せていて、ページの端もやや不揃い。余白も少なく、ぎっちり詰められた文字は日本語と違う何か。
また古本だろうか、古本と云っても相当古いやつ。米に古米、古々米とか云う名称が有るのなら、こいつの読んでる本は古々本、いや古々々本くらいじゃないのか。
そんなくだらない事を考えつつ、畳み置かれた浴衣に目を通す。一枚は藍染の立涌柄、他数枚は花柄メインの色浴衣。もしかして、これもカップルプランの弊害だろうか。色浴衣は明らかにサイズが小さい、女性モノのMかLだろう。それをライドウが着られる筈も無いので、俺は泣く泣く薄紫の「雪輪に牡丹」柄を選んだ、まだ落ち着きの有る方だ。
「俺……少し寝るからな」
「どうぞ、おやすみ」
「夕食の時間に起こせ」
「君の分まで食べといてあげる」
「勝手にしろ、俺は別に食べなくても平気なんだからな──」
云いながら虚しくなった、明日の目的を一瞬忘れていた事に。
釈然としないまま奥の部屋に入り、ベッドに浴衣を放る。袴帯を解き、身に着けている着物の一切を取り払い、申し訳程度の胸を保護する下着にうんざりしながら、浴衣に袖通し。さっきまで結んでいた兵児帯を使い、浴衣をゆるく括る。セットの硬い帯より、こっちの方が寝るにも最適だ。
着物と袴を畳み、一人用ソファの座面に置く。ついでに鏡台を覘き込み、紋様が浮かび上がっていないかチェックした。
(華奢な雰囲気の服着ると、どうしても女装っぽい)
とりあえず擬態さえ出来ていれば大丈夫だと、自分を宥めつつベッドに潜る。閉じた障子の向こうは恐らく広縁が有り、更に窓の向こうは庭が広がっている。この離れに来る途中、そんな感じの空間が見えた。
まだ夕方には早く、照明を消した屋内の方が暗い。緑の影が、障子格子を跨いで揺れている。
(白いトルコ桔梗の花言葉「あなたを想う」だと)
それで選んだ訳じゃないのに、ライドウが触れない事が却って意識させた。
だってあいつ、以前アネモネを俺に渡した時、色に拘っていたよな。
そういうのって多分、花言葉が関係してるだろ。あの時は意味など考えなかったのに、さっき花の一覧を見ている時、ふと感づいた。この推測が正しければ、あいつは〝俺が何を選ぶか〟多少気になる筈だってのに、一言のコメントも無しかよ。それとも「異論無し」って、花言葉含め問題無しという事か──
悶々と行き着いた結果に、自分でも呆れた。やっぱりこっちの体してる時は、精神が乱れやすいのか?
実際、産んで間もない。つまりライドウも、あの器に入って間もない。
肉体がしっかり馴染むまで、流石にある程度かかるらしい。それなのに、一週間経たずして旅行先に居る訳で……だから眼鏡なんか必要なんだ。眼は特に繊細らしく、最初のうちは遠視気味なのだと、赤ちゃんかよ。
脳裏でライドウを詰りつつ、俺自身の目的を思い出して、後ろめたくなった。
赴く先を聞いて、自分も行くと云いだしたのは俺の身勝手かもしれない。もしかしたら俺を連れるから予定が早まったのかもしれない。単独の方が、行動制限も無いだろう。
だからってカップルプランとか馬鹿じゃないのか、そんな関係か。ああ気が重い、どうせ今頃やんわり話題にされてるんだろ、今日カップルプランで入った組の片割れが、男の子みたいだったとかなんとか云って。代表者の名前しか預かってないから、本当のところは夫婦かどうかも分からないよね──とか云われてるんだろ。
重めの掛布団を頭半分までかぶり、ぎゅうっと目を閉じた。瞼の裏に、ついさっき見たライドウが浮かぶ。銀縁の細いシルエットが、切れ長の眼に似合っていた。シャツにベストにループタイ、それで読書なんてするものだから、いつにもまして文学青年の様相。戦いなんかとは、まるで縁の無さそうな。
黙っていれば非の打ち所がない美形、本当に美形なのに、あいつ実は自覚無いだろ、だから俺のこと平気で何処にでも連れ回せるんだ、結婚前からそうだった。並べば何かと比較される、避けようもない、でもこんな事いちいち気にしてたらライドウの隣に居られない。時代とか関係無い、大正からずっとこの感覚が有る、俺はあいつに相応しくないと、常に周りに思われてるんじゃないか。
平均から外れず、悪目立ちせず、そんな意識で生きてきた筈が……マガタマを飲まされてから本当に狂った。こんな生態にされなければ、ライドウみたいな人間とは掠りもしない生涯だった。
(赤いアネモネの花言葉って何なんだ)
改めて生じた疑問を放置し、感覚をひとつひとつ消灯していった。
2
本物のシルビアは、ゲーセン筐体よりもハンドルが軽い。その感触さえ、はるか昔の出来事に思えた。時代だけなら近いけど、俺にとっては二度目の平成だ。
「ところで功刀君、警察に停められた際の段取りだがね」
「俺は妙な運転しない」
「運転手の君が対応する間、僕が召喚し催眠を施す、それが堅実だろう。免許確認をしたという指先の刷り込みも有れば、なお宜しい。同規格のカードを用意しておくべきかな」
助手席のライドウは、財布を開くと早速吟味し始めた。どれを提示しようと同じだろうに、何がそんなに楽しいのやら。
「……このレンタカー借りる際も、そういう具合にこなしたのか?」
「系列に〝知人〟が居るのでね、前以て近隣営業所に来て貰ったよ」
「知人だか悪魔だか知らないけど、わざわざ来てもらわないでも……その場に居る人間を騙せたら、それで良くないか」
「君は簡単に云うが、誰か一人でもまやかしに気付けば、其処から綻ぶよ。連日同じ人員とも限らぬだろう、偽装工作できる者を差した方が楽さ。お陰様で、海外だろうと気楽に足が借りられる」
「なんだよ、あんただってオボログルマ乗らない事が有るんじゃないか」
「国によっては、車の見目でぞろぞろついて来るよ。大名行列の挙句、物乞いや強盗に囲まれては面倒というもの。ああ、最初からレンタカーに〝憑いてる〟事も有るがね……ククッ」
「この車は大丈夫なんだろうな⁉」
「何を今更、オボログルマもドライバー憑きだったろう」
云われてみれば、雑魚のオボログルマで見覚えが有る。薄暗い運転席に骸骨が居た、しかし運転手と称するのは憚られる。動くハンドルに合わせ、腕をガクガク揺さぶられていた……多分、飾りでしかない。
「あんたのオボログルマの骸骨はどうしたんだ、俺が初めて乗る頃には見なかったぞ」
「折り畳み、車内後部の隅に積んであるよ」
「表示板かよ」
与太話にキリをつけ、アクセルを緩める。
それにしても、ブーツを履いてきて正解だった、ペダルと相性が良い。袴に編上げ靴では女学生じみているので、サイドゴアブーツを選択した。すっきりとしたフォルムが、運転席の暗がりで鈍く光る。
「……この辺の筈なんだけど」
「昨日、結局確認しなかったのかい」
「サイトも無い、いくら検索しても古いブログ記事しか出てこない。外観は青っぽい三角屋根、木造建築、一般住宅程度の大きさ、駐車場は四台分」
「シェ・ムラマサだったかね」
「なんか凄い聞き覚えあるけど違う……っていうかわざとだろ。俺が捜してるのはシェ・ヤマワキだ」
一時期、ライドウが出先の催事を練り歩き、やたらと土産を持ち帰る頃があった。
悪魔を大勢持ち帰られるよりマシではあったし、ライドウは買い込んだそれ等をたいらげようが別腹を持っているので、俺の飯が食えないという失態も犯さなかった。
卓上に展開し、端から順に食べていく様子を憶えている。こいつ、大体の物は美味しい美味しいとかっ食らうから、参考になりやしない。しかもその身は悪魔に転じる一方なのに、俺と違って味覚は鮮明ときた、それが羨ましいやら憎たらしいやらで……うんざりとしながら、俺も土産のひとつに手を伸ばした。一口含むと、味が分かった。そう──本当に〝分かった〟んだ。
古い食事の快感が蘇り、あまりの感動にもうひとつ、ふたつと食べ進めたのは、丸型のキッシュ。何処の店かと箱を確認すれば、ホテルらしき名称。
「確かあの時も、君が駄々をこねたから連れて行った」
「別にそんな頼み方してなかっただろ!」
勇んで向かったホテルで食べた料理は……思惑とはずれ〝いつも通り〟だった。風味は辛うじて分かるけど、やはり薄い。
落胆する俺とは対照的に、ライドウは美味しそうにがつがつ食ってて、妙にむかついた。
帰り際、従業員に訊いてみれば、近頃辞めたシェフが居るのだと苗字だけ教えてくれて、それが山𦚰。フレンチ担当だったそうで、可能性は高い。レシピがホテルには継承されていない、よって独立すると推測されていた。そうした情報収穫は有ったものの、店を開いてくれない限りは、追うに追えない。
日に日に遠のく感動は、記憶を風化させていたが──つい先日、ぐしゃぐしゃに丸められたチラシに発見した、シェ・ヤマワキの文字を。
ライドウの懐古趣味も、たまには役に立つ。なにせこいつ宛ての古々々本を詰めた段ボール箱に、緩衝材として入っていたのだから。
「僕の予想では既に閉業、無くなっているとみた」
「人の期待を横から削るな」
「広告が載っていた広報紙というのも、発行自体は数年前だろう。梱包資材と積み置かれ、浮き沈みしつつ上が無くなり、ようやく日の目を見たと。そして情報の蔓延するこの時代、噂さえ見かけぬとは、つまりそういう事ではないかね」
「広告出してた頃と気が変わって、紹介制になってるのかもしれないじゃないか」
「もしそうであれば、僕等は入店不可な訳だが」
「常連客を割り出せよ、あんた元探偵見習いだろ」
「これはこれは……フフッ、入店コネクションの為に接触を計るかね」
「髪一本でも有れば擬態出来るんじゃないのか」
「僕が他者擬態を得意とするのは、根柢に模倣術が有るからさ。対象情報の足らぬうちに成り代わろうというのは君、無茶が過ぎる」
「それなら──」
「シェフを操れと云うかね、それこそ君が求める料理の再現度を低下させやしまいか。ホテルで出していたレシピを再現しろと命じれば、頭が巻き戻る。その時期に影も形も縁無き僕等は、改めて疑われよう」
「狭い範囲でしか騙せないって事だろ、もう分かった」
「催眠にかかる者は、字の通り半分は寝ている様なものだからね。思わぬ所に意識が飛び、普段と別の解釈をする事も有る。それに、君の尻拭いを毎回してやる程、僕も甘くなったつもりは無い」
「何だよそれ、毎回とか云いがかりだ」
ふと──盗撮犯をホテルで半殺しにしてしまい、ライドウに泣きついた事をじんわりと思い出した。実際には泣いてない、けれど酷く動転していた事は憶えている。
結局、死にかけのおっさんはライドウが救命し、近場の悪魔に催眠を依頼した。その提案だってライドウによるものだから、俺一人では始末に負えなかっただろう。
「ヤクザの事務所で揉めた時、あんた何もせず帰っちまったじゃないか」
「ああ、あれかい。現場に面白そうな玩具も無い、しかも君の勝手が招いた結果だ」
「勝手で済ませるなよ。脅迫とか暴力とか、胸糞悪いだろ……俺は別に正義感も強くない、振りかざすつもりも無い。通りかかったら遭遇しただけ、こっちから厄介事を探していた訳じゃない。相手は全員人間だし、止めに入るだけの……なんだ……フィジカル? そういうのが俺には有った、それだけだ」
聴こえの好い言葉を選んだ。人間の延長線上に有るだけ、みたいな。そう思いたかったし、今だってその感覚を抱いている。マガタマを呑む以前は、すべて無かったものだ。
「忌々しい力を、人の世にこそ役立てようという事か、フフ…………あの頃の僕はね、君が世間に正体を知られ曝されようと、不都合は無かったのさ」
「今は違うのか」
「君と番いになってしまったし、拠点も固定したからね」
「なんだよ、その〝なりゆき〟とか〝不可抗力〟みたいな云い方。結婚は九割九分あんたの都合だった、今の生活崩したくないなら、俺をもっと丁重に扱え」
自分から過去の話を出したのに、さっさと切り上げてしまいたかった。ヤクザ事務所で暴れた件は……結局ルシファーに相談し、ケテルの悪魔に助けてもらったから。
ライドウも今、思い浮かべているのだろうか。だとしたら、別の話題をぶつけないとやばい気がする。駄目だ、強迫観念が雑じると妙な焦りになる……何も浮かばない。そもそも、これであっさり話を逸らすスキルが有るなら、悪魔との交渉も無心で出来た気がする。
(ややこしくなったのは、お前がルシファーなんかと昔よろしくやってたからだろ)
逆切れの自覚は有る。せめて口から零れないよう、食いしばった。
この際なんでもいいから、早く建物が見えて欲しい、さっきからずっと似た様な景色をなぞっている。山というにはまだ低く、高台というには鬱蒼とした起伏が目立つ。まだ昼前だというのに葉陰が車窓を暗くし、細路を包み込む様な木々が続く。その隙間を注視しつつ走れば──唐突に空間がひらけた。
「……あっ」
ミラーを確認してから徐行。ゆるゆると建造物に接近し、ゲート手前で停車する。
「三角屋根というよりも、これは円錐屋根では無いかね」
ライドウのコメント通り、ヨーロッパの古城なんかに有りそうな、塔の屋根。それが一定間隔で連なり、壁面の窓は開きそうに無い。
広告やブログで見た小さな写真と、目の前を照合する。店の背後は山裾、周辺の植生も同じに見える。つまり、此処に〝かつては建っていた〟のかもしれない。
「三時間休憩で四千八百円。比較的安価なコース料理を頼むよりも、長く滞在できるね」
「いや、入らないからな」
「遠路はるばる来た結果、収穫無しで良いというのかい」
「もう店無くなってるって分かった、それが結果だろ……っておい、危ないだろ触んなよっ」
前後に車も無いし、此処でUターンするつもりだったのに。あろうことかライドウは助手席から軽く身を乗り出し、ハンドルをグッと掴んできた。
本気で抵抗すれば捻り返せる、しかし先にハンドルがいかれる可能性もある──そう思うと、力を下手に籠められず、しかしこのままブレーキを踏んでいる訳にもいかず。
「フードサービスがシェフの手料理かもしれぬ」
「んなワケ有るか」
「折角オボログルマの目も無いのだから、君にとってはまたとない好機、違うかね?」
「あんた散々オボログルマの中で手ェ出してきただろうが!」
レストランは既に潰れていたのか、それとも俺が場所を勘違いしているのか、現時点で判断は出来ない。
昨晩、食事の席で〝明日が本番〟と浮かれていた自分が馬鹿みたいだ。そんな気持ちで食べたから、猶の事薄く感じたんだろう。あの旅館の料理人に失礼だったと、今更後ろめたい。
「ほら、休憩していこうよ功刀君」
予想が大当たりで愉しいのか、ライドウは目を細め前方を眺めている、フロントガラス越しに見えるラブホテルを──
3
あれだけごねていたにも関わらず、人修羅は興奮していた。
入室直後、奴は必ず部屋の衛生状態を確認する。それを横からソファに引きずり倒し、なだれ込んだ。
普段であれば〝シャワーがまだ〟などと喚き、強い抵抗を見せるものだが、今回は無かった。
解かれた帯を置き去りにして、袴が床へと逃げてゆく。柔らかなズロースは婦人用の為、裾にほのかなレース装飾が施されている。それを剥けば、あっさりとした下着が覗いた。
「相変わらず色気の無いものを着てるね、君の生まれた頃には色々と揃っていた筈だが」
「女性下着は昔のやつの方が……締め付けなくてシンプルで、マシだから」
「ククッ、今度プレゼントしてあげようか、刺繍が豪奢なブランド品、ガーターベルトも含めた一式」
「あんたに見せる為に、わざわざ着るのだる、ぃ──」
僕は人修羅の股座に手を伸ばすと、本来であれば男性器が幅を利かせるであろう影を撫でた。指の腹を使い、溝を幾度も行き来して。
- -サンプルここまで-
全7章構成、ただし1章は長い方という割合で捉えてください。濡れ場に入るのでサンプルは此処までにしておきます、ただし3章のそれは〝ひたすら舐って焦らす〟類のものであり、「補完小説」掲載予定の加筆で〝本番〟といった具合です。
さて、このサンプル部分だけで過去作のネタがそこそこ登場しておりますが、すべて分かる方は居るのでしょうか?
人修羅が帝都に居る時期というのは長編二章後半をイメージしている為、其処を経て再び平成を生きている〈帳〉はやや特殊かもしれません。
それにしても特別ラブホネタが好きという意識も無いのですが、カウントすると結構書いてますね……〝そういう目的の施設に二人が居る〟という事実だけで面白可笑しいからだと思います。